コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

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2010-12-12 23:40:00 | 詩文



次。

何が良く知られているか。
何が知られていないか。
何が推測されているか。
何が省略されているか。
何がゆがめられているか。
何が明確にされているか。
何が感じられているか。
何が恐れられているか。
何が賞賛されているか。
何が結論付けられているか。
何が拒否されているか。
何が顕わにされているか。
何が非とされているか。
何が許されているか。
何が見えているか。
そして、何が言われているか。

『すべての夢を終える夢 HOW GERMAN IS IT』(ウォルター・アビッシュ Walter Abish)より

車輪の下

2010-11-11 23:12:00 | 詩文
補助輪の自転車が踏む欅の葉

[言葉の綾]掲示板より転載(S 11/08)



俳句や短歌については、まったく知らないのに、僭越ながら感想を述べてみたいと思いました。

ケヤキの落ち葉を踏む音が聴こえます。自転車の車輪が踏んでいく音です。その自転車には補助輪がついています。以前は、小さな子どもを乗せていた自転車だからです。もしかすると、後ろの荷台だけでなく、前にも乗せて、母子3人、買い物へ行ったり、幼稚園に送り迎えするために使っていた自転車かもしれません。

そう、過去形です。いまはもう、子どもは成長して、一緒に自転車に乗ることはない。それぞれが別の自転車に乗っています。ですから、このお母さんの自転車は軽くなっている。家事や時間に追われて、懸命にペダルを踏み込んでいた頃からみれば、ずっと気持ちに余裕があります。だから、ケヤキの落ち葉を踏む音が聴こえるのです。

子どもと一緒に乗っていたときは、まず子どもの声を聴いていました。子どもが話しかけるのに、耳を集中させていました。「あのね」「な~に」「それでね」「うんうん」「聴いてる?」「聴いてるよ~」。その秋も、自転車のタイヤはケヤキの葉を巻いて進んでいました。

下からのカシャカシャたてる音ををもちろん聴いてはいたのですが、眼は前方に注ぎ、耳は後方にそばだて、脚は踏ん張らねばならず、全方位にとても忙しかった。そのときのケヤキの葉を踏んでいく重い音とこの軽い音は違うと、いまあらためて知ったのです。

それはそうです。以前は、母子の体重がかかった前論と後輪、補助輪と合計4輪のタイヤが、茶色いケヤキの落ち葉を重く踏みしめていたのです。いまは、補助輪にはほとんど重みがかかっていません。ときに接地していないかのようです。つまり、時を隔てて、同時に落ち葉を踏む進む音を聴いているわけです。

子どもは成長し、自分も以前のような体力は失われたように思える。車輪の下から、規則正しくカシャカシャと上がる音に、この一年の、ここ幾とせかの、時の移り変わりを感じているのです。車輪のスポークのように、規則正しく時間は銀色に回り、景色は行き過ぎていきます。

いうまでもなく、道路に敷きつめられたケヤキの絨毯と木々の紅葉は眼に入ってきます。しかし、これはすぐれて聴こえる詩です。ときどき空回りする補助輪の音も聴こえます。

真に偉大な西条八十

2010-11-09 03:31:00 | 詩文
大阪と大阪人を歌った歌詞のなかでは、これが絶品ですね。大阪の「わが心のジョージア」といえます。作詞した西条八十は、まったく大阪と関係ないのですが。

王将 作詞 西条 八十 作曲 船村 徹

吹けば飛ぶよな将棋の駒に 賭けた命を 笑わばわらえ
うまれ浪速の 八百八橋 月も知ってる 俺らの意気地

あの手この手の 試案を胸に やぶれ長屋で 今年も暮れた
愚痴も言わずに 女房の小春 つくる笑顔がいじらしい

明日は東京に 出て行くからは 何が何でも勝たねばならぬ
空に灯がつく 通天閣に おれの闘志が また燃える


島津亜矢の「王将」(http://www.videosurf.com/video/-66820957)もいいのだが、ついでに、「無法松の一生 度胸千両入り」。ドライブ感横溢しています。この歌は暴力団関係の方々の前では、けっして歌ってはいけません。親分以外には、歌ってはならぬ禁歌です。

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無法松の一生



2010-09-15 21:21:00 | 詩文

私は私の詩から
お金の匂いがしたらいい

ぱりっとした小切手ではなく、手垢のついた披くちゃ紙幣
掃除のおじさんの汗にまみれたアロハシャツのポケットから透けて見える
ごまの葉みたいな一万ウォン札一枚の紙幣の青さ
私は詩の中に大切にしまっておきたい
退勤する道のずきずきするような煤煙、脂っこい疲れ
真夜中1時、病院の火影(ほかげ)が漏れる時
連立住宅の半地下で
スタンドを点けて溜め息をつくように
昇天することも、地に消えることもできず
だからそれだけ、もっと危なげに踏ん張って立って

神様、仏様
腐りもしない高尚な名前ではなく
挨の出る本のページではなく
疲れた体から体へと生まれ変わり
痛む口から口へと深まる詩
スタンドを点けて溜め息をつくように
お寺のトイレで壁に瞑想した虚しさではなく
地下鉄の広告ポスターの文章にぴったり合う
深い孤独ではなく
人の住む下町、入り組んだ裏道ごとに
ごた混ぜの理由を抱き寄せ、こね回し、煎じた詩
評論家一人、虜にできなくても
年老いた酌婦の目頭を、温かく濡らす詩
転がり転がり、偶然あなたの足の先にぶつかれば
ちゃりん!と時々音をたてて泣くことのできる

私は私の詩が
コインのように擦り減りつつ、長持ちしたらいい

(崔泳美 チェ・ヨンミ)

禅雲寺にて

2010-09-15 01:16:00 | 詩文
花が
咲くのは骨が折れても
散るのは束の間だわ
ー様に見つめる暇も無く
愛しい人を思う間も無く
本当に束の間だわ

あなたが初めて
私の中に咲き始めたときのように
忘れるのもまたそれくらい

一瞬ならいいわ
遥かに笑うあなた
山を越え行くあなた

花が
散るのは易しくても
忘れるのは一仕事だわ
本当に、一仕事だわ

(崔泳美 チェ・ヨンミ)