コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

ベトナム怪人紀行

2006-10-29 01:15:25 | ブックオフ本
(ゲッツ板谷著 鴨志田穣写真 西原理恵子絵 100円)
『タイ怪人紀行』に引き続き名著。

ブックオフは当然、諸団体とたいていの人から評判がよくないわけだが、かつてゲッツ板谷、鴨志田穣、西原理恵子がそうだったような、いま下流と線引きされている少年少女がふらりと立ち寄り、100円マックと天秤にかけてこの本を買う光景を想像してみると、ブックオフもそうわるくないと思う。100円でタイ人やベトナム人の色や匂いや音を感じる旅に出かけられるのを、彼らは知る。なかにはこれくらいなら自分でも書けそうだと思い、書きはじめる子が出てくるだろう。歩きながら本を読む子だ。クソみたいな仕事に舌打ちしながら、バカみたいな遊びに興じながら、その合間に本を読んでいく子だ。何かのために、何かに向かって本を読むのではなく、天井を見上げるのに飽きたときに本に手を伸ばす子だ。100円ならいいかと小銭だけのポケットを探る子だ。新聞記者や作家や大学教授には、けっしてできない旅ができる子だ。どこかへ出かけなくても、日々旅をしているように足下がおぼつかず、視線が定まらない子だ。誰とも話したくないのに、誰かの心からの笑顔を見たい子だ。
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魂萌え!

2006-10-22 23:48:05 | ノンジャンル
ふとNHKドラマ「魂萌え!」の第1回をみてしまった。夫の急死に呆然としている50代主婦に降りかかる遺産問題・長男家族との同居・夫の愛人発覚という回だった。まあ、ちゃちなドラマだった。小柳ルミ子、仁科亜希子、木野花が主婦の友人役でにぎやかだが、働き場所がない。ただし、主婦・高畑淳子が焼香に訪れた亡き夫の愛人高橋惠子と対する場面。「あなた夫とセックス、セックスしてたんでしょ!」と罵る高畑淳子。明日も今日の続きと疑わなかった女の愚昧を表現して秀逸。ついぞ人前では発語したことのない「セックス」を、吃もりながら叫ぶところから、フリークスめいてきて、映画・TV育ちのきれいきれいの演技しかできない高橋恵子を圧倒した。高畑淳子以外見せ場なし、取り柄なしの1時間だが、観てよかった。 
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ブロークバック・マウンティン

2006-10-20 00:09:18 | レンタルDVD映画
「ジャック、これからはずっと一緒だ」
最後の最後に、イニス(ヒース・レジャー)は死んだジャック(ジェイク・ギレンホール)への思いを呟く。 不覚にも涙ぐんでしまった。

上映時間2時間余、けっして結ばれない男と男の20年間の愛が、ワイオミングの大自然を河のように流れていく。森の奥深く生まれた数滴の雫がひと筋の水となり小川をつくるように、2人の貧しい若者はブロークバック・マウンティンで愛を交わし、別れてそれぞれの人生を歩み出ても互いを忘れられない。雨や雪を加えて水かさを増した川が、ときには岩に砕ける激流となり、また穏やかな水面に戻って陽を照り返し、汚水や濁流を交えて蛇行しながらも、悠々と海に至るまで流れていく。20年を経て河口に立ち、「ようやく」という思いを込めたのが冒頭のイニスの言葉だ。観客の俺も、「ようやく」悲恋の物語になったと安堵した。


ワイオミングの大自然を映すカメラは美しい。禁断の愛を耐え忍ぶイニス(名前がいい!)の表情が官能的だ。久しぶりのつかの間の逢瀬にはしゃぐ二人、心がすれ違い一人になってから思いの丈が吹き出すとき、すばらしい場面があった。つまり、恋愛映画としては成功している。しかし、その悲恋に重ね合わされる人生の描き方が中途半端だ。粗野で無教養な最下層の肉体労働者のカウボーイながら、育児や家事も分業する優しい夫としてイニスは描かれていく。それは心中密かにジャックを愛し続けている妻への後ろめたさを表現したのかもしれないが、女性脚本家が参加しているせいか、女性に優しいゲイといった通俗フェミニズムの視点がみえる。

寡黙だが優しいイニスは、カウボーイとして牧場の仕事を優先し、スーパーマーケットで働く妻アルマに育児を押しつけて出かけてしまうこともある。不満そうなアルマ。セックスの途中で、これ以上子どもができたら育てられないからとアルマが釘を刺すと、「俺の子どもを産みたくないなら、もうお前とは寝ない」とふてくされるイニス。牧場で働く夫をスーパーの店員の自分と同じ、ただの雇われ人と考えるアルマと、牛や羊を育て世話をするカウボーイの仕事を人生の一部と考えているイニスとは、同性愛異性愛以上の違いがあるはずだ。裕福な農機具商を父に持つ娘と結婚して貧しさから抜け出たジャックが、年老いた父の小さな農場を継いでイニスと働き暮らすことを夢に見続けたように、イニスとジャックを結びつけた赤い紐はカウボーイという生き方なのだ。そこがもっと明晰に描けたなら、この映画は大傑作になっていただろう。

直接的に同性愛を描いてはいなかったが、『真夜中のカウボーイ』のジョー(ジョン・ボイド)とラッツォ(ダスティン・ホフマン)は、「田舎のネズミ」と「都会のネズミ」として、ネズミの傷心を抱きしめ合った(「ラッツォ」とは「ネズ公」くらいのあだ名である)。つねに負けていく者としてカウボーイが象徴されていた。ジョーが死にかけのラッツォを連れて帰郷のバスの車窓に見せる横顔は、しかしけっして惨めに歪んではいなかった。雄々しく負けていく者の透徹した視線を備えていた。イニスとジャックの場合は、本当に抱き合った。セックスからはじまってしまった。セックスがイニスとジャックのその後を身動きできなくしてしまい、カウボーイの人生を描くというもうひとつの映画のテーマをも縛ってしまった。禁断のセックスをするために、二人とも苦悩するだけの人生になってしまったかのようだ。

とても愛の物語とはいえず、男性同性愛者への社会と内面からの抑圧を描いたに過ぎないように思える。もちろん、イニスの娘への愛を描くことで、そんな予定調和だけには陥らないように工夫はされている。だが、なによりもイニスの妻アルマへの愛をこそ、避けずにきちんと描くべきだった。なぜ、アルマは良き夫であり父であるイニスを受け入れられなかったか。アルマもまた抑圧的な社会の一員に過ぎないからか? そうではないだろう。あるいは、ジャックをめぐる三角関係に過ぎなかったのなら、男女間の愛憎劇と何ほどの違いがあるだろう。

『真夜中のカウボーイ』がつくられた70年代は、まだ同性のセックス描写は不可能だった。だから、現代のおいてホモセックスを描くべきではないとは思わない。ならば、イニスとアルマとのセックスと同等以上に、イニスとジャックのセックスも描くべきだった。愛のあるセックスとして。脚本は周到にエキスキューズばかりしているように思え、結果的に性別を超えた普遍的な愛の物語というより、男女の通俗的な恋愛映画を男男で描いたようになってしまった。

だが、ジャックの死後、イニスがジャックの家を訪ね、ブルーバック・マウンティンで失したと思っていたイニスのシャツをワードローブの中に見つけ、ジャックの切ない思いを知り、イニスもまたジャックのブルージーンのシャツに顔を埋めてその匂いをかいで忍ぶ、といったラストの近い場面。歌舞伎でいえば女形の一人芝居のような所作だけで愛を語る場面は、やはり胸に迫る。男女の悲恋劇の定番シーンをなぞったものとしても、そこは見事に完結していた。
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いじめ事件と隠蔽

2006-10-19 11:12:02 | ノンジャンル
福岡県筑前町のいじめ自殺事件が連日ニュースの一角を占めている。正確には、いじめ自殺事件より、それを隠蔽しようとした教委や校長の対応が毎日のニュースをにぎわしているわけだが、いいかげんマスコミと世間のカマトト振りには飽きてきた。こういう隠蔽体質は、何も教育界にだけ顕著なものではなく、日本の組織には骨がらみ、組織の飯を食った者なら誰でも知っていることじゃないか。いまさら、驚いた振りをするのに驚かないか。俺は驚く。


みながさしたる悪徳とも思わず日常的にやっている隠蔽を、何か事件が起きたときだけ非難し罰することがいったい何の役に立つのか? それが証拠に、文科省の統計ではたしか過去5年間、いじめによる児童生徒の自殺は1件も起きていないことになっている。これはもはや建前との乖離なんてものじゃない。「日本を美しい国にしたい」その言やよし。つまり、いまは「醜い国」なのだ。どのくらい醜いかを直視することからはじめようじゃないか。

いじめとは、周囲のたくさんの子どものちょっとした悪意や無関心の集積によって自殺にまで追い込むほど、いじめられた子どもの現世を地獄にするものだ。ならば、どんなちょっとした言動があったのか、詳細に調べて、この逆を実現すれば処方箋となるのではないか。まず、ちょっとした挨拶や笑顔を子どもたちにさせれば、そのとき相手を見ることになる、ちょっとした気配りができるのに気づく。「やあ」「元気?」からだ。そんなちょっとの集積がどれほどの影響を子どもたちに及ぼすか、いじめ事件から検証できるはずだ。誰かをいじめられるなら、同じように誰かを認めることもできる。いじめ返されるのは恐れるが、認め返されるのは誰しも嬉しい。誰かの誰かへのいじめはなくならないかもしれないが、あたかも全員が特定の誰かをいじめるような状況はなくなるように思う。

同様に隠蔽の心理や仕組みを詳細に検討することで逆転できないか。まじめに検討すれば、やがて日本の組織論に逢着するだろう。必ずしも隠蔽を悪徳視しないのは、実は仮に組織と名付けられた人間の集合を守るためだが、それは同時に組織の弱さを保持してしまうという矛盾した結果に気づくはずだ。では、なぜこれまで組織としての弱さが致命的なまでには拡大せず、人間の集合でどうにかやってこれたのかに考えを移すことができるだろう。いじめは悪い、隠蔽は間違っている、という演繹的な出発点ではなく、いじめや隠蔽を帰納的に遡行する努力が必要だと思う。それが、さらなる「醜い日本と私」をあぶり出すとしても。
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RIZE

2006-10-19 00:37:06 | レンタルDVD映画
イーオン・フラックス
CG栄えて、SF滅ぶ。絵は壮大になったが、構想力は小さくなった。もしかすると、「2001年宇宙の旅」の悪影響なのか。あれは空想科学ではなく、超現実主義なのに。

ポセイドン
本家の「ポセイドンアドベンチャー」では、豪華客船が転覆して上下逆転するところに、セレブたちの栄耀栄華が奈落の底に落ち、多彩な人間模様が暗転していく残酷味に観客のカタルシスがあったのに、911の影響か、栄耀栄華と奈落に舌なめずりする暇もなく冒頭すぐにポセイドンは転覆し、数人の生き残りを賭けた力行が延々と続く。不戦敗。

ヒストリーオブバイオレンス
暴力に悪や正義の名札はつかない。暴力はただの暴力。そう言い切った反暴力の暴力映画。

プロデューサーズ
メルブルックス、老いたり。

RENT
家賃(RENT)も払えないような貧しいが夢を持ち続ける若者たちのミュージカル。
これは口に合わなかった、残念。

インサイドマン
一流の俳優とスタッフによる二流の作品。なるほど、これなら完全犯罪が成り立つかもと誰もが思うトリックに飛びついたのだろうが、それほどよくできたトリックだろうか。たとえば、犯人は銃を持っていた。指紋をつけないために手袋をしていたか、なにか指先に細工をしていたはず。それを追及すれば、人質と区別はつくのでは? 観客にそんな粗探しをさせないために、人間の気ままが起こす偶然や無意識の怠慢やドジ、何より欲望を描かなければ。


RIZE(ライズ)
つねにロス暴動の発火点となる貧民街サウスセントラルの若者は、ギャング団に入るかクラウンに入るかの2つの道しかないという。各種のパーティやイベントなどに出張してダンスを披露して稼ぐ「クラウン(道化)」と呼ばれるアフリカンアメリカンの若者のダンスグループのドキュメンタリ。とにかくそのダンスが凄い。冒頭、「この映画のダンスシーンは早回し撮影ではありません」という注意書きが入るくらい、速くて激しく複雑なステップと振りが次から次へ、幼児から屈強な青年、デブまでそれぞれオリジナリティに溢れた全身ダンスが身上だ。といっても、彼らは芸能界デビューを夢見る予備軍、ではない。

「ヒップホップ? 焼き直しに過ぎない」
「ハリウッド? 行かないね、潰されたのを知っているから」
「ダンススタジオなんてここにはないからね、教えられたものではなく、街頭からいつのまにか生まれたダンスなんだ」

大劇場を借り切って開催された創始者クラウンと新興のクランプのダンスバトル。幼児対決、デブ対決、クイーンやキングを争って1対1で交互にダンスを踊り、観客の歓声で勝敗を決する。出場者全員、ほとんど人間離れした動き。評価する観客も全員がダンサーみたいなもの。双方向性? そんなちゃちな関係性じゃない。部族だな、これは。たまたま、ドキュメンタリ映画として記録されたが、彼と彼女らは、毎日のように仲間同士の会話や他グループと出会い頭のセッションで、瞬間の気持ちや主張を込めた一回性のダンスに興じて、自分を語り、会話しているのだ。額縁に納まりかえって観客と鑑賞に縛られたタブロー芸術をあっさり乗り越え、いまこの瞬間もサウスセントラルの街頭ではたちどころに芸術が生まれ、たちまちのうちに消えているのだろう。最近、岡本太郎再評価の機運が出ているが、「芸術は爆発だあ!」という言葉が彼らの踊りを見て、なんとなくわかったような気がした。ほんとうにたいしたことは、TVや映画、インターネットでは伝えられていない。

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