コタツ評論

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ヒモでなき者のみ石持て打て

2010-12-28 01:40:00 | ノンジャンル


梨園の御曹司が実は酒癖が悪くて六本木で不良に殴られたのは不徳の至すところ事件が終息に向かうかと思えば、命賭けて戦争の悲惨を伝える戦場ジャーナリストが実は有名アラフォー女のヒモだったうらやまけしからん事件が起きて、ニュースショーはこの話題で持ちきり。

http://blog.asaikuniomi.com/?eid=1301280


ジャーナリストとしての資格云々はともかく、女のヒモ云々はとやかくいえるものか。女のヒモで食っている男は昔から珍しくない。自営業には、一時的、永続的に、女房や恋人の金や助けで仕事を得て、会社を回している男は掃いて捨てるほどいる。できるやつは、はじめから親に力や金がない女を女房や恋人にしない。あの田中角栄だって、最初の原資は女房の実家の金だった。できないやつでも、稼ぎのある女をちゃっかり口説くくらいの下心はあるものだ。

エリートサラリーマンや公務員なら、女房を働かせず食わせられるからヒモではない? いやいや、より女房に依存しているという点では、ヒモよりタチが悪い場合が多い。「あたしはあんたの母親じゃない!」という女房怒りのアフガン声は、その証拠。というか、たいていの男はヒモとして育つのがデフォルト・スタンダード。

物心がつけば、おふくろの財布から金をくすねるのが、男の子の最初の金銭経験に決まっている。家には金がないはずなのに、なぜかおふくろの財布には、そこそこの金があるのを知ることが、ヒモのはじまり。また、おふくろは使い減りがしない、ということを知るのも、男にとって最初の女性認識といえよう。

したがって、不幸にして、母親を知らずに育ったか、母親に疎まれて育った男は、ヒモにはならないというかなれない。ならば、こういう男こそ、女房や恋人になった女は後生大事で幸せかといえば、実にそうとは限らない。まず、母親に愛されずに育った男は、どこか心に歪みを残す場合が多くて扱いにくい。

そんなトラウマを抱えていなくとも、優しくロマンチックな言葉をかけてくれたり、ヒモ的な心遣いには欠けるため、心底はそうでなくとも、冷淡非情に見えてしまうことがある。じゅうぶん依存しながら、さらなる好意や支援を引き出そうとする手管は、まずは母親を相手に試され、習熟していくものだからだ。

働かないが優しいヒモ男、働き者で優しいヒモ男、働き者だが冷たい男、働かなくて冷たい男、という4種類で男は構成され、働き者で優しくヒモではない男は、ほとんど例外であり、ちょっと見にはなかなか区別がつきにくい。さらに、たとえば、働き者だが無能、といった有能無能のファクターをこれに加えると、その順列組み合わせだけでも、識別するのはほとんど不可能なことは、誰でも容易にわかるはずだ。

ならば、働き者で優しいヒモ男、あたりで手を打つのが、現実的な選択というものじゃないか、そこのおぜうさん。



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プリンセス・トヨトミ

2010-12-28 00:19:00 | ブックオフ本


『鴨川ホルモー』で京都、『鹿男あおによし』は奈良、この『プリンセス・トヨトミ』は大阪。万城目学の「三都物語」の掉尾を飾るにふさわしい傑作である。いつかJR東海のキャンペーン「三都物語」の場合は、京都大阪神戸だったから、もしかしたら、神戸を舞台にした4作目が書かれるかもしれない。いや、ぜひ書いてほしい。俺にとって、これほど次回作が楽しみな作家はいない。

だってね、『鴨川~』は傑作だと唸った。続けて、『鹿男~』を読んでみたら、『鴨川~』以上だと感心した。そして、『プリンセス~』を読んだ。なんと、『鹿男~』をさらに超えていた。一作一作、スケールアップしながら、奇想に磨きがかかり、魅力的な登場人物を増やし、透明に冴えわたった関西風味だしが効いている。しかも、まだ3作しか書いていないのだから、大変な作家というべきだ。

あのアゴタ・クリストフだって、『悪童日記』に続く3部作の『ふたりの証拠』『第三の嘘』 は明らかに落ちた。

「次回作が代表作」とは、「そうありたい」という作家の願望をあらわすものだが、万城目学の場合は、読者にとって、これはほとんど事実に近い。つまり、万城目学はどんどん成長し、進化しているのだ。会計検査院という三権分立から独立した組織と、国家内独立国を対峙させた『プリンセス~』には、前2作からは窺えなかった「全体小説」へ向かう兆しが顕れている。

大阪弁に、「きれいなナァ」という話し言葉がある。読後、東京人のくせに、「きれいなナァ」と呟きたくなった『プリンセス・トヨトミ』。どこからどう眺めても、美しいとは言い難い大阪の街なみ。その中心である大阪城を燃え上がらせ、大阪人の頬を朱色に染めて見せた。ならば、その先があるだろう。やはり、次回作の舞台は神戸だ。

『鹿男~』は奈良公園の鹿、『プリンセス~』は大阪城が主人公といえたから、神戸といえば、当然、神戸大震災しかないだろう。911以降、多くのポスト911小説が書かれたように、万城目学は神戸大震災を避けて通ることはできないはずだ。また、前3作を超えるにはこのテーマに向かうしかないだろう。語られることの少ない神戸大震災を万城目学が小説にできたら、これまでの傑作も助走に過ぎなかったといわれることだろう。

「万城目学の最高傑作」(金原瑞人)ではなく、万城目小説という小ジャンルをはるかに凌駕した現代小説中の最高傑作を期待しているのだ。

(敬称略)
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今夜はクリスマス

2010-12-25 00:07:00 | 音楽
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「ラストサムライ」や「サユリ」と同様に、珍妙な「日本映画」だった。少し思索的な「戦場にかける橋」を狙ったとしたら、明らかな失敗作だった。原作も監督も、出演俳優も、ローレンス役のトム・コンティを除いて、「戦場のメリークリスマス」というヒューマニズムなタイトルには沿わない個性だった。セリアズ大尉役のデヴィッド・ボウイが、「ナギサ・オーシマから、映画監督のカリスマとは何かを学ぶことができた」とコメントしたのは、半分は皮肉だろう。撮影中の「オーシマ」はよほど苛立ち、怒鳴っていたのだろう。

ただし、坂本竜一の音楽とビート・たけしのラスト場面だけはよかった。それまでの大島映画のよさとは、フリージャズや現代音楽が導入する不協和音のような、不快さと紙一重に観客の神経を逆撫でする編集だったが、この「戦メリ」のラストの場面は、ローレンスと原軍曹の和解という心地よい和音が奏でられる場面だった。誰が観ても、ほとんど致命的に失敗した演出でありながら、なぜか成功した名場面として記憶されている。

ぎこちなく別れのお辞儀を交わし、トム・コンティがドアに向かったとき、ビート・たけしが「ローレンス!」とドスを効かせた声で呼び止める。原軍曹の突然の怒鳴り声に、捕虜収容所の恐怖と痛みがローレンスに一瞬舞い戻り、身体や表情が硬直しなくてはならなかった。だが、ここでトム・コンティはのんびり振り返ってしまう。大島映画の取り柄である観客を不安に陥れる緊迫した瞬間がなければ、そこから一転、「メリー・クリスマス、ミスタ、ローレンス」という原軍曹の呼びかけと笑顔が、まるで対比にならない。

大島渚はもとより、「戦場にかける橋」路線の和解の場面には気が乗らなかった。とはいえ、劇的な対立と緊張というセオリーはじゅうぶんに承知していたはず。にもかかわらず、のんびり振り返るローレンスを許した。名場面どころか、大島渚がなかば投げた場面だと思えた。それを救ったのが、ビート・たけしの、暗愚にも無垢にもみえる笑顔だった。大島にとって、ビート・たけしのアルカイックスマイルは、「戦メリ」と「戦場にかける橋」の間のひとつの落としどころだっただろう。

佐藤慶や戸浦六宏や渡辺文雄や小松方正らがいないとき、大島映画はひどくリアリティを欠き凡庸になるが、「戦場のメリークリスマス」ではビート・たけしに救われ、かろうじて大島映画に引き戻すことができたわけだ。佐藤慶や戸浦六宏や渡辺文雄や小松方正は、心は通い合わないということをテーマとする大島映画において、心を通い合わせることができないアンチ・ヒューマニズムな人物を演じて、いずれも秀逸だった。一方、ビート・たけしは、ヨノイやセリアズのような近代の精神(心)を持たない人物を体現したといえる。

ビート・たけしのスマイルと坂本竜一のテーマ音楽がかぶる、このラストは米映画界でも名場面として通用しているようで、「戦場のメリークリスマス」が公開された1983年の翌年、1984年に製作されたセルジオ・レオーネ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」でも、このラストがそのままパクられている。「荒野の用心棒」で出世したセルジオ・レオーネだから不思議はないが、中国人の阿片窟で吸引したヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)の満面の笑みのストップモーションがスクリーンいっぱいに広がって終わるのだった。

(敬称略)

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今夜は満月

2010-12-19 23:18:00 | 音楽

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森ゆう子さん

2010-12-19 00:30:00 | ノンジャンル
かねてから、日本はひどい女性差別社会だと思ってきた。日本の上場企業の役員や国会議員に占める女性比率の異常な低さ、あるいは女性労働者の約54%が非正規雇用であり、男性正規雇用の半分以下の給与で働いているなど、それを裏づけるデータには事欠かない。

昔、某中堅出版社の編集者が、回り持ちで入社試験の面接官をしたときの話だ。グループディスカッションというテストで、ある女性応募者が抜きん出ていたそうだ。彼女は新卒ではなく多少歳をくっていたが、学歴職歴申し分なく、ほかの応募者の議論を引き出し、まとめていく手際にはみな感心したそうだ。

だが、彼を含む4人の面接官は真っ先に彼女を不採用に決めたという。「あまり、優秀すぎる女性はネェ」とその編集者は苦笑いした。私は彼を尊敬に値する編集者だと思っていたので、唖然としたことを覚えている。いま、その出版社は大きく傾いている。

同程度なら女性を避けて男性を採用する、昇進させる。女性の雇用差別は、そんな生易しいものじゃない。その一端を垣間見た気がした。私は、「ひどいことをするなあ」とは思ったが、かの編集者には何も言わなかった。それはもちろん、私が怯懦だったからだが、問題の根が非制度的なところにあることを感じたからでもあった。男女雇用機会均等法は施行されていたが、4人の面接官は以心伝心で最優秀の女性就職希望者を落としたのだから。

そんな雇用差別以上に問題なのは、女性が日常的に侮辱され貶められていることだと思っている。私たちは、女性は侮辱され貶められて当然だ、という刷り込みを日常的に受けている。TVを視聴していれば、誰でもこう思うはずだ。なぜ、TVに出てくる女は、ああもそろいもそろってバカばかりなのであろうかと。もちろん、ごくたまには、そうじゃない女性も出てくる。以下の森ゆう子さんは、その「ごくたま」の例。

12月14日TBSテレビの「 朝ズバ」の動画だそうです。森ゆう子さん、パチパチ。

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