言葉の綾掲示板でSさんから「リスペクト派って何?」と質問を頂戴した。その回答になる格好のテキストがあったので、ご紹介がてらいくつか思いついたところを述べてみる。
ときどき読んでいる小田嶋隆の日経コラムからだが、たぶんもう無料で読める時間を過ぎたはずなので、長い引用となった。
私個人は、今回のDHC会長の発言が明らかにしたのは、一個人の差別意識である以上に、21世紀のわが国の社会を支配している拝金主義だったのではなかろうかと思っている。
いったいに21世紀の日本人は、セレブに対して寛大すぎる。
もう少し丁寧な言い方をすれば、カネと知名度を持っている一部の成功者に対して、あらかじめ敗北感を抱いている日本人が多数派を占めていることが、一部のキャラの立った手前勝手な成金たちの、粗野で野放図な活躍を思い切り後押しする結果を招いているということだ。
個人的には、20歳の女性に「テキーラチャレンジ」(15分の間に750mlのテキーラのボトルを飲み干したら10万円を支払うというギャンブル)を持ちかけて死に至らしめた若手起業家の話や、強制性交などの容疑で6回逮捕され、6回不起訴処分になっている元ミスター慶応のエピソードに対しても、同じ印象を抱いている。
その印象とは、一言で言えば、「カネとコネを持っている人間は、ある程度何をやっても大丈夫だし、彼らは好きなことをやってのける権利を持っている」という感じの、パンピーの抱く「あきらめ」の結果だったりする。
DHCの吉田嘉明会長は、DHCテレビというテレビ番組制作会社を持っていて、そこで「ニュース女子」「虎ノ門ニュース」といういずれも、差別的な内容を含んだ番組を制作している。
こういうこと(一企業の経営者がメディアに対して過剰かつ不当な支配力を発揮していること)に対しての批判は、ほとんどメディアには出てこない。
というのも、商業メディアは、DHC発の広告宣伝費に依存しているからだ。
よく似た現象は、保守的な思想を持つことで知られる美容整形クリニックの院長や、同じく自民党保守派との結びつきの深さを伝えられているホテルグループのオーナーの周辺でも起こっている。
いずれの場合でも、「それなりのカネを出している以上、いろいろと口を出す権利はあるよね」「なにしろ自分のカネでやっていることなんだから、われわれがどうこう言えることではないのかな」てな調子で、21世紀の不景気育ちの人間は、「自腹を切る個人」を責めない。というよりも、「モノを言う金持ち」に対しては、はじめから白旗をあげる構えで対処している。
儲かっていることを過剰に言い立てるオンラインサロン主宰者や、賛同者が何万人もいることを強調してやまない情報商材販売者が、もののみごとに「信者」を獲得している経緯も、似ていると言えば似ている。
IT企業の社長や、ネット創業者や、自称天才編集者や、ものを言うベストセラー作家も含めて、大言壮語をする自信満々の金持ちに誘引される人々が、どうしてなのか大量に再生産され続けている。
あるいは、2020年代の若者は、不遜な発言を繰り返しつつそれでもカネの力で周囲をねじふせている彼らを、どこかで英雄視しているのかもしれない。
でもまあ、1970年代まるごとを「セックス・ドラッグ・ロックンロール」てな調子の不埒で浅薄なアジテーションに共感する若者として過ごした私には、彼らを叱り飛ばす資格はないのだろう。
まあ、好きにしてくれ。 DHCの会長に対しては、彼はもう若者ではないので、
「いいかげんにしなさい」
と言っておく。
米アカデミー作品賞を受賞した韓国映画「パラサイト 半地下の家族」は、トイレの排水が逆流するような半地下に住む底辺家族が、富裕なIT実業家一家の豪邸に寄生して生きのびようと奮闘するブラックコメディだった。(あっ、ここから盛大にネタバレを含むのでご容赦)、一転、ホラー映画になっていくのは、その豪邸の地下室に隠れ住んでいた<地下人>が現れてからだ
下水の臭いがする半地下の劣悪なアパートに住む全員失業者の家族が、高台の高級住宅地に有名建築家が建てたモダンな豪邸に入り込んで好き勝手していたら、北朝鮮からのミサイル攻撃に備えて造られた秘密の地下シェルターに、すでに先住「パラサイト」である<地下人>に出くわす。
このあたり、地球人への逆襲を虎視眈々とうかがう地底人!のさらに地底深くに最低人がいた!!といういしいひさいちの傑作4コママンガを思い出して笑った。
日本より先行してグローバル経済下にある韓国では、一人当たりのGDPがついに日本を追い抜く(2018年)ほどの「経済先進国」になった反面、金と権力が一体化した過酷な格差社会が浮上していることがこの映画の背景になっている。そうした階層の落差と断裂を描くのに、この映画は住居をモチーフとしている。
「半地下の家族」はIT実業家セレブ家族に寄生して食いつなぐことができて、当初は「ありがたいことだ」と感謝する。いわば、金持ちのおこぼれにあずかったわけだが、その身分はセレブ家族それぞれに仕える使用人であり、給与生活者である。
対して、<地下人>のおこぼれは比喩どころか、ほんとうにセレブの食い残しや余り物を盗み食べて生きている。「半地下の家族」はセレブ家族を騙しながらも、敬愛の情を抱くようになっていくが、先住「パラサイト」の<地下人>はもっと強烈にセレブ一家を「リスペクト」している。
ビジネス誌に掲載されたIT実業家当主の写真を壁に貼り、朝に晩に「リスペクトおおお!」と叫んでから、「いつもおいしい食べ物をありがとう」と感謝しながら拝む。まるで金正恩一族の写真に拝跪する北朝鮮人民のように。
私が「リスペクト派」としたのは、この「地下人」から思いついたことだ。韓国では、金持ちや権力者などのセレブや高学歴エリートを信仰の対象のごとく「リスペクト」する人々がじっさいに出現していて、映画は彼らから「地下人」の着想を得たのだろう。
金や権力を信奉しながら得られない代わりに、その金や権力を体現しているセレブやエリートを「リスペクト」するのは当然であり、セレブの豪奢な暮らしぶりやエリートや権力者の傲慢を非難するマスコミやリベラルには、「信者」として反発を覚えるというわけだ。
さて、宿主とパラサイトは共存できるが、パラサイト同士は共生できない。「半地下」の家族に対して「地下人」のが逆襲がはじまり、ここから映画は地獄絵になっていくのだが・・。
ゲームに参加したSさんが気づいた「なんとなく韓国中国嫌いなおっさん」たちは、たぶん、小田嶋コラムが列挙したDHC会長をはじめとする「貧寒な脳内」のセレブたちの所業に、それほど反感や反発を覚えないし、むしろその「本音」主義を好感してマスコミやリベラルからの批難に冷笑的になるだろう。
もうひとつ、最近の事例を加えれば、草津町議会のリコール成立を加えれば、セクハラ疑惑の町長やその肩を持った町議会議長たちの「多数決」を重視するだろうことも容易に想像できる。
やはり、「リスペクト派」のおっさんたちだと思う。
「リスペクト派」に対して、Sさんからは併せて「もう1種類はどんな集団ですか?」というご下問もあった。「リスペクト派」の反対を思い考えればよいのだが、 小田嶋氏の論旨に沿って一言でいえば、「不寛容派」ということになる。
差別や横車を押す人に「不寛容な人」だ。「リスペクト派」はマスコミやリベラルの知識や情報に「逆張り」して、結果的に「差別」や「ヘイト」する人々が多い。言い返しただけだと思っているから罪悪感などない。
いっぽう、「不寛容派」は「差別」や「ヘイト」をする人を容認できない、許せない人たちである。「リスペクト派」は金持ちや権力者に事大主義なのだが、「不寛容派」は一身に罪と罰を背負うような苦しい事大主義があるといえる。
つまり、「リスペクト派」のような知識や情報の上のことではなく(それもデマとフェイク、あるいは架空で構成された知識や情報だが)、「不寛容派」は、人として、生き方の問題としてとらえる。「リスペクト派」との対極はそれだと思う。
たとえば、昔、斎藤龍鳳という映画評論家がいた。『なにが粋かよ』という遺稿集があるが、そのタイトル通り、「なにが粋かよ」と意気がる自家撞着の人であり、中年になってから新左翼のML派に入ったり、上掲の小田嶋コラムの「わが70年代」をもじれば、「セックス・ドラッグ・レフト」に自家中毒した人だった。
もちろん呑んだくれ、誰彼かまわず喧嘩をふっかけ、破滅型といえば聞こえはよいが、「真に鼻つまみだった」(と後出の竹中労は書いている)。そのくせ暮らしの望みは、下町の長屋に着流しで端然と住まい、銭湯の後に居酒屋で一杯やって帰るなどと書いている。
最後は、かつて自分も書いていた週刊誌の製本を請け負う、製本工場の臨時工として孤独死した。享年43。
「1971年3月26日、斎藤龍鳳は死んだ。東京都中野区大和町2丁目46、六畳の一間のアパートで、電気毛布にくるまり、鼻と口から血を流していたという。看取る者はなく、一人で死んだ。『コーラが飲みたい』と枕元に書き置き。布団のしたに出刃包丁、つけっぱなしのガスストーブが真っ赤になっていた。発見した管理人が警察に通報し、変死者として解剖に付された」(『無頼の点鬼簿』竹中労)。
斎藤龍鳳はジャーナリズムや批評や左翼の一隅に身を置きながら、「知識や情報の上のこと」には目もくれず、戦中戦後派としての自らの記憶と感情と行動のみに従った。そういう生き方に共感を寄せる人々もいた。斎藤龍鳳ほど激越ではないが、多少なりとも自家撞着や自家中毒と伴走している自覚がそれぞれにあったためだと思う。
「なんとなく韓国中国嫌いなおっさん」たちの言説は、あくまでもどこまでも「知識や情報の上のこと」に過ぎず、おのれの生き方とは別に、すなわちオンラインの「ニッポン、チャチャチャ」(古いネ)なる架空の記憶に扇情されているのとは対称的といえる。
”なにが粋かよ気がつくときはみんな手遅れ吹きさらし”😎
きっとSさんが期待した回答や展開からはほど遠くなったはずだ。最後まで読んでくれたとしたら、申し訳なかった。
(止め)
どちらも有名な曲のメロディと歌詞をオマージュしています。
Lana Del Rey - Doin’ Time (Official Video)
Ariana Grande - 7 rings (Official Video)
ときどき読んでいる小田嶋隆の日経コラムからだが、たぶんもう無料で読める時間を過ぎたはずなので、長い引用となった。
私個人は、今回のDHC会長の発言が明らかにしたのは、一個人の差別意識である以上に、21世紀のわが国の社会を支配している拝金主義だったのではなかろうかと思っている。
いったいに21世紀の日本人は、セレブに対して寛大すぎる。
もう少し丁寧な言い方をすれば、カネと知名度を持っている一部の成功者に対して、あらかじめ敗北感を抱いている日本人が多数派を占めていることが、一部のキャラの立った手前勝手な成金たちの、粗野で野放図な活躍を思い切り後押しする結果を招いているということだ。
個人的には、20歳の女性に「テキーラチャレンジ」(15分の間に750mlのテキーラのボトルを飲み干したら10万円を支払うというギャンブル)を持ちかけて死に至らしめた若手起業家の話や、強制性交などの容疑で6回逮捕され、6回不起訴処分になっている元ミスター慶応のエピソードに対しても、同じ印象を抱いている。
その印象とは、一言で言えば、「カネとコネを持っている人間は、ある程度何をやっても大丈夫だし、彼らは好きなことをやってのける権利を持っている」という感じの、パンピーの抱く「あきらめ」の結果だったりする。
DHCの吉田嘉明会長は、DHCテレビというテレビ番組制作会社を持っていて、そこで「ニュース女子」「虎ノ門ニュース」といういずれも、差別的な内容を含んだ番組を制作している。
こういうこと(一企業の経営者がメディアに対して過剰かつ不当な支配力を発揮していること)に対しての批判は、ほとんどメディアには出てこない。
というのも、商業メディアは、DHC発の広告宣伝費に依存しているからだ。
よく似た現象は、保守的な思想を持つことで知られる美容整形クリニックの院長や、同じく自民党保守派との結びつきの深さを伝えられているホテルグループのオーナーの周辺でも起こっている。
いずれの場合でも、「それなりのカネを出している以上、いろいろと口を出す権利はあるよね」「なにしろ自分のカネでやっていることなんだから、われわれがどうこう言えることではないのかな」てな調子で、21世紀の不景気育ちの人間は、「自腹を切る個人」を責めない。というよりも、「モノを言う金持ち」に対しては、はじめから白旗をあげる構えで対処している。
儲かっていることを過剰に言い立てるオンラインサロン主宰者や、賛同者が何万人もいることを強調してやまない情報商材販売者が、もののみごとに「信者」を獲得している経緯も、似ていると言えば似ている。
IT企業の社長や、ネット創業者や、自称天才編集者や、ものを言うベストセラー作家も含めて、大言壮語をする自信満々の金持ちに誘引される人々が、どうしてなのか大量に再生産され続けている。
あるいは、2020年代の若者は、不遜な発言を繰り返しつつそれでもカネの力で周囲をねじふせている彼らを、どこかで英雄視しているのかもしれない。
でもまあ、1970年代まるごとを「セックス・ドラッグ・ロックンロール」てな調子の不埒で浅薄なアジテーションに共感する若者として過ごした私には、彼らを叱り飛ばす資格はないのだろう。
まあ、好きにしてくれ。 DHCの会長に対しては、彼はもう若者ではないので、
「いいかげんにしなさい」
と言っておく。
米アカデミー作品賞を受賞した韓国映画「パラサイト 半地下の家族」は、トイレの排水が逆流するような半地下に住む底辺家族が、富裕なIT実業家一家の豪邸に寄生して生きのびようと奮闘するブラックコメディだった。(あっ、ここから盛大にネタバレを含むのでご容赦)、一転、ホラー映画になっていくのは、その豪邸の地下室に隠れ住んでいた<地下人>が現れてからだ
下水の臭いがする半地下の劣悪なアパートに住む全員失業者の家族が、高台の高級住宅地に有名建築家が建てたモダンな豪邸に入り込んで好き勝手していたら、北朝鮮からのミサイル攻撃に備えて造られた秘密の地下シェルターに、すでに先住「パラサイト」である<地下人>に出くわす。
このあたり、地球人への逆襲を虎視眈々とうかがう地底人!のさらに地底深くに最低人がいた!!といういしいひさいちの傑作4コママンガを思い出して笑った。
日本より先行してグローバル経済下にある韓国では、一人当たりのGDPがついに日本を追い抜く(2018年)ほどの「経済先進国」になった反面、金と権力が一体化した過酷な格差社会が浮上していることがこの映画の背景になっている。そうした階層の落差と断裂を描くのに、この映画は住居をモチーフとしている。
「半地下の家族」はIT実業家セレブ家族に寄生して食いつなぐことができて、当初は「ありがたいことだ」と感謝する。いわば、金持ちのおこぼれにあずかったわけだが、その身分はセレブ家族それぞれに仕える使用人であり、給与生活者である。
対して、<地下人>のおこぼれは比喩どころか、ほんとうにセレブの食い残しや余り物を盗み食べて生きている。「半地下の家族」はセレブ家族を騙しながらも、敬愛の情を抱くようになっていくが、先住「パラサイト」の<地下人>はもっと強烈にセレブ一家を「リスペクト」している。
ビジネス誌に掲載されたIT実業家当主の写真を壁に貼り、朝に晩に「リスペクトおおお!」と叫んでから、「いつもおいしい食べ物をありがとう」と感謝しながら拝む。まるで金正恩一族の写真に拝跪する北朝鮮人民のように。
私が「リスペクト派」としたのは、この「地下人」から思いついたことだ。韓国では、金持ちや権力者などのセレブや高学歴エリートを信仰の対象のごとく「リスペクト」する人々がじっさいに出現していて、映画は彼らから「地下人」の着想を得たのだろう。
金や権力を信奉しながら得られない代わりに、その金や権力を体現しているセレブやエリートを「リスペクト」するのは当然であり、セレブの豪奢な暮らしぶりやエリートや権力者の傲慢を非難するマスコミやリベラルには、「信者」として反発を覚えるというわけだ。
さて、宿主とパラサイトは共存できるが、パラサイト同士は共生できない。「半地下」の家族に対して「地下人」のが逆襲がはじまり、ここから映画は地獄絵になっていくのだが・・。
ゲームに参加したSさんが気づいた「なんとなく韓国中国嫌いなおっさん」たちは、たぶん、小田嶋コラムが列挙したDHC会長をはじめとする「貧寒な脳内」のセレブたちの所業に、それほど反感や反発を覚えないし、むしろその「本音」主義を好感してマスコミやリベラルからの批難に冷笑的になるだろう。
もうひとつ、最近の事例を加えれば、草津町議会のリコール成立を加えれば、セクハラ疑惑の町長やその肩を持った町議会議長たちの「多数決」を重視するだろうことも容易に想像できる。
やはり、「リスペクト派」のおっさんたちだと思う。
「リスペクト派」に対して、Sさんからは併せて「もう1種類はどんな集団ですか?」というご下問もあった。「リスペクト派」の反対を思い考えればよいのだが、 小田嶋氏の論旨に沿って一言でいえば、「不寛容派」ということになる。
差別や横車を押す人に「不寛容な人」だ。「リスペクト派」はマスコミやリベラルの知識や情報に「逆張り」して、結果的に「差別」や「ヘイト」する人々が多い。言い返しただけだと思っているから罪悪感などない。
いっぽう、「不寛容派」は「差別」や「ヘイト」をする人を容認できない、許せない人たちである。「リスペクト派」は金持ちや権力者に事大主義なのだが、「不寛容派」は一身に罪と罰を背負うような苦しい事大主義があるといえる。
つまり、「リスペクト派」のような知識や情報の上のことではなく(それもデマとフェイク、あるいは架空で構成された知識や情報だが)、「不寛容派」は、人として、生き方の問題としてとらえる。「リスペクト派」との対極はそれだと思う。
たとえば、昔、斎藤龍鳳という映画評論家がいた。『なにが粋かよ』という遺稿集があるが、そのタイトル通り、「なにが粋かよ」と意気がる自家撞着の人であり、中年になってから新左翼のML派に入ったり、上掲の小田嶋コラムの「わが70年代」をもじれば、「セックス・ドラッグ・レフト」に自家中毒した人だった。
もちろん呑んだくれ、誰彼かまわず喧嘩をふっかけ、破滅型といえば聞こえはよいが、「真に鼻つまみだった」(と後出の竹中労は書いている)。そのくせ暮らしの望みは、下町の長屋に着流しで端然と住まい、銭湯の後に居酒屋で一杯やって帰るなどと書いている。
最後は、かつて自分も書いていた週刊誌の製本を請け負う、製本工場の臨時工として孤独死した。享年43。
「1971年3月26日、斎藤龍鳳は死んだ。東京都中野区大和町2丁目46、六畳の一間のアパートで、電気毛布にくるまり、鼻と口から血を流していたという。看取る者はなく、一人で死んだ。『コーラが飲みたい』と枕元に書き置き。布団のしたに出刃包丁、つけっぱなしのガスストーブが真っ赤になっていた。発見した管理人が警察に通報し、変死者として解剖に付された」(『無頼の点鬼簿』竹中労)。
斎藤龍鳳はジャーナリズムや批評や左翼の一隅に身を置きながら、「知識や情報の上のこと」には目もくれず、戦中戦後派としての自らの記憶と感情と行動のみに従った。そういう生き方に共感を寄せる人々もいた。斎藤龍鳳ほど激越ではないが、多少なりとも自家撞着や自家中毒と伴走している自覚がそれぞれにあったためだと思う。
「なんとなく韓国中国嫌いなおっさん」たちの言説は、あくまでもどこまでも「知識や情報の上のこと」に過ぎず、おのれの生き方とは別に、すなわちオンラインの「ニッポン、チャチャチャ」(古いネ)なる架空の記憶に扇情されているのとは対称的といえる。
”なにが粋かよ気がつくときはみんな手遅れ吹きさらし”😎
きっとSさんが期待した回答や展開からはほど遠くなったはずだ。最後まで読んでくれたとしたら、申し訳なかった。
(止め)
どちらも有名な曲のメロディと歌詞をオマージュしています。
Lana Del Rey - Doin’ Time (Official Video)
Ariana Grande - 7 rings (Official Video)