コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

不実な美女か貞淑な醜女か

2009-02-28 00:24:07 | ブックオフ本


『オリガ・モリソブナの反語法』を読んで以来、俺の米原万里ブームは続いている。例によって、以下の2冊を古本屋で入手。電車の行き帰りに読んでしまった。

『不実な美女か貞淑な醜女か』(新潮文庫)
『言葉を育てる 米原万里対談集』(ちくま文庫)


いずれも、もっと読んでいたかった、と読み終えてがっかり。米原万里の本は、おもしろくってためになる。言葉がテーマなので、とても汎用性がある。ロシア語通訳の苦労や達成感の話なんて、ほとんどの日本人に無関係なのに、どんどん関心が引き出され、やがて自分の仕事や勉強に役立つ知見や認識に溢れていると気づきます。

既読の
『魔女の1ダース - 正義と常識に冷や水を浴びせる13章』(新潮文庫)
と重複する議論やエピソードがみられるが、また同じ話かとは思わない。書いてあること、だけでなく米原万里という人、格好つければ米原万里という知性に惹きつけられていくから、前後の記述が違っていれば、米原万里の感じかたや思考の跡がより深く広くとらえられる気がして、けっこう新鮮なのだ。未読はまだ以下のようにたくさんある。楽しみ。

『ロシアは今日も荒れ模様』 (講談社文庫)
『ガセネッタ&シモネッタ』 (文春文庫)
『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)
『真夜中の太陽』(中公文庫 (中央公論新社)
『ヒトのオスは飼わないの?』 (文春文庫)
『旅行者の朝食』 (文春文庫)
『真昼の星空』       (中公文庫)
『パンツの面目ふんどしの沽券』 (筑摩書房)
『必笑小咄のテクニック』 (集英社新書)
『他諺の空似 - ことわざ人類学』(光文社)
『打ちのめされるようなすごい本』(文芸春秋)
『発明マニア』 (毎日新聞社)
『終生ヒトのオスは飼わず』 (文芸春秋)
『米原万里の「愛の法則」』 (集英社新書)
『心臓に毛が生えている理由』 (角川学芸出版)

(敬称略)


村上春樹 エルサレム賞 講演 <壁と卵>のいいかげん訳

2009-02-24 12:18:32 | ノンジャンル
(しかし、この卵は、生卵なのか茹で卵なのか、小一時間考えた俺はバカ?)

"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."

「高く堅い壁とそれに潰された卵の間にいたとしたら、私はつねに卵の側に立つ」

Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will decide. If there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?

そう、たとえ問題なく壁が正しく、卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。いや、是々非々でいくべきだという人や、時間や歴史が判断を下すものだという考えかたもあるでしょう。でも、どんな根拠であれ、壁の側に立つ小説家の書く作品に、いったいどんな価値があるでしょうか?

What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high, solid wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.

この壁と卵のメタファーの意味は何だと思いますか? 単純にすぎるかもしれませんが、爆撃機や戦車、ロケット砲、白燐弾などは、まさしく高く堅い壁です。一方、この壁によって砕かれ焼かれる非武装の市民が卵です。

This is not all, though. It carries a deeper meaning. Think of it this way. Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: It is The System. The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others - coldly, efficiently, systematically.

でも、このメタファーの意味はそれだけでしょうか?もっと深い意味があります。こんな風に考えてみてください。私たちの誰しもが、ひとつの卵なのです。私たちの誰しもが、ごく薄い殻に包まれた、かけがえのない、とりかえられない存在なのです。これは私だけでなく、あなたにとっても真実であるはずです。そして、私たちの誰しもが、多少の程度の違いはあれど、高く堅い壁に向き合っています。その壁の名を、「ザ・システム」といいます。「ザ・システム」は私たちを守るものと思われていますが、ときに、「ザ・システム」自身が命を持ち、私たちを殺しはじめ、私たちに他国の人々を殺すよう仕向けます。冷血に、効率よく、制度的に。

I have only one reason to write novels, and that is to bring the dignity of the individual soul to the surface and shine a light upon it. The purpose of a story is to sound an alarm, to keep a light trained on The System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them. I fully believe it is the novelist's job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories - stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.

私が小説を書く唯一の理由と目的は、人間一人ひとりが、厳かに輝く魂の持ち主であることに光を照らすことです。私たち一人ひとりの魂が、「ザ・システム」の蜘蛛の巣(web)に絡みとられた卑小な餌にされないように、その暗黒に一条の光を射て、無音の警笛を鳴らし続けることなのです。小説家の不断の努力とは、そうしたかけがえのない人間の魂を、生と死の物語、愛の物語、悲哀や恐怖の物語、抱腹絶倒の物語、などを通して、丁寧に描くことなのだと、私は確信しています。

(中略)

I have only one thing I hope to convey to you today. We are all human beings, individuals transcending nationality and race and religion, and we are all fragile eggs faced with a solid wall called The System. To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong--and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others’souls and from our believing in the warmth we gain by joining souls together.

今日、私が皆さんにお話ししたいことは、ただ一つだけです。私たちは、国籍、人種、宗教を越えて人間であり、それぞれが独自の存在なのです。同時に、「ザ・システム」と呼ばれる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どうみても、私たちが壁に勝利する見込みはありません。壁はあまりに高く、強固で、冷え切っています。もし、勝利への希望を持てるとするなら、かけがえのない独自の存在である私たちが、たがいの魂が寄り添うときに感じる温かさ、それを強く信じること以外にないでしょう。

以上、コタツのいいかげんな抜粋訳でした。Each of us (誰しもが・誰もが、の方がよかったかな?)が効いていますね。Two of us (チューブアス=二人だけ)という使い方もよくされます。The System とは、俺たちがつくった(過去の俺たちがつくってきた)、あらゆるシステムに当てはまりますね。政治や経済・教育だけでなく。ちゃんとした翻訳は、「村上春樹 エルサレム賞 講演翻訳」で検索すればいくらでもありますので、そちらをご覧いただくとして、誤訳と意訳しすぎは平にご容赦を。

(敬称略)

村上春樹<エルサレム賞>授賞式講演全文

2009-02-24 02:36:38 | ノンジャンル
こんばんは。わたしは今日、小説家として、つまり嘘を紡ぐプロという立場でエルサレムに来ました。http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php

 

もちろん、小説家だけが嘘をつくわけではありません。よく知られているように政治家も嘘をつきます。車のセールスマン、肉屋、大工のように、外交官や軍幹部らもそれぞれがそれぞれの嘘をつきます。しかし、小説家の嘘は他の人たちの嘘とは違います。小説家が嘘を言っても非道徳的と批判されることはありません。それどころか、その嘘が大きければ大きいほど、うまい嘘であればいっそう、一般市民や批評家からの称賛が大きくなります。なぜ、そうなのでしょうか?

それに対する私の答えはこうです。すなわち、上手な嘘をつく、いってみれば、作り話を現実にすることによって、小説家は真実を暴き、新たな光でそれを照らすことができるのです。多くの場合、真実の本来の姿を把握し、正確に表現することは事実上不可能です。だからこそ、私たちは真実を隠れた場所からおびき出し、架空の場所へと運び、小説の形に置き換えるのです。しかしながら、これを成功させるには、私たちの中のどこに真実が存在するのかを明確にしなければなりません。このことは、よい嘘をでっち上げるのに必要な資質なのです。

そうは言いながらも、今日は嘘をつくつもりはありません。できる限り正直になります。嘘をつかない日は年にほんのわずかしかないのですが、今日がちょうどその日に当たったようです。

真実をお話しします。日本で、かなりの数の人たちから、エルサレム賞授賞式に出席しないように、と言われました。出席すれば、私の本の不買運動(ボイコット)を起こすと警告する人さえいました。これはもちろん、ガザ地区での激しい戦闘のためでした。国連の報告では、封鎖されたガザ市で1000人以上が命を落とし、彼らの大部分は非武装の市民、つまり子どもやお年寄りであったとのことです。

受賞の知らせを受けた後、私は何度も自問自答しました。このような時期にイスラエルへ来て、文学賞を受けることが果たして正しい行為なのか、授賞式に出席することが戦闘している一方だけを支持しているという印象を与えないか、圧倒的な軍事力の行使を行った国家の政策を是認することにならないか、と。私はもちろん、このような印象を与えたくありません。私は戦争に反対ですし、どの国家も支持しません。もちろん、私の本がボイコットされるのも見たくはありません。

しかしながら、慎重に考慮した結果、最終的に出席の判断をしました。この判断の理由の一つは、実に多くの人が行かないようにと私にアドバイスをしたことです。おそらく、他の多くの小説家と同じように、私は人に言われたことと正反対のことをする傾向があるのです。「行ってはいけない」「そんなことはやめなさい」と言われると、特に「警告」を受けると、そこに行きたくなるし、やってみたくなるのです。これは小説家としての私の「気質」かもしれません。小説家は特別な集団なのです。私たちは自分自身の目で見たことや、自分の手で触れたことしかすんなりとは信じないのです。

というわけで、私はここにやって参りました。遠く離れているより、ここに来ることを選びました。自分自身を見つめないことより、見つめることを選びました。皆さんに何も話さないより、話すことを選んだのです。

ここで、非常に個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。それは小説を書いているときにいつも心に留めていることなのです。紙に書いて壁に貼ろうとまで思ったことはないのですが、私の心の壁に刻まれているものなのです。それはこういうことです。

「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。

そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?

この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。
 
しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。

私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。

私の父は昨年、90歳で亡くなりました。父は元教師で、時折、僧侶をしていました。京都の大学院生だったとき、徴兵され、中国の戦場に送られました。戦後に生まれた私は、父が朝食前に毎日、長く深いお経を上げているのを見るのが日常でした。ある時、私は父になぜそういったことをするのかを尋ねました。父の答えは、戦場に散った人たちのために祈っているとのことでした。父は、敵であろうが味方であろうが区別なく、「すべて」の戦死者のために祈っているとのことでした。父が仏壇の前で正座している輝くような後ろ姿を見たとき、父の周りに死の影を感じたような気がしました。
 
父は亡くなりました。父は私が決して知り得ない記憶も一緒に持っていってしまいました。しかし、父の周辺に潜んでいた死という存在が記憶に残っています。以上のことは父のことでわずかにお話しできることですが、最も重要なことの一つです。

今日、皆さんにお話ししたいことは一つだけです。私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どこからみても、勝ち目はみえてきません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在です。もし、私たちに勝利への希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう。
 
このことを考えてみてください。私たちは皆、実際の、生きた精神を持っているのです。「システム」はそういったものではありません。「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。

これが、私がお話ししたいすべてです。
 
「エルサレム賞」、本当にありがとうございました。私の本が世界の多くの国々で読まれていることはとてもうれしいことです。イスラエルの読者の方々にお礼申し上げます。私がここに来たもっとも大きな理由は皆さんの存在です。私たちが何か意義のあることを共有できたらと願っています。今日、ここでお話しする機会を与えてくださったことに感謝します。ありがとうございました。(仮訳=47NEWS編集部)

「おくりびと」米アカデミー外国語映画賞受賞

2009-02-24 02:16:45 | レンタルDVD映画
元チェリストの青年が納棺師になる「おくりびと」がアケデミー賞外国語映画賞を受賞したのが、どこのTVニュースでもトップニュースになっている。甲子園で優勝したみたいな祝賀光景は勘弁してほしいが、この映画がコミカライズという宣伝手法を採用していたのは知らなかった。



てっきり、ビッグコミック・スペリオールでさそうあきらが連載していたマンガ「おくりびと」を映画化したものと思いこんでいた。「三丁目の夕日」に続いて、またマンガ原作の映画か、アメリカンコミックスの映画化しか企画がないハリウッドと好一対ではないかと、少しムッとしていたくらい。

死出の旅に送り出す納棺師という知られざる職業人に光を当て、その柔らかい紗がかかったような絵柄で、サガミ典礼のTVCFではないが、「さよならがあたたかい」、生者の内にある死者という死生観を拾い上げたさそうあきらの手柄を横取りしただけ。そんな安手のパクリ映画だろうと思っていた。

公開されるや、地味な題材ながらヒットしたというのも、「わたしのお墓の前で~」の「千の風になって」のヒットと同様に、映画などふだんは観ない中高年客を動員するために、彼らの「美しく清らかな死への憧れ」をイベント化する、シルバー産業のお先棒をかついだのではないかとうんざりした。

俺たちは、ブライダル産業の隆盛とともに、儀式と離れてイベント化した結婚式にうんざりして、祝い金を包むのが惜しくなった。そのうち葬儀でも、「千の風になって~」をBGMに、生前の様子を録画したビデオが流され、スポットライトに浮かび上がった横たわる死者に納棺師が厳かに死化粧を施す「生本番」がハイライトになる日も近いのではないかと想像したりした。そうなったら、香典を包むのが惜しくなる人が増えて、弔電が繁盛するだろうなと連想したりもした。弔電もちょっと高いのは5千円もするからだ。

つまり、死んだらそれまで。葬儀やお墓は生者のためにするもので、死者は一切関係ない。たとえ、亡くなった人が、葬儀や墓など不要と遺言したところで、その遺志を継ぐかどうかは遺族や近親の考えや都合によるしかない。ひとりきりでこの世と断絶する、この当たり前の「死生観」が、あたかも死者を代弁するかのように、共感のイベントに取って代わられたら、とてもかなわない。

残された人々がこれからも生き続けるために死者を利用するのはかまわない。それは前を向いた生者の世界のことだから。しかし、死者の世界に立ち入ってはいけないのではないか。納棺師という仕事も、生者と死者の間にあって、生者に死者の世界を納得させるところにその役割があると、さそうあきらのマンガを読んで知った。

よくぞ、そんなマンガを描こうと思い立つマンガ家がいて、その連載を決める編集者がいたものだと感心していた。本来は、小説が描く世界だろうに、本当に日本のマンガは成熟したものだ。ひきかえ、シルバー産業のお先棒を担いで、とにかく映画を撮れればよいという日本の映画界の志の低さよ、おまけに、原作さそうあきらとはどこにも出てこない、ハリウッドを笑えまいと泣き泣き嘲笑していたのである。

「コミカライズ(映画の漫画化)」の記事を読んで、まるで的はずれだったと知った。最近は、DVDレンタル映画しか観ないから、封切り中の映画情報にまるで無頓着だったのがいけなかった。まず、「おくりびと」の映画脚本が書かれ、知名度を上げる宣伝のために、映画脚本を原作にマンガが描かれ、映画公開と前後してマンガを出版するメディアミックス戦術だとはまるで知らなかった。

たまたま、映画の完成が遅れたために、マンガの発表が先になったなど、さそうあきらの連載マンガを読んでいるときには想像もしなかった。さらに、納棺師は、主演の本木雅弘が15年前から温めてきた企画だという。そのきっかけにとなったのが、93年に桂書房から刊行された『納棺夫日記』(青木新門 文春文庫)で、かねてから名著と評判が高いそうだ(桂書房からも、もちろん出ている)

本木雅弘がまだ「モックン」と呼ばれていた20代に、一度、会ったことがある。ひらひらした妖精のように中性的な少年という印象だったので、その後、結婚したのには少し驚いた。納棺を題材にした死者と生者の映画をつくりたいと考え続けるような、野心的な映画人だったとはとても思えなかった。実に参った。ブログに書いてなくてよかった。結局書いてしまったけれど。

ただし、さそうあきらの「コミカライズ」は、映画の観客動員に結びついたのかどうか。あまり、メディアミックスとしては貢献しなかったのではないか。やはり、「千の風になって」や「さよならがあたたかい」に頷き、「オレオレ」や「還付金」詐欺の標的となっている、社会保険庁のねんきん窓口に並んで溜息をついている、「お年寄り」に受けたと思える。それはなぜなのか、レンタルDVDになったら観てみたい。

(敬称略)

野獣に訂正してお詫びします

2009-02-19 23:48:05 | レンタルDVD映画
昨日、Sexy Beat という佳作映画を紹介しました。Sexyはともかく Beatといえるような音楽はなかったなと気になっていました。何のことはない。よく読んだらBeatではなく、Beast(野獣)でした。Sexy Beast、直訳すれば、「セクシーな野獣」です。安物タイトルではどちらも変わりませんね。感想文もほとんど変える必要がないので、そのままにしておきます。Sexyの対象は、やはり女ではなく男に向かっています。だから、Sexy Beast、ドン・ローガンは怖いのです。