コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

田端の不幸なドバト

2008-01-29 23:45:09 | ノンジャンル
田端の駅を降りると、山手線と京浜東北線を越える陸橋がある。機関区がある田端駅だけに、何本もの引き込み線路があるおかげで、人車を通すこの跨線橋は幅広く、その舗道はタイル張りでアンティークなヨーロッパ風の街灯も立ち、ちょっとした小公園になっている。

この田端大橋を渡れば、東田端、田端新町、尾久から荒川に至る、かつては鋳物の川口から京浜工業地帯へ中継する機械商や零細の部品工場が蝟集した地域だったが、いまはミニ開発された住宅や低価格マンションが町工場に代わって密集している。戦時中の田端一帯は、下町の軍需工場群として執拗にB29の爆撃に晒されたため、戦前の古い建物はごく少ないが、まだ小店ばかりの商店街がそこここに残っている。また、動坂から本郷につながる田端には、明治以降、多くの芸術家が居を構えていた。

小杉放庵、正岡子規、室生犀星、芥川龍之介、平塚らいてう、サトウ・ハチロー、瀧井孝作、堀辰雄、萩原朔太郎、土屋文明、川口松太郎、浜田庄司、小林秀雄、中野重治などである。田端大橋から周辺に林立するマンションを意識して視界から消せば、荒川方面をいまでも見渡せる気がするほど、田端は高台にあり、丘であることがわかる。

田端大橋の舗道には、人造大理石のベンチがあり、そこに座って、前記の「田端文士村」の掲示板で見かけた未知の名前、小杉放庵とはどんな人かと思い巡らせたりして、遅い昼食のサンドイッチを摂っていた。車道とは高いフェンスで仕切られ、騒音や排気ガスは気にならない。このフェンスのおかげで冷たい冬の風も多少はしのげるし、晴天の午後だったから、それほど物好きというほどではなかったはずだが、ポットに熱いコーヒーこそ入れてきても、冷えたパンとレタスやハムは歯に沁みた。安売りのパスコ「超醇」だったせいか、パンの耳が固くて噛みにくい。

そんなとき、頭に腫瘍のようなコブがある鳩がこちらに向かってくるのに気がついた。その後ろから、片脚を失った鳩が、身体を傾け傾けやってくる。人間なら、踝までしかない脚を引きずっている。

食べあぐねて残していたパンの耳をふと千切って投げてみた。大変なことになった。それまで気にも止めなかったせいで見かけなかった鳩の群が、何10羽もが、血相を変えて俺に向かってきたのである。思わず、腰を浮かせたくらいの勢いだ。あわてて、パン耳を忙しく千切っては投げるのだがとても足りず、俺の足下に群がり、靴に乗ってくるは、靴下の部分を突くは、ヒチコックの『鳥』を想い出すくらい囲まれてしまった。手で払っても、足で蹴る真似をしても数歩下がるだけ。少し怖くなってきたので、千切ったパン耳を溜めては、遠くに投げるのだが、それも束の間、次を溜めている内に戻ってきて、赤く血走った眼で俺を睨むのだ。もうコブや片脚の鳩はどこのいるかわからない。大の男が鳩にいじめられている図が救われたのは、小学生たちの自転車一団が走り抜けたときだった。一斉に飛び立ったその機を逃さず、歩き出して、とある掲示板を目にした。こう書いてあった。

ハトにエサを与えることは、自然増以上にドバトが増えることにつながります。増加するドバトの被害により、東京都全体で毎年約3000羽以上のドバトが駆除されています。これ以上不幸なドバトを増やさないようにしましょう。
                              北区建設部道路課

「不幸なドバト」?
文士村があったことを誇りにしている田端にしては、不用意な言葉遣いじゃないか。ハトとドバトの区別、エサ、自然増、被害、駆除までの矛盾は、行政の文章だからしかたないとしても、「不幸なドバト」とはいったい何だ。眼を血走らせるほど飢えている鳩は不幸なのか。駆除されるドバトは不幸なのか。腫瘍のコブや片脚の鳩は不幸なのか。俺のパン耳で一時の飢えを満たした鳩は不幸なのか。あるいは幸福なのか。たしかに注意してみれば、人造大理石のベンチやタイル張りの舗道のあちこちに鳩の白い糞の跡を見かけた。服にかけられた人もいるだろうし、羽音と一緒に雑菌をまき散らす風に顔を顰める人もいるだろう。掃除する人の手間も増やしているだろう。施設や設備を浸食もするだろう。それを被害と呼ぶのは構わない。駆除することもしかたがない。そこまでは市民に呼びかける言葉として、賛同はできなくても理解はできる。

しかし、「不幸なドバトを増やさないようにしましょう」とは! もちろん、「不幸なドバト」という言葉遣いに至るにはそれなりの背景があったのかもしれない。「鳩が不快だ」という声とともに、「鳩に餌やって何が悪いっ」「可哀相」といった声への浅薄な反論なのかもしれない。ただ、「不幸なドバトを増やさないようにしましょう」の「不幸」の否応無さと「ドバト」は何にでも置換できることに、鳩の群に囲まれた以上の不安と不快を感じた。

鳩に餌をやるのは止めましょう。これ以上、不幸な鳩を増やさないためにも。

未完のレーニン

2008-01-21 00:56:15 | ノンジャンル
-<力>の思想を読む (白井 聡 講談社選書メチェ)

下の「最近買った本」で少し感想を書いているが、かなり間違っている。とくに<力>は権力ではない。もっと大きな「普遍的な力」だ。その「普遍的な力」は演繹的にではなく、帰納的に生まれてくるという論説に唸った。現在、再読中。最低、3回は読まないと原典の『国家と革命』『何をなすべきか?』を読むわけにはいかないだろう。非常な人の非情の思想にどこまでついていけるか。かなりな本だと思う。著者はまだ30歳、修士論文だったそうで、とすれば20代で書いたことになる。ブリリアントな文章がいくつもある。とりあえず、DVDレンタルで、『グッバイ・レーニン!』を借りてこなくては。

ただし、誰が読むべき本なのだろう。俺なら少年少女に読ませたい。この世界が唯一絶対ではなく「外部」があり、「未来」は現在の延長ではなく、そして、「言葉とものが一致する」世界があり得るということを共に学べたらと思った。

フリーダム ライターズ

2008-01-15 00:09:05 | レンタルDVD映画
http://www.fw-movie.jp/

貧困地域で人種対立に揺れる最底辺高校の最悪のクラス担任となった新人女性教師(ヒラリー・スワンク)が、生徒一人一人にノートを配り、日記を書かせることによって自分を見つめさせ、やがてクラスを再生させ、「悪ガキ」全員を大学に進学させたという教育成功実話の映画化。

いまだにこんな実話が生まれ、「奇跡」と話題になり、「感動的」な映画になるアメリカとは、何という国なのだろう。

原題のFREEDOM WRITERSとは、もちろんFREEDOM RIDERS(1961年、人種差別撤廃を求めた黒人と白人の学生たちが、暴徒に襲われながら長距離バスでワシントンDC から南部へ移動した旅)からきている。

舞台となったウィルソン高校は、かつては白人の名門高校だったが、人種マイノリティとの宥和政策により、黒人やヒスパニックなどの生徒の入学が多数を占めた結果、荒れた学校になったという人種融和策の失敗が前提にある。

この実話の映画化は、60年代の公民権運動から始まった人種融和策を擁護する狙いなのだろうが、そうした改革が実を結ばず黒人をめぐる劣悪な環境が改善されていないことは、「人民日報」が正しく指摘しているとおりだ。

http://j.peopledaily.com.cn/special/renquan/home3.html

しかし、一人一人の人種マイノリティの生徒の可能性は、裕福な家庭の白人生徒と変わらぬ可能性に満ちているという主張だろう。それはまた一からやり直しなのか、あるいは一のままに留まり続けるつもりなのか、この映画を観ても判然としない。

ただわかるのは、公民権運動が始まった60年代と同様、あるいはそれ以下の悲惨のなかで黒人は暮らしているという事実の確認だ。50年近く経てもなお、大多数の黒人少年や少女の教育機会があらかじめ奪われているとすれば、いったい改革とは何だったのかという疑問は拭えない。実際、大学入学におけるアファーマティブ・アクション(人種マイノリティ優遇策)を撤廃する大学が増えているという事実もある。

こういう映画を観て、いったい誰が何に感動するのだろう。少なくとも俺は、まったく逆な意味で、その「奇跡」に「感動」してしまった。アメリカ映画には、こうした「アメリカの良心」を商品とする、いわば「良品計画」の映画が多い。それはもちろん同時に、絶望的な現実を隠蔽し、希望に満ちた未来を捏造する政治的なプロバガンダとして機能するわけだが、誰よりもアメリカ国民自身がそれを「アメリカンドリーム」と是認し、誇りとすら思っている。その「奇跡」的な「洗脳」の成功に「感動」してしまうのだ。

最近、買った本

2008-01-12 00:47:38 | 新刊本
このところ車の運転をしないのでBOOK OFFから足が遠のき、新刊本ばかりになった。

いずれ感想を書くつもりですが。

『復讐はお好き?』(カール・ハイアセン 文春文庫)

クズ男のチャズ・ペローネと美しく聡明で正義感の持ち主のジョーイがなぜ結婚してしまったか。そこに説得力がないので、ジョーイがとても聡明には思えないのが最大の難。チャズとはチャールズを縮めたとは初耳だった。アメリカにチャズ・パルミンテリ という性格俳優がいるが、チャールズ・パルミンテリ というのか。とてもチャールズという顔ではないが。

『トーキョー・イヤーゼロ』(デビット・ピース)

1945年、敗戦直後のTOKYOを舞台にしたノワール。エルロイ調の息苦しい文体がただ息苦しいのが苦難。

『乱世を生きるー市場原理は嘘かもしれない』(橋本治 集英社新書)

10代や20代ならともかくおっさんが読むのは火中に銀杏。

『東京奇譚談集』(村上春樹 新潮文庫)

あり得ない設定とダイアローグへの違和感で遭難。奇想でも奇怪でも奇妙でも奇天烈でもない、俺にとっては珍妙な話が4篇。どこがいいのかよくわからないが、しかしテキストを丁寧に読み込んでみたい気にはさせる。

『未完のレーニンー<力>の思想を読む』(白井 聡 講談社選書メチェ)

「未完の革命ー<権力>の思想を読む」と換言できる。若手学究の修士論文だったそうで、今日の「純粋資本主義」を撃つ『国家と革命』を『何をなすべきか?』の「階級意識外部注入論」から救難する鮮やかな手つき。フロイトとレーニンを対比させて、一神教革命論を浮上させるとは。半分読了。知らないことばかりだった。

俺はポスト団塊世代なので、学生運動には乗り遅れた上、頭が良くなかったのでオルグもされなかった。そうか、「階級意識外部注入論」からすれば、当然、バカは革命家にはなれないのだな。「革命的学生諸君」と「革命的労働者諸君」は、等価だったんだな。いずれも、革命の大義からは遠いという距離において。

革命の大義のみという一神教からいえば、労働運動や革命理論や革命的な英雄などは、むしろ偶像崇拝であり呪物であり、本質的には邪魔者なのか。革命の大義とは、あくまでも現実であり、可能性や必然や理念ではないのだから。マルキシズムとは一神教だとかいう批判は逆立ちしたもので、レーニンこそが革命の大義のみという一神教の革命論を唱道したのか。

レーニンは比類なき人物である。なぜならば、ロシア革命を実現させたから。レーニンは比類なき人物である。なぜならば、ソ連は崩壊し、今日、社会主義国はほとんど消滅しているから。しかし、レーニンは比類なき人物である。そうした結果論を越えて、「レーニンは生き続けている!」。つまり革命は、ありのままの現実として胎動している。今ごろ感心しても遅いか。 

若い頃にこの本を読んでいたら、間違いなくマルクス・レーニン主義者になっていたな。しょせん、「革命的」の尻尾の一人だろうが。

『情事の終わり』(グレアム・グリーン 新潮文庫)

未読。『ヒューマン・ファクター』以来の時間盗難となるか。



オバマ民主党大統領候補に

2008-01-09 11:41:54 | ノンジャンル
まだ、ニューハンプシャー州の結果が出ていないが、人口比率13%に過ぎない黒人のなかからアメリカの大統領が誕生するかもしれない。ただ、オバマはいわゆるスラム街育ちから身を起こした黒人リーダーではない。かつてのマーチン・ルーサー・キングやマルコムXのような、黒人社会とのしがらみを持たないところが、白人やラテン系を含めた無党派層を吸収できる強みだろう。黒人やマイノリティを代表するのではなく、「私はまずアメリカ人だ」という言葉に説得力がある。

ブッシュの支持基盤が進化論を否定するような「福音派」や全米ライフル協会といった保守的な白人マジョリティだといわれているのに対し、オバマの支持層はリベラルということになるだろうか。どうもそうではなく、民主・共和党支持者以外と両党に属しながらも堅固な支持ではない潜在的な無党派層がオバマの支持基盤になるような気がする。もし、無党派層がオバマ大統領誕生の鍵を握ったら、アメリカの政治史上初の異変になるだけでなく、民主・共和党以外の政策軸ができる可能性がある。

と書いたが、どうやらニューハンプシャー州の結果は、小差でヒラリーに軍配が上がったようだ。他候補に比べ、オバマ陣営は組織力と集金力で格段に落ちるが、インターネットの影響では優位に立つのではないか。そういう点でも、異色(キャベツ発言だが)の大統領候補になってほしい。