コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

再読再見

2007-01-27 20:31:59 | レンタルDVD映画
たとえばミステリを読み出して、登場人物の造型がくっきり頭に描き出され、これからの筋立てがなんとなくわかる気がする。頭がバカにクリアになったような気がして、俺ってけっこう頭いいかもとニヤニヤする。さらに読み進めると、予想した展開がズバズバ当たりはじめ、ようやくおかしいと思いだし、本を閉じてカバーやタイトル、著者名を眺め返して、憮然。なんと、以前に読んでいたと気がつく。誰にでも多少は思い当たることだと思う。


俺はこれを映画でやってしまった。借りてきた4本のDVDのうち、3本は観ていたものだったのだ! 1本は、マドンナと結婚して話題となったガイ・リッチー監督の出世作「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズLock, Stock and Two Smoking Barrels.」。4本ともイギリスの犯罪映画だ。イギリス映画界は日本と同様にこじんまりしているので、どの映画にも同じ俳優が役を変えて出てくる。最近の日本映画でいえば、役所広司のように。似たような犯罪映画に、おなじみの俳優が出てくる既視感にさほど違和感はなかったのだ。映画館で封切り作品を観ている分にはあり得ない失敗だが、新作旧作とりまぜて観られるDVDレンタルでは、まま起こり得ることだ。

ところで、「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズLock, Stock and Two Smoking Barrels.」はなかなか魅せる。ブラッド・ピットがでたらめな英語を話すチンピラを楽しそうに演じた同じガイ・リッチー監督作品の「スナッチ」も楽しかった。それから、「レオン」や「蜘蛛女」などのキレ役に出色だったゲイリー・オールドマンが監督した自伝的映画「ニル・バイ・マウス Nil by Mouth」は傑作だった。イギリス映画はけっこう癖になるのだ。出てくる俳優は、ハリウッド映画のような整形美男美女は皆無。男は容貌魁偉、女は不細工顔が多く、スタイルも酷いが、それがかえって親しみと現実味を増して感情移入しやすい。


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ペコボコられる

2007-01-21 01:08:47 | ノンジャンル
俺が幼少の頃、不二家レストランがどれほど眩しく輝いていたか。替え上着にアスコットタイをした「パパ」と「ママ」が銀色に光るフォークとナイフを器用に操りながら、お子さまランチを前に目を丸くしている「ボク」に微笑みかける。そんな光景がまるで夢のように見えた貧乏くさい時代があったことなど、いまでは想像もつくまい。ハンバーグやパフェ、ホットケーキ、ショートケーキ・・・。嗚呼、いまではありふれたものばかりだが、めったに口にできないゴチソウだった。













遊び人で母を泣かせてばかりでめったに帰ってこなかったオヤジを憎みつつ、声をかけられればどうしても後に従ってしまうのは、パチンコ屋の2階の「ラタン」という喫茶店でチョコレートパフェを振るまってくれることがあるからだった。母を裏切るような後ろめたさや、家族を裏切っている男に阿る惨めさより、スプーン上にエロチックに混じる白黒だんだら模様と口中に拡がる甘い至福の誘惑が勝った。その一瞬、母の隈の出た眼窩を蔑んだ。

不二家のケーキが入った箱を土産に帰宅する父親など、我が家だけでなく周囲のどの家でも見かけなかったわけで、鉄工所の高山は日曜日の朝はいつも口の周りを黄色くして、卵かけご飯を食べたことが自慢そうに現れたものだ。だから、街中で不二家レストランの看板とぺこちゃん人形をみかけると、ここではないどこかを知った子ども心は否応なく掻き毟られた。ブランドが階級や階層のライフスタイル(生活様式)を象徴するものとすれば、かつて不二家はけっこうなブランドだったのだ。

不二家が子どもたちのブランドだった昭和30年代、国民間の格差はいまより小さかった。誰もが平たく貧乏だったから、子どもたちにも貧乏人意識は乏しかった。俺の育った大田区蒲田の社宅なら、6畳一間に親子4人が寝起きし、台所にはガスコンロがひとつ、共同くみ取り便所に銭湯通い、冷房は扇風機1台、暖房はガスストーブ1台といった暮らしでも、「ウチは中の下かなあ」と思っていたのである。しかし、小学校3年生のときに我が家に入ってきたTVと繁華街に出現した「瀟洒な」不二家レストランのおかげで、子どもたちの満たされぬ願望は刺激されて、欲求から欲望へ成長し、不二家レストランは繁盛した。俺も、「ウチは下の上の方かなあ」と渋々修正したのである。

ただし、俺が最初に憧れたのは、ショートケーキやチョコレートの流れたアイスクリームなどではなく、テーブルを囲む家族の笑顔だった。たまの散財を許す余裕のあるライフスタイルだったのだ。口中に心地よいクリームの滑らかさや甘さは、その場をともにする家族の笑顔があって、はじめて甘美な記憶になる。不二家レストランは今日のファミリーレストランとは異なる。そこでテーブルを囲む家族はニューファミリーではなかった。慎ましく暮らし、ささやかな散財に財布を開く、労働者一家だった。不二家の経営の低迷は、そうした変遷した家族のありようとズレが拡がっていった結果のように思える。
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向きあう

2007-01-19 23:47:31 | ノンジャンル
向きあう、という慣用が気に入らぬ。こういう胡散臭い口語をニュース原稿などでみかけると、舌打ちしたくなる。最初は、教育関係者用語ではなかったかと思う。教員向けの指導書や教育学者の論文に頻発していた記憶がある。業界用語にとどまるなら、なかなか便利な言葉だろうから、別に文句はない。少なくとも、教育関係者には子供と「向きあう現実」があり、その向きあい方も幾通りもあるだろうから、言葉としては曖昧であっても、文脈から何らかの具体性を見つけることは難しくない。


ところが、最近はまるで決め台詞のようにあちこちで、一種の現実論として拡大適用されているようだ。その実、向きあわねばならぬという現実や論理、意志も曖昧なままに。まるで向き愛、である。向きあいと書きつけ、口にしたとたん、その無内容に気づいて恥ずかしくないものか。それとも向き合い=剥き合いを意識して、逆に赤裸々な関係性を避けんがため、あえて予防線を張っているのか。そんなうがった見方をしたくなるほど、変な言葉じゃないか。

詐話師はもっともらしい口語を巧みに駆使して、議論になるのをかわしながら、説得力ある説教話でっち上げるものだ。教育者の説諭やと宗教者の説法にも通じるスキルだろう。いずれも、現実や具体を超えたところに着地させる目的をもつ。しかし、ニュースや批評、ルポなど、現実と事実にそれこそ「向きあう」ことが前提となる営為において、「向きあうのが大切」と説教されて終わられてはたまらない。向きあったら、こうでした、というのが当たり前の展開だろう。

誰に、何に、どのように向きあうのか、あるいはどうして向きあうことを選んだのか、それらが一向に明らかにされないまま、無前提に向き合いを是とする。現在の一般的な慣用はそういうものだと思う。誰でもすぐ気づくのは、なんでも向きあえばいいわけじゃない、ということだ。事柄によるだけでなく、対手への配慮がまったく欠けている点がどうしようもない。なるほど、あなたは向きあいたくとも、対手が嫌がったらどうするのか。腕尽くで半身や後ろ姿を向き変えさせるのか。ケンカになるよ。それも向き合いのひとつだというなら、いったい何様のつもりだ、といわれるだろう。

たぶん、向きあいという言葉がもっとも説得力をもって語られるとすれば、こういう場面だ。「子どもじみた、青臭いことをいうな、人間はしょせん、金だよ」。「最高ですかああー」路線だ。あるいは金の代わりに、誰でも持つ欲求や傾向を当てはめても、一丁上がり。最近なら、北朝鮮の核にどう向きあうか、などの脅迫もあるだろう。そう、向きあう、とは一見、謙虚な姿勢にみえて、実は脅迫的な言葉なのだ。そんな香具師の口上を人品骨柄卑しからざる人々が使うべきじゃない。朝日新聞の「言葉のチカラ」に次いで、耳が腐りそうな言葉になりつつある、俺のなかでは。

俺は俺と向きあっているだけでていっぱいだし、誰かや何かと向きあうなんて、他人からどうのこうの口出しされる筋合いはないし、そんなに向きあいたいなら、まずお前が向きあえ。


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隠された記憶

2007-01-16 02:05:22 | レンタルDVD映画
ダニエル・オートィユが夫、ジュリエット・ビノシェが妻。2人の家の食堂や居間の壁は本棚だけで占められ、まるで図書館にダイニングテーブルとソファを持ち込んだように見える。夫はTVで書籍の紹介番組のキャスターをつとめ、妻は出版社の編集者。一人息子は美少年。友人夫婦たちもみなシックないでたちのインテリばかり。そんな裕福で幸福な家庭に、差出人不明の一本のビデオカセットが送られてくる・・・。

http://www.kioku-jp.com/


かつてほんのわずかな日にちだが、パリに滞在したことがある。建物自体が巨大な赤いリボンで包まれたカルチェの隣の小さなホテルに泊まった。サンジェルマン・デプレ。絵はがき通りのカフェと街並み。酒屋の店頭で生ガキを食った。栗も買った。パリジャンやパリジェンヌ、観光客たちに混じって散策した。みすぼらしい身なりの人やパンクっぽい格好の若者を見かけなかったのは、パトロールする警備員のおかげかもしれないと思った。そのうち、深夜と早朝にしか見かけない人々がいるのに気がついた。レストランの洗い場や道路工事の穴の下、あらゆる下働きの人たちだ。黄昏のような朝、人影と灯火の絶えた漆黒の道を急ぎ足で歩いている人たちは、一様に色が黒かった。

この映画は、そうした階層や階級があらかじめ持つ傷や罪について、残酷に描き出したまま、すぐさま飛びつける救いを観客に与えない。観る者に痛みを与える映画だ。「フーテンの寅」はやっぱりいいねえ、と自らの階層や階級意識に希薄な我々日本人には関係ないように思えるが、夫・ジョルジュが抱く不安や緊張にじゅうぶん感情移入できるのはなぜだろうか。こういう映画を夫婦で観にいって、友人夫婦を招いた食卓で感想を述べあったりする情景を身近では想像できないのに。

一見、無意味に思える、固定カメラの映像が延々と撮される。送られてきた謎のビデオカセットの映像なのだが、見ている自分が見られていると気づき、これまで一度も見たことがない自分の背中を見るように、その無防備さが実にスリリングだ。名作と呼ばれる愛される映画ではもちろんなく、傑作と呼ばれる万人向けの解釈も拒否し、野心作というには実験性や奇矯を欠き、観客それぞれに問題を返す問題作なのだろう。ふだんはハリウッドをバカにしているくせに、こんな鮫肌のようなフランス映画を観せられると、野球と映画はやっぱりアメリカだなと思いたくなる。「男はつらいよ」や「ミッションインポッシブル」などと同じ映画とはとても思えない。まったく娯楽性を求めない映画ファンがフランスにはある程度いるわけで、それが階層や階級というものかもしれない。困った映画だ。


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新潟暮らし

2007-01-12 21:08:40 | ノンジャンル
しばらく新潟に滞在することになった。思ったほど寒くはない。暖冬のせいというより、新潟市内はもともとあまり雪は降らないそうだ。伊勢丹もあるし、けっこう都会だ。市内の道路は幅広く、さすが越山会政治。暇ができたら佐渡に渡ってみたいな。
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