「僕は君にふさわしい男じゃない」
そんな別れ言葉がある。たいていは、「君」という女が疎ましくなったか、別の「君」が現れたときに持ち出される。捨てられようとしている女はそう判断し、柳眉がつり上がる。正しい。やり逃げの捨てゼリフと決めつけられてもしかたがない。まれに、そうではなくて本当に惨めな思いで告げる男もいる。だが、いずれにしても、実は大差はないのだ。たいてい-まれとは、100人の男における割合の問題ではなく、100人の男一人一人の含有の問題だからだ。
いかに陳腐な逃げ口上に聞こえようと、本当に、「僕は君が捧げてくれる愛にふさわしい男じゃない」と思っているのだ、程度の差こそあれ。たいていの女がこの言葉に怒るのは、この「君」とは眼前の私だけではなく、女たち一般を指すと理解するからだ。これも正しい。私という女があなたという男を愛したのではなく、たんに女にモテたと思っている。好きだ、愛してる、などの甘い言葉が嘘だっただけでなく、この私から愛されていることさえわかっていなかった。「なんて男なの!」と怒りはいや増すわけだ。たしかに、「君が捧げてくれる愛にふさわしい」は嘘でした、すみません。では、この言葉に一片の真実もないのだろうか。ある。「男じゃない」がそれだ。修飾語はどうでもいい、「俺は男じゃない」が、何より認めたくない真実なのだ。そこまで告白しているのに、「いいえ、あなたは私が愛する唯一の男よ」と意志強く迫られたとき、男はどうするか。
ちっぽけな田舎新聞社の呑んだくれだが敏腕記者のクリントン・ブラウンは、その女を殺すか、殺そうとする。「私が愛する唯一の男は、男じゃなかった」ことを周囲に知られることを恐れたからだ。「男じゃない」なら、非人間になるしかない。もともとあらゆる不正と悪徳に顎先まで浸かった屑だ。人殺しになろうと、どれほどの違いがあろうか。それに、女と別れるのはその女を殺すようなものだ、とブラウニーも女も知っている。ブラウニーにとって、また読者にとってもわずかな救済である、純一な愛を捧げる女は例外なく殺されるか死んでしまう。
人に似て人に非ざる者は神しかいない。クリントン・ブラウンに限らず、ジム・トンプソン作品の悪逆非道な主人公たちが神性を帯びるのはそのためだ。誰もが知っている神の属性とは、徹頭徹尾、自らの判断と意志を貫き、何ものにも責任転嫁はしない。神には上位者も並び立つ者もいないからだ。したがって、人に非ざる行為をなしながら、懲罰はもちろん救済もない。ここまでは、「俺のなかの殺し屋」のルー・フォードと「ポップ1280」のニック・コーリーと同様に、クリントン・ブラウンも神に似た人非人の道に踏み出す。ところが、前2作とはまったく違う意外な結末を迎えるのだ。こんな友情があり得るのか? 神に似た人非人ではなく、人非人もまた等しく神の子なのか?いうまでもなく、これも傑作。そんなに傑作ばかりあるものかという声が聞こえそうだが、あるものはしようがない。
そんな別れ言葉がある。たいていは、「君」という女が疎ましくなったか、別の「君」が現れたときに持ち出される。捨てられようとしている女はそう判断し、柳眉がつり上がる。正しい。やり逃げの捨てゼリフと決めつけられてもしかたがない。まれに、そうではなくて本当に惨めな思いで告げる男もいる。だが、いずれにしても、実は大差はないのだ。たいてい-まれとは、100人の男における割合の問題ではなく、100人の男一人一人の含有の問題だからだ。
いかに陳腐な逃げ口上に聞こえようと、本当に、「僕は君が捧げてくれる愛にふさわしい男じゃない」と思っているのだ、程度の差こそあれ。たいていの女がこの言葉に怒るのは、この「君」とは眼前の私だけではなく、女たち一般を指すと理解するからだ。これも正しい。私という女があなたという男を愛したのではなく、たんに女にモテたと思っている。好きだ、愛してる、などの甘い言葉が嘘だっただけでなく、この私から愛されていることさえわかっていなかった。「なんて男なの!」と怒りはいや増すわけだ。たしかに、「君が捧げてくれる愛にふさわしい」は嘘でした、すみません。では、この言葉に一片の真実もないのだろうか。ある。「男じゃない」がそれだ。修飾語はどうでもいい、「俺は男じゃない」が、何より認めたくない真実なのだ。そこまで告白しているのに、「いいえ、あなたは私が愛する唯一の男よ」と意志強く迫られたとき、男はどうするか。
ちっぽけな田舎新聞社の呑んだくれだが敏腕記者のクリントン・ブラウンは、その女を殺すか、殺そうとする。「私が愛する唯一の男は、男じゃなかった」ことを周囲に知られることを恐れたからだ。「男じゃない」なら、非人間になるしかない。もともとあらゆる不正と悪徳に顎先まで浸かった屑だ。人殺しになろうと、どれほどの違いがあろうか。それに、女と別れるのはその女を殺すようなものだ、とブラウニーも女も知っている。ブラウニーにとって、また読者にとってもわずかな救済である、純一な愛を捧げる女は例外なく殺されるか死んでしまう。
人に似て人に非ざる者は神しかいない。クリントン・ブラウンに限らず、ジム・トンプソン作品の悪逆非道な主人公たちが神性を帯びるのはそのためだ。誰もが知っている神の属性とは、徹頭徹尾、自らの判断と意志を貫き、何ものにも責任転嫁はしない。神には上位者も並び立つ者もいないからだ。したがって、人に非ざる行為をなしながら、懲罰はもちろん救済もない。ここまでは、「俺のなかの殺し屋」のルー・フォードと「ポップ1280」のニック・コーリーと同様に、クリントン・ブラウンも神に似た人非人の道に踏み出す。ところが、前2作とはまったく違う意外な結末を迎えるのだ。こんな友情があり得るのか? 神に似た人非人ではなく、人非人もまた等しく神の子なのか?いうまでもなく、これも傑作。そんなに傑作ばかりあるものかという声が聞こえそうだが、あるものはしようがない。