コタツ評論

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私たちのランゴリアーズ

2018-08-31 00:39:00 | 政治
鹿児島県で次の総裁選出馬を発表した安倍首相は、以下のように呟きました。ところが、引用した平野国臣の歌が場違い、勘違いだという指摘が出ています。


私も知りませんでしたが、我が胸の燃ゆる思ひ>活火山桜島山というわけで、幕末の雄藩である薩摩藩が尊王攘夷に煮え切らない態度でいることを平野国臣が、「煙はうすし」と皮肉った歌だそうです。脱藩浪士たちの「革命の志」を幕府を慮って「軽挙妄動」と弾圧する側に回ったりしたあたりについては、NHKの大河ドラマ「西郷どん」にも描かれていますね。

安倍首相と同じく、私もこの歌は以前から知っていましたが、さほど気にかけなかったのは、たぶん、歌としてたいしたことがないという感想を抱いていたからでしょう。少なくとも俵万智先生だってよい点をつけないはずです。

しかし、「薩摩は存外たいしたことない、期待できないぞ。我々には冷淡だったから」という全国各地の同志に周知する歌だったとすれば、その評価はまた違ってきます。幕末期には志士たちの歌は風雅の嗜みというより、コミュニケーション手段のひとつだったのでしょう。

瓦版に幕府や薩長の動静が報じられるわけでもないメディア不在の幕末期に、尊王攘夷の志士として著名な平野が詠んだこの歌は当然、平野を冷遇した薩摩藩の人士をはじめ、長州や土佐、肥前、その他諸藩、もちろん徳川幕府も聞き及ぶところとなり、当時の薩摩に関する最新情報の情報源になったわけでしょう。

そうしたメディア的な役割も果たしたと考えれば、いろいろ今日に続く問題を含む歌であると考えられます。とりわけ、「思い」が気になりました。

平野は早くから草莽の志士として全国各地を旅して、諸藩の有志に尊王論を説いてきた行動の人でした。いわば、その「燃ゆる思い」には激烈な「行動」の裏づけがあったということです。

「私の胸に燃えさかる火にくらべれば桜島の噴煙など薄いものですよ」とただの大言壮語ではありません。薩摩名物桜島の活火山にも感心することはなく、ましてや一薩摩藩の行く末を斟酌するようなことはない、この日ノ本を一人歩いて見聞して得た広い視野と深い思想を自負していたのでしょう。

つまり、かつては、「思い」を吐露するには有資格者であることが求められたのです。あれほどの人だからこそ、自分の「思い」を語り、流布することができるのだと。

現代においても、「思い」は多用されていますが、奇妙なことに行動から切り離されて使われることがほとんどです。「我思うゆえに我在り」という存在論どころか、「私たちの思いが届く日はいつになるだろうか」と文末に止め置かれたり、「彼の思いを真摯に受けとめなければならないのかもしれない」、あるいは「沖縄の思い」など、他人事にする弁明語のように使われています。

平野国臣のような「燃ゆる思いに」居ても立ってもいられないという、行動と直に結ばれた「思い」とは異なり、今では誰しも気軽に「思い」を口にし、文章に書き、一見、「大切なもの」として扱われています。

個人が資格の有無に関係なく、「思い」を口にする自由な時代になったからともいえません。「これから、その評判のラーメン店に入ってみたいと思います」式の「思います」はただの仕事の段取りや業務命令をあたかも個人の「思い」にすりかえて、自主自発的な「行動」に偽装してみせます。

その目的は、でき得るかぎり、個人の「思い」や「行動」を消し去ることにあるとしか考えられないのです。その人がどう思ったか、だからどう行動したか、あるいはどう行動するのか、などは言葉の上とはいえ、事実次元の話のはずです。

「もお、言ったそばから」という難詰がありますが、「言ったそばから」言葉の事実的、遂行的な側面が消えてゆく、言葉の事実性を失わせえる奇怪な言葉の使い方といえます。

スティーブン・キングの中編小説に『ランゴリアーズ』というTVドラマ化もされた作品があります。夜間飛行の飛行機に乗り合わせた人たちが過去の時間に取り残されるホラー小説ですが、タイムスリップやタイムトラベルの話ではありません。

取り残された過去とは、ほんの数年前のことなのに、その時空間には人間の姿はおろか、生き物の形や影もなく、ただ黒い闇がゆっくりと、しかし貪欲に侵食してくるのです。まっ黒い闇に地上も空も覆われていく恐怖を眼前にする乗客たち。

「我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」と歌った平野国臣は、もちろん安部首相のように自己陶酔的なロマンに浸ったのではなく、薩摩藩の鵺的なマヌーバーを手厳しく批評したというのでもなく、「薩摩藩は当てにならぬ、自力で道を開け」と同志たちに決起を促したと読むこともできます。つまり、平野は歌に託して、自分が薩摩で見聞した事実と遂行的な事実のみを語っているのです。

なんと私たちの「思い」とは隔絶していることでしょう。私たちの「思い」は発語された途端、あらゆる事物、すなわち事実が暗黒に呑み込まれていく、ランゴリアーズの過去世界に遁走していくのです。

(止め)

今夜は、恋のサバイバル

2018-08-29 23:06:00 | 音楽
あれからずっとグレートなアリサ・フランクリンを聴いていました。しかし、偉大は疲れます。そんで今夜は、「ごおんなごー、おまんたごー」です。

この歌は、グロリア・ゲイナーが歌ってヒットしましたが、どうもピンとこなかった。この歌のよさを知ったのは布施明のおかげです。

恋のサバイバル/布施明


ね、「ごおんなごー、おまんたごー」と歌っているでしょ? 布施明にはよい歌がたくさんありますが、これがいちばん好きです。

AEGIS Band with "I Will Survive" (Cover of Gloria Gaynor), Surprise Concert


下品なヒリピンバンドですねえ。でも、日本の「ボイトレ通ってます」みたいな「実力派女性歌手」や「ソウル風シンガー」などこそ、品が下るというものです。途中で歌が変わっています。いいかげんだなあ。

Gloria Gaynor (russian accent cover and cool music video)


これは歌というより、ビデオが楽しい。タイトル通り、最初はロシア風英語なのですが、最後の方はふつうの発音になるのが、ロシア人らしくいいかげんでいいなあ。

Vintage '40s Jazz / Latin Ballroom Style Cover ft. Sara Niemietz


きれいでスタイルがよくていい声です。日本では明菜以後、見かけません。ラテンが加味されるといいかげんに聴けるのでいいです。ダンスが素晴らしい。

Violinist Looper Joe Kye


なんだかよくわかんないけれど、おもしろい。バイオリンをウクレレみたいに弾けるなら、ウクレレをバイオリンのように弾けないものかしら。そんないいかげんなことを思った。

(敬称略)

今夜は、小さな願い

2018-08-17 19:39:00 | 音楽
アレサ・フランクリンが亡くなりました。「ソウルの女王」らしい代表曲や名唱はほかでいくらでも紹介されているだろうから、こちらは「小さな願い(I Say A Little Prayer)」を。

Aretha Franklin - I Say A Little Prayer


ゴスペル育ちらしく若きアレサの you はこれはもうゴッドです。天上から射す神の光をスポットライトにしたように、いつも仰ぎ見る視線でコール&レスポンスするゴスペルそのものです。続いて、アレサとは対照的に、名声も富も家族も失い野垂れ死にした美しいホィットニー・ヒューストンです。

Whitney Houston - I Say A Little Prayer For You 1997


麻薬代にする100ドルを無心して回ったといわれる無残な晩年を伝え聞くせいか、ホィットニー・ヒューストンの you は神ではなく、裏切り裏切られてきた欠点だらけの人間に思えます。

ほとんど諦めてなげやりな、改悛しないマグダラのマリアような彼女の you は、人の子でもあったイエス・キリストではない気がします。彼女が見ているのは天上ではなく、観客である人々か、そうでないときは、少しうつむき加減に目を閉じ、これから歩んでいく数歩先を見ているようです。

人間の内に神性を見出そうとしている。そう云いたくなるほど、スリリングに美しくソウルフルな歌いぶりです。

さて、趣きをがらりと変えて、コーラスも入れずギター一本、ほとんどアカペラで歌うのは若いリアーナです。
Lianne La Havas - Say a Little Prayer (Live)


女性たちがハッピーになる歌なんですね。リアーナの you は神でもなく男でもなく、女性です。「ねえ、そういう気持ちになるってあるよね」と語りかけています。アレサやホィットニーと世代や経験の違いがよくわかりますね。

日本ではディオンヌ・ワーイックでヒットしたはずですが、Youtubeではアレサのcoverが圧倒的に多くを占めます。一人(たぶん)、「この歌は、ディオンヌ・ワーイックのために書かれた、彼女を越えることはできない」としつこくアレサ cover にコメントして回る微笑ましいファンがいました。画質がよくないので載せませんでしたが、二人がこの歌をデュエットしている動画もあります。

以下のような映画で使われたせいか、「てんとう虫のサンバ」(古すぎるか?)のようなアメリカの結婚式ソングになっているようです。

https://www.youtube.com/watch?v=3IlzGRBnino

ルパート・エベレットのなんたるひどい声!

https://www.youtube.com/watch?v=Kg-ObkEK8Ac

歌っているアナベラ・シオラは「 #metoo 」運動の口火を切った一人です。マット・ディロンのポカン顔に見とれてしまいます。

作曲はバート・バカラックです。ハル・デビッドの歌詞は以下の通り、可愛い女ごころを歌っています。

ウェイカップとメイカップ、ヘアーとウェアー、バスとアスなど、音韻が気持ちよいですね。バスとアスに続く dear は「愛しいあなた」「ねえ」くらいのニュアンスなのでしょうか。それと、「プゥトオン」がまず耳に残りますね。あなたにも当分の間、「ァセアリルプレフォーユー♪」が脳内リフレインするはずです。

http://musiclyrics.blog.jp/archives/9700224.html

The moment I wake up
Before I put on my makeup
I say a little prayer for you
While combing my hair now
And wondering what dress to wear now
I say a little prayer for you


目覚めた瞬間
メイクアップする前
貴方のために祈りを捧げる
今 髪をとかしながら
着ていく服に迷っている間も
貴方のために祈るのよ


Forever and ever, you'll stay in my heart
And I will love you
Forever and ever, we never will part
Oh, how I love you
Together, forever, that's how it must be
To live without you
Would only mean heartbreak for me


ずっといつまでも 貴方はこの胸の中にいる
そして私も愛していく
ずっといつまでも 2人は決して離れない
これほど貴方を愛してる
一緒に いつまでも 
あなた無しで生きていくなんて
胸が張り裂けるほどの悲しみでしかない


I run for the bus, dear
While riding I think of us, dear
I say a little prayer for you
At work I just take time
And all through my coffee break time
I say a little prayer for you


走ってバスを追いかけ
乗っている間もずっと2人を思い
貴方のために祈ってる
仕事をしている時も
珈琲を飲んで休んでいる間も
貴方のために祈りを捧げてる


Forever and ever, you'll stay in my heart
And I will love you
Forever and ever we never will part
Oh, how I'll love you
Together, forever, that's how it must be
To live without you
Would only mean heartbreak for me


ずっといつまでも 貴方はこの胸の中にいる
そして私も愛していく
ずっといつまでも 2人は決して離れない
これほど貴方を愛してる


おまけ
https://www.youtube.com/watch?v=3Lp3s4ygDw0

(敬称略)

くだくだ

2018-08-17 17:05:00 | ノンジャンル
顔写真をさらすほどのことはないからしないけれど、ソニービルの販促企画でしくじったプラントハンター氏。俺はこの手の如才ない顔が嫌いだな。万人向けの優しそうな笑顔で、自分でクリエーターとか言ったらもうダメ。むかつくことに、この手の顔に落ち着いた声で話されると、無内容な自己啓発本あたりのネタでも、女はイチコロなのね。

PR会社にいたころから、この手の顔にはずいぶん会ったものだけれど、ろくでもなかったなあ、たいていは。男はね、というか、女でもそうだけど、才能あるやつとか、仕事をするやつはもっと圭角が立った顔というか、万人向けの優しそうな笑顔なんてしないな。もちろん、訓練してそういう顔もできるけれど、違う表情のときの方が多いわけ。

俺? おれはダメだったなあ。頭がものすごく高速回転しているときは蚤とりしているオランウータンみたいな顔だし、少しでも賢く見せようとするときは目が浮いちゃってキョトキョトしているそうだ。自分にできないから、やっかんでいるのかな。

下で紹介した「鈴木敏夫プロデューサーが語る高畑勲監督」なんだけど、「天才と凡人」の葛藤とすると、天才のことは凡人にはわからないから、結局、わからないままになってしまう。これを高畑勲という一人の個人主義者と集団主義的なスタッフとの軋轢としてみると、かなりわかってくる気がするね。

たとえば、「誠実」ってこと。あの人は誠実な人だよと太鼓判を押すとき、周囲に思いやりがあって、裏表のない人ってイメージだよね。これは他者に向けられた他者からの目なんだよ。しかし、これを「おのれに誠実」って、自分限定にする場合もある。自分の思想信条信念、仕事への姿勢、方法論とかに忠実ってことだ。

集団への誠実なら、集団とは融和的になるけれど、自分への誠実となると、集団とぶつかる場合も当然出てくるよね。自分が属する集団に合わせて、あるいは忖度して、自分の考えを変えたり、いいかげんに妥協したりするのは、自分が自分に誠実ではないことになるわな。

自分に誠実であろうとすれば、意に沿わない方向に流されまいと、強引に流れを引き戻そうとして、周囲の人と言い合いになったり、ときに怒鳴ったりすることもあるだろうし、部下なら「やらない!」とか、上司なら「やり直せ!」といったりすることもあるね。

「誠実」って、美徳じゃないんだな、彼にとっては。いわばルールなんだ。個人主義者は内なるルールがあるんだ。先のクリエーター氏にはそんなものはなく、ただのパクリをクリエイティブに偽装する厚顔だけがあるのね。そう、厚顔なんだよ、あの手の顔は。ジャッキー・コーガンだって、マネーの話をするときは厳粛な顔をするんだからね。あの手の厚顔は、金なんかどうでもいいですって、顔しているけど。

ジャッキー・コーガンって映画は、ブラッド・ピット主演なんだが、殺し屋が最後に演説する変わった映画だった。「アメリカは国じゃない。ビジネスだ」って、アメリカ論ぶつのね。ブラピの殺し屋は仕事を請け負い、下見をしたり、応援を呼んだり、中間報告したり、応援の尻ぬぐいに手間どったり、殺す人間があまり苦しまないようにしたり、それなりに苦労するの。

やれやれと仕事を終えて集金となると、注文主がケチってきたので怒りも露わに持論をぶつのね。つまり、この映画は殺し屋映画じゃなくて、アメリカ経済や経営論の映画だったの。勉強になったなあ。「ま、今回は泣きますがね、次からは埋め合わせ、頼んますよ、社長!」では、日本経済論や経営論にはならないねえ。

ジャッキー・コーガンのような、ときには顧客を怒鳴りつけても自らの仕事のルールやスタイルを守ろうとする人間を誠実な人というんだよ、たぶん、アメリカでは。そんな頑として譲らない人を日本では「誠実な人」とは言わないし、それどころかずっとネガティブに思ってしまうよな。せいぜい、あいつは仕事はできるが変人だから、付き合うのは注意した方がいいよ、くらい。もう、全然、「誠実な人」なんかじゃない。

ところが、逆に、「ま、今回は泣きますがね、次からは埋め合わせ、頼んますよ、社長!」なんて、契約内容も守らない(守れない、守ろうとしない)ような男は、アメリカ人からみれば、「誠実な人」じゃないんじゃないかな。ま、日本語の「誠実」って言葉が、英語にあるかどうかわからないけど、あ、「誠意」ならあるかもね。

あるいは、誠=まこと=真実ってことかな? そうか、真実が外から来るのと内に在るの違いかあ。クリエイト=創造ってのは、外部入力はもちろん必要だけど、内発的なものだろうからな。

(止め)

いいじゃないの 幸せならば

2018-08-14 22:20:00 | ノンジャンル
凡人が、天才を殺すことがある理由。ーどう社会から「天才」を守るか?
http://yuiga-k.hatenablog.com/entry/2018/02/23/113000

データや理論などの根拠はないが、実感としてはかなり納得できました。

「なぜ高畑勲さんともう映画を作りたくなかったか」―鈴木敏夫が語る高畑勲 #1
「高畑勲監督解任を提言したあのころ」#2
「緊張の糸は、高畑さんが亡くなってもほどけない」#3

通読にはかなり時間をとられますが、「天才」がいる現場や職場がどうなるか、少しでも理解したい人にはぜひお勧めです。

上の「天才」論をなぞれば、高畑勲という一人の「天才」が、作品を創るためにどれほど周囲の「凡人」の「共感」を排除したかという話です。

また、「秀才」の天才へのコンプレックスについて、マスコミ界の大物の一人だった氏家齊一郎徳間康快や正力松太郎、高畑勲に寄せて率直に語っています。

「徳さんはすごかったな。会社から映画まで自分でいろんなものを作った。あの人は本物のプロデューサーだった。おれの人生は、振り返ると何もやってない。70年以上生きて、何もやってない男の寂しさが分かるか」

「読売グループのあらゆるものはな、ぜんぶ正力(松太郎)さんが作ったものなんだ。おれたちはそれを維持してきただけだ。おれだって何かひとつ自分でやってみたい。そうしなければ死んでも死にきれない」。

「おれがジブリの作品の中でいちばん好きなのは『となりの山田くん』だ。そりゃあ万人受けする作品じゃないかもしれない。でも、死ぬまでにもう1本、おれはどうしても高畑の作品が見たい。おれの死にみやげだ。頼むぞ」

「高畑の映画には詩情がある。おれはあいつに惚れてるんだ。あの男にはマルキストの香りが残っている」


凡人が天才を排斥するのは、理解不能というだけでなく、仕事や現場にとって大迷惑になるからです。凡人が天才視する秀才が仲裁できるかといえば、天才の眼中に秀才は入りません。むしろ、凡人にこそ共感を求めているのです。

したがって、高畑にとっては優秀なスタッフという眼前の凡人もまた眼に入らず、ただただ、「観客」という「大凡人」に仕えたつもりだったのでしょう。結論、優秀ではない凡人がいちばん幸せなのであります。

(敬称略)