コタツ評論

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東海林さだお『あれも食いたいこれも食いたい』

2024-02-24 21:57:04 | TPP

朝日新聞の毎土曜日の別刷り「be」の東海林さだお連載『あれも食いたいこれも食いたい』を愛読している。いや、愛でるように味わいつつ読んでいる、というのとはだいぶ違う。東海林さだおの着眼や筆致にときどきアワアワとするからだ。取り扱われる食べ物や料理は取るに足りないのが常だ。とりわけ、今回のテーマである「定食屋のみそ汁のワカメ」など、これまで誰も取り上げたことがないに決まっている。あまりに無意味だからだ。「定食屋のみそ汁のワカメ」が「食いたい」人などいるわけがない。のっけから、まるで食品と料理そのものを否定するような鬼面人を愕かす外連たっぷりな仕掛けといえる。新聞の上半分、4段組みの長文ながら、挿絵マンガが3点入り、行間をたっぷりとった上に、。を合わせて2字で終わってしまう余白が98%の行がいくつも数えられる、「ある意味」と留保せずとも、そのままスカスカの紙面に、いくつもの不安と動悸が仕掛けられているのだ。その第一は、これはもしかして晩年の武者小路実篤の「痴呆文」と同様な、かつては「痴呆症」と呼ばれ、「ボケ老人」と俗称した、現在は「認知症」といわれている、認知障害の症状がもたらす文芸なのではないかという疑問である。東海林さだおは昭和12年生まれの84歳だから、そうであっても不思議はない。あっちへ行ったり、こっちへ寄ったり、とりとめがなく、つまり、文章上の徘徊老人なのである。いや、そう見えるだけであって、徘徊老人にしてみれば、断固たる意志を持って、確固たる行き先に向かって、的確な足取りで歩んでいるのかもしれない。その節もじゅうぶんに伺えるのが厄介なのだが。とはいえ、読者としては、そんな風に読めない不安が困るのである。道路上の徘徊老人なら、眼を逸らして通り過ぎればいいだけだ。それでも、その老人が側溝に嵌るのではないか。交通事故に遭うかもしれない。子供や中年御婦人の自転車に衝突して、双方がケガを負う怖れもある。文章上の徘徊老人にはそんな危険と迷惑は一つも起きない。では何が困るのか。ふと思ったのだが、徘徊と俳諧は双子のように似ているではないか。句想を得ようと辺りをうろつく様ときたら、ほとんど見分けがつかない。徘徊から俳諧にいたる句読点が俳句といういわば巡回文芸ともいえる。言えないかもしれない。おまわりさんは巡回するけど、徘徊しているとはいわないし、俳句を作っているとか、有名な俳号の持ち主がいると聞いたこともない(このへん、筋が通っているナ)。もし、そんなおまわりさんがいたら、コンビニに昼食を買いに行ったくらいで叱られるのだから、うんと叱られるだろう。梅が咲いたり、鶯の鳴き声が聴こえたりするのに気をとられて、職務がおろそかになるのに決まっているからだ。窓ガラスが割られたり、女性の悲鳴が聴こえたり、頬かむりをした泥棒の姿こそ見つけてほしいから、困るのだ(このへん念入りだナ)。そう、困るのだ。道路上の徘徊老人を見かけると、靴底に入った小石のように気がかりになり、放っておけばやがて痛くなる。もちろん、小石なら靴を脱いで振り落とせばいいだけの話である。徘徊老人の方はそう簡単ではない。警察に電話するのか、役所の担当を探すのか、いやいや携帯電話の画面をスリスリする前に、まず老人に声をかけ、道路端に寄せてまず話しかけねばならない。とても面倒で、ユニセフくらいの善意がなければできないことだが、それでも絶対無理というほどではない。これに対して、文章上の徘徊老人には何の手立てもない。道路上の徘徊老人のような危険を自他に及ぼす恐れはないのだから、読まなければ済むだけなのだが、読めばやはり靴の中を転がる小石のように気がかりになる。徘徊なのか、ワザとなのか、あるいは不遜にも読者の読解力を試しているのか、???の異物感が拭えないのだ。東海林さだおのの決め言葉に、「ホンコなしね!」というのがある。随筆とは、志賀直哉や志賀直哉や志賀直哉のような文豪が、その文学エッセンスを永谷園ののり玉ふりかけのように散りばめた、日本文学史に屹立した文芸ジャンルである。そこにあえて虚構を持ち込む前例はいくつもあるし、虚実皮膜という高級な批評用語もあるくらいだ。しかし、東海林さだおの場合、「ホンコなしね!」と虚言妄言をあらかじめ宣言しているのである。あなたがもし、町の喫茶店に呼び出され、しもぶくれの唇の赤い中途半端な長髪の男と対面して、「これから私が述べることは、すべて嘘八百です」といわれたらどうしますか?いや、そんな圧迫面接のような態度ではないな。「ホンコなしね」とは、追い詰められた末に涙目で発せられる弱者の言葉だ。麻雀に誘われたしもぶくれに中途半端な長髪の大学生が、「テンピンだからな」と告げられてポケットに1300円の場所代くらいしかないのをたしかめ、郵便貯金口座にはまだ月の半ばだというのに8千円しかないのをさらに思い出し、目じりを赤く滲ませながら、「ホンコなしね」と気弱に提案し、「ケッ、バカいってんじゃねえよ」と置いてけぼりを食い、二度と誘われない立場を招く言葉である。東海林さだおは、そんな惨めな立場の自分に呟く「苦し紛れ」を書くのである。「僻みっぽいワカメ」がみそ汁とTV番組の『新婚さんいらっしゃい』に出演したらどうなるか、とかである。「苦し紛れ」としか読めない、いかにも唐突で脈絡がない、強引な飛躍である。手が込んでいるのは、「苦し紛れに」書いたように、「苦し紛れを」書いてみせる、底なしの「ホンコなしね」なのだ。騙される、転がされる、にとどまらない東海林さだおの凄さは、この「苦し紛れ」を書くためにせっせと行を重ねていることだ。こうなるともう、文芸そのものを否定しているとしか思えない。文章の事実性を否定し、文脈の経路を無視し、言葉を無意味化しているからだ。文章上の徘徊老人にして、小学生のパンクロッカーのようなものだ。その衝撃は東海林さだお風を生み出してしまうことに如実に表れている。オートバイに乗れば風になるそうだが、東海林さだお風に乗れば、臆病風に吹かれることになる。しもぶくれに赤い小さな唇の中途半端な長髪の「ホンコなしね」が決め台詞の、置いてけぼりを食らって二度と誘われない、「苦し紛れ」だけが上手くなった怯えた子ども、になって、ヘナヘナの臆病風が心地よくなってしまうのだ。人もその文章も。それを避けるために読者ができることは、「タンマ」と頁を閉じ、立ち去ることだけである。「ホンコなしね」という呪いに対抗できるのは、「タンマ」という呟きだけなのだ。いうまでもないことが、それもまた東海林さだおの術中なのだが。

止め

 


病院ラジオ

2024-02-23 14:25:51 | ノンジャンル

NHK広島制作の『サンドウイッチマンの病院ラジオー広島篇』を先ほど視た(2/23日 8:15~9:15)https://www.nhk.jp/p/hospital-radio/ts/4LP7MJWPN9/

そういうラジオ番組があるわけではなく、不定期のTV番組である。サンドウィッチマンの二人が各地の病院に出向き、仮のラジオスタジオをつくり、入院や通院患者、その家族など5人くらいを招いてインタビューする。

TVやラジオのトーク番組に芸能人や著名人をゲストに招き、最近の活動や心境を聞き、ゲストのリクエスト曲をかけるのと同じだ。病院ラジオでは、ゲストはその病院の患者ということになる。

今朝の広島篇では、広島赤十字・原爆病院を訪ねたせいか、がんや白血病、被爆の患者たちがゲストだった。診断されたときの気持ちやその後の経緯、現在の様子を、最近、膀胱がんのステージ1を公表した、サンドウイッチマンの伊達と相方の富沢が聴いていく。

収録日は病院の生番組のように、院内の患者や看護婦など医療関係者はリアルタイムで聴取できる。仮設ラジオスタジオ前のスピーカーや、専用のスマートフォンアプリを経由して聴く仕組みだ。

今回は、深刻だったり厄介な病気が多かったが、「闘病」を語るというシリアスな感じはない。病気が生活の一部となった人たちの暮らしや家族、あるいは学校や勉強、将来の夢の話だ。

入院経験ある人なら、患者同士が集まる休憩所で交わされる会話を思い浮かべればよい。「たいへんでしたね」「よくがんばったな」といった同情や激励の言葉を口にするが、病気はお互い様だから、挨拶くらいの軽く明るい口調になる。

漫才と同じように、患者ゲストの話に突っ込んだり、まぜ返したりするサンドウイッチマンのトークは、病気や患者というよりその人自身を話題にしているという姿勢だ。病院での患者同士の話も同様で、どんな人で何をしてきたか、これからどうするのか、病院の「世間話」も同じなのだ。

入院患者同士なら、たいていはひと通り自分語りはしている。処方される薬や食事などから病名はわかっているし、その症状に本人や家族の一喜一憂も見聞している。あるいは、見舞客の出入りやその会話を小耳にはさんだりして、仕事内容だけでなく、地位や性格、人望まで、隣近所のベッドなら自ずとおよそわかってしまうものだ。

家族や世間から切り離された孤独で暇な患者同士のお互いさまという関係性と、何十年来の友人くらいしか持ちえない知見があってこそ、休憩所の「世間話」は成り立っている。サンドウイッチマンの二人には、病院の仮のスタジオでそれを自然にできているようにみえる。

二人の芸と個性のおかげでもあるだろうが、その裏には番組スタッフが本人はもとより、医師や看護師など医療関係者、家族や友人など見舞客への取材やインタビューが入念に行われているためだろう。形は軽快なトーク番組だが、実際はドキュメンタリ番組なのだ。
本人とのトークの後には、感謝の言葉を捧げられた妻の反応が映し出される。「ひさしぶり」と看護士と会話が弾む、子どもを失くした母親の姿も追う。延べ数十人、延べ1か月はかかる取材と準備を通した信頼関係があってこその「世間話」である。

NHKらしい、NHKでしかできない良心的な好番組だ。残念ながら、この番組はNHKのオリジナルではない。ベルギーで制作されたドキュメンタリー番組『Radio Gaga』の日本版だそうだ。また、ホスピタルラジオ(Hospital radio、病院ラジオ)というイギリスを中心に英語圏で広く浸透しているボランティア活動があり、病院内または近郊に小さな放送スタジオを実際に作り、院内のベッドサイドのイヤホンなどを利用して、音楽やニュースなどを提供しているそうだ。1926年から始まり、2022年時点にホスピタルラジオ連盟(HBA)に登録している放送局は170件前後という。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%8

「ゲスト」のリクエスト曲は、やはり人生を見渡すようなスケールの大きい、そして抒情的な曲が多い。誰でも知っている流行歌より、あまり知られていない歌が多い気がする。人と曲に、なるほどと頷いたり、意外に思ったり。TVやラジオの一般的なトーク番組のゲストに劣らず、患者ゲストの話はおもしろい発見も少なくない。

患者と病気という背景によるものというより、出演する芸能人や著名人が身につけているようなフランクさ、世界と自分を測っている態度といったものが、引き出されているからだろう。やはり、病院の「世間話」である。

でもさ、サンドウィッチマンってはじめて知った。サンドイッチマンってずっと思ってた。ウィッチのウィにアクセントがきて話し難くない?喫茶店やレストランで、「サンドウィッチください」って注文してる?インチキ英語みたいで、なんだかなあ。

止め