寺脇研氏といえば、「ゆとり教育」を推進する文部官僚としてTVのニュースバラエティ番組にもたびたび出演していた。お堅い文科省には珍しく役所言葉を使わずに説得しようとするユニークな広報役の登場に、「ミスター・ゆとり教育」とも呼ばれた。
「ゆとり世代」などと揶揄されるように、その後「ゆとり教育」は教育の右傾化のなかで批判にさらされ、退潮していったが、教育問題が取り上げられるときは、現在も寺脇研氏はもときどきTVのコメンテーターをつとめている。尾木某などとは比較にならぬ、教育問題と教育行政の専門家の一人と言える。ところが、最近、新聞に出したコメントがボツになったそうだ。
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=874471639358037&id=100003856271097
率直にいって、この程度の微温的なコメントですら、安倍首相や官邸と近い社上層部の圧力で不採用になったのには、驚いた。ほんとうに、この国は理も非もない国になりつつあるようだ。
「ゆとり教育」と寺脇研氏に対しては、当時、百円ライタの私はやや批判的な立場をとっていた。とにかく、「教育改革」なるものには、「騙されまいぞ」と警戒していたのだが、正直、「ゆとり教育」をよく理解していなかったというのが正直なところだった。
ただ、それ以前は企業広報に携わった者として、寺脇研氏を優秀な広報マンと認めるのにはやぶさかではなかった。広告宣伝屋は掃いて捨てるほどいるのに、広報マンは日本にほとんど見当たらないのが残念だった。アメリカではADよりPRのほうがはるかに格上なのに。
FBにボツコメントを掲載して拡散することは、即メディア批判を意味し、今後、寺脇研氏にコメントの依頼は激減するだろう。少なくとも大手新聞からは。ボツを「暗い声」で報告した記者も有形無形に社内で「冷や飯」を食わされることだろう。
発言の機会と影響力を確保するために、寺脇研氏は波風立てずに黙っている方が得策だったし、記者も上の「圧力」を告げずにうやむやにすることはできたはずだ。そうはしなかった二人を「反骨」と呼べば大仰だろうか。
寺脇研氏を見損なっていたようなので、彼のWikiを読んでみた。
1965年、ラ・サール中学校に首席合格(中学の同級生に俳優・タレントの池畑慎之介(ピーター)がいた)。1971年にラ・サール高校を卒業、高校卒業時の成績は250人中230番台であったが、卒業式では卒業生総代として答辞を述べた。その内容は
「中学から入った150人の生徒は、卒業時は120人になった。成績の悪い生徒を追放して実績をとる。それでもこの学校を素晴らしいと言えるのか」
というものだったため、同級生から喝采を浴び、翌朝の地元紙には「造反答辞」と報じられた。高校卒業後は現役で東京大学に入学、法学部に進学した。
ピーターがラサール中学だったとは驚いた。「なんだいおまいは、安っぽくすぐ驚くんだな」と言わんでください。驚いたんだからしょうがない。
ラ・サール高校を卒業したのが1971年なら、全国の大学だけでなく高校にも広がった学園紛争をまじかに見聞した高校生だったわけだ。なるほど、と頷いてはいけない。そこじゃない。
首席で入学して、ビリ近くの成績で卒業を迎えながら、なぜか卒業生代表として答辞を述べた。そして東大法学部に現役で合格して、二流官庁の文部省に入った。そこです。
寺脇研氏が今回のようなコメントを出し、容れられなければ、すぐになぜだと問いかけたのは、そこの続きなのです。
言わずもがなのことだが、官僚として寺脇研氏はそれほど出世しなかった。華々しく見えた一時期はあったが、最初から次官コースには乗っていなかった。しかし、毀誉褒貶のある前川前事務次官に、少しの留保も、また含むところもなく全面擁護した。
人となりを行動を批判することだけでなく、率直に称えることもまた、相当の覚悟や見識が必要なのです。昔は、「寺脇の研ちゃん、TVに出すぎじゃないか」とちょっとバカにしていてスマナカッタ。
(敬称は略していない)
「ゆとり世代」などと揶揄されるように、その後「ゆとり教育」は教育の右傾化のなかで批判にさらされ、退潮していったが、教育問題が取り上げられるときは、現在も寺脇研氏はもときどきTVのコメンテーターをつとめている。尾木某などとは比較にならぬ、教育問題と教育行政の専門家の一人と言える。ところが、最近、新聞に出したコメントがボツになったそうだ。
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=874471639358037&id=100003856271097
率直にいって、この程度の微温的なコメントですら、安倍首相や官邸と近い社上層部の圧力で不採用になったのには、驚いた。ほんとうに、この国は理も非もない国になりつつあるようだ。
「ゆとり教育」と寺脇研氏に対しては、当時、百円ライタの私はやや批判的な立場をとっていた。とにかく、「教育改革」なるものには、「騙されまいぞ」と警戒していたのだが、正直、「ゆとり教育」をよく理解していなかったというのが正直なところだった。
ただ、それ以前は企業広報に携わった者として、寺脇研氏を優秀な広報マンと認めるのにはやぶさかではなかった。広告宣伝屋は掃いて捨てるほどいるのに、広報マンは日本にほとんど見当たらないのが残念だった。アメリカではADよりPRのほうがはるかに格上なのに。
FBにボツコメントを掲載して拡散することは、即メディア批判を意味し、今後、寺脇研氏にコメントの依頼は激減するだろう。少なくとも大手新聞からは。ボツを「暗い声」で報告した記者も有形無形に社内で「冷や飯」を食わされることだろう。
発言の機会と影響力を確保するために、寺脇研氏は波風立てずに黙っている方が得策だったし、記者も上の「圧力」を告げずにうやむやにすることはできたはずだ。そうはしなかった二人を「反骨」と呼べば大仰だろうか。
寺脇研氏を見損なっていたようなので、彼のWikiを読んでみた。
1965年、ラ・サール中学校に首席合格(中学の同級生に俳優・タレントの池畑慎之介(ピーター)がいた)。1971年にラ・サール高校を卒業、高校卒業時の成績は250人中230番台であったが、卒業式では卒業生総代として答辞を述べた。その内容は
「中学から入った150人の生徒は、卒業時は120人になった。成績の悪い生徒を追放して実績をとる。それでもこの学校を素晴らしいと言えるのか」
というものだったため、同級生から喝采を浴び、翌朝の地元紙には「造反答辞」と報じられた。高校卒業後は現役で東京大学に入学、法学部に進学した。
ピーターがラサール中学だったとは驚いた。「なんだいおまいは、安っぽくすぐ驚くんだな」と言わんでください。驚いたんだからしょうがない。
ラ・サール高校を卒業したのが1971年なら、全国の大学だけでなく高校にも広がった学園紛争をまじかに見聞した高校生だったわけだ。なるほど、と頷いてはいけない。そこじゃない。
首席で入学して、ビリ近くの成績で卒業を迎えながら、なぜか卒業生代表として答辞を述べた。そして東大法学部に現役で合格して、二流官庁の文部省に入った。そこです。
寺脇研氏が今回のようなコメントを出し、容れられなければ、すぐになぜだと問いかけたのは、そこの続きなのです。
言わずもがなのことだが、官僚として寺脇研氏はそれほど出世しなかった。華々しく見えた一時期はあったが、最初から次官コースには乗っていなかった。しかし、毀誉褒貶のある前川前事務次官に、少しの留保も、また含むところもなく全面擁護した。
人となりを行動を批判することだけでなく、率直に称えることもまた、相当の覚悟や見識が必要なのです。昔は、「寺脇の研ちゃん、TVに出すぎじゃないか」とちょっとバカにしていてスマナカッタ。
(敬称は略していない)