コタツ評論

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失われた男

2006-08-26 04:41:29 | ブックオフ本
「僕は君にふさわしい男じゃない」
そんな別れ言葉がある。たいていは、「君」という女が疎ましくなったか、別の「君」が現れたときに持ち出される。捨てられようとしている女はそう判断し、柳眉がつり上がる。正しい。やり逃げの捨てゼリフと決めつけられてもしかたがない。まれに、そうではなくて本当に惨めな思いで告げる男もいる。だが、いずれにしても、実は大差はないのだ。たいてい-まれとは、100人の男における割合の問題ではなく、100人の男一人一人の含有の問題だからだ。



いかに陳腐な逃げ口上に聞こえようと、本当に、「僕は君が捧げてくれる愛にふさわしい男じゃない」と思っているのだ、程度の差こそあれ。たいていの女がこの言葉に怒るのは、この「君」とは眼前の私だけではなく、女たち一般を指すと理解するからだ。これも正しい。私という女があなたという男を愛したのではなく、たんに女にモテたと思っている。好きだ、愛してる、などの甘い言葉が嘘だっただけでなく、この私から愛されていることさえわかっていなかった。「なんて男なの!」と怒りはいや増すわけだ。たしかに、「君が捧げてくれる愛にふさわしい」は嘘でした、すみません。では、この言葉に一片の真実もないのだろうか。ある。「男じゃない」がそれだ。修飾語はどうでもいい、「俺は男じゃない」が、何より認めたくない真実なのだ。そこまで告白しているのに、「いいえ、あなたは私が愛する唯一の男よ」と意志強く迫られたとき、男はどうするか。

ちっぽけな田舎新聞社の呑んだくれだが敏腕記者のクリントン・ブラウンは、その女を殺すか、殺そうとする。「私が愛する唯一の男は、男じゃなかった」ことを周囲に知られることを恐れたからだ。「男じゃない」なら、非人間になるしかない。もともとあらゆる不正と悪徳に顎先まで浸かった屑だ。人殺しになろうと、どれほどの違いがあろうか。それに、女と別れるのはその女を殺すようなものだ、とブラウニーも女も知っている。ブラウニーにとって、また読者にとってもわずかな救済である、純一な愛を捧げる女は例外なく殺されるか死んでしまう。

人に似て人に非ざる者は神しかいない。クリントン・ブラウンに限らず、ジム・トンプソン作品の悪逆非道な主人公たちが神性を帯びるのはそのためだ。誰もが知っている神の属性とは、徹頭徹尾、自らの判断と意志を貫き、何ものにも責任転嫁はしない。神には上位者も並び立つ者もいないからだ。したがって、人に非ざる行為をなしながら、懲罰はもちろん救済もない。ここまでは、「俺のなかの殺し屋」のルー・フォードと「ポップ1280」のニック・コーリーと同様に、クリントン・ブラウンも神に似た人非人の道に踏み出す。ところが、前2作とはまったく違う意外な結末を迎えるのだ。こんな友情があり得るのか? 神に似た人非人ではなく、人非人もまた等しく神の子なのか?いうまでもなく、これも傑作。そんなに傑作ばかりあるものかという声が聞こえそうだが、あるものはしようがない。
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ミュンヘン 追記

2006-08-26 04:23:17 | ノンジャンル
アホなりに考えると、イスラエル軍(及びアメリカ軍)に付き従う従軍記者の視線に耐えられないのだろうな。アラブ側は同様な従軍映画をつくれない、公開できないという非対称にも腹が立つ。もしつくったとしても、もっとひどいプロパガンダ映画になるだろうが。イスラエル軍(及びアメリカ軍)の後ろにカメラを据えれば、銃口と同じく、対峙する敵は「的」でしかない。的を射るのではなく、「的を得る」戦争映画があり得るのか、あったのかといえば、少なくとも、「地獄の黙示録」や「シンレッドライン」は的を射るプロパガンダを否定するところから出発していた。この映画は「政治的公平」では洗練されていても、その正味は-プロパガンダ的なレッテル貼りだが-反動としか思えない。
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ミュンヘン

2006-08-23 00:03:29 | レンタルDVD映画
「シリアナ」や「クラッシュ」と同軸の社会派映画。ただし、今回はアメリカではなく、イスラエルは基本的には正しいという座標軸だ。で、いや、そんなはずはない、というのは空しくなってきた。たいして関係ない、アメリカの中東政策や人種政策の破綻、あるいはイスラエルの戦争に関する映画をなぜ俺は観るのか、観てしまうのか。観る必要があるのかと問われれば、ない。アメリカの苦悩など、アメリカが間違っているのではないかという仮説に立てば、たちどころに苦悩ではなくなるが、そんなことを考えるのもアメリカ人ではない俺にとって、無意味以外の何ものでもない。実際、アメリカもイスラエルもどうだっていいと思っているといえば、いえる。イスラエル擁護のプロパガンダ映画と批判する前に、観なけりゃいいのだ。それで済む。


ひどい場面があった。ミュンヘンオリンピックで「黒い9月」がイスラエル選手団の宿舎を襲い、選手団全員を殺した復讐にイスラエルは暗殺チームを組織し、テロの首謀者たちを殺して回る。その暗殺チームのリーダーがやがて罪の意識に苦しみ、復讐は復讐を呼ぶだけで平和にはほど遠いと空虚感を噛みしめていく。殺し殺される恐怖のなかで、愛する妻とつかの間のセックスの最中に、イスラエル選手団の虐殺の様子がカットバックする。生と死、国家と個、愛と非情の対比に加え、性交の喜びどころか、幽鬼のような底暗い眼で、妻ではなく虚空に虐殺を見ている男の孤絶感。陳腐な対比をひとひねりしたつもりだろうが、ならば不能になるだろうよ。いかにも無理矢理だ。セックスという人の営みさえ、イスラエル国家の存廃と不可分ではない、そういいたいのだ。そんな映画が仰々しく制作されて、極東の片隅で一人の映画好きが休みを半日潰して鑑賞する。アホと後ろからどつかれるべきだ。
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熱湯甲子園

2006-08-22 10:14:26 | ノンジャンル
決勝と再試合とも、ときどきカーラジオと帰宅してからのスポーツニュースで。しかし、もうラジオの実況ではほとんど場面が描けなくなっているのにショックだった。北朝鮮が核攻撃したというニュースを聞いても、ぼんやりしているだけだな、これでは。オシムに代わっても、相変わらず「無脳サッカー」(オシムいわく)なのに、早実斉藤・駒苫小田中の投手戦は、一球一球が緻密な配球と絶妙なコントロールの頭脳戦だった。


バカの欺瞞のといわれても、90年余もやっていると高校野球にもたいした選手たちが出てくるものだ。前夜すでに用意してきたような、斉藤の勝利コメントに感心。「王先輩や荒木先輩も成し遂げられなかった夏の甲子園で優勝できた自分たちはすごいと思いました」の小憎らしさ。田中投手について、「同世代では最高の投手、でも自分も負けないよう粘りました」。伝統は乗り越えるものであり、最大の敬意は最強の敵に捧げられるもの。そう語っている。傑出した高校野球選手というだけに限らず、同世代の高校生の最良の一人ではないか。プロ選手もこれくらいのコメントをいつもいってほしい。

その田中から斉藤への一言。「自分より2枚も3枚も上でした」。竜虎相撃つというか、星飛雄馬と花形満が40年経って出現したというか、そういえば、鹿児島工高のムードメーカーの今吉君は、さしずめ左門豊作だな。自らに気合いを入れる雄叫びと不適に笑って打席に立つところなんか、梶原一騎センセが存命ならサングラスが鼻から滑っただろう。貧しい貧しい苫小牧の人たちの応援を背負って力投した田中投手がかわいそうな気がしたが、20、21日の日中、街に人影を消した名勝負だった。
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盆休み

2006-08-17 06:46:16 | ノンジャンル
3日間だけの盆休み。老親に会いに帰る。申し訳ないが、イギリスのテロ事件の影響で空港検査の大混雑、首都圏大停電にひがみねたみの拍手。老親は7時には寝てしまうので、何冊か本が読めた。

『私家版・ユダヤ文化論』(内田樹)。名著である。「ユダヤがわかれば世界がわかる」ではなく、「ユダヤはわからないが、なぜユダヤがわからないかをわかろうとすることで、世界はわかる、なんとなく」ということか。わかるということは、わからないことを確認していくことだ、というよくいわれるご託を、ご託にとどめず、30年かけて実践した。凄い。「悪人正機説」はユダヤ教からきたのではないかとふと思う。

『愛のひだりがわ』(筒井康隆)。ハリポタやナルニア国物語など、最近のジュブナイルブームへの批評的な秀作。

『失われた男』(ジム・トンプソン)。大傑作。「ダイムストア(安物雑貨屋)のドフトエフスキー」と命名されていたとか、ずいぶん以前から、偉大な作家と賞賛していた人がたくさんいるのがわかって、新発見のように興奮していたのが少し恥ずかしい。

『やがて哀しき外国語』(村上春樹)。宗教話をはじめる前の五木寛之や小説を書く前の沢木耕太郎に通じる根無し草的心地よさ。ただし、アメリカで暮らし続ける骨太さは前二者とは異なる。

『いかしたバンドのいる街で』(スティーブン・キング」)。読んでからすでに読んでいたと気づく。どうしてよけいなことばかり書き連ねているのに、すっきりとした物語になるのだろう。再読に耐える名人芸。
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