コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

スーパーサイズミー

2006-12-20 23:48:57 | レンタルDVD映画
マクドナルドの特大(スーパーサイズ)を1ヶ月間、朝昼晩食べ続けるという「人体実験」に挑みながら、アメリカの危険な食生活を追ったドキュメンタリ。俺も、ジャンクフードはカダラに悪いだろうなとは思っていたが、脂肪過多による高血圧症や狭心症などの疾病につながる、何か間接的な影響という認識でいた。この「人体実験」によると、肝機能に直に重大なダメージを与えるらしい。


中越地震の被災者たち、とくに山古志村の人たちは、TV画面で観る限りでは、いつもマイクに向かって、「みなさんが支援して下すってありがたいことです」と礼ばかりいっている。もっと、泣きくずれるとか、悲嘆にくれるとか、あるいは行政の対応の遅さに不満をぶつけるとか、報道陣も最初のうちはそんな反応を期待していた節があったが、たぶん誰に聞いても莞爾と笑顔を浮かべるくらいなので、最近は落胆するのもあきらめたようだ。「役所の人たちもよくしてくれて」と感謝したり、「自分たちで何とかがんばって」と村の家々を無償で修理したりするなど、「山古志村の人たちはいま」的な不謹慎ながらTV風物詩みたいな扱いになってきた。

それにひきかえニューオリンズ水害の被災民たちは、1年近く経ているのにまだ片づけすらしていず、マイクを向けようものなら、速射砲のように不平不満糾弾をまくしたて、おまけに食うに困っているというほとんどの人が小錦なみに肥満している。黙々と家屋の修理に取り組み、「大変でしょう、ご苦労でしょう」と水を向けられても、行政をはじめ、物見高いだけのマスコミ人にすら、感謝に口許を和ませる、痩せぎすで皺の深い山古志村の人たちとの違いに呆れ返っていた。慎ましく我慢強い働き者の日本人は偉いなと正直思っていた。

この『スーパーサイズミー』を観て、少なくともアメリカでは貧乏人=肥満なのだとわかった。政府と企業を声高に責め出したら、カストロの演説くらい徹夜ものだろうとよくわかった。それを知っても、山古志村の人たちは変わらず偉いが、アメリカにも『スーパーサイズミー』をつくる偉い人たちがいることがわかった。日本にはいない。どっちがどっちなわけではないようだ。日本の食品基準もアメリカに隷属されてしまったから、『スーパーサイズミー』は他山の石ではないはずなのだが。
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いろいろ書き飛ばした

2006-12-19 12:58:13 | ノンジャンル
諸物件をせっせと書き継ぎしているうちに、せっかくのお休みの半日が過ぎてしまった。よけいメチャクチャになった気もするが、更新これ恒心なり。
DVD映画も観たいものは出ていないし、何することもないのだが。

C・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』はどうなんだろう。栗林中将や日本兵が戦闘服ではなく、軍服で闘っていたり、批判もあるようだ。『さゆり』や『ラストサムライ』のようになっていると、長年のイーストウッド監督ファンとしては切ない。
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神の子どもたちはみな踊る 2

2006-12-17 00:40:00 | 新刊本
本日読了。

全部読まないで感想してはいけなかったな。

「UFOが釧路に降りる」
「アイロンのある風景」
「神の子どもたちはみな踊る」
「タイランド」
「かえるくん、東京を救う」
「蜂蜜パイ」


以上6篇の連作短編集だった。登場人物は固定していないが、その背景は「神戸の地震」である。正しくは「阪神淡路大震災」と呼ぶはずだが、阪神ではなく淡路は抜けて「神戸の地震」というところから、すでに村上ワールドがはじまっているようだ。
時制は「神戸の地震」が起きて間もない頃、主人公たちは直接の被災者ではなく、メディアを通した遠景として知り、しかし余震を感じるように、胸奥で疼く傷が同調して、そんな揺れる自分を見つめ直し再生の糸口をつかんでいく、といった様子が共通している。したがって、「神戸の地震」をモチーフとするひとつの物語であり長編小説と読むこともできる。

どの作品(章?)も、通俗的小説の型を採りながら、きわめて巧緻に内省的な人物像を造型している。「タイランド」や「蜂蜜パイ」などは五木寛之作品によく似た登場人物とディティールだ。五木寛之は才能豊かな作家だったんだな、と村上春樹作品をはじめて読んであらためて思った。俺が感心したのは、「かえるくん、東京を救う」「蜂蜜パイ」。荒川洋治さんが現代詩を書いてほしいと願ったのもなるほど、詩韻を踏んだように簡潔で美しい文章がある。

ただ、やはり、「神戸の地震」が瑣末に扱われていることに違和感は残る。「神戸の地震」が低い通奏音となって響いている、あるいは波紋のように遠くまで波頭を送っている、と要約したいのだが、違う気がする。「神戸の地震」もまた、玉手箱のような空箱や浜辺の焚き火、誰もいない野球場、動物園の熊の檻、といった瑣末な事象を、近寄らずに遠くから眺めただけのように思える。もちろん、それを不謹慎なと批判したいわけではない。ゴダールの『ベトナムから遠く離れて』を想い出した。

五木寛之にも、先の戦争や焼け跡、貧困、政治運動、その後の挫折など、同時代性に訴える遠景がモチーフとして使われていた。五木にとって、それらは抗いようもなく、つまり疑いようのない同時代性であり、繰り返し書かざるをえない大きな謎だった。そして、五木の同時代性にこだわった作品は、戦争、貧困、政治運動、挫折などが、「笑劇として登場した」後年の70年代に書かれ、正当な復権を求めようとするアナクロな意図をルサンチマン(感傷)に包むことで、売れた。

五木寛之の小説を買ったのは、五木寛之よりはるかに若年の戦無派世代だった。五木の同時代性はもとより、戦後の試行へのアナクロな復権への企みなど眼中になく、ただ感傷的な美文が心地よかったのだ。村上春樹には、「阪神淡路大震災」を「神戸の地震」と意訳してしまうように、まず、こう感じなくてはという同時代性の縛りがない。
何かの目論見や企みがそこに託されているようには、とても思えない。しかし、その感傷は五木作品と同様に、心地よい。

なぜ、村上春樹は、この連作を書かねばならなかったのだろう。「神戸の地震」は95年。奥付によれば、雑誌発表時は99年。そして、「911」は2001年。在米経験の長い村上が、「911」後に、「神戸の地震」に想を得たこの『神の子どもたちはみな踊る』を書いたなら、たとえば、「神の子どもたち」といった俺の疑問や心地悪さのほとんどに符丁が合う。

少なくとも、村上春樹にとって、「神戸の地震」と「911」はほとんど変わらぬ距離感の内に起きたことではないか。つまり、「神戸の地震」を借景として、多くの人々の心奥を揺り動かす、破壊と再生の「911」をはからずも予見したということか。「911」以前に書かれたにもかかわらず、「911」後のニューヨーカーを描いたように思えてしまう。優れた作家のセンサーが時空を超えて反応したのか、村上春樹の立ち位置から来るものなのか。

たしかに、TVの視聴者は、「阪神淡路大震災」とは呼ばず、ただ「神戸の地震」という場合が多いだろう。同様に、「アメリカ同時多発テロ」とはいわず、「911」というだろう。俺たちの世界認識とはそんなものだ。五木寛之の主人公なら、それは虚構だとその場を立ち去りデラシネとなるが、村上春樹の登場人物たちは、どこにも行かず留まると思い決める。

この連作短編中、五木のようなデラシネの感傷とは一線を画し、さらに力強い救済を描いて異色なのは、「かえるくん、東京を救う」だ。五木寛之はこんな小説は書いたことがない。人語を話す人間大の「かえるくん」が登場する拠りながら、「かえるくん」を創造した信金の取り立て係・片桐のエキセントリックな狂気にはリアリティがある。そして、困惑することに、片桐の狂気のリアリティをもっとも体現するのは、世界貿易センタービルに突っ込んだ「テロリスト」たちなのだ。

余談だが、関西のお笑い芸人と結婚するという藤原紀香は、「神戸の地震」の被災地に実家があり、救援ボランティアに参加した経験があるという話をラジオで聴いた。箱入り娘がファッションモデルになり、合コンではしゃいでいたが、救援活動を通して人を見る目が変わり、人生を意識するようになったという。

「軽薄な遊び仲間だった医学部の学生が懸命に働き出したり、いつもにこやかな近所のおじさんがペットボトルの水を1万円で売っていたり、ほんとうにびっくりしました。東京に出て、本格的に芸能界に入ろうと思ったのは震災の影響が大きいですね」




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ヤバい経済学

2006-12-16 00:24:54 | 新刊本
これも新刊。

(スティーブン・D・レヴィット スティーブン・J・タブナー 東洋経済新報社)

1800円。

すべての言説は嘘っぱち、数字とインディアンは嘘つかない。もとい、すべての言説は俗説、数字(データ)とインセンティブ(誘因)は嘘つかない、という好著。90年代のアメリカで犯罪が激減した理由は? NYのジュリアーノ市長が徹底した軽犯罪取り締まりをしたから? 東京都もそれに倣おうという声も上がった。歌舞伎町浄化だ、がんばれ石原都知事! あるいは、いじめ自殺が激増、どうなる学校と教育! そういう根拠なき言説に激しく同意してしまう前に読むべき本。世の中は悪くなっていない、むしろ昔に比べればずっと平穏で住みやすくなっているのだ、ああよかったな現代に生きてて、と胸をなで下ろせる本、でもない。
90年代、専門家の誰もが犯罪の増加を予測したが、青少年の犯罪は5年間で50%以上も減った。その理由として、さまざまな仮説や通説が取りざたされたが、実は誰も指摘しなかった中絶の合法化がその原因だった。貧しくて若すぎるシングルマザーが、たった100ドルで中絶できるようになり、犯罪に走りやすい家庭環境で育つ子どもを減らしたから、という身も蓋もない調査結果は、中絶賛成派にも反対派にも都合の悪い、つまりヤバい経済学だった。

しかし、現在、アメリカで中絶される胎児は年間150万人。それは、中絶されなかった胎児が成長して殺したかもしれない人間の数をはるかにはるかに上回る。「中絶の増加と犯罪の減少の交換条件は、ひどく非効率」という指摘をレヴィットたちは忘れない。結果オーライでいいわけないのだ。

経済的なインセンティブだけでなく、社会的なインセンティブ、倫理的なインセンティブを併せて、インセンティブをとらえるところに、ヤバさと説得力がある。犯罪減少-中絶増加説が優生学という批判を浴びたように。ほかにも、相撲の八百長立証や勉強ができる子の親についてなど、「面白い質問」への回答が経済学の分析手法を駆使して展開されている。

問題解決型云々とよくいわれるが、なるほど問題解決型思考とは「面白い質問」を提出することなのだなと納得。「専門家」の根拠なき言説と社会の通念を経済学という道具を使って解明していくレヴィットは、たぶん経済学を含めてどの分野においてもアマチュアを自認しているはずだ。専門家の世界には、「面白い質問」が深刻なほど不足しているからだ。

育児パラノイアに悩まされるほど親の子への影響が過大に評価されているが、これも根拠がなく、親より同世代の友人からの影響が子どもにとってずっと強い、など教育に関する「通念」を覆す調査も多い。たしかに、高学歴高収入の親の子が勉強ができる、にはDNA以上に強い相関関係があり、子どもの格差は生まれる前から決まっているが、親が子によい影響を与えられるという相関関係は薄く、その因果関係は調査分析からほとんどないといえるそうだ。

羨ましいのはレヴィットのような経済学者が名声を得ていること。上記のような調査研究が彼の本業であり、本書は経済学の啓蒙のための余技ではないのだ。どのトピックも学術論文として発表され、それが評価されて、レヴィットはアメリカではノーベル経済学賞に匹敵する名誉ある学術賞も受賞しているという。

学者になるために学問を学んだのではなく、自分が知りたいこと、謎に思えること、不思議なことに解答を見つけたいがために学者になり、「面白い質問」を探し考え続けているのだ。もちろん、日本にもそういう学者はいるだろう。しかし、そうではない学者が威張っているし、レヴィットのようにCIAのような政府機関や企業から、問題解決のために招聘されることは皆無だろう。

アメリカには竹中平蔵のような「専門家」が何千人もいて、政策を壟断した結果、レヴィットが出てきたのだろう。

http://www.freakonomics.com/blog/




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独白するユニバーサル横メルカトル

2006-12-15 23:58:54 | 新刊本
村上春樹『神の子はみな踊る』感想の続きを書こうと思っていたが-それは踵を履きつぶした靴に過剰な意味を見出す某キャスターと、焚き火や空箱といった瑣末で一見無意味なモノやコトに思わせぶりな流し目を送らせる村上春樹の近似を書くつもりだった-、この本を読んで書く気が失せた。





(平山夢明 光文社 1600円)

新刊だ。俺はホラーとかスプラッタを好む方だ。好きだと言い切るには、かなりの教養を積むべき分野なので、そういう。イギリスからクライヴ・バーカーが出てきたときには、その着想の新鮮さやグロテスク美にかなり驚いた。平山夢明はクライヴ・バーカーよりもっと凄い。というか、誰にも似ていない。一言でいって衝撃的。もしかすると、この分野では世界的な作家に数え上げられるのではないか、といった身の程を弁えぬ賛辞を贈りたくなるほど驚嘆した。

ただし、R指定だ。精神年齢を含めて。いや、できれば読まない方がいい。必ず悪い夢を見る。バタイユの『エロスの涙』に挿入された清朝末期の「凌遅刑」の写真を見て以来の気持ち悪さを俺は覚えた。あの写真が正視し難いのは、生きながら切り刻まれるという刑の残酷さにあるのではない。残酷な刑の一部始終をを取り巻いて見物している群衆が怖ろしいのだ。もちろん、その場に居合わせた100年前の中国の人々にも、受刑者や執行人だけでなく、見物する人々が見えていただろう。しかし、見物人のなかの一人としての自分は見えていなかっただろう。俺のように印画紙に固着された「自分たち」を見る恐怖から逃れることができた。まだ、他人事への「怖いもの見たさ」に過ぎなかったはずだ。

100年後に書かれた『独白するユニバーサルメルカトル』はそうはいかない。この本に書かれた残虐の数々について、俺たちは絵空事と読む。もちろん、それに間違いない。しかし、一方、俺たちは印画紙やフィルム、ブラウン管、モニター、その他膨大なテキストを通して、これまでの「自分たち」を見てきた事実がある。どんな事実か。想像したことは必ず実現してきたという事実だ。ドリームスカムトゥルーである。「人類」という概念は、「人類絶滅」という可能性の事実から生まれた。100年前の人間には、近隣の敵皆殺しの夢はあっても、地球上の人間すべてを殺す夢はなかった。地球が破壊される恐れはなかったから、地球という概念はなく、したがって地球防衛軍という発想もなかったように。

俺たちは誰しも殺される恐怖と無縁でいられない未曾有の現代を生きている。その地球大の狂気に比べれば、快楽殺人や拷問、人肉食いなどは、お馴染みといえるほどありふれた狂気かもしれない。むしろ、そこにある人間の血しぶきや苦悶の呻きは懐かしくさえある。本書の残虐は、これまでに誰かが誰かに行ってきた、いまも行いつつある、事実なのだろうと考える方が無理はない。想像の産物など実はなくて、すべて事実の積み重ねではないか。巨大な恐怖に取り憑かれている事実があるがゆえに、身近な恐怖を虚構に求める狂気を手離せない俺たち。

バタイユの『エロスの涙』の内容は、学生の頃に読んだのでほとんど忘れてしまったが、「凌遅刑」に処せられて最後には心臓を抉り出される、清朝打倒のテロリストの頭髪は総毛立ちながら、その表情に明らかに歓喜が見える一枚があったと思う。そこに「死とエロス」の近似を考察しながら、バタイユはショック死を避けるために打たれたヘロインの作用ではないかと留保していたように覚えている。『独白するユニバーサル横メルカトル』の行間にも、叙情や詩情と呼べるものは感じとれる。ただ、それは俺たちに打たれたヘロインの作用ではないと言い切れるだろうか。

あるいは、なぜ、俺もしくは俺たちは、こんなに異形に憧れるのだろう。美容整形手術を受けて、同じ顔になってしまった自らの異形を悔いているからなのか。
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