江戸時代は格式の社会です。
幕府は身分、儀式などについてさまざまな決まりを設け、大名や幕臣を統制していました。
この格式は、本丸御殿に登城する際にも設けられました。
まず、大名や役高5000石以上の役人などは、大手門の橋の手前、下馬所において駕籠や馬から下りる定めで、そこから先は供の人数を減らし、定められた以外の多くの家臣をこの場所に残して登城しました。
その後、わずかの家臣とともに、大手門をくぐったのち、下乗橋を渡り、大手三之門、中之門、中雀門を通ってようやく玄関に到達します。
なお、御三家は中之門の手前まで駕籠に乗ることが出来ました)
下記、大手門からあなたも登城して玄関式台へ番号順に進んでください。
① 大手門 ② 三之門跡 ③ 三之門前 同心番所
(昭和34年に再建) (この先は二の丸) (警備役人の詰所)
④ 三之御門前の百人番所 ⑤ 中雀御門跡 本丸御殿に達する最終の門
(鉄砲隊百人の詰所 (関東大震災で大破)
江戸城の本丸玄関図がありませんので、
川越藩の本丸御殿玄関を・・・これで江戸城の玄関を想像してください。
そこから、さらに供の人数は減らされ、玄関からは大名一人の行動となります。
いかに数千人の家臣を持つ大大名に対しても、登城時からは将軍の威光を示し、将軍の臣下であることを実感させる工夫がなされていたと言えます。
例えば、下乗橋まで供の出来る人数は、1万石以上では、侍4~5人、草履取り1人、挟み箱持ち1人、六尺(駕籠かきのこと)4人で、10万石以上になっては供侍が1~2人増え、挟み箱持ちが1名増えます。
またその下乗橋を渡ってからは、10万石以上では、供侍3人、1万石以上では、供侍は2人となり、それぞれ草履取りと挟み箱持ち各1人になります。
格式は、玄関を上がるときも決められています。
一般的には、大名は刀が持って入れないため、家臣(刀番)が受取退出するまで玄関の外で待っていました。
しかし、刀番が玄関式台へ上がれる大名もいました。
多くは譜代大名や御三家の分家でしたが、外様でも加賀金沢藩主前田氏と因幡鳥取藩池田氏は、式台まで上がることが出来ました。
御三家は、玄関式台より奥の大広間溜まで刀を持ち込むことが許されました。