コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

アメリカの弱点みっけ!

2012-08-03 01:08:00 | ブックオフ本
  

 つい読んでしまった、アメリカのハードボイルドミステリ小説。手持ちの本を読んでしまい、飛び込んだ古本屋の特価コーナーでつかんだ。ババではなかった。読み出したら、止まらない上出来本だった。

『サイレント・ジョー』(T・ジェファーソン・パーカー 早川書房)

 舞台は南カリフォルニア、メキシコからの不法移民がコミュニテイをつくっているオレンジ郡。赤ん坊のときに、実父に硫酸をかけられ、母親の育児放棄から施設に預けられたジョーは、郡政委員の養父に引き取られ、24歳の新米保安官補となり、州立刑務所に看守として勤務している。勤務が終わった後は、養父のボディガード兼政治の裏工作にも携わっている。

 そんなある夜、養父が銃撃に倒れ、守れなかったジョーは自責に打ちのめされるが、深い悲しみを胸に犯人を追いはじめる。 州の政治を牛耳る強欲な富豪や権力欲と私腹を肥やす役人、絶大な人気を博すTV伝道師などがめぐらす策略と罠。貧しいメキシコ移民たちと下手人と目されるベトナム系のギャング団のつながり。やがて、偉大だったはずの養父の意外な顔がジョーを困惑させる・・・。

 とまあ、よくある勧善懲悪の「西部劇」の焼き直しなのだが、だからこそ、西部劇映画とウェスタン小説の美学を踏まえて、泣かせる場面がいくつかある。その白眉がこれ。

 わたしはひどく疑り深くずいぶん臆病な五歳の子供で、本に夢中だった。いや、夢中という言葉では正確に言い表わしたことにならない。本を読んでいるときは下を向いているから誰もわたしの顔の悪いほうの半分を見ることはできない。皮膚と筋肉がおぞましく痛々しいどろどろした赤いかたまりになっているのを誰にも見られることはない。普段はその顔で世界と向きあわねばならなかった。

 だが、顔を見られないようにしていればそんなことは忘れることができた。心の中で自由に時間と空間を行き来することができた。ヒルヴュー・ホームから何千マイルも離れたところへ、二百年前のアメリカの平原へ行くことができ、シャグというすばらしい野性の生き物がグリズリーと戦い、狩りをする人間たちの矢を受け、生き残ったわずかな仲間たちとともにイエロ-ストーンへ逃げ込むさまを見ることができた。

 あのときもわたしはシャグとともにイエローストーンにいた。
 だから、誰かが図書室に入ってきて向かいの小さなテーブルに腰をおろしたときもまったく注意を払わなかった。シャグと一緒にいたからだ。その男は-足音とコロンのにおいから男だということはわかっていた-テーブルをこつこつと指でたたいた。それでもわたしはシャグと走り続けた。
「ぼうや」彼はようやく口を開いた。「こちらを見なさい、きみを見ている者がここにいるんだから」

 言われたとおりに顔を上げた。そこにはこれまで見た中で最も思慮深く思いやりにみちた顔があった。悲しみとユーモアを漂わせたとてもハンサムな顔だった。そんなことはそれまで一度も考えたことがなかったにもかかわらず、その男を見たときに男とはどうあるべきかわかった。彼だ。それはシャグにとってイエローストーンに逃げ込まなければならないのと同じくらいわたしにとって明らかなことだった。

「そいつはただの傷痕だ。誰だって持っている。きみのは外にあるというだけのことだ」 もちろん、そう言われたときにはすでに顔をそむけていた。だが、何とか勇気を振り絞ってささやくような声で答えた。「シャグもクマと戦ったときの傷が脇腹にあるんだ」
「ほらね? 全然恥じるようなことじゃないんだよ」

 いったい何がわたしに次のセリフを言わせるような途方もない勇気を与えてくれたのか今でもわからない。とにかくわたしはこう言った。「あなたのはどこにあるの?」
「きみがもう一度わたしを見てくれたら答えよう」
 わたしはそうした。
 彼は拳(こぶし)で軽く自分の胸をたたいた。「わたしはウィル・トロナというんだ」 そう言って立ち上がると部屋を出ていった。
(p163~)


 養父ウィル・トロナと後の養子ジョー・トロナがはじめて会う場面だ。

だが、何とか勇気を振り絞ってささやくような声で答えた。」とこれは日本の小説でもあり得ない場面ではない。殻に閉じこもる子どもが、かたくなな心を開いて他者を受け入れる場面として。しかし、日本の小説なら、そのすぐ後のような展開にはきっとならない。「いったい何がわたしに次のセリフを言わせるような途方もない勇気を与えてくれたのか今でもわからない。とにかくわたしはこう言った。」とこれはまっすぐに、父子間の勇気の契りの場面になるのだ。こんな勇気を語る場面は、日本の小説ではちょっとない。日本で「泣かせる」場面となると、どうしても母子間の情愛に訴えるものになりがちだ。

この場合の「勇気」とは「傷痕」をめぐる男と男の対話として示されるのだが、実は父にとって息子こそ自らの傷痕そのものであったことが、最後の最後にわかる。父と子は、男と男は、情愛によってではなく、むしろ傷痕によって深く結ばれている。傷つけ、傷つけられる行為がなされた後に、はじめてお互いをつなぐ絆に気がつく。愚行や過誤の末に、大切なものを失う代わりに、醜い傷痕を得るという連鎖。それを断ち切る「勇気」の物語であることが明らかにされる。

ようするに、どうしようもない父親と健気な息子の話なのだが、アメリカの小説や映画では、それでも息子はどうしようもなく父親を愛している場合が多い。アメリカ人にはご先祖というものはなく、建国した移民者が初代の父親であり、それから後は「アメリカの息子」が続くだけなので、こんな近親憎悪と紙一重の父子の物語ができるのだろうか。

また、郡政委員ウィルと保安官補ジョーを通して、アメリカの政治の原点が、西部劇時代に保安官が活躍するような「スモールタウン」にあることがよくわかる。さしあたり中央集権以外に記憶がない日本からみると、勇気と暴力が一体になったアメリカの正義や友愛には、違和感があるが、アメリカ人が勇気という言葉に弱いということだけはよくわかった。アメリカ人が心動されるキーワードは、どうも勇気らしい。「勇気ある撤退」とか「わが国は勇気を示す用意がある」とか、勇気をまぶした文言を使うなど、そこいらへんを日本も外交的な戦術に加えると、日米関係も少しは噛み合うような気がする。


夏休み子ども向け図書

2012-07-29 00:09:00 | ブックオフ本



『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』(水村 美笛 筑摩書房)

噂に違わぬ名著。ただし、「日本語の亡び」や「英語の世紀」を推し進めてきた大人より、子どもにぜひ読んでほしい。早熟なら中学生でも、高校生ならじゅうぶん読めるはず。お父さん、お姉さん、お祖父さん、お祖母さん、お母さん、お兄さん、叔母さん、叔父さん、そして学校や塾の先生、感受性豊かな子どもが身近にいたら、どうかこの本を贈ってください。例によって帯文。

「西洋の衝撃」を全身に浴び、豊かな近代文学を生み出した日本語が、いま「英語の世紀」の中で「亡びる」とはどういうことか? 日本語と英語をめぐる認識を深く揺り動かし、はるかな時空の眺望のもとに鍛えなおそうとする書き下ろし問題作が出現した!

そして、目次の章立て。

一章 アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々
二章 パリでの話
三章 地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々 
四章 日本語という<国語>の誕生
五章 日本近代文学の奇跡
六章 インターネット時代の英語と<国語>
七章 英語教育と国語教育


日本語を国語として読み書きすること。それがどれほど奇跡的なことなのか。しかし、奇跡の歴史はもはや過ぎ去り、遺産は蕩尽されてしまった後に、子どもたちの人生が続いていくこと。そこで、日本語は、日本と日本人は、どのように生きていくのか。「どのように」という問いを持ち続けることが否応なく強いられる、英語の世紀に入っていること。だから、この本をその子に、こう言って手渡してください。

「実は、私はまだ読んでいないんだ。私が読むには、いささか遅すぎるようだからね。もちろん、読むだけならできるが、それから考えて何かをはじめるほどの時間はないんだな。君にはこの本を繰り返し読む時間がある。考えることも、はじめることも、何度でもできる時間がある。だから、すぐには読まなくてもいい。でも、読んだなら、私にまっさきに感想を聴かせてくれないか」

風とおる銭湯の脱衣場のような

2012-04-08 23:34:00 | ブックオフ本


古本屋の特価本コーナーを選ぶのは、思わぬ出会いがあるからだ。本との出会いというと、何かかっこうよい響きがあるが、実際はけっこうけちくさいものだ。とくに新刊書の場合は、まず値段に見合った頁数か気になる。もちろん、厚くて字がびっしりしていたほうが嬉しい。また、人に知られても恥ずかしくないテーマや著者を選びがちだ。受け売りして友人知人に講釈垂れられるくらい、結局はなじみがある分野に落ち着く。これで出会いとはおこがましい、ただの反復消費、見栄消費である。

そこへいくと、100円均一か数百円の特価本の場合、これらの購入条件はまったく気にならなくなる。エッセイや対談集などの薄手、タイムリー本やトンデモ本など安手、難解思想や純文学など苦手、どんな本にも門口が広くなり、たとえ期待はずれに終わっても、著者や編集者に舌打ちすることはなくなる。対価といえるほど払っていないし、一円の印税も著者や出版社にいくことはないのだから、消費者面はできない。

だから、傑作や秀作、力作に出会うと、いや、そういうランキングをしなくなるから、よい文章のおもしろい本だったことがわかると、素直に嬉しくなり著者や出版社に感謝したくなる。ちょっと申し訳ない心持ちになるから、人に勧めたい気持ちも高まる。思いがけず敬愛できる友人を得て、つい知り合いに紹介したくなる、ちょっと誇らしい気分。次に紹介する本もそんな一冊。

『日々の非常口』(アーサー・ビナード 新潮文庫 Arthur Binard "EVERYDAY EMERGENCY EXITS")

著者は、来日してから日本語で詩作をはじめたというミシガン生まれのアメリカ人。平凡な日常の小さな発見を綴った文章が実に心地よい。たとえば、銭湯。

アメリカでは、「まったくのシャワー派。湯船は水を排水溝に送り込むためのものだった」が、池袋の風呂無しアパートに入居してから、「銭湯に通うことになった」。湯船に体を沈めるのは初体験だったわけだ。

 ある日、日本語学校から帰って、開店と同時に銭湯に入り、独り占め状態の浴槽で体を伸ばした。天井の水滴の模様をしばし眺め、視線をふと下げると、自分の足が水面から十本の指を出している。ほてった指たちが気持ちよさそうにそれぞれ動いて、左右の親指が互いに触れあい、まるで挨拶しているようだ。こっちが、脳から指令を出してやらせているというよりも、独立して入浴を楽しんでいる感じだった。あのとき、浴槽が本当はなんのためにあるか分かった気がして、自らの体との付き合い方も、少し変わった。(61p)

主語や目的語を省略できる日本語の愉悦を意識しながら、同時にそれが英文への翻訳の難しさとなっていることをよく知る著者が、「自分の足が水面から十本の指を出している。」と「自分の足が」を主語に使うおもしろさ。日本人が書く場合、「水面から十本の足指が出ている。」とすぐに情景描写にしてしまうだろう。そうはせずに、あえて、「足」を独立させ、身体論にしながら、「感じ」を描写した。

スイスイ読めるが、ちょっと違う。けっこう、骨格が違うかもしれない。そんな風に文体に興味を持たせるところがおもしろい。書く内容は決めていても、どのように書くかに、迷っている。日本語と英語を行きつ戻りつ、ぎりぎりまで考えている。そこが風通しのよい文体にしているのかもしれない。日本語や英語からある言葉を取り上げ、その異同を確認する思考とは、日本語や英語という家の戸や窓を開け閉めする作業がともなうからだろう。

アメリカから吹いてくる風を日本で感じている時評的なものも少なくない。著者が物心ついてからずっと戦争を続け、いまもイラク人の死者10万人以上に責任があるアメリカへ、豊かな言葉を捨て去り「御用流行語」であるユビキタスをありがたがる日本へ。行きつ戻りつして、湯冷めしてくしゃみをしたように我に返る数編もある。が、その多くは、古今東西の詩や童話や歌、箴言、警句などを手際よく紹介しつつ、人間知に裏づけられた豊かな言葉の世界に誘ってくれるものだ。

銭湯の脱衣場を吹き抜けていく風のように、読後感が気持ちがよいのは、著者が言葉の縁側を開けてくれているからだろう。言葉の場所としての縁側は、物心ついてから著者の身近な人々である家族や友人たち、20代の一時期を過ごしたイタリアで知り合った人々なども集い、故郷ミシガンをはじめとするアメリカの自然や風土に通じている。

ただし、シェークスピアやオスカー・ワイルド、バイロン、夏目漱石、斉藤茂吉などはともかく、ヘンリー・アダムス、アンナ・アフマートワ、エドナ・セントビンセント・ミレー、ロングフェロー、サミュエル・ホッフェンスタイン、エスキモーの歌『春の入り江』、山之内獏、『アナイス・ニンの日記』、ウッディ・ガスリー、ダルマージン・バドバヤールなどには、注解がほしかった。山之内獏『ねずみ』や栗原貞子『生ましめんかな』の詩のすばらしさを、本書ではじめて知っただけに。

(敬称略)



映画を観るのは恥ずかしくない

2012-03-12 21:56:00 | ブックオフ本
凄い「映画小説」を読んだ。

『フリッカー、あるいは映画の魔』(セオドア ローザック 文春文庫)


上下巻あわせてちょうど1000頁。読み出したら止められず、仕事と睡眠はかくじつにおろそかになるからご注意。読み進むうちに、残高がどんどん減っていく通帳を見るような悲哀にとらわれます。ほら、傑作映画を観ているとき、乗り出すようにスクリーンにのめり込みながら、もう中盤だな、あと30分くらいか、頭の片隅で「THE END」を意識して焦り出す、あの寂しい感じです。

おおげさにいうと、それが1000頁続くのですから、数日で1000万円を費消した亡失と満足をあじわえるわけです(1000万円なんて見たこともないけど)。映画好きなら、よくぞ、映画の気恥ずかしさの向こうにかいま見える、不思議と怖ろしさについて書いてくれた。ただの娯楽とはとても思えない、あの魔的な一瞬によくぞ迫ってくれた。そう感涙にむせぶこと間違いない。

映画好きではなくても、映画の神経症的な怖ろしさを謎解く映画史の概略だけでなく、映画成立の背景となった中世の宗教弾圧などまで知ることができ、じつは映画について誰もほんとうにはわかっていなかったわけだと、溜飲をさげることができます。リュミエールエジソンの近代以前、映画は未知の、魔術めいた、錬金術に似たもの、というゴシックロマンの魅力も、この小説には横溢しています。

しかし、この「映画小説」は、中世より遥か時空を超えて、「映画以前」と「映画以後」をも語ります。むしろ、そちらが本筋です。

映画のはじまりは、人間が火を手に入れたときから。原始、洞窟のなかで火を焚いた人々の眼前に、照らし出される岩壁の明と暗のひろがりこそ、「映画史」のはじまりではないか。その洞窟で、人は絵を描いた。牛や鳥や狩りをする人々を。それはもちろん、松明の火の光を頼りに描かれた、黒白の物語です。

暗い洞窟は映画館であり、松明の火が光源となり、岩壁がフィルムであり、スクリーンとして、「映画」は誕生しました。ならば、「映画以前」とは、そうした「映画」に至るまでのそれ以前、数万年数十万年の長い時間を指すはず。人々は揺らめく焚き火に映し出された、岩壁の光と影と闇が織りなす、一瞬も変容をやめないタペストリーを見つめてきました。

人類が受け継いできた「映画」のDNAの蠢動はそこからはじまるのかもしれません。だから、映画館など一度も在ったこともなく、映画を一度も観たことのない人も、すぐに映画に親しみ熱狂するのかもしれません。世界中の人々にとって映画が最大の娯楽になったのは、わずかこの一世紀のことに過ぎません。

では、「映画以後」とは何でしょうか? 

「ダンクルは、テレビによってフリッカーの効果がさらに進化すると考えています。真のスクリーンは目の網膜であり・・・頭蓋のなかに達する。その頭蓋がいわば洞窟なんです。想像できますか、その薄暗い個人劇場の奥深くに精神(プシケ)というしろものが巣食っている光景が?」(下巻500頁)

誰しも知っているように、動画というものは存在しません。映画のフィルムは光の点滅であり、一コマごとに光と闇が交代しているだけ。静止画を動いているように見せるのは、実は私たちの脳内で起きたできごとに過ぎません。ノートの端に書き込んだパラパラアニメのように。しかし、残像効果だけでは、まだ映画ではありません。映画とは映像の効果によって生じる、私たちの内なる作用なのですから。

この「映画小説」では、映画の撮影や映写技術、編集についても、その概略を理解できるようになっていますが、いかに高度な技術を駆使しようとも、大昔に岩壁を削ったようにフィルムに固着された傷だけでは、けっして映画にはならないことを繰り返し示唆しています。映画とは、私たちが、私が観たときに、そこからはじまり、上映時間が過ぎても、じつは終わっていない。それが映画のほんとうの謎です。

私たちは、一本の映画を観たとき、一冊の小説を読んだとき、私たちのなかで、無意識のうちに、もう一本の映画をつくり、もう一本の小説を書いているのに気づくことがあります。映画ファンが熱烈に愛する映画を熱意を込めて語るとき、注目したシーンや感銘しきりのシーンが、実際にその映画を観てみると、どこにもなかった、存在しなかった、というのは、ままあることです。

詳細に解説したはずの彼に問い正しても、「そんなはずはない」と首をひねるばかり。あるいは、見逃したに違いないとばかりに、黙殺したりします。この小説にも、同様な場面が出てきて、存在しないシーンについて語る映画監督に、インタビュアーは問い正すことすらしない。それはあってもおかしくない、存在したら、たしかに名場面となるのではないかという説得力を持っていたからです。

というわけで、この破格の傑作小説をあなたが読んでみて、コタツのいうようなことは書いてなかった、そこまで著者はいっていなかった、ということがあるやもしれません。どうかそこは気にしないでください。たぶん、あなたとは別の小説を読んだのです私は、映画と同様に。すべては、ON SCREE, ON AIR にあるのに、屋上屋を重ねて、自分だけの映画をつくって、観てしまう。映画を観るときの気恥ずかしさや後ろめたさ、それがやって来る深遠な場所を、この小説によってあらためて知った気がします。

(敬称略)


青少年と母親は必読

2012-03-03 01:32:00 | ブックオフ本


世の中には、真に受けてよい本と真に受けてはならない本がある。この「よりみちパン!セ」シリーズでは、『日本という国』 (小熊 英二は、真に受けてはならない本である。懐疑的に読まれなければならない。そこに嘘偽りが書かれているからではない。少なくとも著者には、そんなつもりはない。しかし、読み手は、ほんとうにそうか、違った見方はないのか、そう考えながら読まねばならない。また、そう考えつつ読むところに、知性が発動する。読書とは、おおむね、そうしたものだし、だからこそ価値があるといえる。

これに対して、『正しい保健体育』(みうら じゅん)は、真に受けてよい本である。真に受けるとは、そのまま信じるということだ。書いてあることを真実として信じる。たとえば、聖書のような本だ。あり得ない話ばかりだと、聖書を批判的に読む場合もあるだろうが、たいていは無批判に読まれる。聖書の記述に、いちいち突っ込みを入れる人は、聖書を読み通すことはできない。ならば、聖書の世界を理解できない。異質な読書体験といえるが、そこでも知性は発動する。知性とは何であるか、どんなことなのか、そう考える知性である。

『正しい保健体育』(みうら じゅん 理論社)

「正しい保健体育」は、性教育の本である。おもに、中高生の男子向けといってよい。女子はほとんど無視されている。それは、女子だけが集められた特別な授業において、いったい何をしているのかという解説で、著者は「ゴダールの映画を観ているのです」といっていることからも理解できるだろう。つまり、いわゆる性教育を否定した、男子のための性の手ほどき、それが本書の趣旨である。男子の性書であることは、<第1部 保健体育を学習するにあたって>の<1)義務教育の大切さ>に明確に位置づけられている。

 本書では中高生を対象に、「正しい保健体育」を学んでいただくわけですが、まず授業には入る前に、ここでは「義務教育」と「性教育」
の関係について理解しておきましょう。
 もともと男子は、金玉に支配されるようにできています。
 金玉というのが本体で、その着ぐるみの中に全部入っているのが、人間の男なのです。いつのまにか進化した人間は、その「金玉着ぐるみ」からはみ出した部分が大きくなってしまいました。(中略)
 ですので、そのはみ出した部分を「義務教育」でうめて、金玉に支配されないようにしているのです。義務教育とは「支配からの卒業」なのです。


中高生の男子にとっては、性をとおして現在・過去・未来を見通すことができる、きわめて有益な「性書」といえる。性への広い視野と深い考察が、童貞期・思春期・壮年期・老年期と段階的に語られ、とくに、童貞期における自分塾の開設の重要さについての指摘は、ほかの追随を許さない説得力がある。中高生の男子はもちろん、中高生の男子の母親にも広く読んでもらいたい良書である。また、加齢臭ただようおじさんやイカくさいおばさんの後生にも、遅すぎたとしても間に合わせの一冊として、一読の価値があろう。

「よりみちパン!セ」シリーズごと引っ越し
http://book.asahi.com/news/TKY201108010093.html

(敬称略)