コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

日本にない職業

2005-09-29 12:48:41 | ノンジャンル
今日の日経、麒麟麦酒の相談役の回顧録で、海外のM&Aに携わった自らの思い出を語る結びのなかで、これまでは語学の達者な者や本人の希望で社員を海外に出していたが、これからは仕事のできる者を海外に出して鍛えるべきと提言している。知ってはいたが、改めていわれるとちょっと驚く。つまり、海外赴任を下命するに際し、彼もしくは彼女は仕事ができるという基準はなかったというのだ。ビール会社という内需中心の業界だからともいえない。たとえば、80~90年代、銀行などのエリートが赴任するのはせいぜいNY、それも2年くらいだった。2流、もしくは2流とみられる人材だけ海外赴任要員で、将来のトップ候補は大阪転勤くらいの感覚でNYあたりでアメションさせて温存する。それじゃ、国際舞台で活躍する人材など育つわけもなく、大和銀行事件のような顛末になるわけだ。旧軍以来、この頑迷といってよいほどの内向きと国際軽視、2005年に至っても、さほど問題とも感じてこなかった能天気な自信はいったいどこからくるのだろう。
日本に1人もいないと断言できる職業は国際スパイだな。アメリカをはじめ、周辺諸国の在日スパイはたんというのに。うん、詐欺師の世界でも、MI6だとかCIAなどの諜報機関員という詐称はあっても、日本のどこどこ機関の、という事例は聞いたことがないな。そう告げたとたん、誰からも嘘くさいと見破られるからだな。財界と罪界は鏡である。

忘れないうちに書いとこ

2005-09-23 12:41:57 | ノンジャンル
最低限のリアリズムとは、最低限の写実主義ではない。いえば、最低限の筋である。筋を通せと。リアリズムとは、うんうんあるあるこゆーことってという予定調和的な共感とは対極に位置する。ありえねーというリアリズムもあり得る。現実を指すリアリティとは異なる。リアルのイズムのことである。リアルマドリードが慣用としてもっとも近い。

いいかげんに目覚めなさい

2005-09-18 12:39:10 | ノンジャンル
というのが決めゼリフでした。天海祐希は、「10年に1人の逸材」といわれた宝塚のトップスターだったから、ダンスはうまい。アメリカでもヒットしたとかいう「シャルウイダンス」にも、おぞましくも子どもが両親の手をとってつながせるという夫婦の和解の場面があったが、この最終回でも、主人公の少女の父親が家族の前で妻に、「愛している」などと口走る赤面するシーンがあった。終始鉄仮面のような無表情を通させた阿久津摩矢に、ラストでニコリとさせた。新人監督らしいから、いろいろな圧力に抗し得なかったのかもしれないが、台無しになった。山本周五郎は、「さぶ」において、更正したさぶが親身に面倒をみた牢役人に礼を述べるため会いに行くが、次のはぐれ者に心を砕いている牢役人は、すでにさぶに関心を失い素っ気なくさせている。そうした最低限のリアリズムは守ってほしかった。小津や溝口、成田の抑制をとまではいわないが。しかし、近年、出色のTVドラマであった。とにかく、女優がきれいななあ、というのはいい。

女王の教室

2005-09-17 12:40:35 | ノンジャンル
が終わってしまった。最近では、土曜の夜、天海祐希の美形を観るだけが楽しみだったのに。しかし、最終回はよくなかった。荒唐無稽とスレスレだったのに、一線を大幅に越えてしまった。喪黒福蔵みたいな出で立ちと不吉なBGMとともに登場するや画面がモノトーンになるなど、充分に笑えたのだから、あんなアクションシーンは不必要だった。児童たちの涙涙も感心しない。荒廃しきった小学校教育の現場を扱う緊張感が最後に緩んでしまったか。惜しい。

派閥の終焉

2005-09-15 12:37:25 | ノンジャンル
自民党の各派閥こそが野党だった。その派閥が外在化したのが民主党だった。
先の衆院選までは派閥の均衡と力学がまだ生きていた。政権交代が可能な2大政党制を唱えるうちに、本当にそうなるかもと誤認した民主党は、言霊の罠にはまってしまった。かつて、自民党には政権交代が可能な派閥が5つはあった。小泉は党内に改革反対派という敵を作り出し、争点の上で野党を無効化する「手法」をとってきた、と小泉流のめくらましのように論評されることが多い。だが、「政権交代が可能な」政治勢力は自民党各派閥以外になかったことは自明。それを熟知しているから、新聞をはじめとするマスコミは政策記事ではなく、「参院ドン・青木」の動向など政局記事をもっぱらとしてきた。また基本的な政策のほとんどはアメリカから下げ渡されるのだから、本当の政策論(是非論)はできないということもあった。それでも、国会以上の実質的な議論のテーブルであった委員会やそれ以前の党内や役所内などの会議における議論は、有力派閥によって確保されていた。少なくともこうした議論の多様性はすでに失われた。多様性の確保を民主主義の重要な要件に数え上げるなら、2大政党制より、自民党の派閥政治のほうがより民主的といえよう。そして、小泉の正面敵が一貫として派閥であったとすれば、与党内の野党である派閥を「ぶっこわす」ことによって、いみじくも今回の選挙で「国民投票」といったように、直接選挙制による実質的な大統領制に移行するのがその目的と考えられる。政治権力の構造を変えるというその狙いは自公300超議席によってなかば達成された。しかし、後の半分。日本の民主主義の形を変えて、その先にどんなグランドデザインを小泉が描いているのか、まったく不明だ。小泉には何もないのかもしれない。次の「大統領」にバトンタッチするのが使命と割り切っているのかもしれない。