コタツ評論

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なんとピーターは

2017-05-28 01:08:00 | 政治
寺脇研氏といえば、「ゆとり教育」を推進する文部官僚としてTVのニュースバラエティ番組にもたびたび出演していた。お堅い文科省には珍しく役所言葉を使わずに説得しようとするユニークな広報役の登場に、「ミスター・ゆとり教育」とも呼ばれた。

「ゆとり世代」などと揶揄されるように、その後「ゆとり教育」は教育の右傾化のなかで批判にさらされ、退潮していったが、教育問題が取り上げられるときは、現在も寺脇研氏はもときどきTVのコメンテーターをつとめている。尾木某などとは比較にならぬ、教育問題と教育行政の専門家の一人と言える。ところが、最近、新聞に出したコメントがボツになったそうだ。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=874471639358037&id=100003856271097



率直にいって、この程度の微温的なコメントですら、安倍首相や官邸と近い社上層部の圧力で不採用になったのには、驚いた。ほんとうに、この国は理も非もない国になりつつあるようだ。

「ゆとり教育」と寺脇研氏に対しては、当時、百円ライタの私はやや批判的な立場をとっていた。とにかく、「教育改革」なるものには、「騙されまいぞ」と警戒していたのだが、正直、「ゆとり教育」をよく理解していなかったというのが正直なところだった。

ただ、それ以前は企業広報に携わった者として、寺脇研氏を優秀な広報マンと認めるのにはやぶさかではなかった。広告宣伝屋は掃いて捨てるほどいるのに、広報マンは日本にほとんど見当たらないのが残念だった。アメリカではADよりPRのほうがはるかに格上なのに。

FBにボツコメントを掲載して拡散することは、即メディア批判を意味し、今後、寺脇研氏にコメントの依頼は激減するだろう。少なくとも大手新聞からは。ボツを「暗い声」で報告した記者も有形無形に社内で「冷や飯」を食わされることだろう。

発言の機会と影響力を確保するために、寺脇研氏は波風立てずに黙っている方が得策だったし、記者も上の「圧力」を告げずにうやむやにすることはできたはずだ。そうはしなかった二人を「反骨」と呼べば大仰だろうか。

寺脇研氏を見損なっていたようなので、彼のWikiを読んでみた。

1965年、ラ・サール中学校に首席合格(中学の同級生に俳優・タレントの池畑慎之介(ピーター)がいた)。1971年にラ・サール高校を卒業、高校卒業時の成績は250人中230番台であったが、卒業式では卒業生総代として答辞を述べた。その内容は

「中学から入った150人の生徒は、卒業時は120人になった。成績の悪い生徒を追放して実績をとる。それでもこの学校を素晴らしいと言えるのか」

というものだったため、同級生から喝采を浴び、翌朝の地元紙には「造反答辞」と報じられた。高校卒業後は現役で東京大学に入学、法学部に進学した。

ピーターがラサール中学だったとは驚いた。「なんだいおまいは、安っぽくすぐ驚くんだな」と言わんでください。驚いたんだからしょうがない。

ラ・サール高校を卒業したのが1971年なら、全国の大学だけでなく高校にも広がった学園紛争をまじかに見聞した高校生だったわけだ。なるほど、と頷いてはいけない。そこじゃない。

首席で入学して、ビリ近くの成績で卒業を迎えながら、なぜか卒業生代表として答辞を述べた。そして東大法学部に現役で合格して、二流官庁の文部省に入った。そこです。

寺脇研氏が今回のようなコメントを出し、容れられなければ、すぐになぜだと問いかけたのは、そこの続きなのです。

言わずもがなのことだが、官僚として寺脇研氏はそれほど出世しなかった。華々しく見えた一時期はあったが、最初から次官コースには乗っていなかった。しかし、毀誉褒貶のある前川前事務次官に、少しの留保も、また含むところもなく全面擁護した。

人となりを行動を批判することだけでなく、率直に称えることもまた、相当の覚悟や見識が必要なのです。昔は、「寺脇の研ちゃん、TVに出すぎじゃないか」とちょっとバカにしていてスマナカッタ。

(敬称は略していない)
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今夜はネイチャーボーイ

2017-05-12 23:36:00 | 音楽
ナットキングコールが歌ってヒットした名曲中の名曲ですから、たくさんの歌手や演奏家を魅了しています。

Caroline Henderson - Nature Boy


Maya Belsitzman & Matan Ephrat - Nature Boy


Nature Boy - Connie Evingson


David Bowie - Nature Boy


歌詞はごく平易なので訳す必要はないでしょう。
loved in return 愛し返される、という表現があるんですね。

There was a boy
A very strange enchanted boy
They say he wandered very far, very far
Over land and sea
A little shy and sad of eye
But very wise was he
And then one day
A magic day he passed my way
And while we spoke of many things
Fools and kings
This he said to me
The greatest thing you'll ever learn
Is just to love and be loved in return
The greatest thing you'll ever learn
Is just to love and be loved in return

(敬称略)

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推量が過ぎますが

2017-05-12 00:06:00 | 政治
ネトウヨや菅官房長官の「旭日旗」擁護はデタラメ! 侵略戦争で「天皇の分身の旗」と崇めた負の歴史を直視せよ
http://lite-ra.com/2017/05/post-3142.html

これは、「売らんかな」記事です。

「売らんかな」とは「何が何でも売ってやろう」という意。「おう、なかなか元気やな。商売人はそのくらいでええんやないか」ではなく、「君ぃ、売り込み文句と正味がずいぶん違うんじゃないのかね」とふつうは悪い意味で使われます。

えーと、そこの関西の青少年、「売らん」は「知らん」や「要らん」などの口語ではありません。それでは真逆の意味になってしまいます。いや、「売らんかな?(売るんかな?)」とはまったく違います。

「売らん」の「らん」は「らむ」という古い言葉が元になっていて、「らむ」は百人一首の有名な歌にも使われています。

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ  紀 友則

「らむ(らん)」は「推量の助動詞」と辞書には載っています。「散るらむ」の場合は、桜の花が散っているという事実から、「しづ心なく(心落ちつかず)と桜の気持ちを推量しているわけです。

「こんなにのどかな春の陽ざしなのに、どうして桜は心落ちつかず散ってばかりいるのだろうか」とでも訳せます。

「売らん」の「らん」もこの「らむ」なので、「売ろうとしている」、あるいはもっと露骨に「売りつけようとしている」と言い換えられます。

これに、「かな」が付くとより強調する表現になります。「かな」も「哉」という昔の言葉で、俳句ではおなじみの「詠嘆・感動の意を表す。…だなあ。…なあ」という表現です。

流れゆく大根の葉の早さかな 高浜 虚子

主婦が夕ご飯のおかずにするために大根を小川で洗っています。タワシでゴシゴシ大根の土を落としているうちに、勢いあまって大根葉がちぎれ、あっと思うまもなく流れていってしまった。その早いことといったら!

もしかすると、主婦ではなく、虚子自身が大根を洗っていたのかもしれませんが、「早さかな」と驚嘆したときは、懐手をして大根洗いを眺めている俳人の視点になっているのです。

「売らん」と同じく「かな」も他者の視点であることが肝です。「売らんかな、です。自分のビジネススタイルは」という人はいなくて、どこまでも他人からの見立てなのです。

「こんな商品を売りつけようとするなんて、よくやるなあ」といったところでしょうか。商業主義そのものは否定しないけれど、取扱い商品がたいしたものではないし、その売り方がえげつないのではないかと推量しているわけです。

今回のたいしたことのない取扱い商品とは、「旭日旗」批難論であり、それを売りつけるために、えげつなく「旭日旗」擁護論が罵倒されています。



あまりに頭が悪すぎて驚愕である。

本当にヤバいとしか言いようがない。

まったくため息しか出ないが、

旭日旗をたんに「かっこいいデザイン」とみなして無害化する考え方は、道化にもほどがある。

それは戯言でしかない。

もはや反論にすらなっていないだろう

それも認識が浅薄すぎると言わざるをえない。

旗を天皇の分身と見なして人命より重く扱う価値観は、どう考えてもカルトである。

そこまでいうか、とばかりに罵倒を重ねてきて、最後の結びがこれです。

ネトウヨや安倍政権は論外だとしても、心あるサッカーファンたちが「健全な愛国心」を標榜するのならば、いまこそ、冷静な視座に立つことを求めたい。

この記事の罵倒に倣えば、「冷静な視座に立つ」とは、どの口が云うかと開いた口がふさがらない、とでもいいたくなります。

しかし、開いた口を閉じて、ちょっと考えてみると、いかにもとってつけたような一行です。そのちぐはぐ感に気づくと、上記の頻発する罵倒語もいかにもとってつけたようではありませんか。

この記事の構成は、考え得るかぎりの「旭日旗」擁護論に逐一反論を加えていくという真面目なものです。お手軽に誰かの反論を引用するのではなく、近代史文献や一次資料を渉猟した跡もあり、
「旭日旗」論争をめぐる一通りの事実関係を知るにはなかなか役に立つ労作記事といえます。

皮肉なことに、その網羅的な記述のおかげで、「旭日旗」擁護論にも有用にもなっているほどです。

陸軍の軍旗は、中央に日章(日の丸)を位置し、そこから放射状に16条の光線が先端になるにつれ太く伸びる意匠。法令で制定されたのは1874(明治7)年だ。

日本では、幕府時代から日章旗が軍艦旗としても使われたが、1889(明治22)年の海軍旗章条例によって16光線条の旭日旗が正式な軍艦旗として定められた。

ならば、幕末や明治初期から使われていた旭日旗を「日本軍国主義の象徴」とするのは、いかにも無理があるだろうと旭日旗の「歴史遺産論」を擁護できてしまいます。

つまり、罵倒できるほど強力な論証ではなく、むしろ論証の説得力の乏しさを罵倒でカバーしているとも読めます。

その上で、安倍政権の大黒柱である菅官房長官をターゲットに含めて罵倒するインパクトを狙ったとすれば、「とってつけた」のは編集ではないかという推量が嵩を上げてきます。

報道といい、ジャーナリズムといえど、あらゆる商業的な文章には編集者という会社側の手が入ります。記事のタイトルやリードという要約、小見出しなどは編集者が書くもので、筆者が手掛けるものではありません。たとえば、

ネトウヨや菅官房長官の「旭日旗」擁護はデタラメ! 侵略戦争で「天皇の分身の旗」と崇めた負の歴史を直視せよ

というタイトルは古くさいものの、簡にして要を得た、適切なものです。

編集者の業務のひとつである「原稿整理」として、受け取った原稿の誤字脱字や事実関係の間違いを訂正する「校正」だけでなく、読者に読みやすくわかりやすい文章に直すということもよく行われます。

その過程で、罵倒語を書き加えることによって、「負の歴史」論証より、「擁護はデタラメ」論旨を強く印象づけようとした編集者の力業なのかもしれません。ならば、とってつけたようなちぐはぐ感は頷けるものです。

もちろん、それほどの改変をする場合は、筆者と相談・確認の上であり、そのときの編集者の助言に従って、筆者自身が書き加える、書き直すこともよくあることです。

その場合、編集者は会社を代表して「売らんかな」という立場に立っていますから、会社組織からは一介の下請け業者に過ぎない筆者は、まず抗うことはできません。

あるいは、「リベラル啖呵売」というこの会社のビジネスモデルを忖度して、または、「リベラル売文業者」の一人として、「売らんかな」に積極的に乗ったという可能性もないとはいえません。

いずれにしろ、編集者も筆者もじゅうぶんな仕事をしながら、結局、「売らんかな」に奉仕しているに過ぎないわけで、旭日旗になど誰も関心はないのです。もちろん、私も。

旭日旗やがて哀しき売らんかな

誰ですか、「売れるものがあるうちはいい」と嘯いているのは。
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ベンチがアホでも野球はできる

2017-05-06 11:54:00 | レンタルDVD映画

カンヌ映画祭にて。右から古舘寛治、深田晃司監督、筒井真理子、浅野忠信。

新作ビデオレンタルで、「淵に立つ」を観た。

家族の深淵を見下ろす映画なので、家族で観る映画ではない。監督も夫婦やカップルで観てほしいと思っているのではないか。

傑作と評価は高いが、秀作であることは間違いないだろう。夫婦を演じた筒井真理子と古舘寛治の瞠目すべき演技、浅野忠信の得体のしれない怖さ、それだけでも世界水準に達しているように思う。

なんだか、歯切れが悪くないか? とお思いかもしれない。それは認めます。

よい映画を観終わった満足感に浸り、その余韻のままに、検索して公式サイトを読み出し、カンヌ映画祭をはじめとする内外の絶賛コメントやレビューに目を通して、うんうんと頷いていたのだ。深田晃司監督のインタビュウを読むまでは。

日本の俳優はもちろん、監督インタビューもたいていありきたりの無芸小食が多いので期待していなかったが、これには右眉が上がった。

Q:また、ヨーロッパでは家族よりも夫婦やカップルを題材にした映画が多いのに比べて、日本は家族の映画が多いのはなぜですか?

A:残念ながら日本には伝統的父権的な家族制度が色濃く残っていて、与党もそれを推進している現実があります。多くのカップルは子どもが生まれた時から、外で働く父、家庭を守る母の役割を演ずるようになる。日本に生きる人間を描こうとすると、家族との関係性がより強く浮き出てくるのはそのような社会背景が理由だと思う。

あくまでもこのとおりの発言をしたという前提での話だが、まず、「残念ながら」に引っかかった。「残念ながら」によって、あきらかに、「父権的な家族制度」を遅れて劣った家族制度と位置付けているが、そんな常識や定説があるとは知らなかった。家族制度に先進や後進があるのか?

そして、「色濃く残っていて」だ。どこに? 日本のどこに?「外で働く父、家庭を守る母」が根拠らしい。日本の専業主婦の割合が欧米に比べて、あるいは中国や韓国よりも高いのが、日本の「父権的な家族制度」を裏づけているのか? 

女性の就業率の低さを「父権的な家族制度」以外の要因で説明することはいくらもできるが、いくつか反問するだけで事足りよう。

そこのお父さん、旦那さん、おじいさん、あなた、父権なんてものをかざしたことがこれまでの人生で一度でもありますか? そこの娘さん、奥さん、お母さん、おばさん、おばあさん、あなたの就職を父や夫や兄弟や親せきから、「女の癖に」と反対されたことがありますか?

「与党もそれを推進している現実があります」で語るに落ちたと思った。ひとつには、自分はリベラルであるというただのポジショントークであること。ふたつには、安倍政権が「反動的」な家族制度を改憲の論議や教育現場に持ち込もうとしているのは、まさしく「父権的な家族制度」が不在のためだという現実に目を閉ざしていること。

こういう認識なら、小津安二郎の「東京物語」は「父権的な家族制度」を描いた作品ということになるのか? あるいは、「父権的な家族制度」が新しい時代の到来によって瓦解していく哀惜と希望の物語とでも読むのか?

片言隻句をとらえてそうムキにならずともと思われるかもしれないが、映画の出来がよかっただけに、そのテーマであったはずの「日本の家族」に対する監督の浅薄な理解への落胆も大きいのである。

小林秀雄か誰かが、「芸談は聞くに値しない」という風なことをいっていたが、尊敬すべき芸の持ち主であるからといって、その芸を語る資格があるとはかぎらないわけだ。

そういう落胆から遡れば、ようするに、西欧式の「罪と罰」を導入してカンヌ映画祭受賞を狙った「逆オリエンタリズム」作品なのかと悪態をつきたいところだが、映画は監督だけのものではない。

現場に携わった俳優をはじめ、多くのスタッフの集合知からなる協働体によって生み出された作品であることは言うまでもない。気の利いたことが言えずくだらないことを言うくらいなら黙っとけよ、というのはプロデューサーの役目だが、「残念ながら」日本にはプロデューサーがいないおかげで、監督がお山の大将になりがちなのだ。

それはともかく、とても優れたよい映画です。お勧めします。

(敬称略)




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ホッカイローのケイコタン2

2017-05-04 13:53:00 | 音楽
藤圭子がCOVERした歌はどれも名曲であり、それぞれがオリジナルの歌い手たちの名唱として知られた歌ばかりです。それを藤圭子が歌うとどうなるか。元歌ではなく原曲に忠実にリセットされ、ジャズでいうスタンダードナンバーに歌い換えてしまうのです。元歌を知っていても知らなくても、少しもかまいません。ただ歌だけが聴こえてくるのです。スタン・ゲッツの”The Sound”に倣えば、彼女は ”The Voice”とでも呼べるでしょうか。

まずは、田端義夫の大利根月夜から参りましょう。

大利根月夜


次は、天皇賞馬キタサンブラックの馬主の代表曲です。

兄弟仁義


続いて、昭和45年10月、渋谷公会堂のライブ音源から3曲を。このとき彼女はなんと19歳です。

カスバの女 




長崎は今日も雨だった
 



池袋の夜 


これは生録なので音質は悪いが、暴れ馬のような曲を楽々と歌いこなしています。

【貴重生録】無法松の一生(度胸千両入り)


ある意味で、これがいちばん凄いかもしれません。とにかく、お聴きあれ。

別れの朝


この胸のときめきを 昭和46年7月 サンケイホール


(敬称略)


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