これまで、まだ観ていない、まだ読んでいない人のために、あらすじや犯人がわかるような書き方を避けてきました。触れざるを得ないときは、ここから先を読まないように注意をうながしてきました。しかし、考えてみれば、とくに、そういうルールやしきたりがあるわけではありません。
商業的な新聞や雑誌が、映画や小説の内容を明かさないように配慮して書くのは、未見未読の人に迷惑をかけないためというより、たんに営業妨害を懼れているからです。それも、他所様(よそさま)の商売の邪魔をしてはならない、という商人同士のルールやしきたりにのっとったものではなく、その映画や小説、もしくはその映画を製作した映画会社やその小説を出版している出版社からの、広告宣伝費を収入源にしているからです。
「驚愕のラスト! 謎を解くのはあなた」などと金をとって広告を掲載しながら、ほかの紙面の映画評や紹介で「驚愕のラスト!」をバラしたなら商道徳、商慣習以上に、商契約に背くものと批判されてもしかたがありません。当ブログは、いうまでもなく、どの企業とも、いっさい利害関係はありません。したがって、必要とあれば、という恣意に基づき、あらすじや犯人に触れます。
ということで、今後、
あなたの代わりに観ました、読みました。
という立場をとらせていただきます。
つまり、一人の観客、一人の読者という立場です(あたりまえですが)。俺が観たように、読んだように、あなたも観る読むだろう。まったく同一ではないだろうが、多少は、という立場です。多少とは、「そのとおり」から「全然、ちっとも」までの幅です。俺とあなたが、同じ映画や本に接しながら、違う感想を持つのは、俺とあなたが違う人間だからですが、それはすなわち、俺とあなたは違う映画や本を観た読んだからともいえます。
もちろん、同じ映画や本をいっとき共有したわけですから、同じか似たような影響を受けているのは間違いなく、観た読んだ前と後では、俺とあなたは多少変化しているものです。さらに感想を書くことで、俺はもういちど内側で、映画を観直し、本を読み直して、います。それは、映画を撮り直し、本を書き直しているに近いことです。あなたはあなたで、事後、映画のセリフを使ってみて、受けたり、引かれたり、彼女や彼氏や周囲に置き換えて観察してみたり、やはり、いろいろと、撮り直し、書き直しているはずです。
観客や読者の数と同じか、それ以上の映画や本が創られている。それ以上というのは、一人で何本も創る人がいるからですが。そして、それ以上、その数をはるかに越えて、観客や読者にならない人がいます。それぞれいろいろな事情がある、観ない読まない「観客」や「読者」です。そうした人々に、当ブログは、こういえば口幅ったいことこの上ないのですが、コタツが取り直した映画や書き直した本を提供していると思ってください。
宴会やパーティがはじまっている。どうやら、乾杯が行なわれるらしい。見知らぬ人だけれど、近くの人が、「ま、いっぱい」とか「どうぞ」とか、お銚子やビール瓶を傾けて、あなたの手のお猪口やコップに注いでくれることがあります。俺はそういう人なのですね。「乾杯!」の音頭がすんだら、あとはウイスキーに向かうも、ウーロン茶を探すも、ローストビーフの行列に並ぶも、寿司をつまむも、壁に凭れるも、あなたの自由です。あなたがいる、その場所こそ、その映画や本の場所なのですから。
もちろん、宴会やパーティに慣れた人もいるでしょうし、俺より通な人もいるでしょうが、この宴会場やパーティ会場を予約セッティングしたのは俺ですから、とりあえずご案内くらいはさせてください。「ほら、俺の後ろについてきて」とは申しません。あなたに控えめにつき従い、あちらに有名俳優のあの方が、こちらに天才監督の酒乱が、むこうに落丁があるシナリオが、その横に眠って起きないカメラが、悪趣味な衣装がはためき、安物のセットがきしみ、素晴らしい新人歌手が発声練習し、落ち目のプロデューサーが涙ぐみ、と袖を引くくらいは赦してください。
ことさら申し上げるまでもないことを長々書き連ね、失礼いたしました。
あなたの代わりにはならないけれど、
あなたの代わりに観ました、読みました
ということで、以後よろしく。
というわけで、映画「瞳の奥の秘密」の犯人は、ゴメスです。ほんとうの主人公は、モラレスです。