鹿児島県で次の総裁選出馬を発表した安倍首相は、以下のように呟きました。ところが、引用した平野国臣の歌が場違い、勘違いだという指摘が出ています。
私も知りませんでしたが、我が胸の燃ゆる思ひ>活火山桜島山というわけで、幕末の雄藩である薩摩藩が尊王攘夷に煮え切らない態度でいることを平野国臣が、「煙はうすし」と皮肉った歌だそうです。脱藩浪士たちの「革命の志」を幕府を慮って「軽挙妄動」と弾圧する側に回ったりしたあたりについては、NHKの大河ドラマ「西郷どん」にも描かれていますね。
安倍首相と同じく、私もこの歌は以前から知っていましたが、さほど気にかけなかったのは、たぶん、歌としてたいしたことがないという感想を抱いていたからでしょう。少なくとも俵万智先生だってよい点をつけないはずです。
しかし、「薩摩は存外たいしたことない、期待できないぞ。我々には冷淡だったから」という全国各地の同志に周知する歌だったとすれば、その評価はまた違ってきます。幕末期には志士たちの歌は風雅の嗜みというより、コミュニケーション手段のひとつだったのでしょう。
瓦版に幕府や薩長の動静が報じられるわけでもないメディア不在の幕末期に、尊王攘夷の志士として著名な平野が詠んだこの歌は当然、平野を冷遇した薩摩藩の人士をはじめ、長州や土佐、肥前、その他諸藩、もちろん徳川幕府も聞き及ぶところとなり、当時の薩摩に関する最新情報の情報源になったわけでしょう。
そうしたメディア的な役割も果たしたと考えれば、いろいろ今日に続く問題を含む歌であると考えられます。とりわけ、「思い」が気になりました。
平野は早くから草莽の志士として全国各地を旅して、諸藩の有志に尊王論を説いてきた行動の人でした。いわば、その「燃ゆる思い」には激烈な「行動」の裏づけがあったということです。
「私の胸に燃えさかる火にくらべれば桜島の噴煙など薄いものですよ」とただの大言壮語ではありません。薩摩名物桜島の活火山にも感心することはなく、ましてや一薩摩藩の行く末を斟酌するようなことはない、この日ノ本を一人歩いて見聞して得た広い視野と深い思想を自負していたのでしょう。
つまり、かつては、「思い」を吐露するには有資格者であることが求められたのです。あれほどの人だからこそ、自分の「思い」を語り、流布することができるのだと。
現代においても、「思い」は多用されていますが、奇妙なことに行動から切り離されて使われることがほとんどです。「我思うゆえに我在り」という存在論どころか、「私たちの思いが届く日はいつになるだろうか」と文末に止め置かれたり、「彼の思いを真摯に受けとめなければならないのかもしれない」、あるいは「沖縄の思い」など、他人事にする弁明語のように使われています。
平野国臣のような「燃ゆる思いに」居ても立ってもいられないという、行動と直に結ばれた「思い」とは異なり、今では誰しも気軽に「思い」を口にし、文章に書き、一見、「大切なもの」として扱われています。
個人が資格の有無に関係なく、「思い」を口にする自由な時代になったからともいえません。「これから、その評判のラーメン店に入ってみたいと思います」式の「思います」はただの仕事の段取りや業務命令をあたかも個人の「思い」にすりかえて、自主自発的な「行動」に偽装してみせます。
その目的は、でき得るかぎり、個人の「思い」や「行動」を消し去ることにあるとしか考えられないのです。その人がどう思ったか、だからどう行動したか、あるいはどう行動するのか、などは言葉の上とはいえ、事実次元の話のはずです。
「もお、言ったそばから」という難詰がありますが、「言ったそばから」言葉の事実的、遂行的な側面が消えてゆく、言葉の事実性を失わせえる奇怪な言葉の使い方といえます。
スティーブン・キングの中編小説に『ランゴリアーズ』というTVドラマ化もされた作品があります。夜間飛行の飛行機に乗り合わせた人たちが過去の時間に取り残されるホラー小説ですが、タイムスリップやタイムトラベルの話ではありません。
取り残された過去とは、ほんの数年前のことなのに、その時空間には人間の姿はおろか、生き物の形や影もなく、ただ黒い闇がゆっくりと、しかし貪欲に侵食してくるのです。まっ黒い闇に地上も空も覆われていく恐怖を眼前にする乗客たち。
「我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」と歌った平野国臣は、もちろん安部首相のように自己陶酔的なロマンに浸ったのではなく、薩摩藩の鵺的なマヌーバーを手厳しく批評したというのでもなく、「薩摩藩は当てにならぬ、自力で道を開け」と同志たちに決起を促したと読むこともできます。つまり、平野は歌に託して、自分が薩摩で見聞した事実と遂行的な事実のみを語っているのです。
なんと私たちの「思い」とは隔絶していることでしょう。私たちの「思い」は発語された途端、あらゆる事物、すなわち事実が暗黒に呑み込まれていく、ランゴリアーズの過去世界に遁走していくのです。
(止め)
「我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」筑前の志士、平野国臣の短歌です。
— 安倍晋三 (@AbeShinzo) 2018年8月27日
大きな歴史の転換点を迎える中、日本の明日を切り拓いて参ります。 pic.twitter.com/LrozLWW1Nf
私も知りませんでしたが、我が胸の燃ゆる思ひ>活火山桜島山というわけで、幕末の雄藩である薩摩藩が尊王攘夷に煮え切らない態度でいることを平野国臣が、「煙はうすし」と皮肉った歌だそうです。脱藩浪士たちの「革命の志」を幕府を慮って「軽挙妄動」と弾圧する側に回ったりしたあたりについては、NHKの大河ドラマ「西郷どん」にも描かれていますね。
安倍首相と同じく、私もこの歌は以前から知っていましたが、さほど気にかけなかったのは、たぶん、歌としてたいしたことがないという感想を抱いていたからでしょう。少なくとも俵万智先生だってよい点をつけないはずです。
しかし、「薩摩は存外たいしたことない、期待できないぞ。我々には冷淡だったから」という全国各地の同志に周知する歌だったとすれば、その評価はまた違ってきます。幕末期には志士たちの歌は風雅の嗜みというより、コミュニケーション手段のひとつだったのでしょう。
瓦版に幕府や薩長の動静が報じられるわけでもないメディア不在の幕末期に、尊王攘夷の志士として著名な平野が詠んだこの歌は当然、平野を冷遇した薩摩藩の人士をはじめ、長州や土佐、肥前、その他諸藩、もちろん徳川幕府も聞き及ぶところとなり、当時の薩摩に関する最新情報の情報源になったわけでしょう。
そうしたメディア的な役割も果たしたと考えれば、いろいろ今日に続く問題を含む歌であると考えられます。とりわけ、「思い」が気になりました。
平野は早くから草莽の志士として全国各地を旅して、諸藩の有志に尊王論を説いてきた行動の人でした。いわば、その「燃ゆる思い」には激烈な「行動」の裏づけがあったということです。
「私の胸に燃えさかる火にくらべれば桜島の噴煙など薄いものですよ」とただの大言壮語ではありません。薩摩名物桜島の活火山にも感心することはなく、ましてや一薩摩藩の行く末を斟酌するようなことはない、この日ノ本を一人歩いて見聞して得た広い視野と深い思想を自負していたのでしょう。
つまり、かつては、「思い」を吐露するには有資格者であることが求められたのです。あれほどの人だからこそ、自分の「思い」を語り、流布することができるのだと。
現代においても、「思い」は多用されていますが、奇妙なことに行動から切り離されて使われることがほとんどです。「我思うゆえに我在り」という存在論どころか、「私たちの思いが届く日はいつになるだろうか」と文末に止め置かれたり、「彼の思いを真摯に受けとめなければならないのかもしれない」、あるいは「沖縄の思い」など、他人事にする弁明語のように使われています。
平野国臣のような「燃ゆる思いに」居ても立ってもいられないという、行動と直に結ばれた「思い」とは異なり、今では誰しも気軽に「思い」を口にし、文章に書き、一見、「大切なもの」として扱われています。
個人が資格の有無に関係なく、「思い」を口にする自由な時代になったからともいえません。「これから、その評判のラーメン店に入ってみたいと思います」式の「思います」はただの仕事の段取りや業務命令をあたかも個人の「思い」にすりかえて、自主自発的な「行動」に偽装してみせます。
その目的は、でき得るかぎり、個人の「思い」や「行動」を消し去ることにあるとしか考えられないのです。その人がどう思ったか、だからどう行動したか、あるいはどう行動するのか、などは言葉の上とはいえ、事実次元の話のはずです。
「もお、言ったそばから」という難詰がありますが、「言ったそばから」言葉の事実的、遂行的な側面が消えてゆく、言葉の事実性を失わせえる奇怪な言葉の使い方といえます。
スティーブン・キングの中編小説に『ランゴリアーズ』というTVドラマ化もされた作品があります。夜間飛行の飛行機に乗り合わせた人たちが過去の時間に取り残されるホラー小説ですが、タイムスリップやタイムトラベルの話ではありません。
取り残された過去とは、ほんの数年前のことなのに、その時空間には人間の姿はおろか、生き物の形や影もなく、ただ黒い闇がゆっくりと、しかし貪欲に侵食してくるのです。まっ黒い闇に地上も空も覆われていく恐怖を眼前にする乗客たち。
「我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」と歌った平野国臣は、もちろん安部首相のように自己陶酔的なロマンに浸ったのではなく、薩摩藩の鵺的なマヌーバーを手厳しく批評したというのでもなく、「薩摩藩は当てにならぬ、自力で道を開け」と同志たちに決起を促したと読むこともできます。つまり、平野は歌に託して、自分が薩摩で見聞した事実と遂行的な事実のみを語っているのです。
なんと私たちの「思い」とは隔絶していることでしょう。私たちの「思い」は発語された途端、あらゆる事物、すなわち事実が暗黒に呑み込まれていく、ランゴリアーズの過去世界に遁走していくのです。
(止め)