「何を差し置いて」という"名称"は醜いものです。(ルイーズのママ)
はじめ、Facebook上のコメントについて語っているのかと思いました。ネット上の書き込みなら残念ながら日本でもあり得ることですが、どうも「ルイーズのママ」は面と向かって、尋ねられたり意見されたりしているらしい。
アメリカとはなんと思いやりのない野蛮な社会なのだろうと憮然としました。もちろん、日本でも陰口や聞こえよがしなら少ないだろうがあるでしょう。しかし、「面と向かって」は考えられません。遠慮というものがある。自分が思ったこと、疑問を感じたことなら何でも口に出してよいとはまったく思っていないはず。自分の意見や考えを述べることはとりあえず正しい。少なくとも率直であることは評価されるべきという社会的な合意があるとすれば、利己主義よりずっと厄介ではないでしょうか。
ただ、さすがと感銘したところもありました。「ジャーナリスト」としての文章を片鱗も書かなかった「ルイーズのママ」にです。日本なら、ダウン症の子を持つ母親としてだけでなく、「ジャーナリスト」として「私にできること」に引きずられがちになるからです。3.11のときも、「自分は歌手ですから、歌うことで被災地の皆さんを励ますことができたら」というコメントを幾度も聴いた。それは尊い結構なことに違いはないのですが、あるいは型どおりの説明に過ぎないのかもしれませんが、考え抜いたあげくに「それだけができること」と唯一無二のように云われると、どうしても違和感を覚えたものです。
もちろん、職業はその人を規定する重要なファクターですが、職業生活が人生の一部に過ぎないこともあたりまえのこと。やはり、アメリカには、唯一無二の「個人」がいるのだなと「ルイーズのママ」に感じ入った次第。たぶん、そのことをルイーズから学んだのではないかと推測します。えっ、ダウン症児を災難視している? 違いますよ。ダウン症児を持つ母親はたくさんいるし、3.11の被災者も膨大にいるけれど、その内の一人ではなく、その中心としての一人を個人というのです。
そう最首悟さんが云っているわけです。
ダウン症の子を持つ母親に、こんなことは言わないでください
http://www.huffingtonpost.jp/caroline-boudet/meet-louise-my-4-month-old-daughter-with-two-arms-two-legs-and-one-extra-chromosome_b_7574788.html?ncid=tweetlnkjphpmg00000001
(敬称略)