ものすごいデブで不細工な顔の読み書きもできない貧しい黒人の少女が、実の父親にレイプされたあげくダウン症の子どもを産み、嫉妬にした母親に虐待されながら二度目の妊娠をしたときにHIV感染を知らされる、という映画です。
でも、後味はわるくなかったですよ。観終わって暗い気分にはならなかった。また、黒人差別や社会的弱者の問題を告発した映画というわけでもない(たぶん)。
1980年代のNYハーレムが舞台。荒廃したスラム街やオンボロ部屋という退色した風景も出てきますが、派手派手しくきらびやかな場面も挿入されます。
憤りと諦めと悲しみを飲み下し続けて膨張した巨大なゴムボールのごとき黒人の少女プレシャス(ガボレイ・シディベ)は、妄想や空想が得意なのです。
憧れの白人数学教師との結婚生活を想像したり、有名ファッションモデルとなって盛大なフラッシュを浴びたり、色の薄いハンサムなボーイフレンドに王女のようにかしづかれたり。
もちろん、過酷な現実から避難するために他愛のない夢なのですが、プレシャスが次々にコスチュームを変えて、晴れやかに笑い歌い踊る場面は楽しいものです。
夢の中でもプレシャスは太ったまま、母メアリー(モニーク 名演!)は口汚く罵りますから、嫌な現実と無力な自分への異議申し立てと批評でもあります。
傷ついて歪み、打ちひしがれ、泣き出すプレシャスの顔が、あまり痛々しくは見えない、思えない。プレシャスが身体の内面にもうひとつの世界を持っているからです。
プレシャスの空想妄想はたんなる逃避というのではなく、別な居場所であり、そこで自我と対話する場所としてある。プレシャスには友だちが一人もいないのです。
やがて、専守防衛デブの意外な内面の強さに気づいた周囲の他人から、プレシャスを優しく導き、助力を惜しまない人たちが出てくる。希望は彼らからもたらされます。
二度目の妊娠によって高校を退学させられた後に通うことになった、オルタナティブ・スクールの先生や不良や移民などが多いクラスメート、行政のケースワーカーなどです。
やがてプレシャスは、スクールで読み書きを習い、大学へ進学することを志し、祖母に預けていた子ども(モンゴロイドのような顔なので、「モンゴ」と呼んでいます!)を引き取って暮らすことを決意します。
プレシャスが、少しずつ学び、少しずつ心を開き、少しずつ成長して、ほんの少し締まった身体になるまでの映画です。
プレシャスはその空想妄想のなかでも、超肥満でした。愚かな虐待母親もプレシャスほどではありませんが、肥満体です。
スクールの先生やケースワーカー(なんと、歌手のマライア・キャリー)、プレシャスにクリスマスプレゼントをくれた看護士(これもミュージシャンのレニー・クラビッツ)は痩せていました。
人並みの暮らしをする知性や教養がある人は、太っていない。アメリカにおいて、デブとは貧民階級を表現することなのだということがよくわかります。
母親と訣別し、ダウン症の子どもを引き取り、出産した乳児を抱いて、HIV感染の不安と恐怖はありますが、希望に向かって歩み出すプレシャス。
HIV感染はしても、エイズ発症を抑える薬も出ていますから、高等教育を受けることができれば、ハーレムを抜け出し人並みの生活ができるようになるかもしれません。
しかし、たとえそうなっても、プレシャスはスクールの先生(ポーラ・ハットン)のように、華奢なまでに痩せたりはしないはず。
ことさらダイエットなどはせず、貧民階級の表現として肥満を見せつけるのではないか、というのが、俺のいささか強引な読み方です。
それほど、スクールの先生をはじめとする、プレシャスに希望を与える人々が類型的に描かれ、いささか興ざめするのです。
スクールの先生がゲイ(女性同性愛者)であることが判明すると、プレシャスは驚きながら、心中で呟く。「ゲイは私を罵らないし、勉強の邪魔をしない」と。
プレシャスお得意の妄想空想には発展しません。ゲイへの表面的な理解を示すが、内面化はしない。読み書きを学ぶことによって、プレシャスの内面の奔放さは少し失われている。
せっかく、「勉強なんかする必要はない」「偉そうに人を見下すな」とプレシャスを罵る無知無学な母と向学心を持つプレシャスの強烈な格差を描きながら、マイノリティの平板な「生活と意見」に落着してしまう。
プレシャスの人間的な成長を描くというより、学習的な成長を描くに終わり、プレシャスの強い自我と奔放な個性は弱まったように思えます。識字教育と大学進学をめざすまでの学習的な成長が、延長線上に描かれている。
とすれば、プレシャスの妄想空想場面の挿入も、自我の呼び声、魂の自由を示唆したものでもなく、たんに暗く悲惨な場面とのバランス効果に過ぎなかった。マイノリティの社会保障制度を維持するためのコミュニティ教材映画といったら酷かもしれないが、そんな片づかない印象が残りました。
というわけで、俺はこの映画を、アメリカにおける黒人デブについて知った、学んだ映画として記憶することにしました。
この映画がデビュー作という新人女優ガボレイ・シディは将来が楽しみです。役柄は限られるだろうが、プレシャス(貴重)な俳優に育ってほしいもの。
それと、ケースワーカーを演じた歌手のマライア・キャリーには、びっくり感心しました。びっくりとは、すっぴんおばさん顔で出てきたことです。感心は、とてもリアルで巧みな演技だったことです。
マライア・キャリーもいっとき、かなりのデブになって歌手生命を危ぶまれましたから、貧困階級デブの気持ちがわかるのかもしれない。虐待母親を問いただす場面の揺れ動く複雑な表情には、胸打たれました。
さて、女性には受け入れやすい映画だと思います。デブ映画ですが、女性映画でもあります。ほとんど男は登場しません。プレシャスの父親は、レイプする裸の胸と背中のみで示されます。
そういう欠落をみても、いわゆる社会派映画ではないですね。そんな映画をつくるつもりはなかったのでしょうが、いわゆる社会派映画を乗り越える映画でもありません。が、佳品です。
(敬称略)