マイ・バック・ページ 予告編
新左翼過激派が起こした思想的犯罪として、その主犯である菊井良治の独占インタビューという大スクープを狙った朝日ジャーナル川本記者は、あっさり朝日新聞社会部に手柄を横取りされてしまう。
しかし、菊井の「独占インタビュー記事」は掲載されず、結局ボツとなる。警察が思想犯ではなく、たんなる殺人犯として扱うことに倣ったからだった。
川本記者は菊井に尋ねる。自分に念を押すように、そして吐き捨てるように、「君は思想犯なんだよな」。
それ以前にも、菊井が赤衛軍を京浜安保共闘の分派であると称していたのが虚言とわかり、「偽者」という疑いが濃厚になってきて、川本記者は途方に暮れたように尋ねる。「君はいったい何者なんだ」。
菊井がそれに答える場面がないように、監督の山下敦弘や脚本の向井康介もその問いに答えようとはしていない。
「マイ・バック・ページ」がいわゆる社会派映画の与件を備えながら、登場人物への思い入れやあるいは反感などを排した批評的な視点にとどまり、69~71年という特異な時代を扱いながら、時代の熱や光に無関心にみえるのはどうしてか。
菊井と川本の「闘争」と「報道」について、さらには、「思想犯」か「刑法犯」かという困惑や、菊井とはいったい「何者だったのか」、そうした問いについて、山下や向井ら作り手はあらかじめ知っていたからだ。
監督の山下敦弘 昭和51年生(1976~)、脚本の向井康介 昭和52年(1977~ )とも、赤衛軍事件が起きた昭和46年(1971)にはまだ物心はついていない。
一方、二人が青少年期を迎えた90年代は、坂本弁護士一家殺害事件や松本サリン事件、地下鉄サリン事件など、一連のオウム真理教の「テロ事件」が「発覚」した時期である。
菊井はマスコミを利用して売名を図ったり、人脈を広げようとした。マスコミもまた、川本がスクープに釣られたように、その真偽も定かではないまま、「独占取材」のために菊井が起こすだろう襲撃事件を利用しようとした。
それよりはるかに大規模で長期間にわたる「オウム真理教報道」を彼ら後世代の作り手は体験している。何より、配下に襲撃を命じた首謀者の菊井良治に麻原彰晃が重なる。
オウム真理教に翻弄されながらときに利用して、TV局などは莫大な視聴率を稼いだ。当時のマスコミの狂奔ぶりは川本の「暴走」に連なるものだ。
川本がその容疑で逮捕されたように、オウム真理教の拡大に加担し、その犯罪をほう助したといわれてもしかたがない「過熱報道」だったことは記憶に新しい。
その意味では、彼ら作り手は71年に遅れていない。それどころか、いまさら、「事件報道」をめぐる社会派映画をつくる意味があるのかという疑問すら生まれただろう。この映画が企画されたのは2007年、公開されたのは2011年である。
もちろん、映画「マイ・バック・ページ」にオウム真理教への言及などない。川本三郎の原作にあるかどうかも未読なのでわからない。監督の山下敦弘や脚本の向井康介ら作り手も、そうした問いはよく知りはしても、回答や結論を持つわけではないだろう。
それは作り手にかぎらず、私も含めてたいていの人は、両者に相似を見出しながら、そこにとどまっているはずだ。
新聞報道の定型的な結語を当てはめれば、時代は違えども、赤衛軍事件、オウム真理教事件とも、「大衆社会の歪つな側面が表れた事件と報道」となるか。
大衆消費社会でもネット社会でも、あるいはグローバルな社会と、何にでも置換できる、思考停止をうながす予定調和的な結語を一笑に付するほどの問いを、我々はまだ持ち得ていない。
彼らは愚行の果てに犯罪を犯したが、問いこそが答えであるならば、我らはまだ愚行を続けている。
(以上、敬称略)
新左翼過激派が起こした思想的犯罪として、その主犯である菊井良治の独占インタビューという大スクープを狙った朝日ジャーナル川本記者は、あっさり朝日新聞社会部に手柄を横取りされてしまう。
しかし、菊井の「独占インタビュー記事」は掲載されず、結局ボツとなる。警察が思想犯ではなく、たんなる殺人犯として扱うことに倣ったからだった。
川本記者は菊井に尋ねる。自分に念を押すように、そして吐き捨てるように、「君は思想犯なんだよな」。
それ以前にも、菊井が赤衛軍を京浜安保共闘の分派であると称していたのが虚言とわかり、「偽者」という疑いが濃厚になってきて、川本記者は途方に暮れたように尋ねる。「君はいったい何者なんだ」。
菊井がそれに答える場面がないように、監督の山下敦弘や脚本の向井康介もその問いに答えようとはしていない。
「マイ・バック・ページ」がいわゆる社会派映画の与件を備えながら、登場人物への思い入れやあるいは反感などを排した批評的な視点にとどまり、69~71年という特異な時代を扱いながら、時代の熱や光に無関心にみえるのはどうしてか。
菊井と川本の「闘争」と「報道」について、さらには、「思想犯」か「刑法犯」かという困惑や、菊井とはいったい「何者だったのか」、そうした問いについて、山下や向井ら作り手はあらかじめ知っていたからだ。
監督の山下敦弘 昭和51年生(1976~)、脚本の向井康介 昭和52年(1977~ )とも、赤衛軍事件が起きた昭和46年(1971)にはまだ物心はついていない。
一方、二人が青少年期を迎えた90年代は、坂本弁護士一家殺害事件や松本サリン事件、地下鉄サリン事件など、一連のオウム真理教の「テロ事件」が「発覚」した時期である。
菊井はマスコミを利用して売名を図ったり、人脈を広げようとした。マスコミもまた、川本がスクープに釣られたように、その真偽も定かではないまま、「独占取材」のために菊井が起こすだろう襲撃事件を利用しようとした。
それよりはるかに大規模で長期間にわたる「オウム真理教報道」を彼ら後世代の作り手は体験している。何より、配下に襲撃を命じた首謀者の菊井良治に麻原彰晃が重なる。
オウム真理教に翻弄されながらときに利用して、TV局などは莫大な視聴率を稼いだ。当時のマスコミの狂奔ぶりは川本の「暴走」に連なるものだ。
川本がその容疑で逮捕されたように、オウム真理教の拡大に加担し、その犯罪をほう助したといわれてもしかたがない「過熱報道」だったことは記憶に新しい。
その意味では、彼ら作り手は71年に遅れていない。それどころか、いまさら、「事件報道」をめぐる社会派映画をつくる意味があるのかという疑問すら生まれただろう。この映画が企画されたのは2007年、公開されたのは2011年である。
もちろん、映画「マイ・バック・ページ」にオウム真理教への言及などない。川本三郎の原作にあるかどうかも未読なのでわからない。監督の山下敦弘や脚本の向井康介ら作り手も、そうした問いはよく知りはしても、回答や結論を持つわけではないだろう。
それは作り手にかぎらず、私も含めてたいていの人は、両者に相似を見出しながら、そこにとどまっているはずだ。
新聞報道の定型的な結語を当てはめれば、時代は違えども、赤衛軍事件、オウム真理教事件とも、「大衆社会の歪つな側面が表れた事件と報道」となるか。
大衆消費社会でもネット社会でも、あるいはグローバルな社会と、何にでも置換できる、思考停止をうながす予定調和的な結語を一笑に付するほどの問いを、我々はまだ持ち得ていない。
彼らは愚行の果てに犯罪を犯したが、問いこそが答えであるならば、我らはまだ愚行を続けている。
(以上、敬称略)