コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

マイ・バック・ページ 03

2021-03-30 10:28:00 | ノンジャンル
マイ・バック・ページ 予告編


新左翼過激派が起こした思想的犯罪として、その主犯である菊井良治の独占インタビューという大スクープを狙った朝日ジャーナル川本記者は、あっさり朝日新聞社会部に手柄を横取りされてしまう。

しかし、菊井の「独占インタビュー記事」は掲載されず、結局ボツとなる。警察が思想犯ではなく、たんなる殺人犯として扱うことに倣ったからだった。

川本記者は菊井に尋ねる。自分に念を押すように、そして吐き捨てるように、「君は思想犯なんだよな」。

それ以前にも、菊井が赤衛軍を京浜安保共闘の分派であると称していたのが虚言とわかり、「偽者」という疑いが濃厚になってきて、川本記者は途方に暮れたように尋ねる。「君はいったい何者なんだ」。

菊井がそれに答える場面がないように、監督の山下敦弘や脚本の向井康介もその問いに答えようとはしていない。

「マイ・バック・ページ」がいわゆる社会派映画の与件を備えながら、登場人物への思い入れやあるいは反感などを排した批評的な視点にとどまり、69~71年という特異な時代を扱いながら、時代の熱や光に無関心にみえるのはどうしてか。

菊井と川本の「闘争」と「報道」について、さらには、「思想犯」か「刑法犯」かという困惑や、菊井とはいったい「何者だったのか」、そうした問いについて、山下や向井ら作り手はあらかじめ知っていたからだ。

監督の山下敦弘 昭和51年生(1976~)、脚本の向井康介 昭和52年(1977~ )とも、赤衛軍事件が起きた昭和46年(1971)にはまだ物心はついていない。

一方、二人が青少年期を迎えた90年代は、坂本弁護士一家殺害事件や松本サリン事件、地下鉄サリン事件など、一連のオウム真理教の「テロ事件」が「発覚」した時期である。

菊井はマスコミを利用して売名を図ったり、人脈を広げようとした。マスコミもまた、川本がスクープに釣られたように、その真偽も定かではないまま、「独占取材」のために菊井が起こすだろう襲撃事件を利用しようとした。

それよりはるかに大規模で長期間にわたる「オウム真理教報道」を彼ら後世代の作り手は体験している。何より、配下に襲撃を命じた首謀者の菊井良治に麻原彰晃が重なる。

オウム真理教に翻弄されながらときに利用して、TV局などは莫大な視聴率を稼いだ。当時のマスコミの狂奔ぶりは川本の「暴走」に連なるものだ。

川本がその容疑で逮捕されたように、オウム真理教の拡大に加担し、その犯罪をほう助したといわれてもしかたがない「過熱報道」だったことは記憶に新しい。

その意味では、彼ら作り手は71年に遅れていない。それどころか、いまさら、「事件報道」をめぐる社会派映画をつくる意味があるのかという疑問すら生まれただろう。この映画が企画されたのは2007年、公開されたのは2011年である。

もちろん、映画「マイ・バック・ページ」にオウム真理教への言及などない。川本三郎の原作にあるかどうかも未読なのでわからない。監督の山下敦弘や脚本の向井康介ら作り手も、そうした問いはよく知りはしても、回答や結論を持つわけではないだろう。

それは作り手にかぎらず、私も含めてたいていの人は、両者に相似を見出しながら、そこにとどまっているはずだ。

新聞報道の定型的な結語を当てはめれば、時代は違えども、赤衛軍事件、オウム真理教事件とも、「大衆社会の歪つな側面が表れた事件と報道」となるか。

大衆消費社会でもネット社会でも、あるいはグローバルな社会と、何にでも置換できる、思考停止をうながす予定調和的な結語を一笑に付するほどの問いを、我々はまだ持ち得ていない。

彼らは愚行の果てに犯罪を犯したが、問いこそが答えであるならば、我らはまだ愚行を続けている。

(以上、敬称略)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイ・バック・ページ 02

2021-03-28 18:59:00 | ノンジャンル
高見順の「いやな感じ」からの引用箇所は、私娼窟の探訪記事のようでもあるが、当初、週刊朝日記者だった川本三郎も、500円だけを握りしめて東京の最下層を訪ね歩くというルポ記事を命じられて書いていた。

その取材のなかで、ミニチュアウサギを売る露天商の手下になったりする。売り物のウサギを全部死なしてしまった失策から、兄貴分に殴る蹴るの制裁を受けながら懸命に謝り続ける露天商を横目に、へらへら顔で金勘定をする川本三郎記者。

気の好い露天商を騙して記事を書く「後ろめたさ」を自覚しながら、眼前の暴力はやり過ごせるのは、菊井と同様に、その「暴力革命論」への理解が空理空論に過ぎず、高見順のように「下層貧民」を我が同胞とし、その「いやな感じ」さえ肉感的に受けとめる自意識は持ち合わせなかった。

というのが、当時の川本三郎のような活動家やシンパの若者に対する、後世代であるこの映画の監督や脚本家の批評的な立脚点だろう。

もっといえば、山本義隆になれなかった菊井良治、東大の山本義隆は思想犯として扱われ、日大の菊井良治はたんなる殺人犯とされたという川本の慚愧を踏まえながらも、スクープ報道をめぐる記者の葛藤というこの映画(原作も含めて)の枠組みから逃れようとしている。

そのためか、川本の取材活動の是非や当時の朝日新聞など報道機関の問題性、あるいはそれと表裏をなす可能性などについては未整理のまま、いわゆる社会派映画としての理路に乏しく物足りなく思えるはずだ。

社会派映画としての枠組みを逃れようとして、はたして映画はどこに向かったのかは、冒頭のミニチュアウサギを売る露天商の手下になる場面に明らかにされている。

エピローグとなる最後に、逮捕されて朝日新聞社を馘になり、ジャーナリストになる夢破れ、フリーライターとしてメディアの片隅にしがみついて、腑抜けのようになっている川本三郎が、ふと目についた小さな居酒屋の暖簾をくぐる。「いらっしゃい」と迎えた声の持ち主は、なんとかつて騙して取材したミニチュアウサギを売る露天商だった。

いまでは女房子どももある居酒屋の主人として出会った露天商に、懐かし気に話しかけられて動揺する川本三郎元記者。

最底辺の暮らしをしていた露天商が、この10年余で生活者として地歩を築きながら、いまだに川本を宿無しと信じていて、「お前のことを心配していたんだよ」という笑顔に、込み上げて川本は泣く。

かつてはインチキ露天商いまは居酒屋主人であるこの人物こそが、川本並びに、川本と表裏一体であった菊井良治に対比されて、彼らの「闘争」も「報道」も無化されたのである。川本の涙は自己憐憫だけではなく、その呪縛から解放され救われたことによるものだ。

それは高見順の「いやな感じ」とは逆に、庶民や市民の立場から、山本義隆や滝田修、川本三郎たちジャーナリストが属する思想の「上層」に向けて、映画の作り手が「いやな感じ」という視点を貫いたエンディングとして重なるものだ。

この映画の監督や脚本家ほどではないが、やや後世代として川本らに感情移入できないその「感じ」はよくわかる。彼らにとって、「理解不能」な69~71年という学園紛争時代に、庶民や市民に対置させた批評性になかば同意したい気もする。

ただし、繰り返すが、事実として、「安田講堂攻防戦」は学生運動の頂点ではなくその落日の表れであるように、69~71年はすでに遅延証明が出されていた時期である。

また、「安田砦」に立て籠もって機動隊と激しく戦った学生たちに東大生はごく少なく、菊井良治のような私大生や地方国公立大生に大多数が占められていた。東大全共闘はとっくに後景に退いていた。

60年安保世代とは大きく違って、70年当時の学生活動家たちは出自もその思想も庶民であり、大衆化した大学において、「大衆」そのものであった。

逮捕覚悟で集会に参加した「英雄的」な山本義隆を冒頭近くに持ってきた作り手の意図は、山本義隆の退場を描いて、菊井良治登場を予感させるものだったはずだ。ならば、菊井良治が山本義隆になれなかったのではなく、その逆だともいえる。

菊井良治のうさんくささやいかがわしさ、虚言と大言壮語、不純と狡猾などは、当時の「学生大衆」にとって、それほど珍しいものではなかったはずだ。そして、菊井良治は一場哲雄陸士長を刺殺していない。計画指揮はしても、実行犯ではないのである。

大衆社会が用意準備してやがて供給するものが何であったか。今日のネットをみればおよそのことはわかるはずだ。

大学のタテカンをはじめ、新聞社の乱雑なデスク群、学生アパートの部屋内など、当時を再現した美術がすばらしかった。

Bob Dylan "My Back Pages" (ABSOLUTE BEST EVER) LIVE 23 Oct 1998 Minneapolis
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/JWNaIXeHHzQ" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen>

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週の拾得物 英語禁止令

2021-03-28 07:21:00 | 政治
これは朗報だが、続報が出ない。どうしてなのか。リモート会議にすぐ使えるのに。

ロゼッタグループが全社員に「英語禁止令
https://news.yahoo.co.jp/articles/a7981d5041f987b30e6b404aed597e23b57f645a

この会社では、英語と仕事の相関を否定したわけだが、いま母国語と仕事の相関を問われている職場もある。

間違いだらけの法案だそうで、書類づくりのプロ中のプロである官僚が書いた法案文章に誤字だらけ。人手不足の上にコロナ下の緊急業務が相次いだ激務が原因とのこと。

同情の余地なしとはしないが、この仕事にはどれくらいの人員と時間がかかるという見積もりと段取りは、どんな仕事においても備えているべき、基本中の基本のスキル。

見積もりに見合った段取りが組めず、結果として仕事の質を劣化させてしまうというのは、言い逃れできない無能・無責任であり、必ず損害賠償もの。

予算や人員を求めても適わないのは、民間も等しく同じ。無理を承知でそこを何とかするのがプロ。そこを何とかは、主に発注先やスタッフ・ワーカー相手への交渉のこと。

それができないのなら、組織として機能していない証拠。つまり役所ではないということ。

政府与党が反対して議会が開かれなかったことによって、議会はなくなった。まともな記者会見が開かれないことで、記者会見もなくなった。ついに役所もなくなった、というのが今日の日本。

(止め)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロバが旅しても馬にはなれぬ

2021-03-26 21:06:00 | 政治
人種や民族・宗教の違いとは何か。国民国家がどれほどアクロバティックな政略だったか。その国境を超えるグローバリズムとは何ほどのものか? 私たちが所与と思い、前提としているものすべてに???が返ってくる旅です。

はたしてアジアで旅した場合はどうなるか。案外、華夷秩序を裏づける結果が出たりして。

「DNAの旅」 日本語字幕版


ずいぶんな言われようのロバですが、場合によっては軍馬や競走馬、馬車馬として資産になる「馬だったらなあ」と思うのは人間だけで、ロバはそんなことは関係ありませなんだ、というバルタザールの話↓。

https://moon.ap.teacup.com/chijin/392.html

(止め)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイ・バック・ページ

2021-03-20 12:31:00 | レンタルDVD映画


観たくないと避けてきた映画だった。

赤衛軍事件を起こした菊井良治と取材した朝日ジャーナル記者川本三郎を軸に、1969~1971年、大学を席巻した全共闘運動のある顛末を「愚行録」として辿った映画だからだ。

1971年8月、陸上自衛隊朝霞駐屯地に侵入し武器庫から武器を盗もうとした赤衛軍2名が警備中の一場哲雄陸士長を刺殺した。

この事件を計画し首謀した日大生菊井良治に取材接触した川本三郎は、犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪で逮捕され、朝日新聞社を懲戒解雇された。

また、当時、「暴力革命論」を唱えて学生に人気があった京大助手滝田修(本名竹本信弘)は、菊井と接触があったため、共謀を疑われて指名手配され、10年間の逃亡生活の末逮捕された。裁判では共謀は認められず、強盗致死の幇助で懲役5年の有罪となった。

以上が事件の顛末である。

若き川本三郎記者と交流のあった、週刊朝日の表紙モデルの美少女は、こう言う。「どちらかと言うと、それまでは学生運動に賛成の立場だったけど、罪のない人が死んだことで、嫌な感じがする…」(ただし、川本三郎の原作本は未読なので、モデルとなったじっさいの保倉幸恵がそう発言したのか不明である)。



この事件を知ったとき、彼女と同年だった私も同様に感じた。いや、とっさに思ったのは、「まずいものを見てしまった」という舌打ちしたい後悔だった。

高見順に「いやな感じ」という小説がある。

俺はこのとき、まずいものを見てしまった。いや、なに、女の立て膝の奥を見たというのではない。
 足もとの土間に、ラーメンの丼どんぶりが二つ重ねて、じかに置いてある。それが俺の眼に映った。それだけならいいんだが、食べ残しのそのおつゆのなかに、煙草の吸殻すいがらが捨ててある。紙の腹が切れて、ふやけた臓物がきたならしくはみ出ている上に、抜け毛を丸めたのまでが、べたりとくっついている。風で飛びこんだのか。それとも、これもわざと捨てたのか。きたねえことをしやがると俺は顔をしかめたが、すぐ、
「いや、これでいいんだ。このほうがいいんだ」
と自分に言いきかせた。汚濁にまみれた俺が、それをきたないなんて言えた義理ではない。俺自身のほうが、よっぽど、きたない。


ここで、この映画の主な登場人物の事件当時の年齢を記してみたい。

滝田  修 1940年(昭和15)生、1971年時 31歳
山本 義隆 1941年(〃16)生 〃  30歳
川本 三郎 1944年 (〃19) 生 〃  27歳
菊井 良治 1949年 (〃24) 生 〃  22歳
一場哲雄陸士長 1950年 (〃25) 〃 21歳
保倉 幸恵 1953年 (〃28) 生 〃  18歳


菊井良治と対比して描かれる東大全共闘議長の山本義隆と、菊井が支援を求めて接近した京大助手の滝田修が、60年安保のときはともに20歳前後の安保世代であることがわかる。

1969年に東京大学を卒業した川本はまさに「学園紛争」のど真ん中世代だが、占拠した全共闘学生と機動隊が2日間にわたって激しい攻防戦を繰り広げた東大安田講堂事件が起きた1969年に、19歳だった菊井良治は「闘争」の最盛期に遅れた年代といえる。ちなみに、実行犯の日大生は19歳、元自衛官で駒沢大生は21歳だった。

映画「マイ・バック・ページ」、たぶん川本三郎の同名原作も、1969~1971年という時代を描こうとしている。それは学生たちが政治的に先鋭化した過激な時代ではあったのだが、そうした学生運動や学園闘争にやや遅れてきた青年たちを通して、時代に迫ろうとしたように思える。



滝田修や山本義隆は60年安保の盛り上がりを肌身で経験したはずだが、菊井たちのようにまだ未熟な若者であり、川本のようにナイーブだったはずだ。1969年にまだ未成年だった菊井たちは「学園闘争」の最盛期を直接知るはずもない。1969年1月の「安田講堂攻防戦」は全国の大学全共闘運動の最後の火花であり、これを分岐点に闘争は一気に下火になっていくのである。

山本義隆や滝田修を取材し、菊井良治に接近した、「闘争ど真ん中」年代の川本三郎もまた、週刊誌記者という「傍観者」として話を聞く、あらかじめ遅れた立場にいた。その自覚こそが川本をして菊井にのめりこませ、就職浪人までして憧れたジャーナリストの道を踏み誤らせたのではないか。

当時、高校生だった私や保倉幸恵など、さらに遅れていた年代も「過激派学生」にシンパシーを抱いていたが、どこか他所の「祭り」のように、あるいは乗り損ねた電車の後部を見送るように、多少の後悔を含んだ冷めた気持だったと思う。

当時は大学だけでなく、高校にも「学園闘争」が波及し、新左翼党派に「オルグ」されて街頭デモに参加する高校生も少数ながらいたことが新聞にも報道されていたので、まったく無知無縁な高校生のほうが少なかっただろう。

自分が居るべき時空間に遅れた、決定的に遅れているという自覚とは、すなわち失敗が先立っているのと同じである。川本三郎記者につきまとう状況への「後ろめたさ」や菊井への「気後れ」がそれを物語っている。

失敗から始まっているのなら、成功は途方もないものでなくてはならない。菊井がのめりこんだ過激な行動主義と川本の大スクープ狙いはそうした理路を辿って交差したに思える。

「遅れ」を取り戻そうと先走ったようにみえて、じつは「遅れ」とは過去に向かい、現在に生きようとしていないことでもある。失敗から始まって約束された失敗に終わる愚行の記録のなかで、いまを生きる3人が対比されて描かれている。それがこの映画を秀作にしている。

一人はいうまでもなく、「この事件は嫌な感じがする」といった保倉幸恵であり、もう一人は刺殺された一場哲雄陸士長である。一場哲雄陸士長は赤衛軍2名と格闘中、肺を貫通する刺傷2カ所を受けて倒れるも、犯人が逃走後、通報のために警衛所をめざしておよそ100mを這いずりながら進み、中途で力尽きた。

インタビューで監督自身が答えているが、保倉幸恵との交流と一場哲雄陸士長の無残な最期の場面を重要視している。取り戻せない過去へ向かう者によって蹂躙されながら、いまこの瞬間を生きようと懸命に雨泥を這い進む者がいたことを忘れさせまいという強いカメラアイ(視線)が印象に残った。

保倉幸恵と一場哲雄陸士長は川本三郎に対応する人物であるが、もう一人は菊井良治に対比されている。虚言癖で詭弁家で現代でいえばサイコパスと呼ばれるような、救いのない菊井良治という人物像に対比される一人については、次回に積み残そう。

(敬称略 この項続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする