コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

ジャッバ・ザ・ハット代表選出馬

2010-08-31 21:25:00 | ノンジャンル


BSプライムフジのだらだら長い生ニュース番組を観ている。山口二郎はつまらんなあ。山科系だが、つまらん意見をつまらん言葉でいうだけ。水木系の平野貞夫のほうがはるかにおもしろい。松木謙公はもちろん山科系、ヘアスタイルがまとまらず、どこで誰が選んだのだそのスーツとシャツとネクタイと眼鏡、という壊滅的なファッションセンスながら、どこか愛嬌があり、亀井静香の衣鉢を継ぐ人材だな。おっと、亀井静香まだ元気か。切れ者松崎哲久(テッキュー)を久しぶりに見た。対する菅支持派は、山口二郎以下ばかりで、冴えなかった。後で冷や飯食わされるのが怖いのか、小沢批判の歯切れが悪く、腰が引けているのが見え見え。勇将の下に弱卒なし、というが、少なくとも、小沢支持派はなかなか人物がそろっているのに、菅の最側近は荒井聰だもんなあ。

ま、小沢が代表選を下りれば、密室で政権と権力維持を図ったといわれ、代表選に出れば検察審議会の訴追逃れが目的といわれるのだろうが、はじめて総理候補に名乗りを上げたのは、自らも日本も後がないと腹をくくったのだろう。政治記者や評論家は、二言目には小沢の政治手法が問われているというが、ならば、「政調」を復活させて、一年生議員にも「政策」に関与させるという菅の政治手法の問題点を指摘しないのだからな。自民党の「政調」政治は、「族議員」と呼ばれるベテラン政治家が仕切っていた。その功罪はあるが、少なくとも未熟や稚拙ではなかった。水ぶくれ民主党の未熟と稚拙がスーツ着ているような若手議員に、どんな政策評価や政策づくりができるのか。国家経営を学級委員会にまかせるような「政治手法」の無責任さ、党内基盤の強化と政権維持を秤にかけた愚かさには、いくら批判の声を上げても追いつかないくらいだが、政治記者や評論家は、相変わらず、強いリーダーシップを求め、同時に風通しのよい民主的な党運営を求めて、国民の声を代弁したつもり。じゃ、オッサン、お宅の会社はそうなってるのか? と訊きたいね。

(敬称略)

一個前に埋め込みたかったが、長くなりすぎたので、こちらで。

</object>

ノンフィクションの逸品

2010-08-31 01:15:00 | ブックオフ本
優れておもしろい短編集のそれぞれに、奇しくも感涙のノンフィクションの一編がはさまれていた。感涙といっても、感きわまって、ホロッとしたとか、しゃくりあげたとか、などではない。感情と感傷はきわめて抑制されている、書き手も読み手も。



現代短編の名手たち 4 ババ・ホ・テップ(ジョー・R・ランズデール 尾之上浩司 編/訳 ハヤカワ・ミステリ文庫)

ジョー・R・ランズデールは、まったく知らなかった作家だが、邦訳がすでに何冊も出版され、「テキサスの巨匠」と呼ばれるほど名高い作家らしい(何か、青森の巨匠みたいな揶揄も感じるが)。

目 次

親心 
デス・バイ・チリ
ヴェイルの訪問 
ステッピン・アウト、一九六八年の夏 
草刈り磯を持つ男 
ハーレクイン・ロマンスに挟まっていたヌード・ピンナップ
審判の日
恐竜ボブのディズニーランドめぐり 
案山子
ゴジラの十二段階矯正プログラム 
パパ・ホ・テップ(プレスリーVSミイラ男) 
オリータ、思い出のかけら
テキサスのスティーブン・キング、その実像


1977年、心臓発作で死んだエルビス・プレスリーは替え玉で、実はテキサスの老人ホームで生きていた! 亀頭に大きな腫れ物につくり、歩行補助機がなくては歩けなかったが、自分をジョン・F・ケネディと思いこんでいる黒人と、深夜3時にホームを徘徊して、老人たちの魂を吸い取る怪物と対決する表題作の「パパ・ホ・テップ(プレスリーVSミイラ男)」はもちろんだが、貧しく薄汚く低脳で童貞の若者ジェイク・ウィルソン・バディの3人が、5ドルでセックスさせてくれるという噂がある女の子の家を訪ね、ポーチにいた脱腸の中年男をポンビキと思い交渉をはじめたら、なんと娘の父親で命からがら逃げ出し、5ドルで買った密造酒をあおって一息つき、その酒がバイタリスの匂いがするので、8ドルで整髪料として売ったら儲かるぞと興奮する3人が友だちに見えてくる「ステッピン・アウト、一九六八年の夏」が秀逸。

「ニカワのように髪が固まるぜ」
 バディが急に生き生きとした表情をうかべた。三人で大笑いする。バディは残っていたタバコを二人にわけた。三人でくわえる。たがいに微笑みあう。みんな親友だった。人生のうちでも特別で、とても大切な一瞬だった。この夜のことはいつまでも忘れないだろう。


スティーブン・キングの名作『スタンド・バイ・ミー』を思い起こさせる、映画ならストップモーションで撮影されるような少年の日の輝きは、一転、騒々しいシンバルに急きたてられた無声映画のコマ落としのごとき惨状に向けてひた走る。バディのマッチの火が髪に燃え移り、「火を消さなきゃ」とあわてたウィルスンが瓶の残りの酒をかけたためにバディは火だるまとなって駆け回り、道路に飛び出してダンプトラックにはねられ、橋から川に落ちたところをワニに食いつかれる。ワニの口から脚だけつきだしているバディを助けようと、巨大な葉巻をくわえたようなワニを追いかけ追いついたジェイクとウィルソンは、ワニの白い横腹を数え切れぬほど蹴り上げて殺すが、死んでもワニはバディを離さず、車もない二人は台車にバディをくわえたままのワニごと乗せて、遠い道のりをバデイの家まで運び、ワニとバディの死体をポーチに置いて帰るのだ。『スタンド・バイ・ミー』より、十倍泣けること請け合い。パパとママに熱望していたディズニーランド行きを許され、ドナルドやミッキーが人間が入ったかぶり物だと知って、ふてくされて帰ってくる「恐竜ボブのディズニーランドめぐり」、破壊と暴力の衝動を抑えるために、鉄工所で火を吐いて鉄屑を溶かすバイトをしているゴジラや乱暴者のガメラなど、哀しい怪獣たちの日常を描いた「ゴジラの十二段階矯正プログラム」など、傑作ぞろいだが、俺にとっての白眉は、貧しくつましい生活のなかでも、何不自由なく育ててくれた母との思い出を自伝的に語ったノン・フィクション「オリータ、思い出のかけら」だ。ランズデールの母オリータの晩年の様子はこうだった。

 また、わたしが書いた小説のせいで、母はときどき、息子は頭がおかしいのかもしれない、あるいはこれからおかしくなるのかもしれないと思いこんでいた。これは母だけでなくわたしにとっても、まったく奇妙で、がっかりしたくなることだった。

自動車事故で入院した母から、肺ガンがみつかるが、母は手術を拒否してやがて亡くなる。

 母は、人生に配られた厳しい持ち札でゲームを戦い抜いた、驚くべき女性だった。勇気を持ち、無茶ともいえるようなやり方で戦っていた。
 今、母に会いたい。




ブルックリンの八月』(スティーブン・キング 吉野美恵子他訳 文春文庫)
やっぱり、キングは名人だ。表4の紹介と目次は次の通り。

ワトスン博士が名推理をみせるホームズ讃。息子オーエンの所属する少年野球チームの活躍をいきいきと描くノンフィクション。そしてエペッツ・フィールドに躍動した、いにしえのブルックリン・ドジャースに思いを馳せる詩。ホラーの帝王にとどまらない、キングの多彩な側面を堪能できる6篇を収録。著者自身による解説つき。

日次

第五の男(青野美恵子訳) 
ワトスン博士の事件(吉野美恵子訳) 
アムニー最後の事件(小尾美佐訳) 
ヘッド・ダウン(永井淳訳) 
ブルックリンの八月(永井淳訳) 
ステイーヴン・キングによる作品解説(永井淳・白石朗訳) 
乞食とダイヤモンド(永井淳訳)
 

ハメットやチャンドラーの文体を模倣して、犯罪小説やハードボイルド小説をパロディにした、「第五の男」「アムニー最後の事件」にも感心したが、驚いたのは息子のオーエン・キングが所属したメイン州バンゴアのリトルリーグチームの快進撃を活写したノンフィクションの「ヘッド・ダウン」。はじめて原稿料を稼いだのはスポーツ記事だったというキングが、そろいのユニホームすらないバンゴア・ウエストが地区予選を勝ち抜き、州決勝戦で強豪ヨークと死闘を演じるまでを、地方紙のスポーツ記事のように淡々と、敵味方を分かたず12歳の野球少年たちの勇気と力の場面を書いていく筆致がすばらしい。コーチのデイブ・マンスフィールドが、練習を終えて暗くなったグランドで笑い興じるチームの少年たちを見やりながらいう。

「大切なのはだれが自分のチームメイトかを知ることだよ。好き嫌いは別にして、自分が頼らざるをえなかった人間はだれかということを」

『スタンド・バイ・ミー』より、三十倍泣けること請け合い。

(敬称略)

幸福論

2010-08-29 23:46:00 | 詩文
愛がやって来る時は、両手を広げて抱き
去る時は歌を一つ、胸の中に埋めておくこと
寒ければ体を最小限にちぢめること
人が開拓した道だけを行くが
おかしな所には影も映さず
自分をあまり長くのぞき見ないこと
答えの出ない質問は初めからしてはならず
確実に役立つものでないものは学ばずに
特に詩は絶対に読みも書きもしないこと
過ぎ去った事は皆忘れるが
零れた水もよく集めて拭き
君自身を赦すように、他人を喜んで赦すこと
明日はまた他のつまらない陽が上るだろうと信じて
よく過せた一日が程々に過ごした十年の歳月を
償うこともできると、本当にそう信じること
しかし太陽の下に新しいものはなく
人生は短く一日は長い

(崔泳美 チェ・ヨンミ)

ようやく広報

2010-08-27 23:52:00 | ノンジャンル
かつて小泉首相が、「自民党をぶっつぶす!」と獅子吼して、同じ自民党内の「抵抗勢力」との闘いをアピールして、世間(マスコミ)の耳目を集め、野党の存在を霞ませて、選挙に連戦連勝した。その真似かもしれないが、小沢一郎突然の代表選出馬により、メディアは菅VS小沢対決一色になり、マニュフェストが争点に浮上しつつあるのだから、民主広報はほくそ笑んでいるだろう。とてもそんな広報戦略があったとは思えないが、仲介した鳩山のメンツが潰されたの、一年生議員がどちらにつくかなど、民主党各グループの離合集散から、自民党の一部を巻き込んだ政界再編まで囃したて、ネタが目白押しのマスコミの「メシウマー」だけに終わりそうで、例によって、国民生活はほったらかし、景気回復に有効な手だてを打てず、と眉根を寄せてみせるだろうアホクサ。経済政策で景気が回復したなんて例が、これまで一回でもあったのかね返せ。あっ、戦争経済があった。「そうだ、京都を焼こう」

(敬称略)

まさよし、元気ですか? 母は心配しています

2010-08-27 01:25:00 | ノンジャンル
東大版「白熱教室」


サンデル先生が来日して、安田講堂で東大生に「講義」した、とNHKBSニュースが特集していた。広島長崎への原爆投下をオバマ大統領は謝罪すべきかどうか、という質問をサンデル先生は東大生に投げかけていた。

当然、『これからの「正義」の話をしよう』を東大生は読んできているから、自分が生まれてもいない過去の過ちについても、共同体の一員として責任を負うべき、というテキスト通りのオバマ謝罪賛成の発言が映されていた。

「講義」のほんの一部を紹介した番組だから、実際は学生からどんな発言が出たのかわからないが、この問いかけは政治的なバイアスがかかっていると東大生なら批判すべきだろう。彼らは、ハーバードの学生ではないのだから。

広島長崎への原爆投下は、アメリカの戦争犯罪ではないかと逆に問い返さなければならないはずだ。オバマ大統領の道徳的な謝罪以前に、原爆投下が、東京大空襲が、道徳問題以前、道徳問題以下の戦争犯罪ではないかという疑問が、まず発せられるべきだろう。

サンデル先生は、オバマ大統領の謝罪を「正義(道徳的に正しい行い)」の課題として尋ねた。今年、駐日アメリカ大使が、大使としては初めて広島の原爆慰霊祭に出席したように、近い将来、オバマ大統領が原爆投下について公式に謝罪する可能性はある。

そのとき、オバマ大統領とアメリカは、道徳的に正しい行いをした、とされるだろう。「本土決戦」による日本人とアメリカ軍人の多大な犠牲を回避できたのだから、結果的に原爆投下は正しかった、しかし道徳的には問題が残るから謝罪する。

謝罪したアメリカは正しいという、その理路は世界を貫く原理的なものではなく、アメリカの正義をアピールする政治的なものとしか思えない。いや、サンデル先生を批判するつもりはない。そうした批判はお門違いだ。

むしろ、とても感心している。日本の大学教授が、北京大学やソウル大学の学生千人を前にして、日中、日韓の「過去の不幸な歴史」について、日本は謝罪したのかどうか、と質問できる人は皆無だろうと思うからだ。

あるいは、原爆投下や東京大空襲、その他の被害について、日本はどのような道徳的な立場を取りうるのか、日本人自身が「講義」できないかぎり、サンデル先生の予測どおり、アメリカに「正義」は傾くだろう。

番組にはさまれたインタビューで、サンデル先生は、NHKの記者に対し、「日本には原爆を投下された責任がある」といい、「(原爆投下について)日米が謝罪し合う」という将来を期待していた。

まさよし、しっかりしなさい。お父さんやお母さんは、あなたをそんな子に育てた覚えはありません。

(敬称略)