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「政治駅」岐阜羽島駅の真相

2007年06月04日 16時48分19秒 | 鉄道のよもやま話

東海道新幹線の開設までには、実に色々な問題がありました。
特に、岐阜羽島駅の設置には、誤解が多くありました。
冬になると関ヶ原付近は、しばしば積雪の影響で新幹線のダイヤが乱れ、その怒りの矛先を岐阜羽島駅にぶっつけてきました。
この駅は、政治家の意向で設置されたものと思われていましたが、どうやらそうではないようです。

  開設当初の0系新幹線

この誤解は、なぜ語り継がれてきたのでしょうか?
東海道新幹線のルートは、当初名古屋・京都間では2案が候補に上がっていました。
1つは鈴鹿山脈を横断し草津付近で現在の東海道本線と平行して京都に至るものと、もう1つは関ヶ原、米原を経由して京都に向かうルートが検討されました。

その検討では、距離的に鈴鹿山脈にトンネルを掘った方が、米原経由より23Kmも短く平均時速210Kmの場合東京・大阪間が2時間20分ほどで結ばれることになり、当初は、この案が有力視されていました。
しかし、地質調査をしたところ地質が極めて悪いことが分かりました。

また、鈴鹿山脈越えに固執すれば、トンネル工事に多くの歳月がかかり、東京・名古屋間で開業せざるを得なかったかもしれません。
そこで関ヶ原経由のルートが検討され、関ヶ原付近に積雪の影響で名古屋駅に待機機能を持たせるべき用地確保を進めたが、名古屋市都市計画によって用地が確保できず、名古屋駅の代役として、岐阜県内に駅を設置することが考えられました。
しかし、その岐阜県内に設置する駅の場所については、各地元の斡旋合戦が起こり紆余曲折します。

   岐阜羽島駅前にある大野伴睦の銅像

この状況の中、岐阜、大垣両市とほぼ等間隔で、周辺の道路の状況などを考慮され今の岐阜羽島駅に国鉄が決めました。
しかし、周辺各市から抗議が殺到し、弱った国鉄は、地元の選出議員である時の自民党副総裁の大野伴睦に泣きつき、知事や県議会に働きかけ、国鉄案に落ち着かせました。

これが、政治駅になったと言われる所以で、時の十河国鉄総裁の回想するように、大野氏による働きがなければ、東京オリンピックには間に合わなかったそうです。