生活保護調査「惨めになった」 利根川心中、三女初公判
http://www.asahi.com/articles/ASJ6N34FTJ6NUTNB006.html
波方被告は被告人質問で、その翌日、かねて相談していた生活保護の受給に向け、市職員と自宅で面接した際、家族状況や職を転々としてきた自らの生い立ちを話したことで死のうとする気持ちが強まったと説明。
なるほど、「向き合う」という言葉への違和感の由来がわかる気がした。たぶん、市職員は真面目に「向き合おう」としたのだろうし、そんな姿勢が伝わって、ふだんは考える暇もなく過ごしてきた被告人も、自らに「向き合い」苦境に至った数々を整理して話す気になったのだろう。
皮肉なことに、それが「心中」を決意するきっかけのひとつになった。その結果からみれば、誰しも生きたいのが本意のはずなのだから、自分とは「向き合うな」という短絡も捨てがたい。
そういいたくなるほど、「向き合う」という言葉の用法用例にはかねてから疑問を感じていた。本来の内省的な意味は剥ぎ取られ、自らを開放せよと強いる押しつけがましさを見てしまうのだ。また、その先の「自らと向き合う」ことによって作られる「自分史」が、たいていは捏造や偽史であることを忘れ去り、本当のことだったと思い込む弊害も大きいと思ってきた。
他人に心を開いて接するのはむろんわるくないことだが、それができるのはけっして他者と共有できない自分があるからこそで、かなり成熟した心が強靭な人でなければできることではない。つまり、たいていの心弱い人々にとっては努力目標に過ぎない。それを実現可能なノルマのようにいわれてはたまらない。
ただし、「向き合う」という言葉が役所やメディアで使われる場合は、ほとんど「検討する」と同様な「逃げ口上」になっているので、きちんと自らの組織の問題点に「向き合い」、その是正に向けて透明性のある改革案を示せと強いる必要があることはいうまでもない。コンプライアンスとはそのことだろう。
それはさておき、人の話を聞くという仕事をしてきてこれまで学んだことがいくつかある。その一つは、人の行為や行動にきっかけなんてものはないということだ。きっかけがあるとすればひとつやふたつではないし、「ああ、それで」や「なるほど」と頷けるきっかけはたいていその人の「物語」の起点となった出来事か、あとから「物語」に付け足された事実の解釈に過ぎない。
したがって、早々に気づくことは、嘘か実かという二択は「物語」には通用しないということだった。映画や小説の「事実に基づくストーリー」と同じである。どちらでもあるし、どちらでもない。こちらが話を聞く目的は、彼及び彼女の人となりを知って、その業績や仕事への理解を深めることにあるが、「人となり」はほとんど「実在の人物とは関係ないフィクション」の場合が多い。
くだらない語呂合わせと笑われるのを承知でいえば、この「人となり」は「人隣」であって、周囲や社会に繋がる隣接したその人の立ち位置といえ、それが「物語」だろうと考えていたものだ。明るい成功譚にしろ、暗い不幸話にしろ、たいていは自慢話の範囲なので、頼めば人は進んで話してくれるものだ。
話すも聞くも、互いに仕事か必要上のことだから、真情や本音はむしろ脇にどけるのがマナーである。たとえ被害者の真情を訴えたいという人であっても、それはカッコつきであることを弁えなければ、理解や解釈を大きく間違える場合がある。やっと、ここまできた。くどくど書き連ねて申し訳ない。いま、言います。
この心中事件の被告の「死のうとする気持ちが強まった」という説明は、やはり彼女の「物語」であり、しかし、そんな「物語」のひとつが心中を駆動するほど強力になることがあり得ることとは別に、「市職員への相談」が大きなきっかけになったと読める記事はまずい。
「強まった」と被告がいっているように、きっかけはそれだけではないし、そうした被告の心情は共有できるものばかりとはかぎらない。したがって、たぶん事実として間違っている。
さらに、結局、追いつめたのは他者や他事にみえて、じつはいつも自分だからこそ、人は自分以外に行為や行動の理由を求めるものだ。尋ねられたから答えた当時の心境であって、心中事件のきっかけとして裏付けられるものでもない。
しかし、問題はきっかけにはない。生活保護受給窓口に相談することが、自らの貧窮を訴えるにとどまらず、内心の告解や人生懺悔の場であるような「誤解」をこの記事は正さず、むしろ共有している。
役所の生活保護窓口はいうまでもなく教会ではないし、そもそも人生相談の場でもない。生活保護費の支給手続き窓口に過ぎず、受給希望者の資格要件さえ整っていれば、事務的機械的に受付すればいいだけだ。支給は義務であり、受給は国民の権利である。
この記事にはそのかんじんなことが書かれていない。「惨めになった」と思えるほど「相談」したあげく、波方被告は生活保護費を受給できたのだろうか。「受給に向けて」と何度も書きながら、「生活保護でお金の面は何とかなると考えていた」という波方被告の供述を引用しただけだ。
一見、被告に同情的な筆致にみせて、その実、制度や運用の現実に「向き合う」ことはせず、「家族間のバランス」にその原因を求めている。ならば家庭の事情であり、記事の公共性には欠けるだろう。残された教訓は、市職員が立ち入ったことまで聞き過ぎたというわけか。そりゃ、ないだろう。