原作と映画は別物であるということは百も承知ですが
これだけ有名な原作の映像化であれば、比較されるのも仕方ないことでしょう。
ただ私はこの小説は若い頃に読んだきり、今は手元にないので詳細は覚えていません。
村上春樹が心酔したほどには、私は感動しなかったのですが
それでも胸の奥にうっすらと印象が残っています。
その目線からの感想です。
1920年代、禁酒法による闇市場がはびこり、空前の好景気に沸くアメリカ。
お城のような大邸宅で夜毎豪華なパーティを催す、謎の男ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)。
その隣に住んでいたシニカルな若者ニック(トビ―・マグワイヤー)の回想によって、物語は語られます。
大富豪ギャツビーは何処から来たのか?
どういう経歴なのか?
どうやって富を得たのか?
ドイツ皇帝の従兄弟だとか、ドイツのスパイだとか、 実は殺人犯ではないかなどと
噂が飛びかうが、誰一人真実を知らない。
知らないままに人々は着飾って、饗宴に群がってくる。
ティファニーの提供による煌めくジュエリー、
ブルックス・ブラザーズ、プラダなどによる豪華絢爛な衣装は眩いばかり。
夜毎繰り広げられる贅を極めた乱痴気騒ぎは、
すべて愛する一人の女性、デイジー(キャリー・マリガン)の気を引くためだった。
デイジーは語り手ニックの従妹であり、対岸に住む名家の人妻であった…
画面はため息が出るほどにゴージャスで美しい。
虚飾で塗り固めたギャツビーの、化けの皮が剥がれて行く様も面白い。
一途に思い詰めるギャツビーの愛と
あまりにもいい加減なデイジーの想いとの比較も興味深い。
しかし。
これでは単にお金をかけた愛憎不倫殺人劇じゃないの、と私は思ってしまう。
原作にあった果てしない空虚さ、喪失感。
手に入らない愛、引いてはそれを求める自分の純真さを慕う想い。
ギャツビーがニックに何度も言う「対岸の緑の光」。
それはデイジーの邸宅の光であり、
届きそうでどうしても彼の手に届かない、愛の象徴。
巨万の富を築いても否定できない、出自の貧しさと惨めさ。
そんなギャツビーの独白を聞き、彼の哀れな終末を見届けたニックの
胸に去来する切なさと哀しさ。
大恐慌前夜のアメリカの繁栄の空虚さと、思うようにいかない人生の空しさ。
そういったものが映像では描き切れていない。
ただのドロドロ不倫劇が、アメリカ文学の金字塔、フィッツジェラルドの最高傑作と
言われる筈がないじゃないのと思ってしまうのです。
ちょっと残念…
「グレートギャツビー」 http://www.gatsbymovie.jp/
追記:映画の中でギャツビーが「友よ」と呼びかける聞き慣れない英語、何だろう?と思ったのですが
"old sport"のようです。
"They can't get him, old sport→「捕まえられないんですよ、親友」
http://ejje.weblio.jp/sentence/content/%E5%8F%8B%E3%82%88/3
”old sport! ”→「君」
http://ejje.weblio.jp/content/sport