コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

仔猫あげます

2008-06-26 00:19:20 | ノンジャンル
もう名前も付けちまって、情も移ってきたが。

赤白(牡)・白赤(牡)・キジ(雌)の3匹。
生後3週間。猫エイズなど検査済み。トイレのしつけ済み。
離乳ミルク一缶とほ乳瓶、猫ベッドと猫じゃらし3本セット付けます。

水と食事だけ気をつければ、あとは猫が指図してくれるので、難しいことはほとんどありません。



文学なんて怖くない

2008-06-17 23:53:45 | ブックオフ本
『文学なんて怖くない』(高橋源一郎 朝日文庫)

ほんとうの書評はネットにある
正しくは、その可能性はあるが、まだじゅうぶんではない。

本書は、作家・高橋源一郎から生まれた文芸評論家・タカハシさんが、

オウム出版から出されたパンフの石井久子の教え
田中康夫の「東京ぺろぐり日記」
金井美恵子の「恋愛太平記」
武者小路実篤の小説や随筆
バクシーシ山下や村西とおる、代々木忠のアダルトヴィデオ
「教科書が教えない歴史」(新しい歴史教育をつくる会)の藤岡信勝の「はじめに」
「失楽園」(渡辺淳一)

などを文芸的に読み、文学的に語ったもの。以前に読んだ『日本文学盛衰史』と同様に、日本の文芸と文学に対するきわめて真摯な問いかけを、エンターティメントをきわめて展開している。おもしろくってためになる。タカハシさんともタメになった気がする。

とりわけ、同意同感したのは、金井美恵子の「恋愛太平記」を論ずるなかで、新聞や雑誌に掲載されている書評や小説論は「詐欺同然だ」として、すべて「小説を論じたようなもの」にすぎないと断じている箇所だ。

タカハシさんによれば、小説を書評、評論するためには、その小説の原稿量のおよそ2倍から3倍の原稿量が必要だという。まず、その小説を全文引用して感想をつけるために、最低2倍、その結果としてもうひとつ別の小説が書かれるから3倍というわけだ。

もうひとつ別の小説が書かれる云々はともかく、全文引用して、それぞれの段落ごとに、何かを肯定すれば、同時に考え得るその否定を論じ、また必ず中間を示すことは政治的に正しい手続きである。そう逐次訳のように論を進めていけば、論じる者が意識無意識に侵す虚偽を最小限に防ぐことができるという。

話は違うが、もうひとつ別の小説が書かれるの「書かれる」。こうした受身形は韓国語にはないということを呉善花『スカートの風』で知った。「泥棒に入られた」のではなく、「泥棒が入った」だけだそうで、中国語も同様らしい。呉善花は、窃盗被害に逢ったということにも、自らの責任(戸締まりの不備や不注意など)を感じる日本人の心性の違いを見ている。

さて、1冊の小説を論じるなら、2冊の評論でしか対応できない。
実際上は、できない。しかし、まれにそれをおこなった人もいるとして、漱石の『明暗』をどんどん引用して論じ、『明暗』よりはるかに長大な評論を書いた小島信夫を上げている。

似たようなといえば恥ずかしいが、俺も全文引用は得意であった。最近は書き込みをやめてしまったが、某掲示板の常連だったことがある。いわゆる議論系の掲示板だったから、論争というかケンカというか、「やったれい!」ということがしばしば起きるわけだ。そこで、俺が得意とした戦術は、全文引用、全文撃破であった。

先方がパッとレスを見たとき、半端な量じゃないので、まずそこで圧倒するのだ。次ぎに、先方がもっとも考え抜いて書き、俺もその説得力に感心して納得した記述をやり玉に上げる。同時に、相手がもっとも弱いと思いながら書き、俺も突っ込みどころ満載だなと思ったところを評価する。先方は混乱し、やがて自滅する。

という自慢話がしたいのではなく、全文引用して逐一反論することで、その掲示板の読者に手の内をみせるということが大切だったわけだ。誤読や曲解ではなく、これこのとおり、嘘偽りはございません。倫理的に優位に立とうとするわけだが、その優位は自らをも縛る。けっこう真面目にテキストとして読むようになるのだ。

1冊の小説を論じるために、2冊の評論をする。原稿用紙1000枚の小説を2000枚を費やして論じる。商業メディアや商業出版ではできない。それに近いことができるとすれば、少人数の読書会か、輪読会だろう。ただ、これは集合的な意見になりがちで、終わってみてそれぞれ個人の評論といえるまで深めるには、よほど綿密な計画の下にやらねばならないだろう。

いちばん可能性があるのはネットかもしれない。原稿用紙1000枚の小説に2000枚は無理としても、50~100枚、論じたい箇所をできるだけ引用することはできるはずだ。もちろん、そんな暇とエネルギーを持ち合わせている人はネットでも少ないだろう。新聞や雑誌の書評に飽きたらず、しかしそうまとまった感想や論を書くこともできないから、エッセイ風の自分語りに読書感想をまじえて載せている。

メディアに載っているような書評や映画評によく似せた短文を載せるより、ずっと誠実な態度であり、読みがいもあるが、たまには長いものが読みたいものだ。えっ、おまえがやれって? 過分なお言葉ですが、最近、仔猫が3匹増えちゃって。

でも、「教科書が教えない歴史」(新しい歴史教育をつくる会)の藤岡信勝の「はじめに」のあげあし取りくらいなら、タカハシさんでなくても誰でもできそうです。ごく常識的に読み、常識的な感想を述べ、常識的な反論をくわえているだけです。論理や考えを飛躍させる必要はなく、テキストに添って延長するだけでいいわけです。

『発語訓練』(小林信彦 新潮社)

W・C・フラナガンの「素晴らしい日本野球」所収。雑誌「ブルータス」掲載時に、慶応大学の池井優教授が、「同じ名前の選手が異なったチームにいると、それは日本伝統のカゲムシャであるという指摘など、誤解というより、でたらめきわまる」という怒りの反論を寄せて、話題になった。イザヤ・ベンダサンと同様なしかけなのだが、書籍化に際して、「アメリカのスポーツジャーナリスト」であるW・C・フラナガンが池井教授に、「メジャーリーグにくわしいそうだが、日本野球を知らない」と再反論していて、さらに可笑しい。

可笑しいが、そこはかとなく哀しい。池井教授は政治学者で、たしかアメリカの占領政策を専門としていたはず。小林信彦が一貫としたテーマとし、描くところの戯画化された日本人の肖像に、ぴったりはまったふるまいを池井教授はしてしまった。が、「してやったり」とは小林信彦は思わなかったろう。

「日本野球のルーツはヤキュウにあり、ヤキュウとは陰謀を得意とした柳生一族のジュウベエが創始者である」と主張する「アメリカのスポーツジャーナリスト」がいてもおかしくない。アメリカをよく知るからこそ、池井教授は早合点したのだろう。アメリカ人の考える日本なんてそんなもの、というリアリズムとアンビバレンツな思いを小林信彦は池井教授と共有しているに違いない。

ただ、小林信彦は池井教授ほどアメリカにがんじがらめにはされていない。池井教授が狭量だというのではなく、そこは政治と小説という背景の違いだろう。本書にも、アメリカではなく、ソ連に占領され、形ばかりの独立を迎えた日本を描いた、「サモワール・メモワール」などがある。それは、「占領された日本」の変奏ではなく、日本人の戦後のもうひとつの物語なのである。いや、物語そのものを失った日本人の物語か。

(敬称略)



友がみな我よりえらく見える日は

2008-06-16 00:42:09 | ブックオフ本
いずれも例によって、田端の古書店の100円コーナーにて買い求める。

『本の森の狩人』(筒井康隆 岩波新書)
http://www.amazon.co.jp/

説得力に富む書評のおかげで、その本を読まずにすんでしまう書評家の一人。もちろん、俺にとってだが。

『文学じゃないかもしれない症候群』(高橋源一郎 朝日学芸文庫)
http://www.amazon.co.jp/

同上の一人。ほかには坪内祐三、中条省平、荒川洋治か。
『本の森の狩人』でも取り上げている、『不滅』(ミラン・クンデラ)、『千日の瑠璃』(丸山健二)などの書評を読み比べてみる。やはり、自分で読むより、かわりに読んでもらったほうがいいなと思った。

『模倣される日本-映画、アニメから料理、ファッションまで』(浜野 保樹 祥伝社新書)http://www.amazon.co.jp/

第1・2章の世界に模倣される日本の紹介ルポをレクチャーとして読んで、明日の企画会議に備えようという人が多いのでは。筆者としては、3章以降の「模倣される」の理由や背景こそ書きたかったはず。俺としては、「模倣されるクールな日本」より、「模倣してきたクールな日本」をより読みたかった。評価して模倣した、その評価の蓄積こそ、もっと評価してしかるべきではないか。

『スカートの風(呉 善花 角川文庫)』
http://blog.goo.ne.jp/shigeta-nas/e/97378e2d2ff5f62ac34f062816e37233

俺にも多少、在日コリアンの知り合いがいる。が、「在日」とは、ほとんど日本人のようで、だから「在日」をとおして、韓国人を知った気になるのは違うようだ。日本へ留学した自分史と韓国クラブの韓国人ホステスたちへの聞き取りを素材に、等身大の韓国女性の視点を座標軸にしたところで成功している。どうしてこの本がノンフィクションの賞を取らなかったか不思議。

『友がみな我よりえらく見える日は』(上原 隆 幻冬舎アウトロー文庫)
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4877288139/503-3782644-8923141?SubscriptionId=0G91FPYVW6ZGWBH4Y9G2

扉に、「ボブ・グリーンタッチのルポ」とある。たしかに、似ている。ボブ・グリーンの「男の中の男」という文盲の中年男がおずおずと文字を習いはじめる話を想い出した。普通の男女を普通に書いて読ませるという普通ではないルポである。はじめて知った筆者であり、こんなルポを載せて原稿料を払う商業誌があるのかと読みながら首を捻っていたら、後書きに『思想の科学』に書いたとあった。さすが、『思想の科学』。風俗雑誌に連載したインタビュー集『AV女優』で出版界を瞠目させ、早々に病死してしまった永沢光雄以来、優れた書き手に出会った気がする。破廉恥事件が報じられてから、残念ながらボブ・グリーンは消えてしまった。アメリカではいまは誰のコラムが人気なのだろうか。

(敬称略)

秋葉原殺傷事件

2008-06-13 00:23:05 | ノンジャンル
TVは秋葉原殺傷事件を連日流している。

事件2日前の6日、福井市のミリタリーショップで今回の事件に使った凶器のダガーナイフ(短剣、刃渡り約13センチ)などナイフ6本を購入する様子が各局で放映されてきた。たぶん、店の防犯カメラの映像だろう。今日の朝、その映像にはじめて音声が入ったのを視た。

事件直前の加藤容疑者(容疑ではないが)の鮮明な動画画像なので、朝昼晩のニュースで繰り返し流されてきたものだ。今日あたりから、加藤容疑者の掲示板への書き込みの内容と分析に各局はシフトしてきているが、なぜか当初は映像のみで音声は入っていなかった。

どこの局のどのニュースの時間に何というコメンテーターがこの発言をしたか、記憶が定かでないので特定はできない。ただ、この発言があったことはよく覚えている。防犯ビデオに映った加藤容疑者はにこやかにレジカウンターの店員と話している様子だった。そして、加藤容疑者は笑いながら、右手を腰のあたりから何度が突き出すような仕草を店員にして見せた。

そこで、たしか男性のコメンテーターが、「まるで人を突き刺しているような格好ですね」と怖ろしげにいった。ニュースの司会者もレポーターも、横に並んでいた他のコメンテーターも、否定も肯定も口にはせず、固唾をのんで見守っている風だった。いや、「そうですね」という声があったかもしれない。

それを視ていた俺は、やはりびっくりし、怖気だった。嬉しそうに人を刺す真似をしている客に6本ものナイフを売っている店と店員に、だ。その2日後、客は休日の秋葉原の混雑する交差点にトラックで突っ込んで通行人を撥ね、トラックから降りてから、その店で購入したナイフで手当たり次第に、そこにいた人々を刺してまわったのを知っているからだ。

今朝の朝のワイドショーで放映された、音声入りの防犯ビデオ映像と解説を聞いて、俺はもういちど驚いた。ミリタリーショップの店員は女性で、加藤容疑者はそれに気をよくしたのか、故郷の青森の話をしたのだった。「青森で生まれて育った」といった加藤容疑者に対し、「雪が多いところですね」と女店員が応じた後に、加藤容疑者の仕草が出たのだった。

加藤容疑者が右手を腰の辺りからまっすぐに突き出すような仕草を繰り返したのは、人を刺す真似ではまったくなく、雪下ろしを示すものであった。屋根から幅広の四角いプラスチックスコップを使って雪を押し下ろす仕草だったのだ。当初は音声がなかったため、画像だけ見て、俺と同様コメンテーターも、その後の人を刺す場面を想像してしまったわけだ。

いかなTVとはいえ、故意に音声を消してまで放映したとまでは思えないし、思いたくもない。だが、いずれにしろ、同じことではないかという声も聴こえるのだ。7人もの男女を殺した犯人の顔が視たい、その犯人が右手を何回も突き出して、笑いながら人を刺している様、それこそ俺たちが視たい映像ではなかったか。






音楽映画2本

2008-06-11 22:42:58 | レンタルDVD映画
4分間のピアニスト
http://4minutes.gyao.jp/top/

女子刑務所で手のつけられない囚人ながら天才ピアニストのジェニー(ハンナー・ヘルツシュプルング)が、老ピアノ教師のクリューガー(モニカ・ブライブトロイ)と出会い、ピアノコンクール優勝をめざすという、ハリウッド映画によくある話なのだが、ドイツ映画になると色調はぐんと昏く、ほとんどの舞台を占める古びた刑務所がまるで中世の城壁のように陰鬱にみえる。

しかしだからこそ、シューマンはじめ、映画のなかで演奏されるクラシックのピアノ名曲が、しっくりと映像に馴染んだ。ヨーロッパでさえ、クラシックは大衆性をほとんど失っていて、日本と同様、一部好事家だけのものと聞く。ジェニーもハイティーンらしく、ジャズやロックをクラシック同様に愛するが、クリューガーは俗悪な音楽として斥け、ジェニーが弾くのを禁ずる。

天才少女ピアニストから挫折して不良少女になるジェニーの軌跡や、フルトベングラーから将来を嘱望されたピアニストなのに、演奏家の道を自ら閉ざしてピアノ教師を続けてきたクリューガーの決断の理由も、孤独な二人が寄り添うまで過去や心象はこの映画では枝葉末節に過ぎない。だから、少女マンガのように荒唐無稽な試練と不幸で構わないのだ。

この映画は触れ込み通り、ラスト4分間のコンサート決勝におけるジェニーの圧倒的な演奏場面のためにつくられた。すなわち、ジェニーを演じたハンナー・ヘルツシュプルングがどのような音楽を演奏して新星誕生の喝采を受けるか、それがこの映画の肝だったことが、この4分間でわかる仕掛けだ。

音楽を学び、味わうことで人間的成長を遂げ、自分以外の人間と和解し、受け入れていくという感動的なヒューマンドラマに見えて、実はそうではない。どこまでも音楽に取り憑かれた人間の物語であるとラスト4分間に反転することで、類似の映画と異なった音楽映画になった。

ホセ・メンドーサと対決した矢吹丈がラストラウンドで、ダンクシュートを決めたみたいなものだが、スカッとしたからこれでいいのだ。本場のドイツでもクラシックは落ち目の三度笠なんだなとあらためて知った映画だった。一緒に観た、かつてのピアニストは、あんな演奏をしたら指が切れてしまうと呆れていた。ヒューマンドラマだけでなく、演奏も荒唐無稽だったのか。

ONCE ダブリンの街角で
http://oncethemovie.jp/

アイルランドのダブリンの街角で歌うストリート・ミュージシャンがチェコ移民の娘と出会う。恋愛に向かうと思いきや、この映画でも二人は音楽的な逢瀬を繰り返しはするが、結局は結ばれないという、類似の映画と異なった音楽映画である。

グレン・ハンサードの曲と歌が素晴らしい。マルケタ・イルグロヴァの歌もいいが、映画女優としても表情豊かで魅力的だ。次回作を観たいものだ。

ダブリンをよく知った歌手とスタッフがつくっているため、伝統的な建物や穴場紹介のような観光映画にはならず、ダブリンは近代的な平板な都市なんだなと印象薄いが、容貌魁偉なダブリン市民は登場する。

サントラを買いに走りたくなった。ドラムがよかった。