盆休みの11日、山梨県の大菩薩峠に山歩きに行った。行きは圏央道を青梅で下りて下道(したみち)に出て、奥多摩・小河内ダムを抜けて柳沢峠に至る一本道だ。柳沢峠を下って大菩薩峠の駐車場に。
小雨模様のおかげで連日の猛暑が嘘のような、半袖だと少し寒いくらいの気温で、前日の雨に洗われた深緑が匂いを増して山歩きは快適だった。
帰りは同じ道を辿るのは芸がないと、大菩薩峠を勝沼側に下りて、勝沼ICから中央高速で圏央道に抜けようと思った。お盆とはいえ渋滞しているのは下りで、上りは空いているはずと踏んだ。
高速に乗ってしばらくは順調だったが、やがて混みだした。後楽帰りなのか、地方から東京へ遊びに行くのか、渋滞というほどではないが、50km/hくらいになり、ときどき詰まって止まるようになった。
時間は午後5時30分。これでは八王子ジャンクションまでかなりかかりそうだと思って、我慢できずに上野原で中央高速を下りた。上野原なら、奥多摩の奥みたいなものだから山越えすればショートカットできるだろうとそう思った。
案の定、高速の出口を出たらすぐに「あきる野」方向の標識が出た。左折するときに、「大型車は通行不能です」という小さな表示があったのが気になったが、あきる野なら青梅まですぐだ、してやったり、とばかり山道を走り出した。
霧が深くなってライトを点けたころから、道幅がかなり狭くなってきた。道路際の草木が鬱蒼と生い茂っていたのもあって、目測では車が一台通れるくらい。対向車が来たらどうやって交わそうかと心配になった。私の車はクラウン並みの車幅のフォードアセダンだった。
山越えの道だからカーブの連続は覚悟していたが、想定外の霧のおかげで視界はわるく、おまけに道路幅が狭すぎる。思った以上にスピードは出せない。渋滞にはまっても、高速に乗っていたほうが、結局は楽で早かったかなと少し後悔した。
しかし、心配した対向車は2台しかなく、どちらも軽自動車だったのにくわえ、地元のドライバーらしく、こちらに気づくとカーブの入り口とか道幅が少し広くなっているところで待っていてくれたりして、立ち往生にはならなかった。
かれこれ1時間近く走って出遭ったのはその2台だけ。後続車はなく人家はもちろんない。霧深い夕暮れの林道に近い道路を一台だけで走っていると、ちょっと気が滅入ってきた。
3つほど山を越えて和田峠というところを越えたあたりから、少しスピードを上げた。路地に近い道幅に変わりはなかったが、なんとなくこのまま迷いそうな、この白黒の道から出られなくなりそうな嫌な想像が頭をもたげてきたからだ。
カーナビは役に立たない。中古の車についていた圏央道を認識しない中古ナビなので画面はオフにしたままだ。もちろん、スマホのグーグルなどのアプリでナビはできるのだが、画面が小さすぎて覗き込むことになりかえって危ない。
正直、かなり焦っていた。車を止めて、一服して落ち着こうにもそんな開けた場所がない。行けども行けども黒々とした樹々の間を走り続けるしかない。
そんなとき、前方のライトに後姿の人影が浮かび上がった。霧と薄暮で視界はわるかったが山歩きの黒か濃紺のヤッケを着込み、フードをかぶったリュック姿のたぶん男性だとわかった。久しぶりに人の姿を見てほっとした。徐行して相手が気づくのを待ったが、変わらぬ足どりで歩いていく。
こんな淋しい山道を一人歩いているなんて不思議だなと思いつつ車を止め、クラクションを鳴らそうかと手を動かしたときに、それに気づいたように歩いていた姿が立ち止まり、こちらを振り返った。
やはり男性だった。そしてこちらに向かって歩き出し、やがて小走りに駆け寄ってくるまで、息をのむように見ているしかなかった。運転席側に立ったはずの男の方に無理やり顔を向けると、コンコンとサイドガラスを叩く白い拳が見えた。
このまま素知らぬ顔で発進してしまうおうかなど混乱した頭であれこれ考えながら、しかし、渋々ウインドウボタンを押した。少し下げるつもりが、オートパワーウインドウの窓は一気に下まで降りてしまった。と同時に男がぬっと顔を下げてきた。
その顔を見て、ひっと小さな悲鳴を上げてしまった。顔というより、眼だ。黒々と光る大きく虚ろな眼が、男の異常をこれ以上なく物語っていた。
眼の次は歯だった。やはり大きな白い歯の列がいきなり現われた。男がにっこり微笑んだのだとわかるのに少し時間がかかった。そして不快に高い声がその歯の間から漏れてきた。
「道に、道に迷ったので、あなたの車に、車のあなたに、下の、下の、ずっーと下の町まで、乗せてもらおうかと思ったのですが、ですが」
耳元で奇怪にリフレインする妙なアクセントを呆けたように聴いていた。ようやく、「ずっーと」のところで気がつき、「ですが」を聴きながら、アクセルをめいっぱい踏み込もうとブレーキから足を放した。が、男の白く大きな手が窓枠を強く掴んでいるのが気になった。
明らかに異常者に間違いはないが、このまま急発進させれば、振り落として怪我をさせるかもしれないと心配したのではない。男が手を離さず、引きずったまま走ることになるのではという恐怖に掴まれたのだ。
男の右手が窓枠から消えたのを見た。男の顔と私の顔の間に風が流れるのを感じた。そして、たぶん唇に笑みをたたえた男の声が上からきた。
「すでに満席でしたね、いや失敬」
普通の声だった。男は踵を返すと森の中に分け入って去った。私はずーっと下の陣馬の町まで、前方を照らすライトの光だけを見て走った。
(止め)