『占領と改革』-シリーズ日本近現代史⑦(雨宮 昭一 岩波新書)
東京タワーが建設された昭和30年代の東京を再現した『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画がある。すぐに続編もつくられたほどの国民的なヒット作となった。
続編の解説の惹句はこうだ。
http://www.always3.jp/
>どんなに時代が変わろうと、変わらない大切なものがきっとある。
>日本中を感動の涙でつつんだ『ALWAYS 三丁目の夕日』があなたの元に帰ってきます
俺の周囲でも評判は高く、同じ頃の東京を知る者としてもよくできた映画だと思った。CGを駆使した東京タワーはもちろん、当時の庶民生活を偲ばせる丸ちゃぶ台などの小道具、集団就職で上京した少年少女たちや迎え入れる町の人たち、とりわけ少年たちを熱狂させた月刊漫画雑誌をめぐるエピソードなど、明日への希望を胸に夕日を見上げた高度成長期の東京下町の周到な再現には、たしかに感心したし、当時の庶民の哀歓に涙も誘われた。
にもかかわらず、この映画を人に勧める気にはなれなかった。懐かしい「共和的貧乏」(@関川夏夫)の暮らしに頷き、俳優たちが好演すればするほど、カタルシスは岸を離れて遠のき、苛立ちの小波が船縁を叩くのだった。第一に、貧乏を礼賛するかのような人々の屈託ない笑顔への違和感があり、第二には、先の戦争の影が伸びていないだけでなく、戦後が描かれていないことへの疑問があった。
戦後といえば、焼け跡闇市、血のメーデー事件に、60年安保の国会包囲デモへとつながる、貧困にあえぎ混乱に殺気立つ群衆の姿が代表的なものだが、そうした映像は一切出てこなかった。刷り込まれた「戦後史」の映像に囚われていて、素直に映画に入っていけないのかもしれないとも思った。この映画は、戦後といっても高度成長期を、群衆や大衆、国民というより庶民を描いたものでだから、無い物ねだりかもしれないとも思った。
続編の惹句が導くように、貧しくとも清く正しく生きる人はいるし、貧しいからこそ家族が労りあい、近隣が助けあうこともある。が、どこか違う、何か変だという思いはずっと拭えなかった。「三丁目」の人々が見上げた夕日の向こうに俺たちがいるのではなく、俺たちが夕日に赤く染まった町並みを見下ろし、家を失った子どものように涙ぐんでいる限りにおいて、「三丁目」はファンタジーに昇華している。
はたしてそれでいいのかという俺の苛立ちに、本書はかなり答えてくれた。映画の惹句とは逆説的に、「どんなに時代が変わろうと、変わらない大切なものがきっとある」ということが何なのか、かなりわかった気がした。
冗談めくにしろ、あえて「戦後民主主義者」を自認する関川夏夫が、自らの少年期を振り返って、「共和的貧乏」の時代だったというとき、その身の丈に合っていたかのような日本と日本人の貧しさを懐かしんでいるのではもちろんなく、そこでは「共和的」な何かがかつてあり、いまは失われたと指摘しているのではないかと思う。この場合の貧乏とは、貧困と同義ではない。「たしかに、うちは貧乏だけどよ」とか「俺は貧乏人だがね」といった自己認識の言葉のようでいて、「けどよ」や「だがね」という逆接につながる遂行的な言葉として使われる「貧乏」だ。
つまり、『3丁目の夕日』の頃の庶民は、「貧乏をしている」「貧乏を生きている」と貧乏を主体的に引き受けているのであり、それはすなわち、やがて、いつかは、「貧乏ではなくなる」ことをめざしてのことではなく、ましてや金持ちになることを夢見ているわけでもなかった、と俺は思う。見回す限り、誰も彼も貧乏なのだから、ことさら貧乏を意識することもなく、したがって卑下することもない。「たしかに、うちは貧乏だけどよ、家族みんな元気で仲良く暮らせるだけでありがたいよ」とか「俺は貧乏人だがね、それでも真っ当に生きているつもりだ」などと続くのだが、それを負け惜しみとせず、自負としていた心持ちはいったいどこから来たのか、という問いにこの本はある程度答えている。
『3丁目の夕日』といった高度成長期の日本を扱った映画やTV、物語に接して、俺たちがある多幸感を味わうとすれば、疎外としかいいようがない現代とは異なった人々の関係性を疑似体験するからだろう。かつての家族やご近所、職場はいまのようではなかったと。しかし、その根拠を俺たちは明示できるだろうか。いうまでもなく、貧乏だから、ではなく、貧乏だったけれども、たしかにあった人と人との結びつき。少なくとも、人々があると信じることができた繋がり。それは豊かさといえるものだが、その源泉について、この本は言及していると思う。
金が無いのは首が無いのと同じ、という至言がある。貧乏であるということは、選択の自由がないことに同じい。ところが、きわめて貧しくありながら、極大の自由を、日本人が手にしていた時代があった。本書を読んで、「占領と改革」の時代とは、それ以前にも以降にもない選択の自由が、国民の前に開かれた時代だったのではないかと思った。庶民は貧民といえる境遇に置かれていたが、戦前とは比べようもなく、もしかすると現在をも凌ぐ自由があったのが、「占領と改革」の時代であった。
「占領と改革」を切り分け、戦後改革の理路を戦中の総力戦体制の制度面から整理したのが本書であり、アメリカによる占領と日本の戦後改革はけっして一体のものではなく、日本の戦後の諸改革は戦前から検討論議されてきたものもあり、その基本は戦中の国家総動員体制=総力戦体制によって準備され、戦後の日本国民が主体的に選び取ったものではないかという主張である。アメリカの占領によって、下げ渡された改革によって戦後が始まり、高度成長期を迎えたとしたなら、「三丁目」の人々の笑顔は空しいだけではないか。
戦前があり戦後があるのではなく、その間に戦中があった。戦中の総力戦体制こそが、大財閥や地主階級を後退させ、労働者の発言権を増大させ、婦人の社会参加を推進し、日本を近代化、現代化させた「変革」だった。したがって、占領やGHQの指令がなくとも、敗戦によって、<婦人参政権・労働組合結成の奨励・学校教育の民主化・秘密警察の廃止・農地改革>や<象徴天皇制>などの諸改革は成されていたかもしれない。敗戦の結果として占領があるように、諸改革もあり得たのではないかと本書はひとつずつ改革を検証していく。
敗戦によって、戦前の「自由主義経済」と「大正デモクラシー」が戦後に連結されるだけではなく、戦中の総力戦体制によって、すでに社会構造の不可逆な変化がもたらされており、「占領と改革」の時代には、町や村、職場に、これまでにない新しいコミュニティが現出していた。この「新しいコミュニティ」こそが、戦後改革の主体的な根拠となったのではないかというのだ。数万人単位のデモに集結する労働者大衆と「三丁目の人々」の間に、無数の「新しいコミュニティ」が生まれていた。
この本のユニークさは、こうした「新しいコミュニティ」への着眼である。旧来の地域共同体でもなく、左翼党派が領導する運動単位でもなく、そして現在でも同様な存在を見出すことができない、戦争直後から澎湃として起こり、当時の社会運動や大衆運動の裾野となった様々な地域や職場のサークルや勉強会などの小集団=コミュニティが、戦後改革を実現させた最後のピースだったのではないかとしている。
この「新しいコミュニティ」を戦後通史と噛み合わせ、あり得たかもしれない、もうひとつの戦後をトレースするのが、本書の企図といえる。それは著者が長年携わった、戦後改革のただなかを生きた無名・無告の人々への聞き取り調査を通して得た視点であり、アメリカ帝国のサクセスストーリーとしての「日本の占領と改革」という平板な理解を覆す有効な仮説となるはずだった。しかし、残念ながら、「新しいコミュニティ」と戦後通史の噛み合わせは、著者も認めているように、あまり成功していない。
もうとうに亡くなっているが、俺の母方の祖父は戦前は小作農だった。母から、「小作」の辛さや苦しい生活は度々聴いていた。「小作」として地主様に収穫した米を納めるとき、米俵を積んだ荷車を引くのは祖父で、少女だった母が後ろから押して行ったという。地主の屋敷の門をくぐるとき、少し高くなった敷居のせいで、祖父と母は何度も重い荷車を押し引きしなければならなかったそうだ。ガタンと車輪が敷居を跨ごうとするといくらかの籾がこぼれ落ちて、それを母が手で拾い集めるとき、悔しくて泣きたくなったという。その様子をどてらに懐手をした地主の息子が眺めながら、はるかに年長の祖父の名前を呼び捨てにして、「はよせんか!」と叱りつけたときの光景をいまでも覚えているという。
「ドリフのコントに出てくる乞食のような、つぎはぎだらけの刺し子を着たおじいちゃんが頭を下げるのを見ているのはたまらなかった」と母は涙ぐみながらいった。働き者として村でも有名だった温厚な祖父は、晩年は認知症となりずいぶん長男の嫁さんに苦労を掛けたが長生きして死んだ。その祖父がずっと社会党支持だったことを母から聴いて知ったのは、つい5、6年前のことだった。祖父は新聞こそ読んでいたが、政治向きのことはもちろん、何かを積極的に話していた記憶がまったくない俺は、かなり驚いた。農家だから自民党支持だと聴くまでもなく思っていたものだ。「農地改革の恩義がある」といって、祖父は選挙では必ず社会党に投票していたそうだ。農地改革が施行されたのは、片山哲社会党政権の頃だったからだろう。
著者が指摘する「新しいコミュニティ」がどのようなものであったか、いったいそれが戦後改革の主体を担ったというほど、広汎に力強く「占領と改革」の時代に息づいていたのか、俺には肯定や否定をするほどの材料はない。ただ、無学・無教養だったと断じてよい俺の祖父が、農地改革をアメリカのおかげとせず、社会党への恩義として受け止め、戦後一貫して社会党を支持し続けたその投票行動について、無知だったからだと断じることは、とてもできない。お銚子一本の晩酌とTVの「水戸黄門」を観るのだけが楽しみだったあの老人に、そうした政治的決定をさせた時代があり、その政治的決定を変えなかった戦後があったということだ。
『ALWAYS 三丁目の夕日』。ALWAYS(いつも・日常)とは一面的だ。人はALWAYSであり、 ALWAYSではない。少なくとも、俺のじいちゃんはそうだったらしい。
東京タワーが建設された昭和30年代の東京を再現した『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画がある。すぐに続編もつくられたほどの国民的なヒット作となった。
続編の解説の惹句はこうだ。
http://www.always3.jp/
>どんなに時代が変わろうと、変わらない大切なものがきっとある。
>日本中を感動の涙でつつんだ『ALWAYS 三丁目の夕日』があなたの元に帰ってきます
俺の周囲でも評判は高く、同じ頃の東京を知る者としてもよくできた映画だと思った。CGを駆使した東京タワーはもちろん、当時の庶民生活を偲ばせる丸ちゃぶ台などの小道具、集団就職で上京した少年少女たちや迎え入れる町の人たち、とりわけ少年たちを熱狂させた月刊漫画雑誌をめぐるエピソードなど、明日への希望を胸に夕日を見上げた高度成長期の東京下町の周到な再現には、たしかに感心したし、当時の庶民の哀歓に涙も誘われた。
にもかかわらず、この映画を人に勧める気にはなれなかった。懐かしい「共和的貧乏」(@関川夏夫)の暮らしに頷き、俳優たちが好演すればするほど、カタルシスは岸を離れて遠のき、苛立ちの小波が船縁を叩くのだった。第一に、貧乏を礼賛するかのような人々の屈託ない笑顔への違和感があり、第二には、先の戦争の影が伸びていないだけでなく、戦後が描かれていないことへの疑問があった。
戦後といえば、焼け跡闇市、血のメーデー事件に、60年安保の国会包囲デモへとつながる、貧困にあえぎ混乱に殺気立つ群衆の姿が代表的なものだが、そうした映像は一切出てこなかった。刷り込まれた「戦後史」の映像に囚われていて、素直に映画に入っていけないのかもしれないとも思った。この映画は、戦後といっても高度成長期を、群衆や大衆、国民というより庶民を描いたものでだから、無い物ねだりかもしれないとも思った。
続編の惹句が導くように、貧しくとも清く正しく生きる人はいるし、貧しいからこそ家族が労りあい、近隣が助けあうこともある。が、どこか違う、何か変だという思いはずっと拭えなかった。「三丁目」の人々が見上げた夕日の向こうに俺たちがいるのではなく、俺たちが夕日に赤く染まった町並みを見下ろし、家を失った子どものように涙ぐんでいる限りにおいて、「三丁目」はファンタジーに昇華している。
はたしてそれでいいのかという俺の苛立ちに、本書はかなり答えてくれた。映画の惹句とは逆説的に、「どんなに時代が変わろうと、変わらない大切なものがきっとある」ということが何なのか、かなりわかった気がした。
冗談めくにしろ、あえて「戦後民主主義者」を自認する関川夏夫が、自らの少年期を振り返って、「共和的貧乏」の時代だったというとき、その身の丈に合っていたかのような日本と日本人の貧しさを懐かしんでいるのではもちろんなく、そこでは「共和的」な何かがかつてあり、いまは失われたと指摘しているのではないかと思う。この場合の貧乏とは、貧困と同義ではない。「たしかに、うちは貧乏だけどよ」とか「俺は貧乏人だがね」といった自己認識の言葉のようでいて、「けどよ」や「だがね」という逆接につながる遂行的な言葉として使われる「貧乏」だ。
つまり、『3丁目の夕日』の頃の庶民は、「貧乏をしている」「貧乏を生きている」と貧乏を主体的に引き受けているのであり、それはすなわち、やがて、いつかは、「貧乏ではなくなる」ことをめざしてのことではなく、ましてや金持ちになることを夢見ているわけでもなかった、と俺は思う。見回す限り、誰も彼も貧乏なのだから、ことさら貧乏を意識することもなく、したがって卑下することもない。「たしかに、うちは貧乏だけどよ、家族みんな元気で仲良く暮らせるだけでありがたいよ」とか「俺は貧乏人だがね、それでも真っ当に生きているつもりだ」などと続くのだが、それを負け惜しみとせず、自負としていた心持ちはいったいどこから来たのか、という問いにこの本はある程度答えている。
『3丁目の夕日』といった高度成長期の日本を扱った映画やTV、物語に接して、俺たちがある多幸感を味わうとすれば、疎外としかいいようがない現代とは異なった人々の関係性を疑似体験するからだろう。かつての家族やご近所、職場はいまのようではなかったと。しかし、その根拠を俺たちは明示できるだろうか。いうまでもなく、貧乏だから、ではなく、貧乏だったけれども、たしかにあった人と人との結びつき。少なくとも、人々があると信じることができた繋がり。それは豊かさといえるものだが、その源泉について、この本は言及していると思う。
金が無いのは首が無いのと同じ、という至言がある。貧乏であるということは、選択の自由がないことに同じい。ところが、きわめて貧しくありながら、極大の自由を、日本人が手にしていた時代があった。本書を読んで、「占領と改革」の時代とは、それ以前にも以降にもない選択の自由が、国民の前に開かれた時代だったのではないかと思った。庶民は貧民といえる境遇に置かれていたが、戦前とは比べようもなく、もしかすると現在をも凌ぐ自由があったのが、「占領と改革」の時代であった。
「占領と改革」を切り分け、戦後改革の理路を戦中の総力戦体制の制度面から整理したのが本書であり、アメリカによる占領と日本の戦後改革はけっして一体のものではなく、日本の戦後の諸改革は戦前から検討論議されてきたものもあり、その基本は戦中の国家総動員体制=総力戦体制によって準備され、戦後の日本国民が主体的に選び取ったものではないかという主張である。アメリカの占領によって、下げ渡された改革によって戦後が始まり、高度成長期を迎えたとしたなら、「三丁目」の人々の笑顔は空しいだけではないか。
戦前があり戦後があるのではなく、その間に戦中があった。戦中の総力戦体制こそが、大財閥や地主階級を後退させ、労働者の発言権を増大させ、婦人の社会参加を推進し、日本を近代化、現代化させた「変革」だった。したがって、占領やGHQの指令がなくとも、敗戦によって、<婦人参政権・労働組合結成の奨励・学校教育の民主化・秘密警察の廃止・農地改革>や<象徴天皇制>などの諸改革は成されていたかもしれない。敗戦の結果として占領があるように、諸改革もあり得たのではないかと本書はひとつずつ改革を検証していく。
敗戦によって、戦前の「自由主義経済」と「大正デモクラシー」が戦後に連結されるだけではなく、戦中の総力戦体制によって、すでに社会構造の不可逆な変化がもたらされており、「占領と改革」の時代には、町や村、職場に、これまでにない新しいコミュニティが現出していた。この「新しいコミュニティ」こそが、戦後改革の主体的な根拠となったのではないかというのだ。数万人単位のデモに集結する労働者大衆と「三丁目の人々」の間に、無数の「新しいコミュニティ」が生まれていた。
この本のユニークさは、こうした「新しいコミュニティ」への着眼である。旧来の地域共同体でもなく、左翼党派が領導する運動単位でもなく、そして現在でも同様な存在を見出すことができない、戦争直後から澎湃として起こり、当時の社会運動や大衆運動の裾野となった様々な地域や職場のサークルや勉強会などの小集団=コミュニティが、戦後改革を実現させた最後のピースだったのではないかとしている。
この「新しいコミュニティ」を戦後通史と噛み合わせ、あり得たかもしれない、もうひとつの戦後をトレースするのが、本書の企図といえる。それは著者が長年携わった、戦後改革のただなかを生きた無名・無告の人々への聞き取り調査を通して得た視点であり、アメリカ帝国のサクセスストーリーとしての「日本の占領と改革」という平板な理解を覆す有効な仮説となるはずだった。しかし、残念ながら、「新しいコミュニティ」と戦後通史の噛み合わせは、著者も認めているように、あまり成功していない。
もうとうに亡くなっているが、俺の母方の祖父は戦前は小作農だった。母から、「小作」の辛さや苦しい生活は度々聴いていた。「小作」として地主様に収穫した米を納めるとき、米俵を積んだ荷車を引くのは祖父で、少女だった母が後ろから押して行ったという。地主の屋敷の門をくぐるとき、少し高くなった敷居のせいで、祖父と母は何度も重い荷車を押し引きしなければならなかったそうだ。ガタンと車輪が敷居を跨ごうとするといくらかの籾がこぼれ落ちて、それを母が手で拾い集めるとき、悔しくて泣きたくなったという。その様子をどてらに懐手をした地主の息子が眺めながら、はるかに年長の祖父の名前を呼び捨てにして、「はよせんか!」と叱りつけたときの光景をいまでも覚えているという。
「ドリフのコントに出てくる乞食のような、つぎはぎだらけの刺し子を着たおじいちゃんが頭を下げるのを見ているのはたまらなかった」と母は涙ぐみながらいった。働き者として村でも有名だった温厚な祖父は、晩年は認知症となりずいぶん長男の嫁さんに苦労を掛けたが長生きして死んだ。その祖父がずっと社会党支持だったことを母から聴いて知ったのは、つい5、6年前のことだった。祖父は新聞こそ読んでいたが、政治向きのことはもちろん、何かを積極的に話していた記憶がまったくない俺は、かなり驚いた。農家だから自民党支持だと聴くまでもなく思っていたものだ。「農地改革の恩義がある」といって、祖父は選挙では必ず社会党に投票していたそうだ。農地改革が施行されたのは、片山哲社会党政権の頃だったからだろう。
著者が指摘する「新しいコミュニティ」がどのようなものであったか、いったいそれが戦後改革の主体を担ったというほど、広汎に力強く「占領と改革」の時代に息づいていたのか、俺には肯定や否定をするほどの材料はない。ただ、無学・無教養だったと断じてよい俺の祖父が、農地改革をアメリカのおかげとせず、社会党への恩義として受け止め、戦後一貫して社会党を支持し続けたその投票行動について、無知だったからだと断じることは、とてもできない。お銚子一本の晩酌とTVの「水戸黄門」を観るのだけが楽しみだったあの老人に、そうした政治的決定をさせた時代があり、その政治的決定を変えなかった戦後があったということだ。
『ALWAYS 三丁目の夕日』。ALWAYS(いつも・日常)とは一面的だ。人はALWAYSであり、 ALWAYSではない。少なくとも、俺のじいちゃんはそうだったらしい。