コタツ評論

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唇の端から血をたらしながら、何か一言いって死ぬ映画

2012-08-29 03:14:00 | レンタルDVD映画
子どもの頃、こんな「ごっこ遊び」に熱中したのは、私だけではないはずだ。女の子の膝枕に頭を乗せて、唇の端から血を一滴たらしながら、「暗くなってきたぜ、ゴフッゴフッ、ガクッ」と死んでいく殺し屋、あるいはギャング。銀玉鉄砲を片手の銃撃戦あり、裏切りありの抗争劇のシナリオを口伝するのも、立ち回りを振付けるのも、膝枕を提供するヒロインを指名して、「死なないでえ~」というセリフ指導をするのも、もちろん主役の殺し屋、あるいはギャングを演ずる私だ。

赤インクを調達してきて、口に含んでおいて、唇からたらす練習だって、前夜に余念なかったものだ。救急箱から包帯をひと巻き持ち出して、赤インクを滲ませて頭に巻き、利き腕を余りの包帯で吊った敵役と、新聞紙を丸めて固めたナイフで決闘したこともある。おかげでどれほどお袋の財布から金をくすねたか。ときには500円札もあったくらい。敵役や悪役、端役、エキストラ諸君に、駄菓子屋で飲み食いさせるギャラを支払うためだ。唇の端から血をたらしながら、何か一言いって死ぬ。それだけがしたかった。いまから思うと、身悶えするほど恥ずかしい思い出だ。

しかし、それを大人になっても続けているのが、いわゆるヤクザ映画、アメリカではギャングやマフィア映画、フランスならフィルムノアール(暗黒映画)なのだ。そして、黒澤や小津の作品以上に、日本のB級アウトロー映画は、世界の映画界に影響を与えてきた。香港映画についてはよく知られているが、タランティーノをはじめとしてアメリカ映画にも、かつての日活アクション映画や東映現代ヤクザ映画の影響を受けた、「唇の端から血をたらしながら、何か一言いって死ぬ」だけの映画がときどき企画される。これもその一本。



THE HITMAN チャーリー・バレンタイン
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=342521

「唇の端から血をたらしながら、何か一言いって死ぬ」映画は、「唇の端から血をたらしながら、何か一言いって死ぬ」奴ばかりが登場して、その「唇の端から血をたらしながら、何か一言いって死ぬ」奴に感情移入する映画です。最初から最後まで、決まりきった展開と場面が続くわけですから、見どころはひと癖もふた癖もある俳優たちの面構えと、いかにもな演技合戦です。

私もいつも主役ばかり演っていたのではなく、悪役や敵役もかなりこなしました。ギャラに限りがあるというだけでなく、たまには他に譲らなくては怒るやつが出てきますし、悪役とはいろいろな殺され役でもあるので、それなりに死に工夫ができるのは楽しいものです。「仁義なき戦い」を観たとき、東映の大部屋俳優にひとしい端役たちが、チンピラヤクザに扮して大仰に死んでいく場面は、いかにも楽しそうでした。子どもの「ごっこ遊び」と同型の楽しさがあるから、「唇の端から血をたらしながら、何か一言いって死ぬ」映画は、世界に伝染していくのでしょう。

主役の老ギャング・チャーリー・バレンタインを演ずるレイモンド・J・バリーをはじめ、キース・デヴィッドジェームズ・ルッソスティーヴン・バウアーといった悪役俳優が嬉しいですね。キース・デヴィッドは、「レクイエム・フォー・ドリーム (2000)」でジェニファー・コネリーを犯す黒人麻薬密売人でした。スティーヴン・バウアーは「スカーフェイス」でアル・パチーノの相棒でした。メラニー・グリフィスと結婚していたとは! ジェームズ・ルッソのこの怖い顔はどこかで観ているはず。
キース・デヴィッド
右がスティーヴン・バウアー、かなり太りました。ジェームズ・ルッソ


冒頭、なんと日本の歌謡曲が流れます。キャバレーシーンの代わりに、ポールダンスクラブが出てきます。まさに、日活アクションか東映ギャング映画です。
Pink martini - Taya Tan | Live on Later with Jools Holland

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やれやれ

2012-08-29 01:27:00 | 政治
竹島をめぐる韓国の「軽挙妄動」に、日韓通貨スワップ協定の縮小や破棄で対抗せよという声がある。日韓通貨スワップ協定とは、韓国通貨ウォンが暴落したときに、暴落前の一定基準で円に両替する取り決めだという。つまり、ウォンを円が保証するわけなので、ウォンの暴落は防げるというわけで、その協定枠は現在700億ドル、日本円に換算して約5兆6000億円だそうだ。一国の通貨危機は、周辺諸国の経済に悪影響を及ぼす恐れがあるから、いわば経済的な安全保障策のひとつなのだろう。この日韓通貨スワップ協定を竹島問題にからめて、韓国側に反省を求め、譲歩を引き出す手段に活用せよという議論らしい。

日韓通貨スワップ協定の必要性について、私はよくわからない。協定の縮小や破棄によって竹島問題を前進させる見込みがどれほど早まるのか、私にはよくわからない。ほとんど知識がないから、疑問の持ちようもないというのが正直なところだ。ただし、相手国を経済的な窮地に追い込むという方法は、あまり好ましい結果を呼び込まないのではないか。これについては、わずかながら知識がある。2010年、尖閣諸島の領有問題にからめて、中国がレアアースの日本向け禁輸をした際、日本から世界から批判の声が起きた。また、先の大戦では、アメリカの日本向け石油の禁輸策により、追いつめられた日本は戦争に突入した。

やられたらやりかえせ!
やられるまえにやれ!
やっちまえ!
やれ!
やっ
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虎の尾を踏んだのはどちらか?

2012-08-26 01:01:00 | 政治


もうひとつ、野田首相記者会見で見逃してはならないのは、李明博大統領の天皇謝罪要求発言について触れなかったことだ。これは賢明なことだったが、野田首相が何をいったかより、何をいわなかったかに、やはり韓国側も注目したようだ。

日本に反韓、嫌韓の空気が一気に高まったのは、李明博大統領の竹島訪問より天皇への「不敬発言」によるものだ。そうした「見方」が韓国の政府高官筋やメディアから出てきている。たしかに、日本のメディアの連日の韓国叩きや国民の憤りは、ほぼこれを裏づけている。島根県民以外は、竹島についてほとんど関心などなかったのだから。

【記者手帳】天皇への謝罪要求、何が間違っているのか
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/08/20/2012082000968.html

ただし、この「見方」は、天皇の戦争責任問題という最終的なカードをめくる布石や伏線となり得る。先の戦争当時、韓国や北朝鮮という国はなく、「内鮮一体」としてともに同じ日本人だったのだから、日本の戦争責任を問う立場や資格はないという主張は、韓国にはもちろん形式論として斥けられ、中国をはじめ他のアジア諸国からも受け入れられないだろう。

日本の天皇は、歴史的に国際法的に戦争犯罪人であるという主張がアジアの一角から出されたとき、日本の天皇に戦争責任はないと、はたして野田首相は否定できるだろうか。日本の天皇に戦争責任ありというのは形式論であり、実態や実際は違っていたと論理展開できるだろうか。まさか、極東軍事裁判に昭和天皇が起訴されなかったことを論拠にするわけにはいくまい。

アメリカの極東戦略の都合により、象徴天皇として残ったことが、天皇の免責や免罪として承知されたのは日本国内だけのことではないか。戦後の日本が平和国家であることは認められるかもしれないが、天皇の戦争責任について、アジア諸国から免責や免罪の同意署名を得たことがあるだろうか。あるいは得られるだろうか。

「天皇謝罪発言さえなければ」となかば嬉しげに韓国批判の口火を切る人が少なくない。そうした「庶民感情」に引きずられるほど、まさか民主党政府も愚かしくはないだろうが、「虎の尾を踏んだのはどちらか?」という風向きになってきているのではないか。日本国内ですら、天皇の戦争責任については、ほとんどタブー扱いなのに、日本側に駁論の用意があるとはとうていあるとは思えない。


竹島問題に関する野田親書の受け取りを、韓国が拒否し返送してきたのに対し、玄葉外相は、「非礼」という言葉を使った。「天皇謝罪発言」についても、「非礼」という言葉を使っていた。不用意な言葉遣いだと思う。分けなければいけない問題について、同じ言葉を使ったがために、一方に顔色が変わったことを見抜かれてしまっている。

泥鰌は今夜も、臍(ほぞ/へそ)を噛もうとむなしく腹をさすっているだろう。
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久しぶりの政権交代効果

2012-08-24 23:20:00 | 政治



今日、野田首相は、中韓との領土問題に断固たる態度を表明する異例の記者会見を開いた。まず、竹島と尖閣諸島が日本の固有の領土である具体的な根拠を示しただけでなく、韓国と中国の領有権主張に根拠が乏しいことを併せて指摘したのがすばらしい。

記者会見の見本のような上出来だったが、記者側からどんな質問が出て、それに野田首相がどう答えたのかが不明であることが残念だ。また、朝鮮日報など韓国側のメディアが出席していたのか、質問が出たのかもわからない。できれば、海外のメディアも呼んで、質問に答えることができていたら、もっと効果的だった。

竹島も尖閣も、自民党時代の悪しき遺産である。中韓への莫大な円借款やODA、その他支援という名の国民の税金を原資とする利権を、自民党の政治家たちは中韓と分け合ってきた。たとえば100億円を渡して10億円を戻してもらってペコペコし、「毒まんじゅう」を食った弱みを握られているために、日本の領土に手出しされてもヘラヘラしている図が繰り返されてきた。

民主党は第二自民党といわれ、たしかにその通りなのだが、一点、自民党と異なるのはこうしたズブズブの利権関係がないことだ。別に、民主党やその面々が清廉潔白なのではなく、まだ利権構造を築くまでに至っていないというに過ぎないが、政治権力が交代したおかげで起きたことのひとつに間違いない。この間の民主党のあまりのていたらくに、政権交代そのものに価値があることが忘れられてきた。

いつの日か、アメリカに対して直接(傍点強調)、こうした「断固たる態度」を示す首相が出てくることを願う。それまでに、何回、政権交代が必要だろうか。
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恋に疲れた女ばかりじゃない、京都わ

2012-08-20 00:00:00 | 新刊本
そうそう、この本を紹介するのを忘れていました。リンク先の感想にほとんど同感ですが、「Lady Samurai」という着眼は、「戦略的セルフオリエンタリズム」を越えていると思います。

『ハーバード白熱日本史教室』(北川 智子 新潮社)
http://book.asahi.com/reviews/column/2012081200004.html?ref=book



本書でも「Lady Samurai」の代表とされている太閤秀吉の妻ねね、後の北政所(ほくせいしょではなく、きたのまんどころと読みます、そこの若い衆)に宛てた織田信長のユーモラスながら情理を尽くした手紙を読んだことがあります。「あの禿ネズミ(秀吉のこと)の女好きは困ったものだが、病気と考えて内助の功を尽くしてくれい」という内容で知られていますが、その前段として、ねねが足繁く信長周囲に愚痴や憤懣を漏らしていくので信長の知るところとなり、一筆啓上となったようです。つまり、ねねにはあの信長を引っ張り出す政治力があったわけです。すでに、若きねねの頃から。

それが北政所となれば、いまや大名の福島正則や石田光成も、小姓の頃から知っている子どものようなもの。手紙で注意したり、呼びつけたり、あるいは彼らから相談を受けていてもおかしくありません。敵も味方も昔なじみ顔なじみ、ちょっと立ち寄りました、茶など一服所望といって、打ち解けた話ができるのは、女房以外に適任はいません。また、戦国時代の武将とは、今日でいえば、暴力団の親分衆のようなものと誰かが書いていた記憶があります。すると、山口組三代目姐が思い浮かびます。姐さんの前では、山口組の若頭も親分衆も、呼び捨てか、ちゃん付けです。

武士道が形而上学的になるのは江戸時代から。鎌倉時代の地侍や織豊時代の武将たちは、ずっと地場の生産や交易に近かったはずですから、一族郎党の家計を束ねる女房はパートナー、それも優れたパートナーではなくては勤まらなかったかもしれません。「Lady Samurai」の視点を導入すると、硬直した武士道日本史が風通しのよいフラットな感じになります。NHKの大河時代劇では、やたら、妻や側室、娘などがしゃしゃり出てきて、「戦(いくさ)はきらいじゃ」「男は勝手なもの」「私は好きなように生きたい」などと、戦後民主主義的な駄弁を弄するのにうんざりしていましたが、あるいはもしかしたら、「Lady Samurai」の兆候のひとつなのかもしれません。

戦国武将の妻や側室たちは、もともと政略結婚の道具だったのですから、はじめから政治的な存在と考えれば、そのなかには秀吉の妻ねねのように、じゅうぶん政治家といえるほど成長を遂げた女もいたはず。そういうくっきりした視点の「大河時代劇」なら、ホームドラマの焼き直しにならず、歴史好きの男も楽しめるでしょう。いきなり、正統な日本史に「Lady Samurai」は無理でしょうから、手はじめには映画や演劇、TVドラマ、その原作となる小説にそんな題材がほしいものです。


北政所と彼女が祀られている京都東山の高台寺参道

さて、ほんとうに「Lady Samurai」が武士の陰に活躍していたなら、その資質とは何で、どんなことだったでしょうか。現代に「Lady Samurai」を見出すとすれば、たとえば、本書の著者北川 智子さんのような女性だったのかもしれません。男がする刻苦勉励とは違って、もっとまっすぐ伸びやかに努力し続ける資質を持つ女性が「Lady Samurai」だった気がします。いわゆるエリート女性ではないけれど、めげず臆せず、試行錯誤を重ねて、ハーバード大学1の不人気講座日本史を、随一の人気講座にするまでの話です。さらっと書いていますが、理学から歴史学へ転向など相当な努力の末のことです。いろいろな才能がありますが、努力を続けられる、努力が苦にならない、そういう才能もあるのだなとあらためて感心しました。

何匹目か知らないけれど、こういう泥鰌なら歓迎です。サンデル先生の本より、断然お勧め。
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