もの書きのプロとアマの差はどこに由来するでしょうか。文筆で金を稼いでいるか、いないか。文章技術が高いか、低いか。指標はいろいろありそうですが、そんなことには関係しないし、興味もない人がほとんどでしょう。
食い扶持や身につけた技術のことにかぎれば、コックや理髪師や看護士といった仕事とたいした違いはなさそうです。多少あるとすれば、ホンモノと驚嘆される唯一無二性についてかもしれません。
もちろん、コックや理髪師や看護士といった職業人のなかにも、数少ないホンモノと呼ばれる人がいます。彼らの仕事が人々の喜びや助けになるとき、人々はそんな賞賛を惜しみません。しかし、もの書きのホンモノには、人々から賞賛や感謝ではなく、ときに悪罵され憎悪を向けられる場合があります。
彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んで怠けたくなるとき、仰いで灯火の中に、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び正人君子の連中に深く憎まれる文字を書き続けるのである。(竹内好訳 魯迅『朝花夕拾』より「藤野先生」)
NHKが「沖縄県の尖閣諸島」と表現するのは適正か
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/nhk-7cce.html
松本氏が言及した点に関して言えば、NHKが領土問題に関して、「尖閣諸島や竹島に触れる場合には、『沖縄県の尖閣諸島、島根県の竹島』という形で、日本の領土であることを明確に表現している」ことが実は問題である。放送法の規定を踏まえた、本来のNHKのあり方としては、「政府が日本の領土だとしている尖閣諸島、竹島」と表現するべきである。NHKが「沖縄県の尖閣諸島、島根県の竹島」と表現することは、放送法第四条が規定する、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」「政治的に公平であること」に反している。
上記のうち、「正人君子の連中に深く憎まれる文字」がどれであるか、指さす必要はないでしょう。
この植草一秀さんの文章に舌打ちする人は少なくないはずです
検索してみると、
魯迅の「正人君子」については、いろいろな解説がされていますが、解釈はそういろいろというわけでもありません。はなはだしきは、「正人君子(支配階級)」と引用に書きくわえている人もいます。魯迅の文闘を階級闘争にしようというのでしょう。もしそうであるなら、魯迅はたいした作家ではありません。
もちろん、
藤野厳九郎と魯迅の師弟愛の一篇という読みが多いわけです。これは教科書に掲載されて「藤野先生」を知ったという人が少なくないから無理もないことでしょう。掲載した教科書出版社や採用した文部省、教育現場の教員たちにとっても、「藤野先生」にある理想的な師弟像を見いだしたのはよくわかります。では最終文をこう書き直してみたらどうでしょうか。
そこでタバコに一本火をつけ、再び文字を書き続けるのである。
再び筆を執るのである、でもいいが、省略した方がずっと余韻は深いと思いませんか。
ただし、魯迅の訃報を聴いた藤野厳九郎先生が、新聞記者のインタビューに応じて、仙台医専時代の魯迅(周樹人)の思い出を語った、次の一文を読むとちょっと印象は違ってくるでしょう。
6.藤野先生「謹んで周樹人様を憶ふ」
http://park12.wakwak.com/~jcfa-miyagi/luxunf/okataru.html
藤野先生はほとんど周樹人を憶えていないようです。したがって、自分がした「親切」についても、日本語がおぼつかない中国人留学生のノートを添削したことくらい、ごく当たり前の指導のひとつとしか思っていないようです。医学生としては、「大して優れた方ではなかつた」中国人留学生だが、医学を修めず帰国することを残念に思い、乞われるままに自分の写真を与えたに過ぎないようです。
それ以上の、周樹人へ、中国人へ、師として、日本人としての思い入れといったものはうかがわれません。いわゆる師弟愛というような、体温が伝わるような情の通いはなかったかのようです。いや、待ってください。だからこそ、藤野厳九郎先生はすばらしいのですが、それを書いていると、「正人君子」に行き着きません。
ともかく、藤野先生の実際の思い出を読んだ後では、魯迅の回想はかなりオーバーに思えます。実際の記憶を脚色したのでしょうか。
少なくとも、こんな風には読むことは間違いとはいえないでしょう。藤野先生は周樹人にとくに師の恩愛を施したつもりはなかったが、周樹人は藤野先生から師の恩愛を受けたと感激した。挫折した医学生・周樹人は、後に高名な作家・魯迅となり、「藤野先生」を書いた。「私が今日あるのも藤野先生のおかげです」と感謝を込めて。
そこでタバコに一本火をつけ、再び文字を書き続けるのである。
と書いて筆を置いたのなら、「藤野先生」はそういう作品でした。魯迅もそう書こうと思っていたか、途中までそう書きすすめていた節があります。魯迅の元原稿では、いったん「吾師藤野(わが師藤野)」と表題が書かれ、消された跡に「藤野先生」となっていたからです。
魯迅博物館を訪ねて
http://www.peoplechina.com.cn/home/second/2012-10/10/content_488564.htm
「からです」は冗談ですが、ご都合主義の思いつきと斥けることもできないでしょう。読み返してみると、やはり、
正人君子の連中に深く憎まれる文字
がなんとも異質だからです。藤野先生を想う過去から、現在へ一足飛びして、「私が今日あるのも藤野先生のおかげです」という感謝で完結することを拒否するかのようです。恩愛と憎悪は結ばず、つながりません。
この異様な一文が挿入されたおかげで、師弟愛の思い出という読解が斥けられています。甘美な思い出として思い出すことさえ避けられている、という気がします。藤野先生が願った医者にならず、文学の道を志しながら、いまでは「正人君子に憎まれる文字」を書きつける自分へ、慚愧の思いや自己憐憫があるのでしょうか。
周樹人は、小柄で顔青白くおとなしい少年だったそうです
日本語はわからず勉強は苦しく、ただ一人の中国人としての留学生活は寂しかったけれど、藤野先生に励まされ幸福だったときもあった仙台時代にくらべて、帰国してからこれまでを、あるいは振り返りたくはなかったのでしょうか。全体を覆う寂しげな哀しげな調子をそう解することもできます。
「正人君子の連中に深く憎まれる文字」を書き続けるとは、つまりは、世間的には正しく、君子とされる人々から、自分の作品が認められず、疎まれているということです。しかし、魯迅はその現実を了承し、さらに憎まれようと決意を新たにしたのが、「正人君子」の一文です。
この唐突にして異様な一文は、もちろん後から挿入されたのではないはずです。もし挿入したのなら、全面改稿したあげくのはずです。それほど、この一文は、読者が抱く予定調和的な感動を裏切るものです。それがただのどんでん返しに止まらないのは、この一文から、また藤野先生に返っていくからです。
「藤野先生」は恩師である藤野厳九郎先生を中国人留学生の周樹人が偲ぶ話です。結末において、周樹人の過去から魯迅の現在に視点が移り、文末で「正人君子」の一文に出くわします。気持ちよく終わるはずが、折り返しに立たされたように、読者は納得できない気になります。
そこで魯迅を周樹人にではなく、藤野先生に重ねてみます。それが折られた紙のまだ開かれていない面であることに気づきます。折り返しを開く手がかりは、藤野先生が周樹人に与えた写真に裏書きされた、「惜別」の文字にあります。
もし、この作品を書きながら、あるいは推敲のために読み直して、魯迅の胸を込み上げるものがあったとしたら、それは藤野先生の「惜別」の無念を思ってのことでしょう。
帰国してからの魯迅は北京大学の講師をはじめ、いくつもの師範学校や大学で講演をしています。文名を高めてからは、文学を志す学生や新進作家とも交わっています。魯迅は藤野先生以上に、多くの学生を指導した先生であり、若者たちの師でありました。
そして、藤野先生とは比べものにならないほど、数多くの学生や若者へ、魯迅は「惜別」の文字を痛烈にその胸に刻まざるを得ませんでした。当時の中国は、現在のシリア以上の弾圧と内戦下にありました。魯迅の居室に出入りし、親しく言葉を交わした学生や若者の多くが「行方不明」になりました。
かつての周樹人と同じく、彼らは中国の人々の悲惨な境遇を現前にして、志した文学や学問の道を捨てても救おうとした結末です。魯迅はその残酷な運命から彼らを救うことはできず、前途有為な若者を扇動したと批判されました。
「藤野先生」で回想されているのは、もちろん藤野先生なのですが、藤野先生は魯迅の投影でもあるのです。回想されている周樹人はすなわち、魯迅の知る多くの学生や若者の姿なのです。以下では、藤野先生と周樹人に寄せて、魯迅の率直な思いが語られています。
なぜか私は、今でもよくかれのことを思い出す。わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ、もっとも私を励ましてくれたひとりだ。私はよく考える。かれが私に熱烈な期待をかけ、辛抱づよく教えてくれたこと、それは小さくいえば中国のためである。中国に新しい医学の生れることを期待したのだ。大きくいえば学術のためである。新しい医学が中国に伝わることを期待したのだ。私の眼から見て、また私の心において、かれは偉大な人格である。その姓名を知る人がよし少いにせよ。(藤野先生)
魯迅はついに藤野先生にはなれません。彼のような幸福な教師人生はおくれません。すでに周樹人は非業に倒れたことを知っているからです。それはこれからも続くことを知るからです。その痛切な断念の上に、「藤野先生」は書かれました。紫煙にかすむ周樹人たちの笑顔、その血債を負うかのように、魯迅は文闘を続ける決意を書きつけるのです。
そこでタバコに一本火をつけ、再び正人君子の連中に深く憎まれる文字を書き続けるのである。
「藤野先生」のなかで、「正人君子の連中に深く憎まれる文字」とは、この結文にほかなりません。この一文がなければ、「藤野先生」は心あたたまる教育説話の名作として、「正人君子の連中」からも褒めそやされたことでしょう。ずっと気持ちよく読んできて、最後の最後に、自分たちの悪口を読まされて、「チッ」と舌打ちした唇が見えるようです。
(敬称略)