コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

瞳の奥の秘密 2

2011-02-28 23:54:00 | レンタルDVD映画


これまで、まだ観ていない、まだ読んでいない人のために、あらすじや犯人がわかるような書き方を避けてきました。触れざるを得ないときは、ここから先を読まないように注意をうながしてきました。しかし、考えてみれば、とくに、そういうルールやしきたりがあるわけではありません。

商業的な新聞や雑誌が、映画や小説の内容を明かさないように配慮して書くのは、未見未読の人に迷惑をかけないためというより、たんに営業妨害を懼れているからです。それも、他所様(よそさま)の商売の邪魔をしてはならない、という商人同士のルールやしきたりにのっとったものではなく、その映画や小説、もしくはその映画を製作した映画会社やその小説を出版している出版社からの、広告宣伝費を収入源にしているからです。

「驚愕のラスト! 謎を解くのはあなた」などと金をとって広告を掲載しながら、ほかの紙面の映画評や紹介で「驚愕のラスト!」をバラしたなら商道徳、商慣習以上に、商契約に背くものと批判されてもしかたがありません。当ブログは、いうまでもなく、どの企業とも、いっさい利害関係はありません。したがって、必要とあれば、という恣意に基づき、あらすじや犯人に触れます。

ということで、今後、
あなたの代わりに観ました、読みました。
という立場をとらせていただきます。

つまり、一人の観客、一人の読者という立場です(あたりまえですが)。俺が観たように、読んだように、あなたも観る読むだろう。まったく同一ではないだろうが、多少は、という立場です。多少とは、「そのとおり」から「全然、ちっとも」までの幅です。俺とあなたが、同じ映画や本に接しながら、違う感想を持つのは、俺とあなたが違う人間だからですが、それはすなわち、俺とあなたは違う映画や本を観た読んだからともいえます。

もちろん、同じ映画や本をいっとき共有したわけですから、同じか似たような影響を受けているのは間違いなく、観た読んだ前と後では、俺とあなたは多少変化しているものです。さらに感想を書くことで、俺はもういちど内側で、映画を観直し、本を読み直して、います。それは、映画を撮り直し、本を書き直しているに近いことです。あなたはあなたで、事後、映画のセリフを使ってみて、受けたり、引かれたり、彼女や彼氏や周囲に置き換えて観察してみたり、やはり、いろいろと、撮り直し、書き直しているはずです。

観客や読者の数と同じか、それ以上の映画や本が創られている。それ以上というのは、一人で何本も創る人がいるからですが。そして、それ以上、その数をはるかに越えて、観客や読者にならない人がいます。それぞれいろいろな事情がある、観ない読まない「観客」や「読者」です。そうした人々に、当ブログは、こういえば口幅ったいことこの上ないのですが、コタツが取り直した映画や書き直した本を提供していると思ってください。

宴会やパーティがはじまっている。どうやら、乾杯が行なわれるらしい。見知らぬ人だけれど、近くの人が、「ま、いっぱい」とか「どうぞ」とか、お銚子やビール瓶を傾けて、あなたの手のお猪口やコップに注いでくれることがあります。俺はそういう人なのですね。「乾杯!」の音頭がすんだら、あとはウイスキーに向かうも、ウーロン茶を探すも、ローストビーフの行列に並ぶも、寿司をつまむも、壁に凭れるも、あなたの自由です。あなたがいる、その場所こそ、その映画や本の場所なのですから。

もちろん、宴会やパーティに慣れた人もいるでしょうし、俺より通な人もいるでしょうが、この宴会場やパーティ会場を予約セッティングしたのは俺ですから、とりあえずご案内くらいはさせてください。「ほら、俺の後ろについてきて」とは申しません。あなたに控えめにつき従い、あちらに有名俳優のあの方が、こちらに天才監督の酒乱が、むこうに落丁があるシナリオが、その横に眠って起きないカメラが、悪趣味な衣装がはためき、安物のセットがきしみ、素晴らしい新人歌手が発声練習し、落ち目のプロデューサーが涙ぐみ、と袖を引くくらいは赦してください。

ことさら申し上げるまでもないことを長々書き連ね、失礼いたしました。

あなたの代わりにはならないけれど、
あなたの代わりに観ました、読みました
ということで、以後よろしく。

というわけで、映画「瞳の奥の秘密」の犯人は、ゴメスです。ほんとうの主人公は、モラレスです。
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瞳の奥の秘密 

2011-02-27 01:10:00 | レンタルDVD映画


これは一人で観る映画です。
「お父さん、ほら、お茶入ってるって、冷めるわよっ」「雅美、明日の学校の支度、だいじょうぶなの?」なんて環境に、ビデオの一時停止を押していたら、感興だいなしです。時間の映画だからです。上映時間が2時間9分と長い。映画の中の時間が25年間と長い。忙しいお母さんなら、いつになったら終わるの、こんな悠長な映画にはつきあってられないわ、と焦り出すでしょう。お母さんには、昼下がりの午後か、働いているなら、休日のみなが出払った後、夕食はピザハットあたりを手配することにして、ちょっと高めの煎茶でも用意してから、DVDを入れて下さい。

瞳の奥の秘密 El secreto de sus ojos(よくできた予告編です)

2009年のアルゼンチン映画です。男女2組が登場します。恋愛映画ではありません。愛についての映画です。それも生涯をかけた愛。人生は一度限り、命も一回限りですから、すなわち永遠の愛。そういう映画は、一家団欒で観るものではないですね。呆けた顔で見入る古女房の横顔と湯呑みの茶渋を見比べるような日常を忘れるにはうってつけですが、「タイタニック」のように浮世離れしているわけではありません。逆です。きわめてリアルに語られます。その上で、生涯をかけた愛はある、あり得るのだと説得してくれます。

主人公は定年退職した刑事裁判所の捜査官エスポジト。暇にまかせて柄にもなく小説を書いています。テーマは25年前の若妻暴行殺人事件。久しぶりに元上司、いまは検事に出世したイレーネのオフィスを訪ねます。エルポジトの小説を読むことで回想シーンに移り、若妻暴行殺人事件の捜査と犯人の追跡が進みます。同時に、エルポジトとイレーネが、たがいに惹かれ合いながら結ばれなかった過去も、徐々に明らかにされていきます。この中年の男女一組。もう一組は、殺された若妻と残された銀行員の夫モラレスです。

いずれも、ごく平凡な男女です。飛び抜けた容姿ではないし、際立った能力があるわけでもなく、特異な考え方をするのでもない。けれど、非凡な愛の姿を見せてくれます。そして、驚愕のラスト! これまで、「驚愕のラスト」に驚愕した覚えはありませんが、これには驚きました。「えっ」や「うわっ」ではなく、「う~む」と驚きました。そんな驚きかたの経験あります? 「う~む」と驚く。あるんですよ、これが。やっぱり、そこかあ、とよくある「驚愕のラスト」に納得させかけて、まったく違う「驚愕のラスト」を重ねる。よくある手です。なるほどね、ま、それでもいいか、うん? ちょっと待てよ、そうすると、この映画の25年間の時間の意味とは? 「う~む」「う~む」「う~む」。
(続く)
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明日は19度

2011-02-24 23:49:00 | 音楽
ティナ・ブルックスの「ティナ」にはチビという意味があるそうな。堂々たる鏡獅子ティナ・ターナーのティナはとてもそうとは思えないが。そういえば、宇崎竜童に「愛しのティナ」という歌もあった。友人のマルスなら、昔、イナカのジャズ喫茶でよくかかった曲だなとせせら笑いそうだが、2曲。




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映画 告白

2011-02-23 03:17:00 | レンタルDVD映画


原作に忠実に、よくまとまっている。原作を読んだときには気づかなかったが、映画を観ていて気づいたことがある。「命の重さ」がテーマだということだ。

「命は重い派」は、森口悠子先生、寺田良輝先生、桜宮正義先生、「命は軽い派」は、渡辺修哉生徒、下村直樹生徒、北原美月生徒に分けて異論はないだろう。あるいは、「殺してはいけない派」と「殺してもかまわない派」と言い換えることもできるだろう。

この命とは、いったい誰の命を指しているのかと考えてみると、つまり、他人(ひと)の命のことのようだ。秋葉原無差別殺傷事件をはじめとする、とりたてて理由もなく人々を殺してまわった、若者を犯人とする一連の通り魔殺人事件を踏まえている。そうみてよいだろう。

これらの事件を思い起こしてみると、いずれの事件にも共通しているのは、犯人が自殺の巻き添えに他人(ひと)を殺したとみられることだ。死刑に処せられることで、間接的な自殺をめざしたようだ。もちろん、それが動機のすべてではないだろうが、逃亡するという計画はなく死刑か服役以外の結末以外を彼らも考えなかっただろう。

自殺というのは、字の通り自分で自分を殺すことにほかならない。自分の死や命を重く受け止めていないから、他人(ひと)の死や命も重く思えない。自分を殺すのだから、他人(ひと)を殺すのもその延長だ。そう彼らが考えたかどうかはわからないが、そうした推測が成り立つとすれば、まず、彼らにいうべきことは、順序として、自分を殺すな、死ぬな、ということだろう。

もし、それを言う機会があったとしたら、まだ彼らは事件を起こしてはいないのだから、誰でも、まず、君の命は重い、だから君を殺すな、と言うだろう。そう言ったり言いそうな人間は、この映画には一人も出てこなかった。もちろん、桜宮正義先生や寺田良輝先生はそう言ってきただろうし、娘を殺される前なら、森口悠子先生もそう言っていたかもしれない。

一般論として、教育の言葉として。他人(ひと)の命の重さに気づかせるためのレトリックとして、「自分を大切に」という、あれだ。学校という集団生活、社会という共同体を営むためには、まず他人(ひと)に迷惑をかけず、それがまわりまわって自らの安全や安心につながるというルールを学ばせるために、「自分を大切にできない人間は、他人(ひと)を大切にできない」と語られる。

しかし、自殺の巻き添えに見知らぬ他人(ひと)を殺そうとする若者が眼前にいたとしたら、同じように、他人(ひと)の命は重い、命は大切だ、と言うだろうか。言えるだろうか。あるいは、自殺するとしても、他人(ひと)を巻き添えにするな、というだろうか。俺だけでなく誰でも、まず自殺するな、と説得するだろう。君の命について君がどう思おうと、君の命は重く大切だ、と言うだろう。

お前は、ウェルテルかと鼻で笑われるかもしれない。どのようにいっても、相手には届かないかもしれない。一般論や教育の言葉として発語しているわけではないが、効果はあまり期待できないだろう。結局、俺の命が大事、誰の命より、俺の命が重い、そう思うのは自分自身しかいないからだ。俺以外の人間で、俺ほど俺の命を、大事に思ってくれる人が、例外的にいるとすれば、近親だけだろう。

直樹の母下村優子だけは、直樹の命の重さ、大切さを、自分のことのように思っていた。「直樹は優しいよい子」という彼女の譫言(うわごと)は、「直樹の命が大事、誰の命より、直樹の命が重い」と同様である。したがって、ただのエゴイスティックで愚かな母親という描き方は皮相に思える。この下村母子、渡辺母子、森口母子と、母子の関係を分担して描いたことで、それぞれが一面的になったことが、この映画への最大の不満だ。

さて、「俺」の命は重いか。「汝の隣人を愛せ」というイエス・キリストの言葉が伝えられているが、これが一般論ではなく、教育の言葉でもないのは、「汝自身を愛するように」と付言されているからだ。汝に限定し、汝のエゴを認めているからだ。イエスなら、やはり、直樹の母のように、直樹にいうだろう。「お前の命は、欠けがえのない大切なものなのだ」と。

「人を殺しても少年法によって守られる」というセリフが繰り返し出てくるように、加害者に対して被害者の非対称な「命の軽さ」を指摘し、他人(ひと)の命を軽く考えてはいけないとはしているが、「命の重さ」にまでは下りていないと思えた。「命の軽さ」には、関心の持ちようがない。俺の命が大事、誰の命より、俺の命が重い。俺はそう思っているからだ。

「よくまとまっている」といわれた場合、一般的に、褒め言葉ではないことが多い。かといって、貶しているというほどでもない。あまり、関心を抱けなかったというのが近いだろう。監督の中島哲也は、あの傑作「嫌われ松子の一生」(2006)を撮っているから期待したのだが、残念だった。

(敬称略)
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第1刷

2011-02-19 23:10:00 | ブックオフ本


新刊書も買うのだが、入手した本の8割は古本だ。古本買いの5割を占めるのが100円特価なのだが、100円特価本の奥付を読むと、たいていが第1刷である。「いちずり」と読み、初版と意味するところは同じ。増刷(ぞうさつと読み、ましずりとはいわない)されなかった本だ。大量に売れたか、あまり売れなかったか。いずれにしろ、100円特価本に流れてくるわけで、何かなるほどね、と思う。

もちろん、俺はシドニィ・シェルダンとか、『FBI心理分析官』とか、『マディソン郡の橋』といったベストセラー本には手を出さない。気取っているわけではなく、ベストセラーとは、みんなが買って読んで話題になっている、そのときに読まねば、ちっとも面白くないからだ。だから、たいていは、そんな本があったのかという、あまり売れなかった100円特価本を買う場合が多い。というわけで、この100円本にはちょっと驚いた次第。

2003年 4月25日 第 1刷発行 
2005年11月15日 第14刷発行

1刷当たり3000~5000部として、5~7万部は売っている計算になるから、ミリオンセラーといってよいが、なんとこれが初の短編小説集なんだそうだ。

『ボロボロになった人へ』(リリー・フランキー 幻冬舎)

文学賞をとったわけでもないのにこれほど売れるとは、リリー・フランキーとはたいした人気作家らしい。さっそく読んでみた。

大麻農家の花嫁
-大麻を栽培する農家へ嫁ごうとする娘の話。舅はカウンタックで野良へ行き、青山の紀伊国屋スーパーから空輸した食材で、オランダから出稼ぎに来た大麻栽培の職人たちと夕餉を囲む。

死刑
ー万引きも含めてあらゆる犯罪は死刑と定められた未来社会。裁判と弁護士は、死刑の方法を争うためにある。ギロチンや絞首刑は弁護側の大勝利。40人の幼児による金属バットの撲殺とか。

ねぎぼうず
-セックス依存症だった主婦が、行きずりにセックスした、一度だけの男に探し出されるが、どうしても思い出せなくて困っている。

おさびし島
ー都会生活に疲れたカメラマンが失踪を企て、何もない南の島に渡るが、そこには凪子というオサセの少女がいて、ちょっと働いて酒飲んでセックスして、という島の男になっていく。

Little baby nothing
ー何者にもなりたくなくて、何者にもなれない、若いだけのバカ者3人組が、ゴミ捨て場に捨てられていた美少女を拾ったことから、それぞれ変化していく。

ボロボロになった人へ
ー戦争でボロボロになったが、いまは爪が痛い兵士。

というような筋は、どうでもいい小説だった。「大麻農家の花嫁」「死刑」は、初期の筒井康隆の影響をうかがわせるブラックな哄笑と演劇的なセリフ回しは不発気味だが、まあ、「芸術は爆発だあ!」(@岡本太郎)とは無縁な緩さが持ち味かもしれない。なんとなく、すいすい読める。「だからなんなんだ」とは思わないから、読んでいる間は少し心地よい。読み終わっても、何も起こらないし、何も変わらず、何かを考えたりもしない。何かがあるとは思わないが、またこの人の小説が出たら、読んでみたい気がする。

小説としては、「Little baby nothing」の青春物語がもっともまとまっているが、実話雑誌の告白手記のような「ねぎぼうず」みたいなタッチが、この人らしい作品かと思う。生々しいようで生々しくない、関係しているようで関係していない、そんなセックスをしている女の姿形と表情を描いてほしい。全然違うが、とりあえず、平成の吉行淳之介ということで、期待しています。

(敬称略)

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