コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

今夜はゾンビ映画特集

2020-02-10 23:34:00 | レンタルDVD映画
工作・黒金星(ブラックビーナス)と呼ばれた男
ワンス・アポンア・タイム・イン・ハリウッド
ジョーカー

立て続けに観た。いずれも、これが書籍なら「巻置くに能わず」と評される傑作だった。

「黒金星」は、北朝鮮の核兵器開発を探るため、実業家に偽装した韓国スパイが金正日に謁見を許されるまで潜入工作に成功するが、90年代の大統領選挙をめぐる「北風事件」なる政治スキャンダルに巻き込まれる顛末を暴いた実話である。



「ハリウッド」は、先ごろ亡くなったバート・レイノルズとその相棒のスタントマンをモデルに、1969年、黄金期のハリウッドを残照のように哀惜を込めて描きながら、8月6日の「惨劇」に至る新進女優「シャロン・テート」の残像を甦らせている。

「ジョーカー」は、もちろん、コミック原作の「バットマンシリーズ」映画のスピンオフ作品であり、特定のモデルや実際に起きた事件に基づくものではないが、アメリカの格差社会の底辺で苦痛に喘ぐ人たちをモデルにしているといえる。

この3本のうち、往年のハリウッド映画の娯楽性をもっともよく受け継いでいるのは、「黒金星」だろう。

北朝鮮潜入工作の足掛かりとなる、改革開放に踏み切ったとはいえまだ貧しい時代の北京の下町を再現した大セット、対照的な豪華ホテルときらびやかなディスコ、それらを舞台に北朝鮮当局者と「黒金星」の虚々実々の駆け引きと騙し合い、「共和国の尊厳」とされる金正日が登場する緊迫の首都平壌の場面など、映画づくりの規模と予算に圧倒される。

いつ正体がバレるか、すでにバレているのではないか、罠かそうでないか、スリルとサスペンスをたたみかけながら、いつの間にか、敵味方を越えた人間ドラマに胸奥を熱くさせられ、気がつけばハリウッドが繰り返し描いてきた男の闘いと友情の物語を堪能している。

「ハリウッド」でも落ち目のスター俳優とそのスタントマンの友情が描かれているが、それは闘いのなかで芽生え培われるものではなく、共に育ってきた兄弟のようにごく日常的に積み重ねられてきた絆のようなものだ。

「兄弟」の知見を通して、当時のハリウッドのさまざまなゴシップが語られながら、その実もっとも架空性が強い。それは観ればすぐにわかるわけだが、その大きな嘘(歴史の改変)をつくために小さな事実が丁寧に味わい深く語られていく。

TVドラマの主役すらとれず、悪役ゲストで食いつないでいる落ち目のスター俳優が、プロデューサーからマカロニウエスタンで返り咲きを狙えと口説かれる。まるでクリント・イーストウッドがモデルのようなエピソードだ。

そんな悪役ゲストのTVの西部劇ドラマで長口舌の出演場面をこなしたら、共演したジョディ・フォスターと思しき子役から、「今まで生きてきて、いちばん素晴らしいお芝居を見たわ」と激賞される。



その相棒スタントマンがモハメド・アリと戦っても俺が勝つと大口を叩くブルース・リーとケンカしてあっさり叩きのめしてしまう。

ヒュー・ヘフナーのプレイボーイハウスのパーティで楽し気に踊るシャロン・テートを、当時の大スターであるスティーブ・マックイーンが眩し気に眺めながら、「俺には無理か」と呟く。

登場人物のモノローグや天上からのナレーションを使って解説や解釈をせず、つづら織りのようにただエピソードを重ねていく。「ワンスアポンアタイムインハリウッド」と寓話めかせながら、しかし、すでにTVが台頭して映画は衰退の時代を迎えていた。

クリント・イーストウッドやスティーブ・マックイーン、ブルース・リーなどが、TVで人気を博してから、映画スターへの足掛かりをつかんでいるように、映画は主役の座から滑り落ちつつあった。この落ち目のスター俳優の不安の表情と焦りの汗とは、そのままハリウッド人種のものであった。

くわえて相棒のスタントマンが遭遇することになる、「シャロン・テート」事件の「主役」となるマンソン・ファミリーという不穏の影が徐々に忍び寄ってくる。そうした不安と不穏に淡く彩られた連作短篇小説ような佳品といえる。最後の13分のゾンビシーンまでは。

ゾンビ映画のカタルシスは、食らい尽くそうというゾンビ側と殺し尽くそうとする人間側の二通りにある。あるいは一斉蜂起の夢と殺戮の愉悦と言い換えてもよい。クエンティン・タランティーノ自身はゾンビを殺戮する愉悦側にはっきりと立ってしまった。

ほんのちょっとした偶然や介入で起きなかった事件として「歴史改変」が為されて映画が終わっていれば、まぎれもない不安と不穏の傑作であったものを。

「ジョーカー」もまたゾンビ映画である。ゾンビが一斉蜂起をするきっかけをつくった「ジョーカー」の半生記であるというだけでなく、「ジョーカー」がゾンビそのものであることを「ジョーカー」自身が血肉が泡立つように、骨が軋むように知るに至る物語といえる。

ゾンビには親はいない。したがって兄弟や姉妹、妻や恋人はいないし、いたこともない。すべての愛情を剥奪されて、人間を人間として足らしめている何ものをも持たない。ただ空きっ腹と間断なき苦痛を抱えて、ただそこにいる。

そのような人間がいるだろうか。もしいたとすれば、はたしてそれを人間と呼べるだろうか。しかしながら、彼・彼女は自らを人間であると主張するのである。



「ジョーカー」が容赦なく描くアメリカ残酷社会を見て、まだ日本はそれほど酷くはないと思う。ただ、最近、「ジョーカー」に似た人物の手記を読んだ。

新幹線無差別殺人犯「小島一朗」独占手記 私が法廷でも明かさなかった動機
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/01080800/?all=1

「お前をどかすのが警察の仕事だ」

「私には生存権がある。私は生きた人間であって、しかも日本国民です。基本的人権に守られています」

「権利、権利ばかり主張して義務を果たしているか?」

「生存権、その基本的人権は生まれながらにして持っている権利であって、何かの義務を果たさなければ与えられない権利ではない。貴方は警察官でしょう。公務員には憲法を守る義務がある。憲法は基本的人権を保障している。貴方は警察官としての立場があるのだから、私の基本的人権を守る義務があるんだ」


小島被告の主張は完璧なまでに正しい。「制服を脱いだら」と凄んだように、この警官は憲法を服務規定程に思っているのに比べて、小島被告の憲法はまるで肌身に触れているかのように切実だ。

屋根のある東屋から雨の降る外へ追い出されようとしているというだけでなく、そこでは剥き出しの権力と孤絶した個人が向かい合う「正確な権力関係」が描写されている。

その後、小島被告は鉈(なた)とナイフを両手に、新幹線のぞみ車内で女性に襲いかかり、止めようとした男性を刺殺している。

その上、この惨劇の裁判や判決の際には、被害者や遺族に謝罪や反省を口にするどころか、その憤りや無念をさらに上書きするような発言を小島被告は繰り返している。

「ならば、望み通りの無期懲役ではなく、死刑にすればよかったのに」と少なからぬ人が思っただろう。私もそう思った。「人の人権を踏みにじるような奴に人権などない」といいたくもなる。

やはり、私たちにとって、小島被告はゾンビにほかならないのである。

「ワンスアポンアタイムインハリウッド」の挿入歌の”夢のカリフォルニア”です。歌っているのは、ホセ・フェリシアーノ。

California Dreamin' - Once Upon A Time In Hollywood


「工作・黒金星(ブラックビーナス)と呼ばれた男」はゾンビ映画ではなさそうだ? そう思われるかもしれないが、この作品にもゾンビは登場している。これまでのように隠喩ではなく直喩としてゾンビを描いたような恐ろしい場面がある。

黒金星がCM撮影のロケハンの名目で外国人立ち入り禁止で知られる核開発基地の「寧辺(ニョンビョン)」を探訪する場面。餓死病死したまま積み上げられた死体の山が町のあちらこちらに。その死体を運んでくる、死体と変わらぬ襤褸(ぼろ)をまとい、目鼻も定かではないほど汚れきった人々の群れこそ、ゾンビそのものだった。

(止め)



なんだかよくわからないイーストウッド論

2019-10-14 22:05:00 | レンタルDVD映画


久しぶりの映画だ。「運び屋」を観た。クリント・イーストウッドには珍しく、家族と和解する物語だった。イーストウッドの映画はほとんど観てきたはずだが、ホームドラマを撮ったことはなかったと思う。

家族を描くときにはたいてい崩壊しているか(「ミリオンダラー・ベイビー」のフランキーは疎遠になった娘にけっして出さない手紙を書き続ける)、あるいは身の毛もよだつものとしてだった(同作、全身麻痺になったマギーを家族は容赦なく罵り傷つける)。

幸福な家族や家庭をけっして描かないというより、そんなものは認めないという頑なささえうかがえる(「チェンジリング」では、行方不明になった息子を必死に探す母親をこれでもかという地獄巡りに落す)。

その偏屈さの裏返しのように、疑似家族ー延長家族的な繋がりは好んで描く(「ミリオン…」のマギーに娘を投影しているのはもちろんだが、「グラントリノ」ではモン族の少年を孫代わりにして愛車を譲ろうとする)。

魅力的で人当たりはよいが、家族や家庭生活を顧みず、好き勝手に生きてきた、頑固というより偏屈な男ー老人をこそ、クリント・イーストウッドは描き続けてきた。「運び屋」もその例に漏れないが、居場所を失い捨てた家族と和解するのが重要なモチーフ、いやテーマになっているといえる。

だがしかし、だからこそ、と言い換えてもよいが、「運び屋」は失敗している。柄にもないことをしてみせたからなのか。あるいは老残の男を描くために家族のエピソードを膨らましただけに過ぎないのか、それとも自らの人生と映画作りを重ね合わせた私小説的な作品なのか、そのどれともすべてとも思えてしまう。

いずれにしろ、もっとも重要で尺(時間)をとっている家族と和解に至る場面が生彩を欠いている。比べて、メキシコの麻薬組織のゴロツキどもや自分を追いかけるDEAの捜査官との、ほんのちょっとの交感の場面には説得力があり、詩情さえ湛えているのだ。

妻や娘の涙目や慈眼や許しの笑顔より、入れ墨だらけのスキンヘッドの猜疑心に尖った眼が自分の冗談で綻んだときや、運び屋のくせに麻薬ビジネスなどやめろと忠告して若い「上司」を困惑させるときのカメラアイには、男愛が零れ落ちている。

だから、いかによぼよぼに見えようと、ダーティハリーの頃と変わらぬイーストウッドがそこにいるという意味では、期待を裏切らぬ映画だろう。女性の扱いや描き方が時代遅れという批判はもちろん妥当するが、やっぱり女抜きのプロレスみたいな映画にはないものねだりといえよう。

たとえば、アール・ストーンの和解の努力たるや札びら切るだけだもの、家族との愁嘆場に泣けるわけがない。麻薬ボス(アンディ・ガルシアだと最初わからなかった)に女を二人も宛がわれて素直に喜んだときに、離婚したとはいえ妻の面影などチラともよぎらなかったはずだ。

死んだばあちゃんが言っていたものだ。「猫とガキは外で何をしているかわかったもんじゃない」。このガキというのはもちろん、私と弟である。イーストウッドは永遠のガキの夢を描いている。イーストウッドに老境なしをあらためて確認した。

いったい、褒めているのか貶しているのか、観たほうがいいのか観なくていいのか、どっちなんだって? そりゃ、あんたがガキであるかどうかによるな。ガキはね、貶されていたり観なくていいといわれると、よけいに観たがるへそ曲がりだがね。

いい年した大人なら、誰かや何かのお墨付きの名画や傑作を観ていれば無難というもの。でも、それじゃ、ほとんどの映画を見逃すことになるから、映画なんて観なくていいというわけだ。

ガキが大人を見抜くように、映画もまた人を選ぶのだ。選ばれても選ばれなくても痛くも痒くもないが、選んだつもりにはならないという効用くらいは映画にもある。

(止め)


私は猫派ですが

2019-03-19 21:58:00 | レンタルDVD映画
ーなあ、ちょっと訊いてもいいかい
 あんたは犬派、それとも猫派?

棘のように小さな傷跡を胸奥に残す映画でした。

JCOMのオンデマンドTVの洋画新作3日間540円です。

予備知識はありませんでしたが、俳優陣に惹かれました。エイドリアン・ブロディ(Adrien Brody)、アントニオ・バンデラス(Antonio Banderas)、ジョン・マルコヴィッチ(John Malkovich)。名優ぞろいです。

”Bullet_Head”というタイトル(弾頭?)から、犯罪アクション物と見当をつけたのです。「荒廃した倉庫に逃げ込んだ窃盗団が・・・」と流し読みしたあらすじから、窃盗団と警察の熾烈な攻防戦かな、ならば、たぶん、悪役のボスはもちろんジョン・マルコヴィッチ、犯罪を憎む刑事はアントニオ・バンデラスか、いや、冷酷なエイドリアン・ブロディの警察幹部から潜入を命じられたアントニオ・バンデラスが冷や汗をかきながら、裏切り裏切られ、丁々発止とギャングや警察と渡り合う・・・。そんな映画を期待しましたが、まるで違いました。

小さな店に忍び込んで3万ドルくらい入った金庫ごと盗んで逃げる途中、駆けつけた警官に撃たれて運転手は瀕死、巨大な廃倉庫に逃げ込みはしたものの、街は非常線が張られている上に、乗ってきた古いキャデラックは大破したので動くに動けない。金庫が開けられるはずの運転手は死亡したので、重い金庫を担いで出るわけにもいかない。

そんなにっちもさっちもいかなくなった、窃盗団とは大げさなただの泥棒3人組です。そのうちの中年と初老の二人がエイドリアン・ブロディとジョン・マルコヴィッチなのです。これに薬中の若造ロリー・カルキン(マコーレ・カルキンの兄弟でしょうか。顔が似ています)がおなじみの厄介者として加わります。犯罪者としてもうだつの上がらない面々です。

出るに出られぬ密室の巨大な廃倉庫のなかで、舞台劇のような3人の愛憎のドラマが繰り広げられるかというと、そんなこともなく、焦燥と不安に駆られながらも、「あんたは犬派、それとも猫派?」と訊いたりします。寄せ集めの仲間なのです。

アントニオ・バンデラスは? もちろん、重要な役回りですが、意外な役で登場します。少年のようにきれいな笑顔の持ち主なのに、ナチス将校のように無表情なので、一瞬、誰だかわかりませんでした。主な登場人物はこの4人ですが、じつは彼ら以外に、泥棒たち3人を恐怖につき落とす怪物が出てきます。

怪物とは何か、廃倉庫の秘密は? あとは観てのお楽しみですが、じつは怪物こそが主役で、エイドリアン・ブロディとジョン・マルコヴィッチ、アントニオ・バンデラスはわき役ともいえます。



そして、たぶん、企画を知り、脚本を読んだ名優3人は、負け犬泥棒たちの恐怖の一昼夜の密室劇に、二つの理由から進んで出演を望んだのだと推測します。

化物のような悪人や不死身のヒーローやどこまでも心優しい青年に扮するより、怒鳴りもせず、演説もぶたず、長い独白もしない、ありふれた不幸を抱える、世界の片隅の人物を演ずることに、まず演技者として格別の魅力を感じたはずです。

もうひとつの理由は、たぶん、彼ら自身の私生活にあると思います。これも映画をみればすぐにわかります。

追い詰められた犯罪者たちは、欲得が剥き出しになり、たいてい仲間割れを起こして、自滅していくのが常です。しかし、この映画では怪物の登場によって、「あんたは犬派、それとも猫派?」と尋ねるほど知り合ったばかりの泥棒たちが互いを助け合います。それだけに留まらず、怪物のおかげで自分のやりきれない人生と和解するきっかけをつかむのです。

密室劇とはいえ、怪物を見せられないはずなので舞台化はできません。舞台上の人物が怪物について語るとか、音響を駆使するとかで補うこともできそうにありません。それをしたら、台無しです。隠れた主役とは比喩であって、ほんとうに主役が不可視なら、やはり主役にはなりません。これは映画にしかできない映画なのです。

傑作や名作ではないし、演技合戦といえるほどセリフが飛び交ったりもしません。なにせ、「なあ、ちょっと訊いてもいいかい。あんたは犬派、それとも猫派?」と凡庸な会話をはじめるくらいです。そんなところから、殴り合いや殺し合い、あるいは愁嘆場や懺悔に発展するわけがありません。

そのうえ、さらに、これは男の映画です。女はいらない、男だけの世界を描いています。じっさい、ちらとしか女優は出てきません。そして、あなたが男なら、観終わった後、胸の奥のかすかな傷跡が疼くのに気づくでしょう。この映画が傷つけたのではありません。元からそこにあったのです。あなたが女なら、そんな男はうっちゃって、どこかへ出かけて、美味しいものでも食べてください。

最後のモリーへの謝辞に泣けます。監督のポール・ソレットだけでなく、エイドリアン・ブロディ、アントニオ・バンデラス、ジョン・マルコヴィッチ、ロリー・カルキンも、たぶん涙ぐんだでしょう。

(敬称略)

今夜は、悪漢フランク

2018-07-15 19:26:00 | レンタルDVD映画
今夜は、バッド・フランク(Bad Frank)です。


フランクを演じたケビン・インタードナート(日本語表記は不明です)という名前を憶えておきましょう。

まず、お断りしておきますが、これからいわゆる「ネタバレ」、筋書きを明らかにしてしまいます。なぜ、そうするかといえば、よくある、ありきたりの筋書きだからです。

断酒会で出会った看護婦の妻と平穏に暮らしていた元犯罪者が、ふとしたことから過去の犯罪ボスと再会し、妻を誘拐されたことによって、かつての暴力衝動が駆動し、破滅に向かって突進する、というアメリカ犯罪映画に定番の筋書きです。


ミッキーと手下のニコ。ニコ役のRuss Russoは脚本にも参加していて、ふだんは長髪でヒゲなしのハンサムでした。

もちろん、嫌々、元の暗闇の世界に戻り、妻と自身を守るために、心ならずも大暴れするという正当防衛的な筋書きではありません。更生の道を歩んでいたフランクがダークサイドに引き戻される苦しみや痛みは描かれますが、後にそれは脱皮のようなものだとわかります。

かといって、公序良俗側の貧寒で空虚な日常に比べ、血と汗と涙と叫びと怒号に充たされた暗黒の地獄世界こそ、「バッド・フランク」の居場所だと全能全開に身を震わせるという、ひとひねりした筋書きでもありません。

ここまで、ストーリーを重視した脚本先行のこの作品に敬意を表して、あえて混乱するように書いていますが、いうまでもなく、脚本とは筋書きを越えてキャラクターに命を吹き込むものです。

見どころのある映画はたいてい、ありきたりの筋書きにありきたりの人物を配しながら、ありきたりではないストーリー(物語)を紡ぐものです。したがって、本稿では時系列を変えることで筋書きを追わず、登場人物を語ることで物語のあらすじに触れたいと思います。

エンディングには、フランクの母親の声が映像にかぶります。
「留守番電話でよかったわ。わるいけど、あなたとはまだ話す気になれないの」。

その映像とは、フランクが車のハンドルを握り、後部座席には誘拐されて猿轡に両手両足を縛られたままの妻が転がされ、泣き叫んでいる様子です。

さて、ハッピーエンドでしょうか、それともバッドエンドなのでしょうか?

この映画に登場する女たちはどれもろくでもない女ばかりで、ミソジニー(女性嫌悪))を隠していないところがユニークです。このフランクの看護婦の妻ジーナとの夫婦愛だけでなく、会って話すどころか声すら聴きたくないとフランクの母には母性愛も否定されます。

一方、フランクをはじめとする男たちは極道者ばかりですが、一般とは違う自分なりの倫理感を持っています。フランクと対立して、彼の妻を誘拐して人質にする、かつてのフランクの犯罪ボスであるミッキーは、

「俺のところにあるものは俺のものだ。だからあの女は俺のものだ」
とフランクに言い放ちます。

「俺のところになければ俺のものではないがな」
とつけ加えるところが倫理的です。

妻を誘拐されたフランクは、ミッキーの娘クリスタルを誘拐し返して人質交換の場にいます。フランクはミッキーに怒号します。「俺には何もない! おまえにも何もなくしてやる!」次の瞬間、フランクはクリスタルの頸椎を折ります。

復讐のために躊躇なく父親ミッキーの眼前で娘を殺すのです。この逆の設定ならいくつもの映画で観てきましたが、ムチャクチャな男です。

じつは拉致したクリスタルを強姦ではなく合意でフランクはセックスしています。フランクとのセックスにじゅうぶんに満足したクリスタルが、終わった後にキスをねだると、「何様のつもりだ」と突き放す場面がありました。

廃屋の片隅で両手を縛られたまま、後ろから犯されるというシチュエーションに興奮したくせに、最後は向かい合ってキスを交わしたいという「人権的」なクリスタルに苛立ったわけです。

まだ、平穏無事だったときの妻とのセックスの場面でも、女性上位を堪能して寝入った妻の傍らで、フランクは虚ろに天井を見上げていました。

たとえば、洗い立ての真っ白いシーツの上で、生成りの木綿に風を通した娘と、陽光の柔らかな午後にひととき陸み合う、という愛の交歓はフランクにはあり得ないのです。

クリスタルとのいわゆる「立ちバック」、妻ジーナの「女性上位」という体位から、フランクにとって女とのセックスとは、強姦や行きずり、あるいは商売女を買うような、刹那的なものに過ぎないことがわかります。

ここまで書いてきて、「おいおいそんなムチャクチャでヒドイ映画を誰が観るのだ」という声が聴こえてきそうです。少なくとも、女性の観客など眼中にないとしか思えません。

また、妻と交換する前に、大事な人質の娘を殺してしまうのですから、自らを含め誰も守る気などないといえます。憎いミッキーを前にして、激高のあげく暴力衝動に駆られてしまったのでしょうか。

たしかに妻を攫われた当初は激高していたのですが、禁じていた酒をいったん口にしてからは、薬が手放せばないほど悩まされていた偏頭痛からも解放されて、落ち着きを取り戻し、ミッキーの娘を誘拐するという奸智を思いつくほど冷静沈着になっていました。

したがって、この場面も、ミッキーの先の言葉へ応えた、フランクなりの論理と倫理だったと解すべきでしょう。一般社会の倫理や道徳とは別の倫理や道徳をこの映画は描こうとしているようです。

そういう救いのない映画です。観客が感情移入した登場人物が映画のなかの現実において報われない、救われないというより、救われなくて当然だと観客に思わせる映画なのです。

唯一、まともに思えたフランクの元警察官の父親チャーリーでさえ、その謹厳実直なみかけどおりではありませんでした。

かつてフランクの犯した罪の弁護費用を捻出するために、家を売り払い警察官を退職した父は、毎日、バーの片隅で野球中継を気が抜けたように観戦するのを日課にしています。

フランクが会いに立ち寄っても、かつての行いを謝罪しても、いまはジーナという妻を得てまじめにやっていると報告しても、冷淡なほど素気ない態度です。TV画面を見るばかりでフランクに視線さえ向けません。

ミッキーに妻を誘拐され必死な思いで助けを求めても、「もう俺には何の力もない」と話を聞こうともせず、ミッキーの名を出せば、「まだ、あんなクズとつきあっていたのか!」と怒鳴って追い返そうとします。たぶん、フランクの事件や裁判から、息子の本性を思い知らされて失望したのでしょう。

そのフランクの本性を誰よりもよく知っていたのは、かつて一緒に悪事に手を染めていたミッキーです。フランクが厄介ごとに巻き込まれる端緒をつくった友人のトラビスに、「フランクは怖い奴だ」とミッキーは怖気を隠さず告げます。「あいつは殺さない。一晩中かけて両手両足を切り、両眼を抉り出すやつだ」

手下に使っていた犯罪ボスのミッキーですら、フランクと面と向かえばどこか気圧されるというのに、いかに息子とはいえ、フランクの苛立ちや怒りの充満を眼前にしても、無視を続け、怒鳴りつける父親チャーリーとは、考えてみればただ者であるはずがありません。

冒頭、建設現場の仕事を終えて帰って来たフランクは、庭の柵づくりのためにハンマーを振るっています。トントンと釘を打ち込むところを乱暴に叩くので、ハンマーがそれて手を切ってしまいます。痛みより苛立ちに顔を歪めるフランク。「本性」は最初から出ていたし、「本性」は変わることはないのです(どんな英語を「本性」と訳したのでしょうか?)。

どうです。そんな映画です。観たくなりましたか。

ただし、怒りと苛立ちの塊のようなフランクですが、父親にはなにがしか敬意を抱いている様子があり、面倒ごとばかりに巻き込むヘタレな悪友のトラビスとの間にも、わずかに交情らしきものが見られます。

ミッキーに魂消るほど脅かされたのに、勇気や根性などかけらも持たないはずのチャラいトラビスが意外な行動をとります。トラビスなりの贖罪なのでしょうか。そんなところが、わずかにな救いといえば救いでしょうか。

JCOMのオンデマンドTVでみつけました。2017年公開、わずか11日間で撮影されたという低予算映画です。セットはなく衣装はありもの、予算のほとんどは俳優のギャラが占め、そのキャストも犯罪ボスのミッキーの手下はニコひとりだけという小品です。監督はこれがデビュー作というトニー・ジェルミナリオ(Tony Germinario)という人です。

日本語のレビューはまだなく、英語のレビューをいくつか拾い読みしてみると、以下のような感想が平均的なところのようで、私もほとんど同意します。

Though there are some solid performances and below-the-line work on display in Bad Frank, there is little else to recommend it by. However, its occasional high points do give the impression that several of the folks involved have bright futures, particularly lead actor Kevin Interdonato.

バッド・フランクは、この映画製作に関わった人々にとってひとつの実績となり、優れた演技パフォーマンスもありますが、それ以外の点ではお勧めできません。しかし、時折高得点が与えられるのは、関わっている人々の明るい未来が開けている印象を抱くからでしょう。特に主演のKevin Interdonatoです。(Google翻訳の意訳)

「それ以外の点ではお勧めできません」が強烈です。「それ」が指示しているのは、performances の演技と、below-the-line work の映像や脚本や演出などスタッフワークですから、映画の出来自体は褒めているのです(低予算で短期間に撮られた割には、という皮肉もあるかもしれません)。「それ以外の点」には、たぶん、前述のような「救いがない」キャラクターや物語が含まれるのだと思います。

まず、ミッキー役のトム・サイズモアの名前に惹かれて、この映画を観る気になりました。有名俳優は彼だけ。ほかのキャストや監督などはまったく未知でしたが、たしかに、フランクを演じたケビン・インタードナートが圧倒的でした。

醜男(ぶおとこ)に近い容貌ですが、いまにも破裂しそうな暴力衝動をオーラのようにまとっていました。直接的な残虐描写はほとんどないのに、暴力そのものを感じさせるのは演技力の賜物というだけでなく、彼自身の資質なのでしょう。

ケビン・インタードナートはその見かけどおり、ブルーカラー出身でイラク戦争にも参加した海軍の元兵士で、帰国後、コミュニティカレッジに入ったようです。


バーで話すフランクとチャーリー。数少ないドラマ場面です。

ほかには、フランクの父チャーリーを演じたレイ・マンチーニ(Ray 'Boom-Boom' Mancini)の詩情ある表情が印象的でした。ハリウッドの老俳優の一人と思っていたら、なんとメーキャップによる老け役で、演技素人の元プロボクサーだそうです。

トム・サイズモアは戦争映画を含む暴力映画、犯罪映画の暴力的な脇役としてとても有能な俳優です。教師や気弱な中年男など平凡な男を演じることは想像できません。ひさしぶりに元気な姿をみましたが、若いころより痩せていて、何かの病気ではなく節制のおかげならけっこうなのだがと案じています。

(止め)

国際市場で会いましょう

2018-06-01 22:52:00 | レンタルDVD映画
カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した是枝監督の「政治的発言」については、「今日の明言」 で紹介した。

安倍の治世を痛烈に批判した、是枝監督の「政治的明言」は見事であったという趣旨だが、その余波なのか、フランスのフィガロ紙が「栄誉あるパルムドール受賞」(引用に非ず)を祝福しなかった安倍批判に乗り出した。

カンヌ受賞の是枝裕和監督を祝福しない安倍首相を、フランスの保守系有力紙が痛烈に批判
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8C%E5%8F%97%E8%B3%9E%E3%81%AE%E6%98%AF%E6%9E%9D%E8%A3%95%E5%92%8C%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%82%92%E7%A5%9D%E7%A6%8F%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E5%AE%89%E5%80%8D%E9%A6%96%E7%9B%B8%E3%82%92%E3%80%81%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E4%BF%9D%E5%AE%88%E7%B3%BB%E6%9C%89%E5%8A%9B%E7%B4%99%E3%81%8C%E7%97%9B%E7%83%88%E3%81%AB%E6%89%B9%E5%88%A4/ar-AAy3v97?ocid=ientp#page=2

先の「今日の明言」を繰り返せば、「政治的発言」の必要な条件は、その内容のほかには、メディア選びとタイミングが重要である。これは一般報道にもほとんど適用できるものだが、韓国の中央日報に比べれば、日本での認知度や影響力ではるかに劣るフィガロ紙が何を言おうと、この筆者が願うような「拡散」には至らないと思う。

それはさておき、まだ観ていないカンヌ受賞作品「万引き家族」を批判したい。なぜ、そんな気を起こしたのかといえば、韓国映画「国際市場で会いましょう」を観たからだ。すばらしい作品だった。

朝鮮戦争時に幼くして父と妹と生き別れになった長男が、やがて母や弟妹の生活と学資を稼ぐために、当時の貧しい韓国では驚くほどの高給であるが、危険で辛いドイツの炭坑やベトナム戦争中のハノイに出稼ぎを重ねる青年時代に目を見張らされた。

北朝鮮がロシアや中国などへ労働力を輸出しているのは知られているが、かつて韓国も同様に外貨稼ぎのために、国策として海外出稼ぎを奨励していた時代があったのだ。

そのおかげで、弟はソウル大学を出たエリートになり、妹も人並みの結婚式を挙げさせることができ、叔母から買い取った輸入品を扱う国際市場(こくさいいちば)の店で、長男はドイツで同じように死体洗いの出稼ぎをしていた看護婦だった妻と、働きづめに働いて老齢を迎える回想の映画だ。

圧巻は、朝鮮戦争時の混乱の中で離散家族となった人々の家族探しのTV番組に長男が出演する場面だ。

一TV局の人探し番組は韓国に大ブームを起こし、TV局前の広場には家族の消息を尋ねる数千もの人々が集まり、地面や看板に無数の家族を探すビラが貼られ、ちょうど911後のWTC前の光景が思い出された。

TV中継される「見つかった!」「違っていた!」という寄せられた情報の錯綜と確認に、ほとんど全国民が固唾を呑み、一喜一憂したのだ。つまり、貧しい家の欠損家族の長男とは、韓国の戦後史そのものであることが、ここで念押しされるわけだ。

国際市場の妹(叔母)の店を頼れと言い残した父、混乱の中で手が離れ置き去りにしてしまった妹に心を残してきた長男がおろおろする姿には、涙が止まらなかった。

そのようにこの映画は、一人の庶民の長男を通して、韓国の朝鮮戦争戦後史を総括してみせた。

是枝監督の「万引き家族」はどうだろうか。まだ観ていないが、たぶん、「日本の貧困」について、ひとつの批評眼をもった作品だろうと思う。

「幾多の悲苦を乗り越えて私たちはいまここにいる」と「万引きをして食うほど貧しくなった私たち」という日韓の位置の違い以上に、そこには何か大きな格差が横たわっている気がするのだ。事実だけをみても、私たちは戦後史を総括するような映画や小説、アニメ、マンガをいまだ持っていない。

「国際市場で会いましょう」に圧倒されながら、いったいどこで私たちは創造性を失ってきたのかと考えざるを得なかった。私たちの父母、祖父母もそれに変わらぬ悲苦を味わってきたはずであり、私たちの「国際市場で会いましょう」ができてもよかったのだ。

それはつまり、私たちは日本の戦後史の物語を必要としなかったということになる。創造性もまた、必要によって生まれるのだ。「万引き家族」についても、柳楽優弥君がカンヌで主演男優賞を受賞した『誰も知らない』の自己模倣ではないのかという危惧を抱くものだ。

(止め)