コタツ評論

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流し読み朝日新聞 2

2020-09-30 23:40:00 | ノンジャンル
この日の朝日新聞のなかで、もっとも面白かったのが、「法の番人」インタビュー記事の下段、「多事奏論」だ。今回、「流し読み朝日新聞」を書いてみようと思ったのも、この高橋純子編集委員のコラム<菅政権発足 主権者には力がある、夜露死苦。>を読んだからだ。

この見出しだけでも、「どこが面白い?」と思うだろう。そのとおり、くだらない。くだらないところが面白いというのでもない。その本文も、安倍政権を「ヤンキー政治」と揶揄して、その類似点をあげつらい、ヤンキーの愚かしさやはた迷惑さが強調されているだけ。

友だちにはもちろん、リーダーに仰ぐなんてとんでもないヤンキーが安倍総理だった。だとすれば、彼の高い支持率を支えたのはヤンキー国民だったことになる。いや、ヤンキーを擁護したいのではない。見下していることへ反発しているのでもない。

「徹底した実利思考で、『理屈をこねている暇があったら行動しろ』というのが基本的なスタンス。主張の内容の是非よりも、どれだけきっぱり言ったか、言ったことを実行できたかが評価のポイント」という「ヤンキー主義」に、かねてから気になっていた話題の「ブルシット・ジョブ」を思い起こしたのだ。

安倍元総理を例外として、ヤンキーの多くは建設や工場、物流や流通労働者、農漁業従事者、あるいは職人や店舗で接客する、「現場」の人々であり、「会議室」の人ではない。

モノを作ったり、直したり、運んだり、生産に直接に関わる仕事がある一方、会議室やデスクでああでもないこうでもないと理屈をこね回して、結局は何も実行しない、日本の低い生産性を支えている、広い意味で管理の仕事がある。

そして例外なく、後者のブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)のほうが給料は高く、社会的な信用も厚い、というより、前者の「人に役立つ仕事」の稼ぎの上前をはねるだけでなく、さらに現場に低賃金と労働強化を押しつけて、浮いた分を自分たちに再分配しているといえる。

著者のデヴィッド・グレーバーがそんなブルシット・ジョブの筆頭に挙げたいくつかの職種の一つである広報調査員を経てきた者として、ブルシット・ジョブがときにひどく気が滅入る仕事であることに喜んで賛同する。クソみたいな気持ちに耐えるのが代償なのかもしれない。

くらべて、「気合とノリさえあれば、まあなんとかなるべ」というヤンキーの暢気さは羨ましいくらいだ。「『いま、ここ』を生きるという限界があって、歴史的スパンで物事を考えるのが苦手です」という指摘は、ヤンキーの「地元主義」を指すのだろうが、地元が会社や部門に変わるだけで、同様な「ムラ社会」に会議室やデスクの人も生きているといえよう。

あるいは、ヤンキーにマネジメントのマインドやスキルまで求める無理難題を課して、そのための教育と研修プランを策定し、それぞれが自己啓発の意欲を高めるチェックリストを作成し、といろいろな仕事を増やして従事するのが、それこそブルシット・ジョバー(クソどうでもいい仕事人)の本領だろう。

つまり、ヤンキーは少なくとも「人に役立つ」仕事に携わり、ブルシット・ジョブの人ではない。そして、政治家一族の世襲議員である安倍前首相の出自はヤンキーと無縁である以上に、羅列されている「ヤンキー主義」とも遠く隔たっている。

前出の<「法の番人」退任を語る>の山本庸幸さんも、「(安倍首相は)直接的に指示するのではなく、回りまわってそういう方向に話を持っていって最終的に実現させる。非常に政治的なのです」と語っている。そんな政治的なヤンキーなどいるわけがない。

言い遅れたが、ヤンキーの「徹底した実利思考」や「行動主義」とは、ノンシャランな「気合とノリ」という開き直りは、彼らの現場仕事から学んできたものなのだ。利己主義や自己顕示欲と結びつくのはその後という順序だ。

ひきかえ、安倍前首相はどうか? 国富や国益を損なうこと甚だしく、国会質疑からは逃げ官邸に引きこもり、そのくせバラマキ外交には喜んで出かける。「徹底した実利思考」や「行動主義」とはとうてい呼べない事例は数多ある。

そのいっぽう、「モリカケ」のように身内を贔屓する利己主義と「アベノミクス」や「外交の安倍」を誇示する自己顕示欲には抜かりない。いったい、どこがヤンキーに似ているというのか高橋純子さんは。

パチンコと酒に目がなく、タトゥーをしていようと、ヤンキーは手堅い仕事人だ。そうでなければ現場はたちまち立ち往生して回らなくなる。アベノマスクや電通の中抜き丸投げなどを数え上げるまでもなく、安倍前総理こそ、クソどうでもいいブルシット・ジョブの大頭目だろう。

念のために付け加えておくと、いうまでもなく、「人に役立つ仕事」をしている人すべてがヤンキーではない。ただし、その「ヤンキー主義」は言い出しっぺである斎藤環がいっているように、ブルシット・ジョブの人も含めて「社会に広く浸透している」、そこが肝なのだ。

斎藤環
が「安倍ヤンキー政権」と安倍首相をダシにして、「ヤンキー主義」という社会思潮を考察しようとしたのに対して、その反対にこのコラム筆者は、ヤンキーをダシにして矮小な安倍政権批判をしようとした。他人のふんどしを後ろ前につけたようなものだ。

というわけで、残念なコラムになってしまったといえる。ただ、このコラムの冒頭に一片の詩文が置かれているのをみると、筆者はもっと深く本質的なことを書きたかったのかもしれない。

ぼくたちにとって 絶望とは/ある何かを失うことではなかった、むしろ/失うべきものを失わなかった肥大のことだ。(長田弘「無言歌」)

失うべき人心を失わず肥大化した安倍政権といいたいなら、支持した国民の責任とともに、それを許したメディアとジャーナリストの責任をも問わねばならない。いや、順序としては、自らの責任を問うのが先だろう。

とはいえ、この詩文を教えてくれた高橋純子さんに礼を言いたい。私も彼女のように、「わけもなくただ、この一節を反芻」することになりそうだ。

最後は28面の水曜掲載<探究>欄の<星の林に>を取り上げたい。

「米くるヽ友を今宵の月の客」(芭蕉)を入り口に、これぞ文芸の醍醐味を味あわせてくれる。ぜひ、筆者のピーター・J・マクミランさんには、「天声人語」を書いてもらいたいものだ。

ほかにも、31面文芸欄の「語る」で角川春樹がまだ元気そうに自慢話をしていたり、文芸時評では映画監督の吉田喜重が小説を書いていることを知ったり、巨人の菅野が開幕12連勝をしていたり、いろいろなことを知ることができた。たまには新聞も読んでみるものだなと思った、まる、

(止め)

流し読み朝日新聞 1

2020-09-30 23:22:00 | ノンジャンル
2020年9月30日(水)、ひさしぶりに朝日新聞を読んだ。なかなか読ませる記事が多かった。

1面社会のトップは、前日発表されたNTTのドコモ株のTOB(株式公開買い付け)を受けて、マーケットシェアはトップを続けているにもかかわらず、営業利益はKDDI(au)、ソフトバンクの後塵を拝して大手キャリア3位に低迷するドコモを完全子会社化する見通し。

という内容なのに、<携帯料金下げ対応へ>なる見出しでは整合しない。菅新政権が「携帯料金の大幅値下げ」を打ち出し、政策の「目玉」としていることを受けて、NTTも「右へならえ」しました、とすぐにも値下げが実現しそうな印象を与える「見出し」をつけている。

4.3兆円もの費用がかかるTOBをそんな短期間に決定できるはずももなく、見出しを付ける整理部記者が新政権に「忖度(そんたく)して提灯を持ったぐらいなことだろう。

昔、広報マンだったころ、企業のスキャンダル防衛のために、大手新聞の整理部記者を集めて一席設ける企画を立てたことがあった。見出しに少しでも手心をくわえてもらおうという下心からだ。初めて招かれた「日陰」の整理記者たちは、はじめ怪訝な面持ちだったが、みな嬉しそうだった。

閑話休題。ほんとうのトップ記事は、<基準地価3年ぶり下落>だろう。新コロで外国人観光客が皆無になったうえ、在宅勤務が増えたおかげで、高騰していた都心の商業地やオフィス需要の低迷が裏づけられた調査だ。

ただ、0.6%(商業・工業・住宅地の全用途平均)の下落よりも、不動産を「買わない」「借りない」需要減の現状ははるかに深刻だろう。さらに価格が下落しても、雇用がそれを下回るために、不動産を「買えない」「借りられない」国民層は増大しそうだ。

さて、朝日新聞の1面といえば、<天声人語>である。今回、TV欄裏の35面下段左の広告で初めて知ったが、「天声人語書き写しノート」なるものを300円+税で売っている。

筆写することで、「一文字でも多く覚えて記憶力を鍛える!」脳トレ版と唱っているから、受験生から認知症予備軍の高齢者まで狙った商売だ。しかし、筆写して熟読玩味に値する文章は、28面の<水曜掲載 探究>に掲載されているので、これについては後に紹介する。

1面をめくって2面は、新コロが全世界で100万人の死者を数えた、たった9か月間で、という解説記事。

3面は、<北方領土 見えぬ展望>。小見出しが<「前政権は失敗」菅政権内に不満>。そんなことは「現政権」のうちに書くべき。さらにめくって4面は、<自民党人事 二階派重用あらわ>など人事記事が中心だが、<首相補佐官に柿崎氏ー共同通信前論説副委員長>のコメントにちょっと注目。

「反対」「中間」「賛成」という並びコメントのどれもがとんちんかん。「直近まで権力監視をしていたジャーナリストが、政権を守る立場に一転して入るのは特異だ。首相や柿崎氏本人は考え方を説明すべきだ」(音好宏・上智大教授メディア論)と「米国では有能な人が報道側と政府側を行ったり来たりすることはよくある。退社してから関わる分には問題はないと感じる」(横江公美・東洋大教授)がその反対と賛成。、

柿崎氏がどのようなジャーナリストだったか知らないが、安倍政権の7年間、マスメディアが「死んだふり」だったことは異論の余地がないはず。「忖度」するメディアと「権力監視」するジャーナリストを使い分け、トランプと丁々発止するアメリカのメディアと日本の「忖度」メディアを同列視するご都合主義に呆れた。

また、「退社してから関わる分には問題はないと感じる」の「と感じる」に笑った。9月末に共同通信を退社して10月1日から就任するのは、「横滑り」という。ふつうなら「という」だが、「と感じる」に勘弁してもらったか、記者が「忖度」したのかもしれない。

5面は、佐川急便の全面広告。6面経済は、<飲食店 グルメサイト離れーコロナで経営難 手数料が重荷に>。ぐるナビや食べログが掲載契約店数を激減させているという記事だ。広告掲載料のほか、グルメサイトを経由して予約した場合、一人当たりの送客手数料まで取るのだから、さもありなん。

新コロ下の店舗の経営難を背景としたグルメサイト離れのなか、グルメサイト利用のみクーポンが発行される<GoTo イート「仕組み疑問」>と指摘するのは、記者ではなく送客手数料を無料にしているトレタというグルメサイト。もっとほかの代案や対案について取材がほしかった。

飛ばして13面オピニオン。<「法の番人」退任を語る>がこの日の朝日新聞でいちばん読み甲斐のある力作だろう。<人事の不文律破り 異論遠ざける交代 安倍政権の手法>として、元内閣法制局長官・元最高裁判事の山本庸幸(やまもとつねゆき)さんに聞いている。

「集団的自衛権の行使」を違憲としてきた内閣法制局の長官をクビになった話だ。

「官房副長官の杉田和博さんから、『君には辞めてもらうから』と直接言われました。『ああ、そうですか』と答えてから気になって、『後任は次長ですね』と念のため聞くと、『小松一郎だ』というので非常に驚きました」

と高飛車な杉田和博は議員ではなく元警察官僚である。6歳くらい年長だから、官僚の先輩とはいえ、「法の番人」に対する君呼ばわりや呼び捨てなど、内閣官房の威勢を示しておもしろい。

山本庸幸さんは、内閣法制局長官をクビになった後、最高裁判事に任命されている。その就任会見で、「集団的自衛権の行使容認は憲法を変えないとできない」と発言して、菅官房長官から批判されたという。

いつに変わらぬ立派な人物のようだが、こうした記事は安倍政権中に出すべきではなかったか。安倍政権後だからこそ出せた、という事情もわからなくはないが。

(続く)



今夜は、尾崎紀世彦

2020-09-22 10:10:00 | 音楽
「また逢う日まで」が大ヒットした頃、あまり興味を持てる歌手ではなかった。声を張り上げるところが属国臭く、それもカントリーぽくて、ともかく古臭いスタイルに思えた。サビをさらりと流すところも物足りなかった。

こちらが相応に年を食ってみると、いずれも気にならなくなった。どんな曲でも軽々と歌いこなし、洋楽に日本語歌詞を載せても自然に聴かせる、とても得がたいシンガーであったことにあらためて気づかされた。

惜しむらくは、COVER曲の多くにおいて、編曲・伴奏に安手なものが多いことだ。歌唱に癖やケレンがないのだから、編曲はもっとメリハリが効いていなければ。「また逢う日まで」が派手なイントロを必要としたわけだ。

結局、プロデューサーやディレクターに恵まれなかったのかもしれない。ジャンルは分かれていても「歌謡曲」でなければ受け入れられない日本では、「ハワイアン」がルーツという資質の違いも大きかっただろう。

この胸のときめきを 尾崎紀世彦 UPC‐0246


ダスティ・スプリングフィールドやプレスリーのように劇的に歌い上げない。ただ、ダスティ・スプリングフィールドやエンゲルベルト・フンパーディンク、トム・ジョーンズくらいのクオリティのアレンジで歌わせたかった。

レット・イット・ビー Let It Be - 尾崎紀世彦
https://www.youtube.com/watch?v=EMdhDf40eVE

少なくともポール・マッカートニーより上手い。歌唱だけをとりあげて云々するのはあまり意味がないが。

明日に架ける橋 尾崎紀世彦 UPC‐0016


いや、どの動画のコメント欄にも、「キーヨ」の歌唱を絶賛するファンの声が多いので。オリジナルよりずっと上手いじゃないか、といいたくなるその気持ちはよくわかる。

尾崎紀世彦 好きにならずにいられない
https://www.youtube.com/watch?v=AOjdGYllcHU

あなたのすべてを
https://www.youtube.com/watch?v=zDN0Dq6AZhY

尾崎紀世彦 やさしく歌って 1974 / Killing Me Softly with His Song
https://www.youtube.com/watch?v=Y1x2EhoZaOE

尾崎紀世彦コンサート モノマネ集


こんなに楽しい人だとは知らなかった。

尾崎紀世彦 I LOVE YOU (尾崎豊)2011


病気のせいか、声が出なくなってハラハラします。あれほど、スムーズだったファルセット転換が!「思いを込めて」歌わないスタイルでしたが、寄る辺なき青春の不安とぬくもりを描いたこの歌に、晩年の不安定な歌唱が寄り添うように聴こえます。

(止め)

大坂なおみ賛江

2020-09-15 07:13:00 | 政治

ラッパーの恋人(右端)と一緒に

「日本の誇り」といえば少しく適切ではないだろう。アメリカ映画を観ていると、親が子に、兄や姉が弟や妹に、年長者が若輩に、「お前を」「あなたを」「君を」「誇りに思う」という場面によく出会う。「誇らしい」という満足感とともに、「未来を託す」という思いが込められているのだと思う。人から人へ贈る「誇りに思う」という表現も内心も日本人には馴染みがない。

黒人差別に反対する一連の「政治的発言」と試合ボイコットを巡って様々なプレッシャーを受けながら、全米オープンを連覇する偉業を成し遂げた「恥ずかしがり屋」の彼女に、日本のTV記者が発した第一声は、「いま、何が食べたいですか?」だったように、ほとんどギャグに等しい卑小さを装うのはなぜだろうか。そのくせ、彼女を「日本の」「日本人の」「誇り」とはいいたがる。

卑小と尊大の同居。そこには、過去と現在しかなく、未来という視野がどこにもない。一方、アメリカには、未来志向ばかりがありすぎるようだが、それを是正して過去と現在を織り込んでいるのが、「人種差別反対」に代表される市民運動なのかもしれない。

残念ながら、アメリカという「世界」の未来を担う一人と認知されはじめた大坂なおみさんの寄稿と記事をいくつかご紹介します。記事はいずれも良記事ですが、「悪貨が良貨を駆逐している」日本のジャーナリズムでは、スポーツ以外の政治や社会・経済などではなかなか受け入れられそうにありません。以下の言葉など、日本人に向けられたもののように思えます。

「人種差別主義者ではない」ことだけでは、十分ではないのです。私たちは「反人種差別主義者」でなくてはならないのです。

大坂なおみが特別寄稿。ジョージ・フロイド事件の数日後に、私がミネアポリスでデモに参加した理由
https://www.elle.com/jp/culture/a33292072/naomi-osaka-op-ed-george-floyd-protests/

アメリカの賛同・賛辞文化は日本よりはるかに優れていますね。

「この勝利は自分のため この闘いはみんなのため」NIKE広告

「あなたが受け取ったメッセージは何ですか?」22歳の女王・大坂なおみは米国でどう評価されているのか
https://number.bunshun.jp/articles/-/845038

惨敗したショックで大泣きし動揺している15歳の「天才少女」をインタビューに誘ったときから、すでに真の「女王」だったのですね。

フェデラー「あれこそがテニスさ」大坂なおみがガウフに見せた敬意【全米オープン】
https://number.bunshun.jp/articles/-/845029?page=4

(止め)


風の歌を聴け

2020-09-04 22:49:00 | 政治
反知性主義者たちの肖像
http://blog.tatsuru.com/2020/09/03_1232.html

正直、「反知性主義」とは、「知識人VS大衆」、「カシコとアホ」の争闘と思っていたので、どうひいき目にみても、「大衆」かつ「アホ」に近い私としては、なんとか「反知性主義」の肩を持てないか、ひそかに呻吟しておりました。

頭でっかちに対する直感・情動・肉体の反撃ではないかとか、ヨーロッパ的な知性に対する酔っ払い的なツッコミとか、あるいは、幸島のニホンザルのイモ洗いのライアル・ワトソン「仮説」のようなものではないかとか、いろいろ考えたものです。

ローリングストーンズの曲名まで駆使した、この浩瀚な論考を読みながら、「反知性主義の知識人VS知性主義の知識人」の比較に、少しく寂しい思いを味わいました。何のことはない、私には関係がなかったのです。

ふむふむ、なるほど、そうだったのか、と読んできて、自分には関係ない論件だったのかあ、ではちょっと口惜しいので、にしても、やっぱり、「知性主義の知識人VS反知性主義の知識人に踊らされるアホ大衆」という「知識人VS大衆」「カシコとアホ」の構図は残るじゃないかと脳内ツッコミをしてみたり。

しかし、そうではなかったのでした。筆者の「知性」の定義を読めば、それが頭のよい個人や集団が所有したり、属したりするものではなく、今を生きる私たちだけのものでさえないことが、懇切に説かれています。

ようするに、幸島のニホンザルのイモ洗い伝搬のライアル・ワトソン「仮説」のようなものが、筆者のいう「知性」ではないかと。この「ようするに」という半知や、あくまでも自説にこだわるところなど、典型的な「反知性主義」でした。

開けられた窓にレースのカーテンが揺れている。空の青さや雲の白さ、風のそよぎを感じられる文章です。何よりそれが筆者の思考や主張を裏づけているのではないでしょうか。

(止め)