コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

反社はあっても親社という言葉はない

2021-02-27 23:59:00 | 政治
映画監督としての大島渚をあまり好きではない。カメラワークは心地よくないし、編集はぶつ切れるし、音声は聴きとりにくいし、セリフは生硬だし、人間の描き方がクソリアリズムかと思えば観念的だし。

そんな映画のいわゆる完成度とは真逆なところが大島映画なのだと思えば、貶したことにならないところにも業腹な感じがする。コメントを出している黒沢清もそれほど傑出した映画監督とは思っていなかったのだが・・・。

第2回大島渚賞は審査員総意のもと該当者なし、坂本龍一や黒沢清のコメント到着
https://natalie.mu/eiga/news/417753

>「いろいろあったけど、よかったよかった」となる映画が多すぎる。

そう、予定調和はつまらない。というか、意想外、想定外が現実的であって、(ふんふんなるほどやっぱりね)となるのは非現実そのものなのだ。

>表現の極北から見出される鋭い刃物のようなクサビで、人と社会とを永遠に分断させよう。これら二つが美しく共存するというのはまったくの欺瞞だ。

下の「君よ褌の河を渡れ」で言いたかったことの一部がこれだ。ふざけたタイトルだと思ったかもしれないが、たしかにふざけたつもりで、実はそうでもなかったことにこのコメントを読んで気がついた。

昔世話になって、もうとうに亡くなった先輩のNさんが越中褌を愛用していて、私と褌の接点は彼にしかなかった。そのNさんに限らないのだが、私が子犬のように懐いていた先輩たちのほとんどは、上のような考えだったように思える。

いや、「考え」などあったかどうかわからないが、少なくとも社会と人間が「美しく共存する」なんてことはまったく信じていなかったと思う。

私が「イージーライダー」を観たのは、彼らに出会う前だったから、朱に交わって感化されたわけではない。類は友を呼んだのだろう。

人が社会に統合されることが現実だとしても、「美しく共存する」なんてことはあり得ない。そうした物語がどれほど美しかろうと感動的だろうと、ペテンに回収されるに過ぎない。それをも予定調和とする人をも含めて、赤錆びたクサビを打ち込むのが表現の務めなのだ。

あ~肩凝っちゃいましたか。今夜のおまけはちょっと変わり種です。「夜のヒットスタジオ」は素晴らしい歌番組でしたな。

桃色吐息 / 松坂慶子


(止め)

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君よ褌の河を渡れ

2021-02-23 16:47:00 | 政治

アメリカ人だからこそ言いたい、この大統領選挙には納得できない

https://news.yahoo.co.jp/articles/430098f9e36802c71b7c1f6a90ed7ef987c3c077

>しかし、バイデン支持者の33%もバイデンが勝ったと思っていないという結果には、びっくりするだろう。

典拠が明らかではないので、「勝ったと思っていない」が(選挙不正によって勝った、じつは負けていた)なのか、「トランプ以外ならバイデンでもしかたない」では(勝ったとは思えない)なのか。あるいは両方の混合なのか不明だが、「勝ったと思っていない」には、強い現実味を覚えてしまう。

>同様に民主党とメディアは融着関係があるといえるのは、民主党政権が終わると、政権関係者は番組のコメンテーターか司会としてメディア界に入り、民主党政権が誕生すると、メディア界から政権に「復帰」するという「回転ドア」があることだ。
共和党と、例えば保守系と言われているFoxNewsにもその関係もあるが、民主党系のメディアの例が圧倒的に多い。


利害相反関係にあるのに、保守系人士が政界と大企業を行き来する「回転ドア」はよく知られている。たとえば、イラク戦争を主導したチェイニー副大統領と世界最大の石油掘削機販売会社ハリバートンとの関係は有名だ。だが、リベラルとされる民主党にメディアと「回転ドア」があるような癒着はほとんど知られていないはずだ。

>CNNだけではない。だが、中でもCNNがかなり酷い。読者に記憶に新しいはずだが、2016年の大統領候補討論会の際、CNNのコメンテーターであるドンナ・ブラジルはヒラリー・クリントン候補に事前に何回か質問を渡したことが大スキャンダルになり、解任させるきっかけになった。だが、コメンテーターをしながら、幹事長にあたる民主党全国委員会の臨時委員長も務めていた。

NYタイムズをはじめ、アメリカのいわゆるリベラルなジャーナリズムへの疑念や不信は、トランピストたちだけが突出しているのではなく、共和党支持の穏健な保守派の間でももはや常識化しているようだ。

それはともかく、日本のジャーナリズムと比べて、「事前に何回か質問を渡したことが大スキャンダル」になるのに、驚いた。日本の場合、記者会見で事前に首相や官房長官などに記者が質問内容を出すのは、ほとんど「ルール化」しているからだ。

>「事前に質問をもらうのは、民主党の候補者のみならず、バイデン政権もそうしているとの報道がある。ホワイト・ハウスは、自らに近いメディアの関係者に「タフな質問」について事前に問い合わせている。アメリカのメディアは政府に対してチェック機能は果たしていない。むしろプロパガンダを手伝っている。」

最近は、菅政権の「パンケーキ朝食会」だが、安倍政権では番記者やメディア幹部との会食という場で、政権側が「情報収集」し、メディア側が「取材」するというアメリカでいえば、「癒着大スキャンダル」が「職務の一環」として日常的に行われていた。

新聞やTVの番記者や幹部に、「プロパガンダを手伝っている」といえば、色をなして怒り出すならまだしも、たぶん冷笑が返ってくるだけだろう。

筆者は既存メディアをはるかに情報量で凌駕するグーグルやフェイスブックなどのSNSやIT企業が、情報を統制し、支配する近未来を恐れている。「リベラルなデジタル監視社会」である。そのとき、世界でもっとも遅れをとるという形で「抵抗」するのは、「アナクロなアナログ忖度社会」を徹底させた日本だろう。

学生時代、友人たちとかの有名な「イージーライダー」のリバイバル上映を観に行ったことがある。観終わった後、友人たちはもちろん肯定的な評価を語った。私は、「これじゃ、ニューヨークタイムスだけが正義だみたいな世界じゃないか」と不満を漏らして、友人たちの失笑を買った記憶がある。

もちろん、ニューヨークタイムスをはじめ、アメリカのリベラルに対してほとんど知識など持ち合わせず、だからそのまま黙るしかなかったのだが、今回トランピストになった、貧しい田舎の、偏屈な、おおかた「差別主義者」の「レッドネック」たちが言上げする、「デープ・ステート」なるものの「正体」を映画にかいま見た気になったのかもしれない。と今になって思う。友人たちの失笑には、多勢に無勢以上に、なにか自信のようなものに裏づけられた圧力を感じていた。

とうとうコタツも陰謀論に与するようになったかと冷笑されるかもしれないが、ゾンビ映画でいえば、どれほどおぞましくともゾンビはかつて私たちの同胞だった。それより何より、彼らは圧倒的に多数派なのだ。つねに死者は生者より、はるかに絶対多数を占めている。

ゾンビ映画が数えきれないほど繰り返しつくられるのは、ゾンビが反乱や一斉蜂起のメタファーであるというだけでなく、こぎれいでこざっぱりした健康的な色つやをした私たちも一皮むけば、という解像力を否応なく喚起するからだろう。

肌と呼ばれる表層こそがいわゆる「リベラル」ではないか。私たちの血や肉や骨は、その皮膚によって覆われ、隔(かく)されて、守られているのか。

社会になぞらえば、人間の、血しぶきや肉の断裂、骨の軋みが、その終わることのない苦痛こそが、覆われ、隔され、守られている、と言えやしまいか。なにか、こぎれいでこざっぱりした健康的な色つやの肌で。

もちろん、隅々に達する活発な血流や躍動し同時に抑制する筋肉、大胆に小刻みに分節する大小の骨群が、ブランケットのように温かく、プラスティックのように強靭な皮膚によってくるまれているともいえる。皮膚はたんに表層ではないわけだ。

で、メタメタの今夜のおまけは、やっぱりメタルバンドというお粗末。

映画ヘヴィ・トリップ予告編

http://heavy-trip-movie.com/trailer/

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今週の拾得物 社長吠える

2021-02-19 22:47:00 | 政治
ツイッターで話題になっているところをみると、下のような記事や論考がメディアに出たことはないのだろう。メディアの記者やスポーツジャーナリストではなく、素人の「社長」がじつは当たり前の視点や問題意識を持った論評を書かざるを得なかったところに、日本のジャーナリズムの深刻な劣化と頽廃が表れています。これを書いたことで「社長」の社業にいささかなりとも悪影響が出ないか心配します。

森氏辞任に考える 日本社会に残る無意味な風習
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODH151PP0V10C21A2000000/

ロス五輪のユべロスの功績など、オリンピックを担当する記者なら誰でも書けるはずなのに、森会長と比較してはとても書けないわけです。掲載した日経ですら、こんな腰の引けた凡庸なタイトルをつけるくらいですから。

後に彼を取材した日本の記者にこう語っています。「小さなオフィスを借り、段ボール1箱のファイルと20人のボランティア、100ドルで開いた銀行口座。それがすべての始まりだった」

一般公募から組織委のトップに立ったユべロスと元首相の森喜朗では、そのアドバンテージに月とスッポンくらいの差があります。もちろん、前者にはるかに分があります。

「公的資金を一銭も使わない五輪を実現」した、ユべロスの「商業主義」とはどんなものだったか。その内実を知りもせず、ただ「商業主義」と貶められてきたことへ「社長」の憤りがうかがえます。

五輪組織委にかぎらず、「商業主義」にすら至らぬ、根回しと調整という「政治主義」で、あるいは「人類がコロナに打ち克った証として」と一足飛びの精神主義により、悪しき「国家主義」や「経済成長主義」が横行するのを国民は口を空けてボンヤリ見ているだけ。昭和から変わらぬ日本の姿にあらためて失望します。そりゃ、橋本聖子さんだって嫌だよ。

このくらい元気でかっこよい女性が日本にもっと出てきてほしいものです。

Candy Dulfer - Pick Up The Pieces (Part 1)


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有夫恋

2021-02-11 00:41:00 | レンタルDVD映画


凄い映画を観ました。映画史のオールタイムベスト10には必ず入る作品です。

「花様年華 In the Mood for Love」2000年に香港で製作された映画です。

(かようねんか)と読みます。「満開の花のように輝く女の人生の瞬間」という意味だそうです。1960年の香港、新聞記者チャウ(トニー・レオン)と小さな商社の社長秘書チャン夫人(マギー・チャン)の悲恋が描かれます。たがいの妻と夫が不倫していることを知り、二人は近づいていきます。

色と匂いと音が凄い映画です。

まずは色から。風にたなびく赤いカーテンなど、赤がとくに印象的ですが、あのけばけばしい中国寺院の明るい紅色ではありません。もっとレトロモダンなというか、ルージュのような赤です。青もあります。ヨーロッパ様式のテーブルスタンドや壁紙の柄、それに中華をミックスさせたインテリア装飾の大胆な色遣いに圧倒されます。その一方、淡いパステル調や渋い色をあしらった、日本の着物柄のような精緻な色彩の組み合わせも堪能させられます。

続いて音ですが、これは後にメインテーマ曲と挿入歌の動画を紹介します。これも大胆な選曲ですが、封じ込められた情熱を煽り、また癒すかのように胸を浸していきます。
 
匂いとは、まずは食べ物です。惹かれあう二人がいろいろものを食べます。最初のうちはややぎこちなく、だんだんに屈託なく、睦まじく、咀嚼します。二人だけでなく、近所の人や友人とあるいは一人で、ワインを、白酒を飲み、ステーキや中華料理を食べます。映画のなかの人々とテーブルを囲み、ともに食べ物の匂いや食感が味わえるような気がする映画です。

そしてなにより、男の色気と女の色香の映画です。トニー・レオンはこの作品で第53回カンヌ映画祭最優秀主演男優賞を得ているほど、匂い立つような男ぶりですし、マギー・チャンの人妻の貞淑な香気は絶品です。「恋愛映画の金字塔」という時代遅れの讃辞がぴったりします。

チャン夫人によって、20着もの旗袍(チーパオ)が着まわされます。あの襟の立った、ノースリーブで、身体の線を際立たせ、脚にスリットの入った、いわゆるチャイナドレスのことです。古びて汚い下町の狭い階段や装飾過多に思えるインテリアに、繊細な色づかいでモダンな柄のチャイナドレスを着こなした、マダムチャンの立ち歩き、身のこなし、仕草をまるで時が止まったかのように優美を極めていました。

トニー。レオンの恋情を訴える黒い瞳はもちろんのこと、一見、何の変哲もない地味なスーツ姿やワイシャツ姿の撫で肩の線には、清潔な色気がありました。当時のスタイルのごく細ネクタイ、やはり細めのスーツの襟、その胸ポケットから白い大判のハンカチをとりだして、雨に濡れそぼった顔や髪、上着の肩のあたりを拭く、男のありふれた所作に惹きつけられます。たぶん、このチャイナドレスとスーツの衣装とデザインには凝りに凝ったはずです。

チャン夫人の頸(うなじ〕から肩のまるみを経てしなやかな上腕に、つと腰のくびれ、そこから流れ落ちるように踵と爪先に滑るカメラアイ。背後から、部屋の隅から、開いたドアや窓の通路や外から、あるいはそれらの逆側から、窃視するようなカメラワークに徹しています。

高いビルを見上げるとか、駅やオフィス内を一望するとか、人間の身体を大きくはみ出すような広い視界のいっさいが注意深く避けられています。二人の全身像ですらめったに映されない徹底ぶりです。

英題のとおり、二人の恋のムードが満たされた自室やホテルの部屋などが大半の場面を占め、観客もすぐ傍らにいるかのように、いわゆるバストショットよりもっと下まで、かといってローアングルではなくミドルアングルの撮影です。そのうえ、スローモーション撮影を多用していますから、私たちの視線は二人を真近に追うばかりです。

フランス映画高等技術委員会賞を受賞したのは、こんな撮影をしたクリストファー・ドイルに負うことが大であったようです。もちろん、そんなカメラアイを可能にした、優れた美術や衣装デザイン、照明などがあったればこそです。2000年当時の香港のファッション、美術、デザインの俊英たちがこの映画のために結集したという話です。

月並みですが、カップルで観るとたがいにがっくりくる映画ですから、一人で観ることをお勧めします。

音楽もひとすじ縄ではいきません。メインテーマは梅林茂というはじめて知った人ですが、ウィキに掲載された写真を見ると、いい顔をしています。チャウの容貌です。

Yumeji's Theme / Shigeru Umebayashi


鈴木清順監督の竹久夢二と女たちを描いた『夢二』のテーマ曲でした。メインテーマ曲をほかの映画からもってくるなんて話も、聞いたことがありません。

Te Quiero Dijiste


挿入歌は、ナット”キング”コール。それもスペイン語で歌ったものだけです。アメリカだけでなく、中南米も含めたヒスパニック市場のためでしょう。香港とは大国を背後にして「植民地的」なところは似通っていますが、それ以外に共通点がはないともいえます。ナット”キング”コールも成熟した大人の男の清潔な色気がある人でした。

In the mood for love - The End (Quizas, quizas, quizas - Nat King Cole)


有名な「キサス・キサス・キサス」です。スローモーション撮影を多用して成功した稀な映画でもあります。

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森喜朗かく語りき

2021-02-08 08:01:00 | 政治
オリンピック組織委員会の森喜朗会長が「女性差別発言」をめぐり、辞任を迫られる勢いで批判されている。

「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と要約された差別発言とは、以下のようなものだ。

「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」
「女性の優れているところですが、競争意識が強い。誰か手を挙げると『自分も言わないといけない』と思うんでしょうね」
「女性を増やす場合、発言の時間をある程度は規制しておかないと、なかなか終わらないので困る」
「組織委員会にも女性はいるが、みんなわきまえておられる」

女性が多い会議は、時間がかかる。女性は競争意識が強い。科学的な根拠があるのでも何らかの調査結果が出たわけでもない。森喜朗会長自身の見聞や周辺からの伝聞に過ぎない。

にもかかわらず、(女性の競争意識から議事進行のためというより、自己アピールのために発言の機会を求めるので、会議が長くなって迷惑だ)という含意が、JOC評議会の出席者たちから同感され、「笑い」を誘い場を和ませたのだろう。

彼らのホモソーシャルな組織の「紐帯」と、「女性理事」とはしょせん「なんちゃって」なのだ、という「蔑視」を確認できたからだ。

建築関連の職人たちの話を聞いていると、たとえば、「会社に言ったんだよ。なんちゃっては困る。プロを寄こしてくれって」とか、「あれはまあ、なんちゃって大工だから」「なんちゃって左官屋の手直しするくらいなら、派遣使って手元やらせたほうがまし」などという。

プロとしての技能に欠けるだけでなく、仕事への責任感が乏しい困り者を「なんちゃって」と呼んでいるらしく、後者により比重がかかっているようだ。

それをいう職人に、「差別だ」といえば、目を丸くするだろう。あくまでも仕事に対する評価だからだ。

一方、女性の場合、彼女の技能や責任感がどれほど高く強かろうと「なんちゃって」扱いされることが多い。これはまぎれもなく女性差別といえるのだが、差別する側はつねにそれを「評価jといい、けっして「差別」とは認めない。

当然、森喜朗会長に反省の二字はない。かえって批判に油を注ぐことになった「謝罪会見」時の言動や、会見後にTV出演した際の「撤回したほうが早い」といった発言をみても、そう断じてかまわないはずだ。

今夏の東京オリンピック開催の支障になるのを懸念しただけで、森喜朗会長は女性差別問題などにほとんど関心もないのではないか。彼にとって、政治的な現実とは、女性差別を撤廃するということより、撤廃をめぐって対立する諸派諸人を調整することだからだ。

女性差別だけでなく、差別を生み出す組織の構造 それを正す民主主義の不断の努力など、非制度的な良心や倫理に関わる人々の営為についても、関心外なのではないか。

むしろ、それこそ自民党政治家としての分別と振舞いであり、心構えと自負さえ覚えているのかもしれない。その淵源に思い至らないわけではない。

戦後30年(1975年)の10月、昭和天皇、皇后はアメリカを初訪問し、10月31日、これまた初の公式記者会見に臨み、以下のような質疑応答があった。

─天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」


戦争責任そのものを「公理」とは認めず、「文学方面」の「言葉のアヤ」と捨象して、論点ずらしが行われている。ならば、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」という「文学方面」の「言葉の綾」を駆使した発言と矛盾するのだが、そこにあまり意味はないだろう。日米友好の一層に進展を願った、まさに「言葉の綾」であるからだ。

ここで天皇陛下自身が語っているのは、公理については語らないということだろうが、戦争責任については、昭和21年の小林秀雄の言葉も有名だ。

僕は馬鹿だから反省なんぞしない、悧巧な奴は勝手にたんと反省すればいゝだろう。

敗戦の翌年の私人の発言と戦後30年の公人の最たる天皇の発言、そして森喜朗会長の発言には通底するものがある。それはホモソーシャルという外来語では捕捉できない、公理とそれを語る言葉への蔑視に表れる、同型の「反動性」に思える。

そうした反動性は、今回の森喜朗会長の性差別発言を批判する報道の側にも通底するといえよう。「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と同時に、森喜朗会長は「私たちはコロナがどういう形であろうと必ずやる」という発言もしている。

新型コロナの感染拡大がおさまらず医療崩壊が起きても、国民の生命や安全がどのような危険に晒されようとも、この夏の東京オリンピックを開催すると言明したのだ。

こちらのほうが、「女性が多い会議は長くなる」より、はるかに重大な問題発言のはずだが、報道の批判の矛先は「女性差別発言」一色だ。

森喜朗会長の進退のみならず、東京オリンピック開催の是非を追及できる決定的な発言を取り上げもせず、「オリンピック憲章が謳う多様性を否定」だの「海外からも批判が相次ぐ」「女性も発言を止めないで」など、「女性差別」についてさえ、まるで他人事の「逆風」報道でお茶を濁しているのはなぜか。

ひとつにはいうまでもなく、新聞TVなど大手メディアが東京オリンピック協賛企業であり、そのビジネスチャンスを当てにしているからである。

もうひとつは、沈静化にはほど遠い新型コロナの感染拡大、欧米に比べて遅れるワクチン接種など、先行きへの不安から東京オリンピック「不要論」に傾く国民感情のガス抜きが考えられる。

あるいは、森喜朗会長の進退まで問う批判報道から菅内閣の「政局化」を狙ったという見方もできるが、およそは東京オリンピック開催に向けた「忖度報道」ではないかと思える。

いずれにしろ、森喜朗会長の「女性差別発言」批判報道はメディアにとって名目にとどまる。

「戦争責任」についてさえ、「文学方面」の「言葉のアヤ」であり、東京オリンピック開催の国益を前にしては、「国民の生命や安全」がどれほど脅かされようと「支障」にならないのなら、「女性差別発言」などは、枝葉末節の片々たる字句の問題に過ぎないはずだ。

They Say Japanese Women from the 80’s Know This Song TikTok Compilation (Stay With Me-Miki Matsubara


竹内マリアの「プラスティックラブ」をはじめとする80年代のシティポップスが海外で人気を呼び、なかでも松原みきの「真夜中のドア stay with me」は世界47か国でヒットチャートベスト10入りという「大ヒット」だそうです。TikTok にはリバイバルヒットしたこの曲を娘から聴かされ、思い出していっしょに歌い出す50代~のママたちの姿がたくさん上げられているようです。

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