コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

おめでとうイチロー

2009-08-31 02:45:00 | ノンジャンル
自民党という大リーガーを相手に、弱小の細川チームに続き鳩山チームを率いて2回も勝つなんて。苦節15年どころか、結果的には、イチローが動かしていた15年だったわけだ。茂より、栄作より、そして角さんより、イチローが日本政治史に特筆される政治家になった日だ。

(敬称略)
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夏をあきらめ秋を待ちかね

2009-08-26 02:04:00 | ノンジャンル
 何本か映画DVDを観たが、もう、タイトルさえ忘れてしまった。CATVで韓国映画「オールドボーイ」を放映していたので再見。やはり、オ・デスの気迫溢れる告解と美しい蛇のようなウ・ジンの冷笑に感心。暴力やセックスをこれほど叙情的に撮る監督は日本にはいない。

 ローレンス・ブロックのマット・スカダーシリーズ『死者との誓い』も再読。ベトナム戦争から帰還してから頭に変調を来し、浮浪者に落ちぶれた兄ジョージの無実を信じる依頼人トム・サデッキがスカダーにいう。「兄の人生を生きたいなどと思う人はいないでしょう。だけど、それでも兄の人生なんです。わかります? それでも兄の人生なんです。たとえクソみたいな人生でもね。私は兄には兄の人生を活かしてやりたい」。「わかります?」に泣けた。

 連日、TVでは来たる衆院選挙についての報道が続く。これほど、政治家が軽んじられる国も珍しいだろう。誰もが上から「目線」で語っている。鏡に映った自分の顔に唾を吐きかけるようなものなのに。この「選挙報道」と「酒井・押尾事件」で、マスコミは「景気回復」したように大喜び。どちらの「報道」も、国民に予断と偏見を抱かせる行き過ぎが目に余る。

 『物語日本史 (下)』(平泉 澄)を読む。皇国史観だが、山崎闇斎を軸とした学派の解説に登場する清貧の学者像がおもしろい。奥付の著者紹介に珍しい誤植を発見。「1985年生。~(中略)~1984年2月18日没。」。1979年2月10日第1刷発行だから、亡くなった翌年に生まれ、その6年前に本書を上梓したことになる。これで講談社「学術文庫」だから恐れ入る。

(敬称略)

 今日は長袖シャツを着た。今年も麦茶が余りそう。クーラーにくしゃみしながら秋刀魚を食す。この秋、新インフルエンザ大流行の恐れありという。みなさん、どうかお気をつけて。


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週間読書人

2009-08-20 23:51:00 | ブックオフ本
『雨ン中の、らくだ』(立川志らく 太田出版)

 ライバルである兄弟子の談春がものした『赤めだか』に続く、志らくによる談志論と落語修行の記録。談志と自らにかかわる「松挽き」から「芝浜」まで18の噺を通して、「落語は人間の業の肯定」「落語はイリュージョン」という談志持論を解釈していく。『赤めだか』に劣らぬ良書。解説はわかりやすく、めざすところも説得力豊か。しかし、結局、落語を論じるのは落語家しかできないんじゃないかと首を傾げた。

『レヴィナス-何のために生きるのか』(小泉 義之 NHK出版)

 109頁の簡便なレヴィナス入門書。引用される原文は、たしかに難解。用語ではなく言い回しの意味が取りにくい。でも、認識は深い、ということだけはわかる。

『奴らが哭く前に-猪飼野少年愚連隊』(黄 民基 幻冬舎筑摩書房)

 昭和30年代、後に山口組と抗争を起こす明友会に憧れる大阪猪飼野の少年愚連隊の興亡。ただし、少年とは小学生である。明友会が殲滅された後、少年たちのその後が痛切である。

『私物国家-日本の黒幕の系図』(広瀬 隆 光文社)

 広瀬隆の本はほとんど読んだことがないが、1,800円が105円とはあまりに気の毒なので。もちろん、広瀬氏に印税は入らないわけだが。

『世界の絵本画家たち』(ちひろ美術館・編 講談社)

タチヤーナ・マーヴリナ、エフゲーニー・ラチョフ、ボリス・ディオドロフなど、ロシアの画家の絵がとくにすばらしい。

『百万遍-古都恋情 上下』(花村 萬月 新潮文庫)

ハクイ女とヤル。男のいちばんの出世はそれだというコンプレックス小説。おいおい、と呆れながら上下巻読んでしまった、情けない。京都タウンガイドブックとして多少楽しめる。

(敬称略)
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80年代つながり

2009-08-20 17:49:00 | ブックオフ本
『囚人狂時代』(見沢 知廉 ザ・マサダ)

 裁判員制度が発足して、その第一号の裁判について、TVをはじめメディアは連日のように、微に入り細を穿つ報道を展開したが、大多数の被告に有罪判決が下された後、彼ら彼女らがどうなるかについて、関心を寄せる人は少ない。

 本書は、アムネスティが「非人道的」と日本政府に改善を勧告しているわが国の刑務所の実態と、そこで生きる受刑者たちの姿を体験に基づき書いたもの。

 著者・見沢知廉はかつて新右翼活動家であり、「スパイ粛正事件」の殺人犯として82年下獄、服役中に小説の執筆をはじめ、12年の刑期を終えた94年以後は作家として活躍、2005年に自宅マンションから飛び降り死した。享年46。
 
 刑務所当局に抗議と要求を繰り返したため、その12年の刑期のうち、見沢知廉はなんと8年間を「厳正独居」と呼ばれる懲罰的な拘禁房に入れられていた。その後遺症として、PTSDや骨粗鬆症、線維筋痛症などに苦しんでいたといわれる。

 この「厳正独居」について、アムネスティは次のように批難している。
 多くの囚人が、最長2ヵ月に渡って、一日に何時間もの間、決められた姿勢を崩すことなく独房に座らされることを強いられている(厳正独居拘禁または「軽屏禁」)。彼らは運動や入浴などを許されない。これは、残虐な、非人道的な又は品位を傷つける刑罰であり、ただちに廃止されなければならない。

 私も受刑者が看守を「先生」と呼ぶのは知っていたが、慣習ではなく、「受刑者の生活心得」にも明記されている「規則」だったのには驚いた。いったい、なぜ、看守を「先生」と呼ばねばならないのか、その理由を聞きたいものだ。
 
『成城だよりⅢ』(大岡昇平 文芸春秋)

 1985年(昭和60年)、著者75歳のときの日記。
 『堺港攘夷始末』を書き続け、子や孫の少女マンガを読破し、映画アマデウスに泣き、吉本隆明に腹を立て、一葉「美登利の初潮」を再考し、渋谷のコム・デ・ギャルソン・オムで一万八千円のパンツ(ズボンとは書かず)を買う。大岡昇平の率直であることの格好の良さ。

 その一方、「終戦の時、三十九歳のすれっからし」だったので、靖国参拝をした首相を「中曽根坊や」と書くのである。腹に据えかねたように一回だけ。以下、印象に残った文言の一部(丸カッコ内は、私の補足)。

 少女マンガの特徴は、花、服飾、料理など女性的事物、細かくやさしく描かれあること、その笑いの表情、酔態、、男の前で見せる者と違いて、自由奔放なることにあり。されど全体として退行的にして、同性愛しかも男の同性愛に転化せるは面白くない。

 (「純文学」とは文学史の用語にて)「純」は「モラル抜き」の「純」の意なり。

 十八歳の時、三大シンフォニーをレコードで聞いてより、五十年のわが音楽生活はモーツァルトと共にあった。私には音楽はモーツァルトさえあればいいので、あとはみんな「勉強」だったのだ。

 私は二十世紀は批評の時代だと思っている。近頃小説に見るべきものが少なくても、批評が盛んなら結構だ。

 十五歳以下の人口21.8%減。四つの島を出られぬ以上、減った方がよい。

 靖国参拝、一パーセント枠撤廃、スパイ防止法の三種の神器と日航事故は、同根なり。高度成長の裏の手抜きの結果、五百二十人の人民の死来たれり。それをまたごまかそうとして、今年の八月十五日の悪夢となれり。

 (成城に住んだ理由について)われ年老いて生まれ育ちし東京に帰りたくなった、武蔵野の黒土とケヤキが恋しくなった、とは表向きのことにて、実は東京に生業を持つ娘息子孫に、しげしげと会いたいが本意なりしなり。


『大不況には本を読む』(橋本 治 中公新書ラクレ)

 大不況にはどんな本を読めばよいか、という本のガイドブックではない。書籍市場の変化を入り口に、バブル経済から2008年秋の金融不況後の日本経済論までを奔放な視点で振り返り、だから「本を読め」といささか強引に出口を示す。

 奇しくも大岡昇平日記と同じ1985年が起点。プラザ合意後の円高不況からバブル経済とその崩壊後の「失われた10年」、2008年秋の金融不況後の世界経済の行く末までを日本を中心にして読み解いている。

 「世界経済」の中心が日本ではないからこそ、日本を中心にして考えなければならないという。その上で、「世界経済」も「グローバリズム」も、そして2008年秋の金融不況からはじまった「大不況」も、実は日本がその原因をつくったのではないかと展開する。

 一見、アクロバチックな論考にみえて-たとえば、1985年に「世界経済」の「継続発展」のために「内需拡大」をアメリカから求められたとき、「じゃ、自動車や家電の輸出を止める」といえばよかった-きわめて、本質的な論点を探求している。いつまでも吉本隆明でもあるまい。現在、もっとも刺激的な思想家は橋本 治ではないか? ない? どうして? こんなこと書く人、世界を探してもほかにいるかしらん。

(敬称略)
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チェンジリング

2009-08-15 22:35:00 | レンタルDVD映画

チェンジリング

 まだ自転車のタイヤみたいな車輪で自動車が走っている1928年のロサンゼルス。離婚して一人息子ウォルターを育てるクリスティン・コリンズは、電話会社に勤めている。電話交換手の長い列をローラースケートで移動しながら指揮監督する主任に抜擢されたが、進歩的でもないごく平凡な女であり、息子に寂しい思いをさせていると後ろめたく感じている母親だった。

以下、あらすじに触れてしまいますのでご注意を。意外性は筋にではなく、その描き方にあるのですが。

 映画に連れていく約束を破り、急な仕事に出かけねばならないクリスティンが、走り出したバスの車窓から、留守番をするウォルターの姿を家の窓に探す。家はどんどん離れていき、ようやく窓辺に佇むウォルターを見つけるが、その姿形はぼんやりして、顔立ちもわからない。身を引き裂かれるような思いと理由のない不安に怯えて潤むクリスティンの瞳。観客はクリスティンとともに、これがウォルターと今生の別れであることを予感する。

クリスティンのアンジェリーナ・ジョリーの大きな瞳がみるみる濡れます。サスペンス映画を観るときの楽しみのひとつである、これからこの美しい女がさんざん酷い目に遭うんだぞ、という嗜虐的な気持ちには少しもなりません。静謐なカメラワークと抑制された台詞が淀みなく流れ、クリスティンという小川に観客が合流する印象的な場面です。

 誘拐か家出か、行方不明となって5か月。満足に捜索もしなかった警察が連れてきたウォルターは、まったく別の子どもだった。驚喜と落胆、混乱するクリスティンは、警察に言い含められて偽のウォルターを引き取ってしまう。警察に再捜索を繰り返し懇願するが、まったく相手にされない。ロス市警の腐敗堕落に批判が高まるなか、市警は偶然見つけたウォルターに似た子どもをクリスティンに押しつけ、事件解決をマスコミに大々的に発表することで人気取りを計ったのだった。

言い忘れましたが、この映画は実話に基づいているそうです。

 「お願い息子を捜して!」。クリスティンはロス市警警部に涙ながらに訴える。冷たくあしらわれ、面罵されても、権力や男の助力にすがる弱い女、哀しみの母親としてひたすら懇願する。あまりの頭ごなしに耐えかねて言い返すこともあるが、すぐに思い直し、激しい言葉遣いを謝罪する。「これは何かの間違いであり、話せばきっとわかってくれる」、クリスティンはそう信じている。

ちょっと実話だとは信じられないくらいですが、権力が巨大な官僚機構に変わった現代では、権力の認める真実に反する事実は不問にされます。母親だけでなく、学校の教師も他人と認め、過去の治療記録に基づく歯医者の証言を出しても、警察は取り合わないのです。それどころか、警察はクリスティンを敵視し、近所に誹謗中傷までしはじめます。そうした事実の隠蔽と真実のねつ造に荷担しているのが、マスメディアであることでは、1928年(昭和3年)も2009年(平成21年)もさほど変わりません。

 孤立し困惑するクリスティンに、かねてからロス市警の腐敗堕落追及の急先鋒である新宗派の牧師が救いの手をさしのべる。ラジオ説教で地域大衆の人気を博しているこの牧師は、ラジオを使ってクリスティン事件を広め、信者大衆を背景に市と警察に圧力をかけていく。追いつめられたロス市警は、なんとクリスティンを秘密裏に精神病院に強制入院させ、行方不明者にしてしまうのだった。



この牧師にジョン・マルコビッチ。いつものオーバー演技を抑えながら、いつもの得体の知れないカリスマ的な雰囲気を身にまとい、しかしクリスティンには適切で具体的な指示と助言を与えます。はじめて会ったときから、警察と共に闘う同志として接します。男女間の好意ではなく、自らの運動に利用しようとするのではなく、二人三脚を申し出るのです。

 息子は別人、警察は人違いミスを隠蔽している、口封じに精神病院に送り込まれた、クリスティンの主張は、現実と妄想の区別がつかない精神病とされる。その精神病院は、警察と結託していて、「コード12」という患者区別をして、暴力をふるう夫を訴えようとした警官の妻や、警官の横暴な扱いに抗議した売春婦など、警察に都合の悪い女たちを収容する監獄に等しいところだった。「息子は別人ではなく、思い違いだった」という書面にサインしなければ、二度と家には帰れないと、クリスティンは医師から脅される。

ロス市警の立場になってみましょう。夫に去られただけでなく、一人息子に目が行き届かないような女のために、たくさんの警官の時間と予算を割いて、すでに死んでいるだろう息子の再捜索をはじめることは、当事者の母子以外にとってはほとんど無意味なことです。

それ以上に、警察がミスを犯したことを認めれば、権力の威信を傷つけることになり、治安に関わる予算の削減や個々の警官の自由裁量の制限に至り、警察と治安に関わる多くの人々が迷惑を受けます。とても天秤にはかけられません。全体を守るためには、少々のミスや犠牲はしかたがないのです。クリスティンを精神病院に放り込んだ警部やその上司の本部長、市長はそう考えています。そして、最後までそうした考えをあらためることはありません。すでに、システムの一員であることが自己のすべてになっているからです。

同様に、クリスティンも、便宜的に医師の書面にサインして、精神病院から出て自由を確保するという現実的な対処をとりません。もはや、自分一人の問題ではなく、「コード12」の女たちの一人であることを知ったからです。


 クリスティンのほんとうの覚醒と反逆は、この精神病院からはじまる。劣悪な環境に加え、電気ショックの拷問を受けそうになっても、クリスティンは主張を変えない。やがて、クリスティンの行方を探していた牧師が病院に乗り込み、クリスティンは救い出される。警察をとりまくデモの群衆。

映画はここで終わるのかと思いました。平凡な女(庶民)が権力の横暴と腐敗によって苦しめられるが、自尊をかけて立ち上がり、不退転の闘いに挑む。繰り返されるアメリカ民主主義の英雄物語です。ところで、ウォルターはどうなったんだと観客は思います。行方不明のまま終わるのか。行方不明の息子を捜す母の自立物語だったのかと納得しそうになります。もちろん、クリスティンの眼中にはウォルターしかありません。

 牧師たちの告発により裁判所命令が出され、、精神病院から、「コード12」の女たちは解放される。また、偽ウォルターをめぐる警察のミスと不正を追及する公聴会に警部が引き出される。被害者クリスティンは、一躍話題の人になるが、電話局の休憩時間に、全米各地の警察に電話をして、保護された子どもや身元不明の男の子の記録がないか、捜索を続ける毎日に変わりがない。

クリスティンにとっては、目的はあくまでウォルターを取り戻すことであり、ロス市警の腐敗堕落の追及や精神病院の虐待女性の解放は、比べれば二次的な問題なのです。休憩時間に電話局の薄暗い一室で、「ウォルター・コリンズを探しています」と電話をかけ続けるクリスティンの少し緊張した背中。ここで映画は終わるのかなとも思いました。悲劇にも挫けない一途な母の愛の物語として、じゅうぶんな余韻を残すラストです。

ところが、ウォルターの行方がわかるのです。ここから先は、いくらなんでも書くわけにはいきません。実は、ここまでは、前置きに過ぎません。ここから先が、この映画の本編であり見どころなのです。引き裂かれた母子が出会うラストまで、息もつかせません。その間に、眼を覆いたくなる残虐な場面があります。ウォルター以外の少年、あるいは、かつての少年までがクリスティンの前に現れ、それぞれの悲しみと苦しみ、喜びが描かれます。

ここで映画はクリスティンに起きた二つのことを描きます。クリスティンとウォルターが普通の母子に戻ること。クリスティンの思いが及ばない別の人格と行為をウォルターが持つこと。そして、クリスティンはウォルターの母親でありながら、同時にすべての男の子の母親にもなります。刑務所での面会はあきらかに母と息子の対面です。

クリスティンがスクリ-ンで発する言葉の最後は、「希望」です。そのとき、彼女は満面の笑みを浮かべています。ウォルターを探し続ける希望を見い出し、彼女の人生は続くのです。すでにクリスティンは幸福なのです。この映画を観た人に、ハッピーエンドの映画だよといえば、「まさか!」といわれるでしょうが、それなら、「希望の笑み」をどのように考えたらいいのでしょうか? 

エンディングのタイトルロールが流れるのを観ながら、人は誰しも、「取り替え子(チェンジリング changeling)」として生まれてくるのではないか、そんな深い感慨を得るでしょう。

最初にいうべきでしたが、傑作です。
社会派映画などではありません。そんな生硬なところはどこにも見い出せません。犯罪実録映画とは大いに違います。どのような扇情とも無縁です。母親の自立と再生を描いた女優映画ではあり得ません。むしろ、母親を見守る少年の視線の映画です。「~ではない」としかいいようがないから、傑作なのです。

カメラは、けっして人物に寄りません。ズームアップした場面がほとんどないのです。あってもすぐ離れるか、場面が切り替わります。つかず離れず、登場する人物の誰からも一定の距離を置いているかのようです。ただ、クリスティンだけには控えめな視線が注がれます。ビリー・ホリディと共演したときのレスター・ヤングのサックスのように、母を慕うように愛しげに寄り添います。音楽もいい。

監督・製作・音楽クリント・イーストウッド。



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