ストロカーン氏事件と国策捜査・国策裁判問題
性的暴行容疑で逮捕、拘留され、NYで軟禁状態に置かれているIMF前専務理事で次期フランス大統領の有力候補であったストロカーン氏に対する軟禁が解かれたことが報道されている。訴追自体が取り下げられる可能性が高まっている。
被害を訴えた女性の供述に不自然なことがあり、事件全体が謀略であったとの疑いが浮上している。
事件発生当初から、仕組まれた謀略ではないかとの憶測が存在したが、真実は当事者でなければ分からない。第三者は事件捜査およびその後の公判、そして当事者の説明を聞いて判断するしかない。
日本でも痴漢事件で、まれに被疑者が無罪を獲得できることがある。しかし、それは、基本的に奇跡に近く、いかに被疑者が無実を訴えても、警察、検察、裁判所は、被害者とされる人物の供述だけを信用して、確実な証拠が存在しない中で、流れ作業のように有罪判決を示してゆく。
ストロカーン氏が無実であり、同氏の名誉が回復されるなら、極めて喜ばしいことだが、この種のニュースに接したときに、私たちが考えなければならないことがある。
それは、ストロカーン氏が仮に冤罪であるとして、その冤罪の事実が、今回仮に明らかにされるとしたとき、それは被害者とされる女性の通信等を捜査当局が傍受するなどして、「被害者」女性の疑わしい行動がたまたま浮かび上がったからにすぎないからだ。
逆に言えば、被害者側がより注意深く行動し、謀略のしっぽをつかまれるようなことをしなければ、このままストロカーン氏は犯罪者として、記録に刻まれてしまう可能性が高かったということだ。
国内の痴漢事件で冤罪を公式に認められたケースでも、それは、奇跡に近い偶然の産物であることが多いのが現実だ。
犯人として捕らえられ、刑罰も執行された後で、たまたま真犯人が別の人物であったことが判明したケースもある。
痴漢として逮捕、拘留されたが、その後、被害者とされる側の人物が、狂言を演じていたことが判明して、疑いが解かれたこともある。
被疑者が無実を主張し、再現実験を行ったところ、物理的に犯行を実行することが不可能であるとの立証が実現した場合に、裁判所がこの立証を認めるケースがまれにある。
それでも、ほとんどの裁判官は検察の僕(しもべ)であり、検察官の主張を覆そうとはしない。ごくまれに、正義感のある裁判官が事件を担当することになったときに、このような奇跡が生じるだけなのだ。
つまり、とりわけ日本では、有罪だとされ、制度上はその有罪が確定している場合でも、本当は冤罪である事件が多数存在しているのである。
逆に言えば、ケースは少ないかもしれないが、本当は罪を犯しているのに無罪とされるケースがある。また、これよりははるかに多く存在するのは、犯罪が成立しているにもかかわらず、警察や検察が罪を問わないことだ。被疑者の所属する機関や会社と警察、検察当局が癒着しているケースでは、犯罪が不問に付されることが少なからず存在する。
刑事司法では、
「10人の真犯人を逃しても、1人の無辜(むこ)を処罰するなかれ」
という、「無辜の不処罰」が重視されるのが、そもそもの大原則だ。基本的人権根の尊重の視点から、無実の人間が犯罪者に仕立て上げられることは、絶対にあってはならないことなのだ。
このことを、明文の規定としてはっきり示しているのが、1789年の「フランス人権宣言」である。罪刑法定主義、無罪推定原則、法の下の平等、Due Process of Law(適法手続き)の厳格な適用、基本的人権の尊重、などが明確に規定されている。
明治維新後、日本の新しい法体系と行政制度が構築された。このなかで、巨大な影響力を発揮したのが大久保利通と江藤新平である。詳述はできないが、「国権」を重視した大久保に対して、江藤は「人権」を重視した。「国権」の巨大な力から人民を守るための制度の重要性を、的確に理解したのが江藤だった。江藤は、行政権から独立した司法権の確立を目指した。
大久保にとって江藤は最大のライバルであり、明治六年政変に伴う江藤新平の下野の機会に乗じて、大久保は江藤惨殺の暴挙に進んだのである。このときに大久保が用いたのが、秘密警察的手法、行政権力による、警察、司法権力の独占である。
結局、明治を支配したのは大久保利通になった。大久保が構築した人権軽視=国権重視の思想は脈々と現代日本に引き継がれている。現代日本の警察、検察、裁判所制度は、大久保利通による権力独裁の流れを汲んでいる。人民の権利擁護、人権尊重の概念は極めて希薄である。
その発想は、
「10人の無辜を処罰しても、1人の真犯人も取り逃がすなかれ」
というものだ。
警察、検察がこの姿勢で活動する限り、冤罪は今後も発生し続ける。
さらに重大な問題は、警察や検察に、犯罪が成立しているのに、その犯罪を処罰しない裁量権が付与されていることだ。このことは既述した。警察、検察の権力の源泉がここにある。
刑事事件が発生したときに、犯罪が存在するのに、これを不問に付す権限が警察、検察に付与されているのだ。これを「起訴便宜主義」と呼んでいる。
この巨大裁量権が警察、検察の権力の源泉であり、これが警察、検察の天下り等の巨大利権と直結している。
さらに、警察と検察には、犯罪が存在しないのに、犯罪をねつ造する裁量権も付与されている。警察、検察、裁判所が連携すれば、よほど決定的な反証が示されない限りは、無実の人間を犯罪者に仕立て上げることができる。
検察と裁判所がくるになって、防犯カメラ映像の隠滅容認や、法廷証人の決定的証言無視を、平然と実行する。
政治的な目的の下で、こうした警察、検察、裁判所権力が活用されることを、「国策捜査」、「国策裁判」と呼んでいる。
だから、私たちは、警察、検察、裁判所を、絶対に絶対視してはならないのだ。最近の多くの事例により、ようやく、この重大な真実が、一般大衆に少しずつ知られるようになってきたが、まだまだ十分に浸透しているとは言い難い。
政治に絡む人物の刑事事件問題は、常に、こうした醒めた視点からの再吟味が不可欠である。
日本が近代国家になるためには、どうしても、この警察、検察、裁判所制度を、根底から刷新しなければならない。警察、検察、裁判所制度の近代化なしに国家の近代化はあり得ない