コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

ビルマに死す

2007-09-29 23:57:30 | ノンジャンル
合掌。

何の情報も持たないが、CIAによる謀殺に1万円賭ける。
左翼がまだ元気だった頃は、「郵便ポストが赤いのもCIAの陰謀だ」とのたまって大方の失笑を買ったものだが、後年、あながち見当はずれでもなかったとわかった。少なくとも、数十年前から、郵便事業は狙われていたようだ。

それにしても、ビルマじゃ、政府軍の兵士もビーチサンダルを履いているのか。
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それでもボクはやってない

2007-09-28 00:03:40 | レンタルDVD映画
日本のロン・ハワード・周防正行の久しぶりの新作。

http://ja.wikipedia.org/wiki/それでもボクはやってない

以前、未見なのに感想を書いているが、よい意味で裏切られた。

http://moon.ap.teacup.com/applet/chijin/200702/archive?b=5

たいへんリアルでタイムリーなバランスのとれた秀作である。

リアルについて。
一度でも裁判の当事者(傍聴者でもいいが)として、裁判を経験した人なら、あるいは、逮捕されたり、警察官の取り調べを受けた経験がある人なら、ほぼこのとおりだと肯ける進行だろう。

タイムリーについて。
裁判員制度の実施目前を背景にして、有罪率99.9%の背景となる異様な現実が鋭く抉り出されている。

①被告は判決が確定するまでは推定無罪ではなく、容疑者や被告となったときから「推定有罪」である。
②被告が犯罪を犯したという証拠を提示する挙証義務は検察にあるのではなく、その犯罪を犯さなかったと立証する「挙証義務は実質的には被告が負う」ものだ。
③適正な判断を下すために、検事と弁護士のいずれにも裁判官は組みしないのではなく、「裁判官と検事はほぼ一体」である。

それを元外務省職員被告の佐藤優は「国策捜査」といい、それを裏づけて元特捜検事被告である田中森一は「検察庁は行政組織の一部」といったのだった。

被告と弁護士が無罪を勝ち取ろうとすれば、尋常なやり方ではまったく歯が立たない。この映画の被告と弁護士たちは、尋常なやり方で「推定有罪」を覆そうとしたが、やはり完敗した。そして、控訴しても勝てないことが暗示されている。

この映画を観たら、たとえば、光市母子殺人事件の弁護活動をめぐる紛糾について、安易な判断を下せないと思うだろう。「乱数表でも使って自動的機械的に死刑を執行できないか」という鳩山法相の発言がいかに空恐ろしいものかわかるだろう。そして、いまだに広島・長崎の被爆者認定や水俣病の患者認定が未解決、補償が不十分だという訴えが続いているのがなぜなのか、納得するだろう。

バランスについて。
当初、痴漢事件の担当を命じられた女性弁護士は、「やっと痴漢が事件になるようになったのに」と引き受けるのを渋る。痴漢事件に冤罪が生まれるのは、痴漢が事件になったからだが、長きに渡って痴漢は事件にならなかった過去を踏まえているわけだ。

だからこそ、裁判官は被害女子高生の勇気ある「現行犯逮捕」と裁判での証言を重くみた。弁護側の反証に理がありながらも、被害女子高生の行動に情を示したともみえる。それは裁判官が人情深かったからではもちろんなく、女性の性的虐待や被害の救済に敏感になった国策に従っているからでもなく、そうすることが彼の業務としては適切だったからだ。

有罪率99.9%という異常な数字の裏側には、最近、被告全員が無罪になった鹿児島の選挙違反事件にみられるように少なからぬ冤罪が含まれているだろう。その一方で、犯罪検挙率は年々低下し、桶川殺人事件のように警察の捜査能力に疑問を持たせる事件は少なくない。つまり、事件にならない犯罪や捕まらない犯罪者が相当数いるとすれば、有罪率99.9%の意味するところは、その冤罪率以上に怖ろしくはないか。

裁判官が迅速に有罪判決を下すことで山積する業務の遅滞を防ぎ、ひいてはそれが司法の円滑な運用につながり、彼の勤務評定の好評価となって返ってくる。彼は裁判官ではあるが、真実や正義には関係しない。「家庭の幸福は諸悪の根源」と太宰治が喝破したように、よき職業人(よき家庭人)として、彼は実直に日常の仕事をこなしているに過ぎない。

法と正義の間で葛藤する人間像を描いてきた、先行する幾多の法廷映画を踏まえて、法と正義の間で葛藤する人間像を描かなかった、この映画のバランス感覚は見事である。蛇足であるが、弁護側視点に偏った映画だという批判は当たらないだろう。弁護側の構造的な無力を描いた映画でもあるのだから。

冒頭で日本のロン・ハワード・周防正行といったのは、多分に批判と揶揄を込めている。『アメリカン・グラフティ』で気弱な高校生を演じたロン・ハワードは、その後、スプラッシュ Splash(1984年)、コクーン Cocoon (1985年)、ザ・ペーパー The Paper (1994年)、アポロ13 Apollo 13(1995年)、ビューティフル・マインド A Beautiful Mind(2001年)、ミッシング The Missing(2003年)、シンデレラマン Cinderella Man (2005年)、ダ・ヴィンチ・コード The Da Vinci Code (2007年)など、数多くの大作話題作を手がけながらいずれも高水準の作品づくりで、いまや押しも押されぬハリウッドの一流監督になっている。

周防正行もロン・ハワードにははるかに及ばないが、『シコふんじゃった。』でブレークしてから、『Shall we ダンス?』がアメリカで好評価を得てリメイクされるなど、日本の一流監督といえる。どちらも気弱そうで存在感の薄い風貌ながら、映画センスは抜群、演出は手堅く、ストーリーテリングは上手い。二人とも、大手企業の企画担当や広告代理店のマーケティング担当になっても、きわめて有能だろうと思わせる。だが、その有能さが鼻につく。うまいがそれだけだ、というのが俺のこれまでの分類だった。

しかし、周防正行には裏切られた。『それでもボクはやっていない』以後は、『11人の怒れる男』のような映画はもはや作れない。『Shall we ダンス?(1996年)』から11年ぶりの新作なのに、『それでもボクはやっていない』がたいしたヒット作にならなかった理由(わけ)がよくわかった。ロン・ハワードと並べては、周防正行に失礼であった。

「俗情との非結託」を貫いた稀に非情な映画であり、後年、日本の司法制度を検証する際の優れた史料となる映画である。いうまでもなく、映画としても上質である。ざまあみやがれ!という喝采こそ、この映画にふさわしい。映画をバカにするんじゃないよ。誰に何についていっているのか、この映画を観ればいくつも思い浮かぶだろう。


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クロッシング・ザ・ブリッジ

2007-09-19 16:52:38 | レンタルDVD映画
クロッシング・ザ・ブリッジーサウンド・オブ・イスタンブール
http://www.alcine-terran.com/crossingthebridge/

ヨーロッパでもアジアでもないトルコ音楽に魅せられたドイツ人音楽家ハッケの旅。キューバ音楽の大御所たちを訪ねた『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』と同様な企画だが、『ブエナ』以上の歌と音の多様さに驚く。

イスタンブールで人気のDJヤクザ(そういう名前なのだ)はいう。
「DJやるなら、古今東西の音楽に敏感でないとね。つまり世界中の音楽さ。ワンパターンな選曲じゃそっぽを向かれちまう。だけど、アメリカに行ってみなよ。ラジオもCDも似たり寄ったりだ。退屈すぎる。この街じゃ、あんなの通用しない」

先日、MTVミュージックアウォードのオープニングを飾ったブリトニー・スピアーズの無惨な口パクと鈍いダンスに、病めるアメリカ音楽界の未来を見たような気がした。「アメリカンアイドル」も、同じような歌を同じように歌う没個性な新人ばかりですぐに飽きてしまった。もはや、アメリカ以外の国や地域からグラミー賞をめざす歌手などいないのではないか。もしいたとしたら、この映画を観せて、「なっ、アメリカはイモだぜ」といいたくなる。

しかし、そんなトルコにも、「アメリカかぶれ」と批判されながら、ヒップホップを愛する若者がたくさんいる。キャップにだぶだぶトレーナー、尻まで落としてズボンをはくファッションもまったく同じ。歩いているのが、ブルックリンではなくイスタンブールの街角という違いだけだ。

ヒップホップが好きなら、少しでもラップやブレイクダンスができるなら、世界中を、友だちの家を泊まり歩くように旅ができるのではないかと思えるほど、ヒップホップは世界の若者の共通言語になっているらしい。トルコ語のラッパー・ジェザの父親はいう(たぶん、50~60代)。

「息子がヒップホップをはじめたとき、あんなのは音楽じゃないと思っていた。わしらの頃は、G・ヘンドリックスやE・クラプトンが音楽だった。メロディに言葉を乗せて歌うものだった。ヒップホップなんてただ言葉を並べ立てただけじゃないか。歌じゃない、そう思っていた。でも、いまはヒップホップこそが音楽だと思っているよ」

「マーマママママママママママママママ、マイクショー!」と凄まじい早口のトルコ語を途切れなくリズムに乗せるジェザ。その言葉は、ドラッグや暴力を煽るものではない。トルコやイスタンブールに生きる人々の日常の感情を歌っている。「ギャング=ラッパー」とは、実は映画『シャフト』などと同様な黒人収奪のために仕組まれた白人のビジネスではないかという疑問が浮かぶ。ドラッグや暴力を煽る言葉は、けっして美しく心地よくは響かない。言葉の生理に反するからだ。あるいは、俺たちの知らない、メディアには乗らないラップがあるのかもしれないが。

カナダからやってきて、ブルガリアやトルコの古い民謡を採集して歩いては、トルコ語で歌うブレンナ。
「英語より、トルコ語で歌うほうが感情が溢れる気がするの」

トルコではロックが台頭したのは90年代のはじめからだそうだ。トルコのパンクロックバンド・デュマンと対照的にジャズっぽいレプリカスが紹介された。彼らをロック少年にさせた英雄がエルキン・コライ。頭が禿げ上がった内田裕也を思えばよい。

人口の三分の二がロマ(ジプシー)という町ケシャンも訪ねている。そこいらの居酒屋でジプシーキングス真っ青の名手や達人が夜な夜な演奏している町だ。
「ジプシーの音楽は、伝統的なトルコ音楽とは違って黙って聴くものじゃない。踊りだしたくなる音楽なんだ」

哀切なクルド民謡を歌姫アイヌールが18世紀のトルコ風呂の遺跡で歌う場面が、この映画の圧巻のひとつだろう。1990年まで公衆の面前ではクルド民謡は歌えず、放送禁止だった。クルド独立運動を弾圧していたトルコ政府がクルド語を禁止していたからだ。

アイ・ジョージに似た往年の大スターのオルハン・ゲンジェバイも渋かった。声は勝新太郎、歌い方は古いブルースのように単調だが、サズという琵琶に形が似た3弦楽器を操る姿がいかにも堂に入っていた。自宅スタジオに集められた伴奏の若者たちが大物を前にして、呆然とするほど緊張しているのが微笑ましかった。さしずめ日本でいえば演歌の大御所といった貫禄だが、エジプト音楽を取り入れて伝統派から批判されながら、アラベスク(アラビア風)音楽を創ったそうだ。

ディーン・マーティンのように、酒の入ったグラスを片手に、老バンドを従えて仇っぽく歌う渡辺はま子に似た、歌手歴72年86歳になるやはり往年の大スターは、
「セゼン・アクスのおかげで、最近リサイタルを開くことができた」
と感謝していた。

そのセゼン・アクスは、トルコ音楽とポップスをミックスさせて、トルコでは誰知らぬものない大歌手らしい。若い頃のTV映像では、まるでホイットニー・ヒューストンのようにスレンダーで美しい。いまは40代くらいか。太って、錦糸町のフィリッピンパブのママみたいになっていたが、「イスタンブールの想い出」を歌い出せば、ビル・エバンスのピアノのように、清冽な音が精妙に配されていく。これも圧巻。

邦題をつけるとすれば、もちろん、「飛んでイスタンブール」。DJヤクザなら一度はかけたことがありそうだな。
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ドロレス・クレイボーン

2007-09-18 23:10:48 | ブックオフ本
スティーブン・キング 文芸春秋

上下2段組、235頁に綴られているのは、皆既日蝕の日に夫を殺したドロレス・クレイボーンの圧倒的な自白のみ。いかにクズ男であろうと殺すことはないだろう、という感想を持ち続けたまま読了するのは難しいだろう。クズ男が夫であり父親であった場合、日々少しずつ妻や子は殺されていく、だから殺られる前に殺った、というドロレスの供述には感情移入しないではいられない。

学生の頃、当時すでに傑作の誉れ高かった『イージーライダー』を友人たちと名画座で観た俺は、感に堪えた様子の友人たちに、「あまりよいとは思えなかった。だってあれじゃ、田舎者をバカにし過ぎじゃないか。まるで、ニューヨークタイムズや朝日新聞が書く世界がすべてみたいで」と稚拙な感想を洩らして、失笑を買った思い出がある。

保守的な南部をオートバイで旅するピーター・フォンダやデニス・ホッパーたち「イージーライダー」が、いかに異物であろうと殺すことはないだろうという思いを俺も抱いた。だが、座興のように二人を撃ち殺す「レッドネック」たちは、ただ醜悪で偏狭なだけなのかという違和感も同時に感じたのだ。同じアメリカ人なのに、まるで理解不能な異族のように彼らは否定されていた。

いまなら、別の見方をいえる。「レッドネック」たちにとって、「イージーライダー」はどう見えたか、という問いを立てれば、あまりにも一方的ではないかという疑問は自明のことだろう。また、「イージーライダー」たちが異物として排除されたという見方も成り立つが、同時に、まず「イージーライダー」たちが「レッドネック」の土地に入り込み、彼らを異物視したのだという指摘もできる。物事には順序があるのだ。

愛と自由を求める「イージーライダー」たちを、毒虫のようにひねり潰す「レッドネック」。「イージーライダー」たちが「レッドネック」に向ける恐怖と嫌悪の眼差しは、愛と自由という人類普遍の価値観に無知な、野蛮人へのそれと同型だ。自分たち「イージーライダー」こそが恐怖と嫌悪の対象として見られているのではないかという想像力はそこにはない。愛と自由の体現者であり遂行者であるのは、自分たちであって彼らではないことは、あらかじめ決まっているからだ。

「レッドネック」たちが圧倒的な多数を占める地であっても、より高次の世界にあっては、「レッドネック」たちこそが異物であり、愛と自由の世界に同化するか否かだけが、「レッドネック」たちに残された選択肢である。ピーター・フォンダやデニス・ホッパーは、いわば愛と自由の世界からの鉄砲玉といえる。

ドロレスの夫ジョーは、卑小なくせに尊大で、偏狭な考えを持つ「レッドネック」として描かれている。しかし、そんなことより重要なのは、たぶんジョーの生産性がきわめて低いということだ。ジョーは小さな島で定職すら持てず、別荘族の雑役を請け負ったり、漁師の手伝いをして小銭を稼ぐくらいしか能がない。

おかげで、ドロレスは家政婦として働きづめに働かなくてはならなかったわけだが、最悪なことに、ジョーにはそうした境遇から抜け出そうという向上心もなかった。安酒を飲んで仲間と賭けポーカーをすることや家族に対して支配的に振る舞うことで憂さを晴して満足するような「クズ男」だった。

愛と自由の世界にとっては、ジョーは受け入れがたい人物である。愛と自由の世界は、資本主義社会をその下部構造としており、その高い生産性に支えられて成立している。自然資源をはじめ、人的資源などあらゆる資源は、産業資本や社会資本、そして愛と自由を謳歌するための文化資本となって、さらなる生産と消費に寄与しなければならない。それが、「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」に他ならず、ジョーはまったく世界に貢献していないだけでなく、家族にとって重い足枷になっていた。

ジョーは自らの生産性が低いがために貧しいというだけでなく、妻のドロレスや娘のセりーナ、息子のジョー・ジュニアやピートたちをも、自らと同様に低学歴の偏狭な「レッドネック」に押し止め、貧しいままの生涯を送らせかねない抑圧者として描かれている。貧困の再生産に加担しているだけでなく、貧困から抜け出すきっかけとなる愛と自由を憧憬する価値観すら、つねにジョーによって汚され貶められた。その典型的な事例として、娘セりーナに対しての近親相姦の強要が示される。

同じ部屋にいるだけでも悪臭が漂ってくるような酒浸りの居汚い暴力夫が、しょっちゅう胸がむかつくような偏狭な考えを押しつけては子どもたちの心を傷つけ、あろうことか娘に手を出そうとしているのでは、母親としては殺したくもなるだろうが、だからといって殺されていいわけではない。

しかし、ドロレスの迫真的な供述には、そうした常識を覆す圧倒的な説得力がある。2/3ほども読み進めば、誰しもこんな男は殺されてもしかたがないと思い、ドロレスを免罪したくなるだろう。この作品のドロレスも、結局、罪には問われない。アンディ署長がドロレスに同情したからでも、ジョー殺しが時効を過ぎていたからでもなく、ドロレスはあらかじめ免罪されているからだ。

神もまた、ドロレスのジョー殺しに眼を閉ざしたという隠喩として、実際にメイン州で見られたの皆既日食が重要な背景となっている。島の人々が残らず暗くなっていく空を見上げ、けっして目撃者が現れるはずがない日蝕の時間を天与の時として、自宅の庭でドロレスはジョーを殺す。

「イージーライダー」たちを撃ち殺した「レッドネック」たちが、たぶん何の罪にも問われなかったように、ドロレスもまた見逃された。どちらの殺人にも、法的な正当性はない。しかし、殺された者はともに、その世界にとっては受け容れがたい異物であり、毒虫であった。

もちろん、ドロレスの内心には免罪も免責もない。自分のために母が父を殺したのではないか、と苦しみ続ける娘セリーナを思い、ドロレスの苦しみは続く。それもまたドロレスの受難の一部であるかのように、けっして殺したジョーへの罪悪感には向かわない。

後日談として、セリーナはニューヨークで活躍する有名ライターとなり、ジョー・ジュニアは民主党の星と呼ばれる若手政治家となって活躍していることが明かされ、子どもたちがジョーとは真逆の「アメリカンドリーム」の成功者となったという対比で物語は終わる。

メイン州で皆既日食が見られたのは、1963年7月20日だったという。そのとき、娘セリーナは15歳、ジョー・ジュニアは13歳、後にベトナム戦争で戦死するピートは9歳だった。つまり、ドロレスの子どもたちは、「イージーライダー」とほぼ同世代である。そして、彼らはジョーの子どもたちでもある。その事実を消された子どもたちである。

かつての「イージーライダー」たちは、今日ネオコンと呼ばれて共和党の一角を占める政治勢力と世代が重なっている。彼らはいま、デモクラシーとフェミニズムを旗印に、中東アジアの保守的で頑迷な「レッドネック」の地へ進駐し、ドロレスのように周到に殺し、ピーター・フォンダやデニス・ホッパーのように、たまたま殺されている。

もちろん、「レッドネック」たちもネオコンを支持した。それでも、より重要なのは、愛と自由の世界から来た「イージーライダー」たちが「不条理」に殺され、「レッドネック」たちが「条理」に基づいて殺されるという構図が変わっていないということだろう。「イージーライダー」たちの「愛と自由」の世界観こそが、異物を排除し、異族を殺す正当性を付与している。

その条理を担保するのは、ドロレスにおいては雇用主である因業な未亡人のヴェラ・ドノヴァンであり、ネオコンにとっては、「レッドネック」たちと「国際社会」ではなかったかと思う。準備を整えた共犯関係に近い同盟者ヴェラが介在することで、知らぬ間にジョーは追いつめられていく。

やはり、ドロレスに説得されてはならない。子どもたちの未来や可能性のために、その愛と自由のために、「クズ男」を殺してはならない。それは、やはり差別と虐殺を正当化する条理に他ならない。

ドロレスが子どもたちの将来のために積み立てた3000ドルの貯金をジョーがくすねたことが、ジョー殺しの重要な布石となるのだが、ジョーがくすねた金のなかから密かに生命保険に加入していて、それがドロレスの夫殺しの動機と目されて、日蝕まで利用した大がかりな完全犯罪が破綻するという結末もあり得ただろう。ジョーにはそうした多面性はあり得ないのだとすれば、やはりジョーは人間ではなく、ただ排除されるべき異物なのだろう。



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どんど晴れ

2007-09-15 00:02:46 | ノンジャンル
シンイチさんとシンゾウさんが大変なことになったと心配していたが、シンイチさんはカガノヤのみんなに土下座して詫びることで、なんとか許してもらったらしいのに、シンゾウさんのほうは入院したりして、依然として大変らしい。早まったことをしないといいのだが。
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