本番前までは、ミキティミキティと大騒ぎしておいて、メダルを取ったら掌を返したような荒川コールには荒川さんも呆れただろうが、反面、比較的に露出が少なかったおかげで安藤さんより透徹した「自分らしく滑る」という境地を彼女は維持できたのかもしれない。また静香な日常に戻れればいいね。「ミキティ萌え」と手頃なオネイチャン扱いしてきた、身の程知らずの男共の次のターゲットはマオチャンあたりか。相手への「目線」がさまよい、舌足らずの独白と会話の区別ができない未熟な小娘にしか懸想できず、視線をひたと据えてくる冷笑的な口角を持った成熟した女に怯えてしまうような幼児性丸出しの男ばかりだから、優雅な女という快楽がこの国には存在しないのだ。おフランスにいって驚いたのは、カフェや街角で男たちが視線で品定めするのは、30~50歳くらいの女だったことだ。いい若い者が、おっさんがロリコン趣味なんて、ただの未熟に過ぎない。未熟を隠さないのは恥知らずでしかない。ただし、「白夜行」の綾瀬はるかはハート。
週休2日なんて、昨年9月以来。でも、外は雨。晴れたら狭山湖近くの農家に芥子菜の漬物を買いに行きたかったのだが。例によってビデオは観た。『チャーリーとチョコレート工場』。貧乏だけれど暖かい家庭はある。貧乏だから暖かくない家庭よりははるかに少数だが。私たちが知っていればよいのは、貧乏が家庭を崩壊させる場合が多いという事実と、貧乏ではなくとも暖かい家庭を築いている人もいるという認識と、家庭そのものを営みたくないという人もいるという想像力だ。多様性とは人々の認識と想像力を内実とするもので、貧乏が家庭を崩壊させるという事実と貧乏だけど暖かい家庭があるという事実は無関係。貧乏という事実はただ一様だ。多様性だけが豊かさだ。映画では、毎日チョコレートを食べられる子や何10万枚も買い占められる親を持つ子やパソコンを駆使して何千万枚の中から1枚の当たりチョコを見つけられる子と、1枚しか買えない貧しい子チャーリーを並べて多様性としている。世界中の子どもが「ウォンカのめちゃうまチョコレート」を囓る画一性の上に、チョコレートの枚数の多寡という貧富の差が多様性に置き換えられている。そして、1枚のチョコレートを家族で分け合い、みながその甘さに眼を細めることを幸福と描いている。疑似家族と食卓に付き、実父と和解するウォンカ。そこからどんな認識が生まれ、想像力が刺激されるのだろう。ただの反動じゃないか。