コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

中村中

2007-06-30 01:17:57 | ノンジャンル
中村中学ではない、なかむらあたるというシンガーソングライターがいる。
http://www.nakamura-ataru.jp/index.html

「友達の詩」「汚れた下着」といったシングルを発表している。ベタなタイトルである。最初に聴いたとき、中島みゆきの歌世界に似ていると思った。しかし、すぐにまるで違うことがわかった。中島みゆきには振られ歌が多いが、女から男を好きになって振られるわけで、ベタなジェンダー性を歌詞にしながら、中島みゆきが描く女は雄々しく、それがゆえに男女ともに中島みゆきは愛される。中村中では、歌詞やその歌唱はもっと儚く不幸だ。久しぶりに出た不幸の味の歌い手だが、五木寛之あたりが褒めそうなところが困る。五木寛之が褒めるとたいてい潰れる。藤圭子然り、山崎ハコ然り。

「友達くらいがいい~」(友達の詩)が脳内リフレインしている。中島みゆきなら、振られた後(実は振っているのだが)、自嘲的に「友達くらいがいい~」と歌うだろうが、中村中は振られる前に、あきらめてそう歌う。負け犬の歌である。歌は世に連れるという。負けるくらいがいい、という時代なのか。
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逝きし世の面影

2007-06-24 01:39:50 | 新刊本
先に「霧深い」と読みはじめの印象を書いた。とんでもない。幕末から明治期に来日した外国人観察者たちの記録は具体的だし、その感想は率直なものだった。霧深く思えるほど不可視だったのは、観察者たちの背後に佇立する著者・渡辺京二の思想であった。とんでもない。著者が渉猟した観察者たちの史料を扱う手つきに恣意や偏りは感じられない。明晰を尽くしている。にもかかわらず、読後感は霧が立ちこめるように冥い。とんでもない。本書に描かれた日本人はどこまでも明るく伸びやかな人たちだ。

中華に「十八史略」に「鼓腹撃壌」という話がある。

   日出でて作き、
   日入りて息う。
   井を鑿りて飲み、
   田を耕して食う。
   帝力何ぞ我にあらんや。

江戸期の庶民はまさに、この「鼓腹撃壌」であったと外国人観察者は口を揃えているようだ。孔子が理想の帝と仰いだ堯舜の理想の統治の話である。「こふくげきじょう」とは腹鼓を打ちながら木の独楽をぶつける遊びらしい。老爺が「帝力なんぞ何の足しになるか」と独楽遊びをしながら上機嫌に歌っているのだ。とんでもない。本書では徳川の幕藩体制を理想の統治などとは持ち上げていない。政治についてはほとんど言及しておらず、「貧しい庶民の豊かで美しい暮らし」に驚嘆する外国人観察者たちに著者は共感している。共感しつつ、しかし頷いてはいないようだ。懐手をしながら瞑目しているように見える。死児の齢を数える空しさを噛みしめるものなのか。あるいは、明治期にいきなり青年になった奇形・日本を知るがゆえの空しさなのか。空しさを知りつつ語るその姿は霧の奥に隠れている。

外国人観察者たちが見た江戸期の庶民のライフスタイル、つまり前工業化社会の「文明」は今日のポストモダン、すなはち脱工業化社会の「文明」を考える上で、有益な契機を内包しているかもしれないなどと読んだなら、著者は、本代返すからどうかその本をうち捨ててくれないかと頼むだろう。あるいは、日本特殊論の延長として、日本にも独自な文明があったなどと語られることはもちろん、代替医療のようにかつてあり得た、もしくはあり得たかも知れぬ一つのオルタナティブな文明への幻視と読んでも、著者はまったく不服だろう。

それでは、『オリエンタリズム』のサイード以下の「文明論」であると。ちなみに、まさにオリエンタリズムの視線を露わにする欧米帝国主義者の軍人や政治家、外交官などの外国人観察者たちがものした、日本に関する著作をテキストにする著者であるから、サイードの「オリエンタリズム批判」への再批判を加えている。手短かだが説得力がある。

およそ考えつくような解釈のほとんどを反古にするような周到な伏線を張り巡らせて、上述のような誤読を許さない。日本の湿気に馴染めなかった大連という植民地育ちの異邦人だった著者は、外国人観察者たちの「可憐な日本」への共感に、実相を見ようとしている。しかし、「だから」とはけっして続けず、「もし」とつじつまも合わせない。そうした姿勢や態度こそかつてあり得た「日本文明」への理解の最大の妨げだとでもいうように。「日本文明」について著者の推断の多くに典拠はないと思う。しかし、外国人観察者たちの幾人かが抱いた「日本文明」への惜別の予感に対する、著者の共振に根拠がないとは思えない。

たとえば、2人の詩人が以下のように「祖国」への惜別を歌っている。

マッチ擦るつかの間海に霧深し(寺山修司)

惜別の銅鑼は霧の奥で鳴る(野村秋介)

明らかに、「惜別の銅鑼」は、「マッチ擦る」への返歌である。もちろん、「マッチ擦るつかの間海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや」が正しいのだが、明らかに「マッチ擦るつかの間海に霧深し」だけで完成型だ。「身捨つるほどの祖国はありや」は言わずもがな、若気の至り、才気走ってはいても低俗とさえいえる。ましてや、この下りは拳を握るところではけっしてない。蛇足である証拠のひとつに、「惜別の銅鑼は霧の奥で鳴る 身捨つるほどの祖国はありや」と続けてもまったくおかしくない。まるで「根岸の里の侘び住まい」である。

野村秋介は「霧」を重ねながら、実は「祖国」を踏まえているのだが、自らの歌から「祖国」を消しただけでなく、寺山の歌からも消してしまった。オマージュと批評性が両立した見事な返歌である。霧深い波止場に立ち、船を見送っている寺山と、霧の奥で銅鑼を聴きながら船尾に立つ野村が見える。霧の彼方の祖国に近づこうとしているのは、あるいは「祖国」を離れようとしているのはどちらなのか。本歌を改変させたくなるほど、野村は独自の境地を示していると今までは思ってきた。本書を読んだ後では、寺山もまた「逝きし世の面影」として祖国を見ていたのではないかと思えてくる。「祖国はありや」と寺山は問うた。それから30余年の時間を隔てて、野村は霧の彼方に去った。その両者に、本書は語りかけているようだ。

しかし、本書の「弥次喜多珍道中」の解説には参った。「東海道中膝栗毛」の前段、弥次喜多が道中に出かけるまでの物語を本書ではじめて知ったが、これが呆れるほどデタラメなのだ。そして、このデタラメ極まる物語が江戸庶民のベストセラーになったということにもっと驚く。落語の世界は、デフォルメされたものと思ってきたが、実は写実だったのかもしれない。志ん生は奇天烈でもシュールでもなく、正統な江戸落語の後継者だったのかもしれない。酒と児戯が大好きでよく笑ったという江戸庶民の末裔なのかもしれない。巻措くに能わず、おかげで2日も仕事をさぼって読み耽ってしまった。


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逝きし世の面影 ほか

2007-06-20 06:29:31 | 新刊本
渡辺京二 平凡社ライブラリ
読みはじめたばかり。断定を恐れない剛直な文体がいい。江戸時代を「日本文明」と高唱する違和感さえ越えられればだが。まるで「インカ帝国」を祖述するように霧深い「日本文明」像という印象も持った。

ほかに、『日本人のための歴史学』(岡田英弘 WAC)、『世界は「使われなかった人生」であふれている』(沢木耕太郎 幻冬舎文庫)、『荒涼の町』(ジム・トンプソン 扶桑社海外文庫)。

沢木耕太郎を「卒業」したのは、TVに登場した際のその軽薄な話しぶりにがっかりしたからだった。あんな話しぶりのインタビューで、あれほど重要な証言が話されたり、心奥をうち明けられたりするはずがないと、そのノンフィクション作品まで深く疑いはじめたからだ。だから、小説家に転向したときはなるほどなと思った。ただ、この本は映画エッセイなので買う気になった。俺の好む文体ではないが、やはり文章はべらぼうに上手い。

日本を中心にして世界史を眺望する『日本人のための歴史学』。学ぶのならそれでいいのかも知れない。「欧米中心の世界史」や「世界史のなかの日本」を研究するのは必要だが、教育と研究は別物なのだから。マルクス主義史観の呪縛が解けたいま、新鮮な視点なのだろう(7/2読了した。「日本を中心にして世界史を眺望する」ではなく、「中央ユーラシア」を中心として、の間違いだったので訂正)。

ジム・トンプソンの「新刊」が読めるのが最近の楽しみ。「再刊」されるのだから、きっとまた傑作なのだろう。

おっと板金万太郎、『わらしべ偉人伝』(ゲッツ板谷 角川文庫)も買った。最近のライターでは、このゲッツ板谷と内田樹のものにはずれはない。『寝ながら学べる構造主義』(内田樹 文春新書)の明快さは痛快なほどだ。あとがきで内田はこういっている。

引用開始

構造主義の諸思潮が怒濤のように日本に流入してきたのは、私が仏文の学生だった頃です(内田は1950年生まれ)。私は「最新流行の思想のモード」にキャッチアップしようと必死になりましたが、構造主義の主著はどれも法外に難解でしたし、やむなく頼った日本語の解説書は、むずかしい概念をただむずかしい訳語に置き換えただけのものでした。それらの書物が何を言おうとしているのか、二十歳の私には結局少しもわかりませんでした。
(中略)
それから幾星霜。私も人並みに世間の苦労を積み、「人としてだいじなこと」というのが何であるか、しだいに分かってきました。そういう年回りになってみると、あら不思議、かつては邪悪なまでに難解と思われた構造主義者たちの「言いたいこと」がすらすら分かるではありませんか。
 レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、ロラン・バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。

引用終わり

青少年期に難解な書物に挑戦するのは、過大な負荷を頭脳に与えて鍛えるという点では意味があるが、それと書いてあることが理解できるかどうかは別物だ。構造主義の「4銃士」(内田樹命名)にしても、長年の研究と思索を紡いで構造主義を提唱したはず。大人が大人に向けて書いた本を子どもが読んでわかるわけがない。大人こそ、中高年こそ、哲学書や思想史を読むに適しているのかもしれない。知的好奇心というより、自らの知見と漠然とした考えを整理して確認するために。

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緒方供庵と銀の鈴下ブローカー

2007-06-20 05:45:55 | ノンジャンル
 マカ不思議な朝鮮総連の売買契約だが、緒方供庵氏によると、60億円を出すという出資者とは東京駅構内の喫茶店で会ったという。「名刺は持ち合わせていない」といわれ、「姓だけは聞いたが名前は忘れてしまった」そうだが、「意気投合」したので、土屋元日弁連会長に「出資者を確保できそうだ」と連絡を入れたという。

俺はこの事件に関して何ら独自の情報を持っていないが、いわゆる「ブローカー」の世界はいささか知っている。不動産や金融が代表的だが、世間のあらゆる儲け話にはブローカーが介在する。緒方供庵に出資者を仲介して朝鮮総連から4億円取ったという元不動参会者社長とは、ナミレイ事件の松浦良右(現在は朝堂院大覚と名乗っている)であり、最近では六本木のTSKCCCビルの地上げにも顔を出す「フィクサー」といわれている。が、要するにブローカーだ。

フィクサーと呼ばれるようになれば、ピンに近いブローカーで、都心に立派な事務所を構えたり、一流ホテルの一室を借り切っていたりする。秘書の数人も抱えている。それに引き換えキリのブローカーは携帯だけ。儲け話を聞きつけては、「ぶら下がり」でおこぼれにありつこうとあくせくしている。「ぶら下がり」とは、たとえばこういうことだ。

かつて「地上げ王」と呼ばれた最上興産の最上太吉は地上げがまとまりそうになると、ブローカーを喫茶店に呼びつける。すると、見も知らぬ20人ほどがやってきて、「自分が仲介した」と、それぞれが相応の仲介手数料を要求する。一般的な仲介手数料は5%、10億円の不動産物件なら5000万円になる。それをどう分けるかでブローカー同士が揉める。最上太吉は、「よしわかった。一人50万出そう。それで嫌なら降りてくれ」と携えてきた札束を配り出す。たいていのブローカーはそれで承知したそうだ。何百万何千万の儲け話を吹聴して歩いても、手持ちの金は喫茶店のコーヒー代しかないからだ。

ドトールなどのコーヒーショップに席巻されて、最近は、こうしたブローカーが屯する「ブローカー喫茶」が激減した。昼間の喫茶店とは、仕事をさぼるセールスマンか、ブローカーたちの根城になっていた。いまではわずかに「ルノアール」くらいが残っている。俺が知っている高利貸しは、こういうブローカー喫茶に顔を出すと、席のあちこちから会釈が返ってくる。高利貸しは、その場の全員の伝票を持ってこさせて支払いをするのが常だった。「あんなのでもたまによい情報や客を連れてくる」そうだ。「あんなの」がキリのブローカーとすれば、キリのキリを「銀の鈴下」ブローカーという。

彼ら彼女らは、喫茶店に入る金もない。東京駅の代表的な待ち合わせ場所である「銀の鈴」の下のベンチに終日座っている。携帯が鳴ると、「いま東京駅にいるが」と話す。「大阪から帰ってきたところ」だとか、「広島から来る客を迎えに来た」とか、適当に話すのに都合がいいわけだ。したがって、東京駅を会見場所に指定するブローカーを「銀の鈴下」ブローカーといい、「千三つ」のブローカー話のなかでももっとも当てにならないと冷笑される。

緒方供庵さんが会ったのは「銀の鈴下」ブローカーではなかったか。詐欺師と皮一枚だから、名刺は持たず、持っていたら有名無実の会社であり、名前も教えず、教える場合は偽名か変名になる。公調の元長官や日弁連の会長がキリのキリのブローカーにしてやられるか? 1対1ならたいていやられる。肩書きや地位で生きてきた人間ほど、あっけなくやられる。昔、全日空の大庭社長がM資金詐欺に引っかかったように。最近では柳沢厚労相が好例だが、世間知らずで洞察力を欠き、言葉遣いがなっていないエリートとは、ようするに赤子なのだから、その手をひねるのは簡単なのだ。

しかし、ピンの松浦良右がキリのキリの「銀の鈴」下ブローカを紹介するのは変に思える。といっても、ピンだろうとキリだろうとしょせん同じ穴の狢の世界。謀略の噂がかまびすしいが、実のところただの間抜け話だったかもしれない。
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ディパーテッド

2007-06-12 22:33:16 | レンタルDVD映画
はからずも、俺にとっては『リトル・ミスサンシャイン』の引き立て役になってしまった。ディカプリオの熱演が「ジョンベネ」と重なってしまった。スコセッシ映画はエピソード重視のため、筋立てが散漫になりがちなのだが、この映画はその弊を免れている。香港名画『インターナルアフェア』のリメイクだからだろう。

http://wwws.warnerbros.co.jp/thedeparted/jpspecial/index.html

スコセッシはリアリズム派だからしかたないが、『インターナルアフェア』のスタイリッシュな叙情性はない。リアルな人物像としてはジャック・ニコルソン扮するコステロくらい。ディカプリオとマット・デイモンの共演が売りのスコセッシには不向きなスター映画で受賞したのだから、アカデミー作品賞はお手盛りの功労賞だろう。同じ警官ものなら、いま新作コーナーに並んでいる仏作品『あるいは裏切りという名の犬』に軍配を上げる。ダニエル・オートイユくらいの平凡な容姿の中年男が、警察組織と暴力に肉迫するところに、その醍醐味があるものだろう。
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