アジアとヨーロッパの狭間にあり、
東洋であって東洋でなく、西洋であって西洋でないという不思議な都市。
ビザンティウム、コンスタンティノープル、イスタンブールという三つの名前を持つ都市。今回の旅行で私は、ここを一番楽しみにしていたのでした。
旅行に際して、トルコの関連本をamazonで探し求めたのです。
本当は旅行記や生活体験記を読みたかったのですが
トルコに関してのそういった本はあまり数がなく、その中でも面白かったのは数冊ほど。仕方なく、歴史物を読み漁ったのでした。(が、これが面白かった!)
そして、その歴史物の舞台となるのは、なんといってもこの古都だったのです。
紀元330年から実に1123年の間、ビザンティン帝国の首都であり続けたコンスタンティノープルが、オスマン・トルコによって陥落したのは、1453年5月29日。
それを成し遂げたのは弱冠21歳の若きトルコの王、マホメッド二世。
彼は、白い緞子の大マントの下、白い服に緑の帯をしめ、頭上のターバンには緑のエメラルドが大き輝いていたといいます。
帯にさした半月刀は、眼もまばゆいばかりの黄金で作られていた、と。
そして”聖ソフィア大聖堂の前で白馬から降りた若き王は、一握りの土をとり、自らのターバンの上からそれをふりかけた。
トルサン(注・小姓)にも、いつもは高慢な主人が、アラーの神に謙遜の意を表したことがわかった。”(「コンスタンティノープルの陥落」塩野七生より)
この聖ソフィア大聖堂(アヤソフィア)というのも、数奇な運命を辿っているのです。
537年に完成されたこの建物は、キリスト教会堂として作られ、ビザンチン建築の最高傑作といわれているのだそうです。
ローマのサン・ピエトロ、ミラノのドゥーオモ、ロンドンのセント・ポールについで、世界で4番目の大きさを誇るのだとか。
ところが、マホメッド二世によってここはただちにモスクに改められ、エザーン(礼拝の呼びかけ)を促す4本のミナレット(尖塔)もその時に建てられたのだそうです。
美しいモザイクは漆喰で塗り固められ、イスラム装飾が施され、漆喰が取り除かれたのは、トルコ共和国になった1934年以降のことだといいます。
アヤソフィアという名前は、ギリシア語で「神の知恵」を意味するのだそうです。
”1453年5月のコンスタン地ノープル陥落の前夜、人々は日没後からこの教会に集まり、決して怒ることのない奇跡を求めて祈り続けた。夜が明けて、トルコ軍の先兵がこの教会に殺到し、閉ざされた扉は打ち破られた”(「イスタンブールの歴史」澁澤幸子)
”逃げ切れなかったほとんどすべての住民は捕虜となった。(中略)
何しろトルコ人は、実の親を殺した者さえ、奴隷に売って金をもうける方を選ぶ、といわれている。捕えられた人々は、身分も男女の区別もなく、いちように二列に並ばされて…(中略) 悲鳴が起るのは、姿の美しい若者や女を奪おうとするトルコ兵が、列から引き離そうとする時だけだった。”(塩野七生)
他民族の戦争というのは、こういうことを意味するのですねえ…
写真 ボスフォラス海峡から撮ったもの 左がブルーモスク、右がアヤソフィア
東洋であって東洋でなく、西洋であって西洋でないという不思議な都市。
ビザンティウム、コンスタンティノープル、イスタンブールという三つの名前を持つ都市。今回の旅行で私は、ここを一番楽しみにしていたのでした。
旅行に際して、トルコの関連本をamazonで探し求めたのです。
本当は旅行記や生活体験記を読みたかったのですが
トルコに関してのそういった本はあまり数がなく、その中でも面白かったのは数冊ほど。仕方なく、歴史物を読み漁ったのでした。(が、これが面白かった!)
そして、その歴史物の舞台となるのは、なんといってもこの古都だったのです。
紀元330年から実に1123年の間、ビザンティン帝国の首都であり続けたコンスタンティノープルが、オスマン・トルコによって陥落したのは、1453年5月29日。
それを成し遂げたのは弱冠21歳の若きトルコの王、マホメッド二世。
彼は、白い緞子の大マントの下、白い服に緑の帯をしめ、頭上のターバンには緑のエメラルドが大き輝いていたといいます。
帯にさした半月刀は、眼もまばゆいばかりの黄金で作られていた、と。
そして”聖ソフィア大聖堂の前で白馬から降りた若き王は、一握りの土をとり、自らのターバンの上からそれをふりかけた。
トルサン(注・小姓)にも、いつもは高慢な主人が、アラーの神に謙遜の意を表したことがわかった。”(「コンスタンティノープルの陥落」塩野七生より)
この聖ソフィア大聖堂(アヤソフィア)というのも、数奇な運命を辿っているのです。
537年に完成されたこの建物は、キリスト教会堂として作られ、ビザンチン建築の最高傑作といわれているのだそうです。
ローマのサン・ピエトロ、ミラノのドゥーオモ、ロンドンのセント・ポールについで、世界で4番目の大きさを誇るのだとか。
ところが、マホメッド二世によってここはただちにモスクに改められ、エザーン(礼拝の呼びかけ)を促す4本のミナレット(尖塔)もその時に建てられたのだそうです。
美しいモザイクは漆喰で塗り固められ、イスラム装飾が施され、漆喰が取り除かれたのは、トルコ共和国になった1934年以降のことだといいます。
アヤソフィアという名前は、ギリシア語で「神の知恵」を意味するのだそうです。
”1453年5月のコンスタン地ノープル陥落の前夜、人々は日没後からこの教会に集まり、決して怒ることのない奇跡を求めて祈り続けた。夜が明けて、トルコ軍の先兵がこの教会に殺到し、閉ざされた扉は打ち破られた”(「イスタンブールの歴史」澁澤幸子)
”逃げ切れなかったほとんどすべての住民は捕虜となった。(中略)
何しろトルコ人は、実の親を殺した者さえ、奴隷に売って金をもうける方を選ぶ、といわれている。捕えられた人々は、身分も男女の区別もなく、いちように二列に並ばされて…(中略) 悲鳴が起るのは、姿の美しい若者や女を奪おうとするトルコ兵が、列から引き離そうとする時だけだった。”(塩野七生)
他民族の戦争というのは、こういうことを意味するのですねえ…
写真 ボスフォラス海峡から撮ったもの 左がブルーモスク、右がアヤソフィア