コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

スティック・イット

2007-03-31 23:24:31 | ノンジャンル
女子体操を描いたスポ根もの、ではない。がんじがらめの審査による抑圧的な体操競技に反逆する選手たちが痛快だ。ご贔屓ジェフ・ブリッジスは残念ながら添え物だが、少女たちの躍動美には誰も勝てない。楽しめた。

ミュージック・キューバ

原題のムジカ・クーバでよかったのに。『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』の姉妹版か。『ブエナビスタ』が爺婆競演とすれば、こちらは現役バリバリの若手を集めた。こちらも楽しめる。ただ、『ブエナビスタ』には棺桶に片足を突っ込んだ幽玄の趣があるだけでなく、爺婆たちの歌は若手をはるかに凌いでいるとあらためて思った。つまり、歌とは歌声だけではないようだ。ブラジルではボサノバは懐メロの部類に入り、若い音楽家からは見向きもされないらしいが、キューバでは伝統音楽として断絶せず、愛されて続けているようだ。人々の濃い風貌と音楽を愛するだけでなく演ずる人が多いキューバは、沖縄とよく似ている。いま一番訪ねてみたい国だ。
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ETV特集 今村昌平

2007-03-18 01:28:13 | ノンジャンル
NHK教育TV ETV特集「マーティン・スコセッシ今村昌平を語る」

NY大学の映画学科で学んでいるときに、『にっぽん昆虫記』を観て新鮮な衝撃を受けて以来、スコセッシは今村映画に多大な影響を受けてきたそうだ。『ディパーティッド』で今年のアカデミー監督賞を受けて話題になったが、シチリア移民の孫でリトルイタリーのバワリー街で育ったスコセッシは、社会の底辺で貧しくも逞しく生き残ろうとする生々しい人間像を追った今村映画から、自分のよく知っている人間たちをありのままに描いていいと眼を開かされ、そのためには従来の映画の話法やカメラワークにとらわれなくていいと学んだという。このあたり、60年代最先端だったはずのNY大映画学科のスノッブさがうかがえておもしろかった。


しかし、娯楽性と興行成績とは無縁だったとはいえ、今村映画をスコセッシほどきちんと讃える映画ジャーナリズムの不在には、日本の映画ファンの一人としてやはり恥ずかしく思った。同時に、晩年の駄作『うなぎ』『カンゾー先生』にほとんど触れなかった構成に感謝した。その反対に、代表作のひとつといえる『神々の深き欲望』にまったく触れなかったことに首を捻った。

『豚と軍艦』の長門裕之の「撮影秘話」がよかった。「汚い横須賀湾にやくざの死体が浮かぶ」という場面を撮影中、汚物やゴミのなかに「猫の死体がほしい」と今村は言いだした。強力な個性と雄弁で俳優スタッフを従えていた今村に、このときは全員が反対した。

「猫の死体なんてそこらにあるわけがない。すると生きているのを捕まえて殺して海に浮かべることになる。それだけはできない」と長門はぶるぶると首を振って見せた。しかし、今村の創作意欲を殺がぬよう、助監督たちはロケ地のあちこちを探し回り、真夏のことだから大汗かいて戻り、「監督、猫はいませんでしたあ」と報告したそうだ。

俺は1960年代の映画界なら、監督が王のように俳優スタッフに君臨していた時代なら、猫や犬の死体なんて、たとえ殺しても調達するくらいに思っていた。当時の映画人が、フィクションのつくり手として分を弁えていたのに、ちょっと驚いた。

今村は取材魔として知られている。どの作品のときも、細部にわたるまで徹底的に事実にこだわり、けっして嘘は描くまいとしたという。一方、俺たちはTVはやらせが当たり前であり、やらせに驚いたり怒る向きには「いまさら、何を」とバカにするほどだ。

今村と彼のスタッフは猫の死体を浮かべなかった。もちろん、ぬいぐるみなどの代替を考えることもしなかっただろう。本物や事実がつかめなかったとき、潔く諦めた。俳優スタッフたちは、猫を殺して浮かべることを行き過ぎとまず思い、今村の追求するリアリズムとは違う、やらせと考えて諫めたのではないか。

TVのやらせに驚いたり怒ったりすることをナイーブと嘲笑する俺たちと今村は違った時代を生きている。俺たちは、猫どころか人の死を楽しむ「スナッフフィルム」すら見飽きている。それでも、猫の一匹くらいとふと思ってしまう俺は、虫も豚も人間も同じ視線で見据えた今村に比べて、なんて不自由なのだろう。

そして、敬愛する今村の要求に断固として反対しながら、その意欲を否定せず添うてみせた、同志的連帯で結ばれた俳優スタッフとの関係性はなんて自由なのだろう。今村の映画がまったくわかっていなかったことがわかった。もしかすると、若い頃はわかっていたのに、わからなくなったのかもしれないが。

ただ、虫や蛇をアップにしてから、人間の営みにカメラがパンするベタなモンタージュ手法には、当時から拙速と鼻白んだものだが。

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クローサー

2007-03-13 13:46:35 | レンタルDVD映画
4人の男女がくっついたり離れたりする話。作家ダン(ジュード・ロウ)とストリッパーのアリス(ナタリー・ポートマン)、新進写真家アンナ(ジュリア・ロバーツ)と医師ラリー(クレイグ・オーウェン)というカップル。

http://www.sonypictures.jp/movies/closer/site/


ダンとアリスの出逢いは、横断歩道の向こうとこちら。ふと視線が交わってニッコリ、歩き出したアリスが車に引っかけられて怪我。駆け寄ったダン、「大丈夫かい?」と声をかける。倒れたアリスが首を起こし、微笑みを浮かべて、「ハロー・ストレンジャー」と答える。ありそうもないやりとりだが、「ストレンジャー=見知らぬ人」はこの物語のキーワード。度々出てくるのだが、この場面では、アリスがロンドンに着いたばかりの旅人であることを示す。ダンはアリスを病院に連れていき、軽傷だったアリスがダンが勤める新聞社まで送っていく。「じゃ、グッバイ」と笑顔で手を振ったものの、別れ難く。

アンナとラリーの出逢いを仕組んだのはダン。エロサイトのチャットで淫乱女に扮したダンがラリーを釣り、アンナと名乗って水族館で待ち合わせる。なぜ、本物のアンナまで騙されて水族館に行ったのかといえば、ダンの本の著者撮影で逢ってから、互いに憎からず思っていたからだ。「医者の白衣で来て」といわれるまま、ラリーは前夜のノリで卑猥な言葉でアンナに声をかける。ダンを待っていたアンナはもちろん、思いがけず「ゴージャスな美女」を眼前にしたラリーも最初はびっくり。やがて騙された者同士の間抜けな出逢いが可笑しく、うち解けて。

青年作家と奔放な少女は同棲をはじめ、自立した女と中年医師は結婚してハッピイエンド。にはならず、ダンとアンナが不倫に走ってしまい、2つのラブストーリーが破局してからが、この物語の本番。ダンとアンナの3つめのラブストーリーは語られず、見知らぬ人から愛する人になったはずが、見知らぬ人に変わる愛憎劇に転じる。

ダンからアンナを好きになったと告白されたアリス。驚き、取り乱し、乞い願い、諦め、そして決断する。その憑かれたような感情の乱高下にもかかわらず、説得力を失わない論理に感心してしまう。こういう女は日本にはいない。落ち着きを取り戻したアリスは、「お茶を入れて」とダンに頼む。ほっとしてキッチンに向かうダン。何か腑に落ちず部屋へ戻ると、ドアが開いて、かき消えたようにアリスはいない。アリス(ナタリー・ポートマン)が可憐な余韻を残す最初の見せ場だ。

もとはロンドンでロングラン公演を続けている舞台の映画化らしい。生涯に一度も劇場に足を運ばない人でも、ブロードウェイの華やかなミュージカルや練り上げられた小劇場の舞台を居ながらにして観ることができる。映画の大きな楽しみのひとつだ。台詞に工夫を凝らす演劇だからか、それが西欧人の特色なのか、登場人物は呆れるほどすべてを語り尽くす。いつ、どこで、どんな風にセックスしたのか、何回イッタのか。男女はすべてを告白しあう。それが愛と誠実の証であると、裏切った側も裏切られた側も確信している。

「仕事とセックスは家庭に持ち込まない」と嘯く日本の男にとっては想像外の光景だが、ありのままを晒け出す強さには脱帽してしまう。洋画を観ていると、速射砲のように男を罵り詰る女が出てきて、ひとつの山場になる場面が多い。たしかに、アルカイック・スマイルを浮かべて押し黙っている女から、すべてを封じ込まれたような無力感を味あわされてふて腐れるより、身悶えするような激情から激しい論難をする女から胸板を揺すぶられて、自らの内なる「見知らぬ人」に問いかけ、オロオロ言葉を探すほうがより生産的な気がする。

永遠の愛ではない。一瞬先もわからない。自らを含めた「見知らぬ人」との出逢いと別れ。発せられる言葉のひとつひとつが鋭い切っ先となって、互いの心を刺し、抉り、貫いていく。ここでは、愛とは言葉であり、発語される瞬間であり、言葉の闘いなのだ。

昔、『冒険者たち』というフランス映画があった。リノ・バンチュラとアラン・ドロンの親友同士がジョアンナ・シムカスに恋する。観客の印象に残るのは恋する男二人であって、恋されてどちらも選べず迷っている女ではなかった。『冒険者たち』の場合、女はマドンナという記号だったからしかたがない。『クローサー』では、女も恋する。必然の男と思う。そうではなかったと知る。すでに新しい自分になっている。最後のニューヨークの雑踏をさっそうと歩くのは、少女から女へ成長したアリスだ。

男も自分に必然の女と思う。しかし、男は成長も脱皮もしない。俺は女にとって必然の男ではなかったのでは、と疑い続ける。そこで発見するのは、新しくはない、古いおなじみの自分に過ぎない。ついに男は自分の殻を破ることができない。少なくとも、女を通しては。だが、内向的ではない恋愛、自己愛とせめぎ合わない他者への愛があるだろうか。その意味で純粋に恋愛を味わっているのは、感情移入できるのは、やはりダンとラリーなのだ。

アリスと対比すればそういえるのだが、自立した女ながら受け身のまま、ダンとラリーの間を揺れ動くアンナの掘り下げかたによっては、全然違った映画になったかもしれない。アンナの写真の個展に、ダンに伴って行ったアリスは、ラリーから写真の感想を尋ねられて、「嘘よ。哀しげな表情の肖像写真ばかりだけど、ただそれだけ、みんな嘘よ」という。

それはアリス自身が被写体になったポートレートを指す言葉だが、ダンへの想いを隠してアリスをファインダー越しに見つめる嘘、見つめ返すアリスの瞳の涙に動揺しながら取り繕っているという嘘、つまりは肖像写真家でありながら人間を被写体としか捉えられない嘘を批難しているわけだ。

アリスはただの小娘だから芸術論を弄んだわけではなく、アンナと会うなり、自由闊達な恋愛共和国に参加できない閉ざされた自己を持て余すイケテない女と見抜いたのだ。困ったことに、アンナはその通り、惑い惑わせるわけでもなく魅せずに終わってしまう。これでは、たまに暴力も振るい、怒鳴り散らし、出張すれば買春もする凡夫ラリーの対という役割でしかなく、ダンと倫落美にならない。

ジュリア・ロバーツの硬質な美しさも、しんねりむっつりしたままではお人形のそれと変わらない。アリスとダンが奔放だが純粋、アンナとラリーが俗物だが一途、そんな対比だとすれば、女神のような俗物のリアリティが描き足りない。ラリー(クライブ・オーウェン)が恋した俗物男の大車輪を見せたのだから、アンナがくすんでいては、惚れた男がバカにみえる。

いちばんの嘘つき、「見知らぬ人」は、実は「純粋まっすぐ」のアリスだったという落ちに持っていくなら、2人の男を手玉に取る楚々としたアバズレのアンナをどうする。スター女優ジュリア・ロバーツのイメージを損なうと何か規制があったのなら、やはりミスキャストだろう。ロンドンの舞台を観たくなった。

背が低く足が短い上にがに股で歩くジュード・ロウ、大工の熊さんのように髭の剃り跡が濃い無骨なクライブ・オーウェン。どちらも視角によっては容貌魁偉とさえいえる。『冒険者たち』のアラン・ドロンの美形やリノ・バンチュラの洒脱には及びもつかないが、演技力で補い、平凡だが魅力的な男を造形している。

上質な恋愛映画は下手な社会派映画より、人を考えさせるようだ。社会の不正や不義を正すより、好きな女から不実を詰られて言い訳を探すほうが、ずっと難しいからかもしれない。
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平成電電の社長逮捕

2007-03-07 11:40:51 | ノンジャンル
読売新聞記事を読んだのみ、何か裏事情を知っているわけでもないが、かつて豆粒みたいな会社の資金繰りで苦しんだときを思いだした。逮捕容疑は詐欺だという。俺も金を借りて返せなかったとき、そう罵られた。


記事によると、投資目的で資金を集めながら、実際には設備投資を行わず出資の配当や運転資金などに流用する自転車操業だったという。なるほど配当金を払える裏付けがないのに、パンフレットなどで高利回りをうたって出資を募れば、詐欺になるだろう。ただし、その理屈でいくなら、2002年の創業当時から赤字を続けてきた平成電電は、外形的にはずっと詐欺会社だったことになる。

もちろん、事業上の赤字と自転車操業をひとしなみに扱うことはできない。だが、ほんとうに区別できるだろうか。騙すつもりはなかったが、当てにしていた金が入らなかったといえば、誰でも言い逃れと思うだろう。だが、そうした言い訳と言い逃れという責めのどちらも、当てにしていた金が入らなかったという結果論である。

平成電電は通信業界のガリバーNTTに、「CHOKKA」などで電話料金の「価格破壊」を挑んで負け続けた。数年前に大々的に打ち上げた日本テレコムの「おとくライン」もいまでは開店休業状態だ。誰も勝てない市場とは、誰も当てにしていた金が入らない市場ということになる。

平成電電や日本テレコムが先導した「価格破壊」のおかげで日本の電話料金は大幅に下がった。YAHOOのADSLが日本のブロードバンド料金を世界的にみても激安にした。市場とユーザーに多大な貢献をしてきたのは、ガリバーNTTではなかったことはたしかだ。

平成電電を擁護するつもりはない。どこかで一線を超えたのかもしれない。しかし、負け続けるだけで、一度もわずかな勝利すら得られない市場では、撤退すらできない。参入しなければよかった、というなら、それこそ市場経済の公平原則を無視した無責任な結果論だろう。誰もが勝てない市場を是正するのは、企業の競争力を超えた問題である。

社長が詐欺で逮捕されるのは、市場の健全な淘汰とはいえない。市場経済には参入だけでなく撤退の仕組みが必要だ。吸収合併や買収といった大株主主導の方法だけでなく、その企業が自主的に撤退を選べる仕組み。そうした仕組みは参入にさかのぼって機能するはずだ。
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けんかえれじい他

2007-03-06 23:15:17 | ノンジャンル
紀伊国屋で、「苦労したのよ」おばさんに逢ったせいか、予定外の『二・二六事件とその時代ー昭和期日本の構造』(筒井清忠 ちくま学芸文庫)を買ってしまった。1300円はちょっと痛い。歴史社会学の手法から日本の教養を論じていた著者が、二・二六事件の磯部や安藤たちの革命の「苦労」、革命の背景となったといわれる東北農村の「苦労」、革命の「玉」と目された昭和天皇の「苦労」をどう整理して、昭和の心理構造を分析するのか楽しみ。

『けんかえれじい』(鈴木隆 岩波現代文庫 上下各1000円)は、鈴木清順監督の同名傑作映画の原作。かねてから読みたかったお目当て。予断だが、けんか道を邁進して戦争にまで至る主人公の麒六は二・二六将校にも擬せられるだろう。饒舌だが多言を費やさぬ改行のリズムと、潔い「だ」「である」文末が俺向き。
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