秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

四天王寺の聖霊院(太子堂)虎の門と猫の門

2017-11-12 | 古代史のミステリー


今日は大阪質屋組合のウォーキングで、四天王寺から新世界界隈を歩いてきました。

ボランティアガイドさんの案内付きだったので、初めて知った場所がありました。

どこから記事書こうかと画像見てたら、
またまた光の帯が目に留まりました。



四天王寺中央伽藍には西重門から入りますが、ずーっと後ろに屋根の上の水煙のような飾りが見えます。
それは太子殿に繋がる夢殿の屋根でした。

あちこち探したけど、そのアングルの画像は見つけられなかった。
唯一、JR西日本のサイトで、猫の門ごしに写っていました。


「聖徳太子を祀る四天王寺・聖霊院。正面に見えるのは太子奥殿で、法隆寺の夢殿と同じ八角形の屋根を持つ。四天王寺の中で最も神聖な場所。」






中央伽藍の東側にある聖霊院


西南角の虎の門には虎の彫りと指摘されて撮影したのが最初の画像です。


太子殿に猫の彫りあります。


聖徳太子二歳の木像が奥に祀られてるのが見えます。

この太子殿右手、東側に行くと、塀で囲われた部分、毎月22日だけ中に自由に入れるそうです。



樹々の奥に赤い鳥居が見えます。
物部守屋の祠(画像ネットより拝借)


守屋が祀られるに至った経緯→こちらとか、わかりやすい


聖霊院を出て、こちらが猫の門です、と聞いてまた撮影。
昔は左甚五郎作の猫で夜な夜な抜け出して難波界隈ウロウロするので網を被せてあったらしい。
今の猫は消失した後に彫られたもの。



よくよく見たらまたもやうっすら光の帯写ってました。

この年になって初めて知った一角だったので、光とともに記憶に残るでしょう。




★11/13 記事書いてるうちに不思議に思えたので地図画像追加します。






猫の門について
四天王寺は大坂の陣で焼失し徳川幕府によって再建された。
再建された「猫之門」の猫は名匠・左甚五郎の作であったと伝わわるも第二次大戦の空襲でまたも焼失。
日光東照宮の「眠り猫」と一対となって、大晦日と元旦に鳴きあったといわれている。
また鼠の番をせずミナミの花街へ夜遊びに出るとの噂がたち、金網をかけられたために空襲の際に逃げられなかったとんだとか。
現在の猫の門は戦後1979年に再建されたもの。

南大門が正門ですが、ほとんどの方は石の鳥居ある西門から入ります。
今回初めて南大門のとこ行ったぐらいです。



高賀のさるとらへび伝説が鵺退治に置き換わったのは

2017-07-15 | 古代史のミステリー


頭が猿、体は虎、尾は蛇のような妖魔退治した藤原高光。




国道265号線から高賀口で右に折れて高賀川沿いに進みます。
後になって地図を見て、牛戻し橋(谷戸橋)に気づきました。
高賀の伝説を彩る、この橋より先へは牛を入れてはいけないといい伝えの残る橋」
なんか意味ありげでしょう。













高賀山(1,224m)の麓に鎮座する高賀神社、
神社の創建は、奈良時代の養老元(西暦717)年。
二十三柱もの神々を祀り、妖魔退治伝説を今に伝えています。

御祭神
国常立尊(クニコトタチノミコト)
天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)
国狭槌尊 (クニサズチノミコト)
豊斟淳尊(トヨクムヌノミコト)
泥土煮尊(ウイジニノミコト)
沙土煮尊(スヒジニノミコト)
大戸道尊(オオトジノミコト)
大戸辺尊(オオトマエノミコト)
面足尊(オモダルノミコト)
吾屋惺根尊(アヤカシコネノミコト)
伊弉諾尊(イザナギノミコト)
伊弉冉尊(イザナミノミコト)
大日婁貴(オオヒルメノムチ)
天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)
鵜鵐草葦上合尊(ウガヤフキアエズノミコト)
素盞鳴尊(スサノオノミコト)
太玉命(フトタマノミコト)
天児屋命(アメノコヤネノミコト)
猿田彦命(サルタヒコノミコト)
金山彦尊(カナヤマヒコノミコト)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)



社務所にいらして、どちらから来られましたかと声かけてくださった宮司さん?
宝物殿(右手にある建物で写ってません)の中を案内してくださった。
立派な珍しい神像とか宝物が所狭しと並んでた。
画像ないし、説明も全部消化しきれなかったけど、なんか凄いとこやなぁというのだけ実感しました。
直前まで雨降ってたそうで、木々の緑も清められすがすがしかった。




左に円空記念館(平成7年7月7日開館)、その建物との間にさるとらへび伝説像があります。



さるとらへび伝説とは、平安時代に藤原高光が二回この地に訪れて妖魔退治をしたことを伝えます。

ところが、高賀宮記録によれば、

当宮の始めは、霊亀年中(710年代)何処ともなく夜な夜な怪しい光が空を走り丑寅の方角へ飛んで行くのを都の人たちが見て驚いた。
都から見て東北の山々、すなわち高賀山を探したが、見つけることはできなかった。
そこで、高賀山麓に神壇を祀ったところ、光が現れなくなったという。これが高賀山本神宮の始まりだといわれています。

その後、高賀山一帯に、牛に似た妖怪が住み付き、村人に危害を加えたので、平承3年(933)、藤原高光が御門の勅命によりこれを退治した。このとき再び妖怪が住みつかないように高賀山の麓に神々を祀った。

また、天暦年間(947~957)には、キジの鳴き声をする大鳥が村人を困らせたので、再び藤原高光による魔物退治が行われ、この時、高賀山麓の六ヶ所に神社を建立したとされている


記録される妖魔は最初が「牛の角を持った大鬼」、二回目が「キジのような鳴き声を発する大鳥
頭は猿、体は虎、尾は蛇に似るという「さるとらへび」なる妖魔ではありません。



高校時代に古文を習ったときのかすかな記憶では、鵺(ぬえ)が登場します。



鵺とは - Wikipedia より
日本で伝承される妖怪あるいは物の怪

平安時代末期、天皇(近衛天皇)の住む御所・清涼殿に、毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、二条天皇がこれに恐怖していた。

遂に天皇は病の身となってしまい、薬や祈祷をもってしても効果はなかった。側近たちは、かつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。

頼政はある夜、家来の猪早太を連れ怪物退治に出向いた。
すると清涼殿を不気味な黒煙が覆い始めたので、頼政が矢を射ると、悲鳴と共に鵺が二条城の北方あたりに落下し、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差した。

これにより天皇の体調もたちまちにして回復し、頼政は天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜したという。




歌川国芳:源三位頼政 鵺退治の図


一勇齋国芳(歌川国芳):鵺退治(ボストン美術館所蔵)


高賀の「さるとらへび伝説」は、古文書としては何も残らず口伝によるものです。

時代は下り、1180年源頼政は、後白河天皇の第三皇子・以仁王と結んで平家打倒の挙兵をあげたが、宇治平等院の戦いで敗れ自害。
実際、源頼政の墓は宇治平等院の鳳凰堂の裏に江戸時代に作られています。

しかし首級を頼政の伯父・山県国直の居地である美濃植野の地に家臣が葬ったといわれていて、岐阜県関市植野の蓮華寺にも源頼政の墓と伝える石塔があるそうです。


こうしたご縁で、12世紀末の都の「鵺退治伝説」がこの地にも広まり、10世紀半ばの高賀の妖魔退治が「さるとらへび退治」へと置き換わったのかもしれません。



この記事の最初に書いた、牛戻し橋の疑問、
こんな答え見つけたので引用させてもらいます。

「牛戻し橋」は、牛頭天王信仰がこの地に入ってくる(8世紀から9世紀にかけて)ずっと以前からあったのではと考えます。

 高賀山自体を神と崇める自然崇拝で、その生贄として「牛」を使っていたとするなら、「牛が一旦この橋を渡ったら最後二度と戻れないぞ」との思いから、「牛戻し橋」と呼ばれるようになったと考えられます。

 中国では、古来より神の怒りを静める方法として、牛を生贄に使ってきました。その風習は、6世紀から7世紀頃には渡来系の人たちによって日本に流入していたはずです。この地に、渡来系の人々による信仰が広まっていたならば牛を生贄として使う風習があってもおかしくないはずです。


引用元 洞戸なんでもわけあり情報

そのブログを読ませてもらってたら、
猿丸太夫の墓 という記事エントリー発見。

過去に2013-11-10 蝉丸 猿丸 山の民? という記事で書きましたが、猿丸って不思議だなと思ってました。

ひとつの答えを今日発見できてうれしい。


猿丸太夫の墓が、高賀山に連なる今渕ヶ岳の麓、瀧神社参道横にあるそうです。
美濃市乙狩板山地区には、高賀の魔物退治と絡んで、猿丸太夫の伝説が残ってました。

「高賀の魔物退治をしたと言われている藤原高光。
高光の命によって集まった矢作りの人々の中に「あきよ」という娘がいました。高光とあきよの間に一子が生まれ、猿丸と名づけられました。猿丸は、やがて都に登って父に会い、天皇から賞賛されるような歌人になりました。しかし猿丸は、父の迷惑を考えて終生素性を語りませんでした。 ○美濃市史通史編上巻より」

明治は崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させ白峯神宮を創建され始まった

2017-07-11 | 古代史のミステリー


讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)
Wikiページより拝借しました。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
小倉百人一首77番 崇徳院


崇徳天皇(1119~1164)日本の第75代天皇
諱は顕仁。讃岐院とも呼ばれた。



以前、香川県の志度寺について記事を書いたときに調べて保存してあった画像とデータがあります。
2016-01-09 四国86番志度寺 海女の墓★身を捨てて浮かぶ瀬もあり志度の浦

ご披露する時期がめぐって来たようです。


このたび、明治天皇御製2首を先の記事でご紹介できました。

世はいかに開けゆくとも古の国のおきては違えざらなむ
6/18 阿賀神社(太郎坊宮)にて撮影

あまてらす 神のさづけし 寶こそ動かぬ國の しづめなりけれ
7/3 長滝白山神社にて撮影

明治天皇の御製つながりで、実は志度寺について調べていたときにすでに思うことがありました。


明治天皇は、慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して、勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建されました。
諱は睦仁 御称号は祐宮(さちのみや)

昭和天皇は、崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせています。
諱は裕仁(ひろひと)幼少時の称号は迪宮(みちのみや)



なんで、崇徳天皇かというと、
菅原道真、平将門とならび日本三大怨霊のお一人だからでしょう。


崇徳上皇は「日本一の大魔王」と呼ばれるそうです。
22歳の若さで、父鳥羽上皇から天皇の位を奪われてクーデター「保元の乱」を起こすも、企ては失敗し四国讃岐に流罪となる。

なぜ崇徳上皇=怨霊が定着したかというと、
上皇が亡くなって約10年後、後白河上皇の身内が相次いで亡くなり、京の都では火災や強風(竜巻か?)が多発し、鹿ヶ谷の陰謀など社会情勢や治安が大きく乱れたことが最大の原因とされる。
崇徳上皇本人は菅原道真のように、生前は静かな晩年を送ったが、相次ぐ災害のせいで祟り神と見なされ、災害を鎮めるために鎮魂の対象になった。
これに伴い、崇徳上皇は恨みを残して死んでいったという話が急速に広まり、恐れられる存在になってしまったのではないかと言われている。

崇徳さんの怨霊は、天皇が表舞台に立った時に現れ、国家の転覆を企てるのだそうで、その対象はあくまで、天皇家。
それ以外の国家権力には向けられないという。

『椿説弓張月』より崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面(歌川芳艶画)



崇徳天皇(1119~1164)日本の第75代天皇、諱は顕仁
何の因果か、現在の今上天皇は、継宮明仁

あきひと、と音が一緒なんですよね。

下記引用文をコピペさせてもらったサイトurlはもう開きませんでした。
tp://www.mipsworld.com/mizukuki/mizu004.htm


日本の「明治維新」は、実は崇徳上皇の承認の下に行われたのである。
孝明天皇の崩御で、明治天皇が践祚したのは1867年1月。だが即位はしていない。
崇徳上皇の命日である同年8月26日、明治天皇は勅使を讃岐に派遣した。
勅使は上皇の「白峰御陵」の前で、宣命を読み上げその翌日8月27日に明治天皇の即位の礼は行われた。
「新しい宮を建立したので、長年の怨念を捨てて京にお帰りください」。
そして9月6日崇徳上皇の霊は移され、700年ぶりに京へ帰って来る。
「明治」と改元されたのはその翌々日、1867年9月8日だったのである。
今の世で怨霊を信じる信じないは勝手。ただ、当時の人たちが信じたことだけは確かである。




十丈許の妙石@赤神山

2017-06-23 | 古代史のミステリー


標高357mの赤神山中腹に鎮座する太郎坊宮、
本殿前には夫婦岩と呼ばれる二つに分かれた巨岩があり、
十丈許の妙石ともいわれ、太郎坊天狗が住んでいたと伝えられるそうだ。






社伝では神体山信仰・磐境信仰(いわさかしんこう)の発祥の地で、
「大神の神力によって真二つに押し開かれた」とされています。

右手の階段上がると



1丈は10尺、1丈は約3.0303m なので、十丈は約30m
許(ばかり) おおよその数量を表す語

幅80cmほどの狭い間を約12m通り抜けると







科学的には赤神山を含める湖東平野の山々は、中生代白亜紀(7000万年前)の火山活動によって形成され、夫婦岩は山を構成する火成岩(マグマが冷えて固まった岩石)が冷え固まって収縮する際に生じる割れが発達したものと考えられています。



本殿にお参りする前に、自分で自分を払い清めます。






本殿前の展望台から見晴るかす蒲生野の景色もすばらしかったのに、なぜか一枚も画像に残ってない。
心のシャッターは切ったので記憶に残って、よしとしましょう。



裏参道へ降りることにします。
本殿を見上げてみると



すごいところに建てられています。

少し下ったところに、地主神社


このわずかな階段すら下りるエネルギー枯渇し、参拝パス。
地主神がどんな神様なのかネットで検索しても発見できなかった。




赤神山の山肌が赤っぽいのは丹朱(=水銀朱・辰砂)によるものだそうです。
丹朱(たんしゅ)は、丹(に・たん)朱(しゅ)ともに同じ系統の赤色で、一般的な鳥居の色です。

「丹」硫化第二水銀(HgS)を含む鉱物・泥・砂、赤い色の鉱石のこと
「朱」字源からすると「幹の中心の赤い木」らしいです。


日本では古来より丹生(にゅう)と言えば丹(朱色の鉱物 cinnabar)を産する場所を意味しました。

日本列島では主に中央構造線沿いと、若狭湾沿岸、九州北西部周辺に存在するという丹を求めて、古代より多くの民族が移動し、丹生の神を祀ったようで、今なお神社が各地に残されています。

近畿では、奈良の吉野や宇陀、そして和歌山の紀ノ川沿い、金剛山、伊勢でも産出します。
丹後、丹波はじめ各地に丹生の地名が残る所が産地またはその一族の拠点だったのでしょう。


古墳の内部や船板に朱色として塗布され、殺菌と防腐の効果があるそうで、
古代から魔除けの赤としても珍重されてきました。

中国では不老不死の妙薬として、秦の始皇帝が徐福に日本まで探させたことは超有名。
西洋でも、錬金術では賢者の石といわれます。
金一升と丹生一升は当時は等価だったとか。
この丹(朱砂)が紀伊半島で大量に産出しその利権を手中におさめたことが、大和に王権が誕生につながっているのでしょう。


青丹によし 平城の都は咲く花の
匂うが如く今盛りなり


「丹朱とは」で検索していて、南房総富浦総合ガイド資料集より一部簡潔に引用させてもらいます。

「丹を含む朱砂とは、硫黄分の湧き出る地域の地下に水銀があった場合、
その水銀がガス状で岩石の割れ目から噴き出し、地表で硫黄と化合、土や岩を真っ赤にした。
その朱砂を熱して蒸留すると、丹と水銀が得られ、
丹は寺院などの彩色に、水銀は仏像などの鍍金(メッキ)に使われていた。」

なるほど~


赤ら顔の天狗がいたとされる場所は、修験道の聖地で、日本各地の丹朱(水銀朱)の古代の産出地であるという説もあります。

この赤神山の夫婦岩でも、かつては丹朱を産出していたのでしょうか。


人魚の尻尾が西国草創1300年記念印@観音正寺

2017-06-20 | 古代史のミステリー




人魚の哀願によって建立されたからだそうです。
でもこの人魚は、いわゆる女性ではなく男性。
ご朱印を賜った際にお尋ねしたら、前世が琵琶湖対岸堅田の漁師だったって。
殺生を業としていたために人魚に生まれ変わり苦しんでいたという。

観音正寺は、聖徳太子が近江国に創建された十二箇寺のひとつです。
この地に来臨された聖徳太子は、紫雲たなびくこのお山をご覧になって「これぞ霊山なり」とおぼしめす。

そこへ人魚が登場し「繖山にお寺を建てて、どうか私を成仏させてください」
願いを聞き入れた聖徳太子は、千手観音の像を刻み山頂に堂塔を建立したという伝説が残る。
寺にはその人魚のミイラと称するものが伝えられていて、かつてはTV出演したこともあるようです。

日本書紀によると、推古天皇27年619年に、近江の国司が「蒲生川に人魚がいた」と言っている、という記述があるらしい。

太子自らが千手観音の像を刻み、堂塔を建立されたと伝わるにしても、なぜに琵琶湖対岸堅田の漁師が登場することになるのでしょうね。




平安時代になると、万事吉祥縁結びの祈祷道場として広く信仰を集めるも、戦国時代には安土ですから、いろいろ紆余曲折を経ます。
織田信長によって六角氏が滅ぼされたのち、慶長2年(1597)再び山上に堂舎が営まれていた。
本堂が古びたので明治15年(1882)彦根城欅御殿を移し本堂としていた。

ところが、平成5年(1993年)火災で重要文化財に指定されていた本尊千手観音立像もろともに焼失。


本堂は平成16年(2004年)3月に再建され、ご本尊千手観音像もインドより特別に取り寄せた白檀で彫られました。



寄木造の立派な丈六仏です。
とても立派でやさしいお顔で、ほんまに千手あるそうです。
実際に千本の手を持つ千手観音を真数千手(しんすうせんじゅ)は作例少なく、他に有名なのは
・奈良市の唐招提寺
・大阪府藤井寺市の葛井寺
・京都府京田辺市の寿宝寺


本堂から細長い境内を見ると


この画像には写っていませんが、左側に山斜面が迫り、本堂に向かってなら右手になります。

石が積まれてあって、池を渡れば「えんむすび地蔵尊



さらに水かけ観音の「魚濫観音



観音様が魚の上に乗って、踏みつけられた魚は大きく口を開け悲鳴をあげているようにも見えます。

人魚と魚濫観音との間に何か繋がりあるような・・・




本堂左手前の杉大木の根元に、「白蛇大明神


「ご神体は白蛇形にして21日、37日間と限って参拝祈願するならば、福徳を得て祈願成就すると言い伝えられています。」

本堂内で朱印書いてくださったおっちゃんに、白蛇大明神祠もお尋ねしました。
「ここの謂れはわからない、なにせまだここで働くようになって日が浅いから」と言われました。





最後に、りひとさんのアンテナに引っかかった裏参道の入り口にある、結神社(むすぶじんじゃ)について。
ネット検索したことをつらつら並べときます。
立派な拝殿・弊殿・本殿があり、地方の神社とはとても思えない豪華さらしいです。
祭神は、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后の三柱で 
主祭神は、誉田別尊、神紋は左三ツ巴の八幡宮です。
壬申の乱の際に、川島皇子(天智天皇の第二皇子)と忍壁皇子(天武天皇の皇子)が戦いを避けて、この地にいらしていた時に勧請したとされる。

なぜに結神社という名前なんでしょう。

「平安時代になると、万事吉祥縁結びの祈祷道場として広く信仰を集め」た観音正寺の裏参道入り口の神社。
本堂が移動してるんだから、参道も裏も表もそのとき次第。
いつの時代かには、表参道入り口にあたり、そこにこの神社があったのかもしれない。



木の国の飛鳥仏と円空仏

2017-05-06 | 古代史のミステリー


大阪市立美術館の木像展覧会で、展示室を移動するスペースに標本木が置いてありました。

たいていの日本人は木が好きで、今度の2020五輪メインスタジアムだってコンセプトは「木と緑のスタジアム」
にもかかわらず、この木何の木状態で、樹形などから木名を確定できる人は多くない。

ましてや木肌となればもっと?
へぇ~と眺めましたが、板を見せられて名前を当てろといわれても無理。
情報がしみこむにはもっと木に触れ合う生活が必要ですね。

縄文時代の遺跡から出土したもので、住居はカシ・ヒノキ・クリ・シイなどがみられ、木の器には削りやすいトチノキ、弓には固くてしなるカシと上手に使い分けていたのがわかっています。
また日本書紀の記述で、スサノオノミコトは、「スギとクスノキは舟に、ヒノキは宮殿に、マキは棺に使いなさい。そのためにはたくさんの木の種をみんなでまこう」と教えられたと。

展示物に戻りますと

飛鳥仏
木造 菩薩立像
飛鳥時代(7世紀) 
東京国立博物館
明治以前の来歴、どこの寺に伝来したものかは不明です。

日本列島に仏教が伝わった飛鳥時代(7世紀)にさかのぼる希少な木彫仏で、クスノキ材の一木造りです。現存作例と文献資料による限り、飛鳥時代の木彫仏はすべてクスノキで造られました。
この時代には青銅製の作品が多く木彫りは珍しい。



作者 円空
木造 十一面観音菩薩立像
江戸時代(17世紀)

ヒノキの一木造だそうです。

この画像やっと拾えたのは→こちらのブログ

埼玉県蓮田市の神職家に伝わったもので、神仏混交の頃の修験道信仰との関係で、円空が作品を残したのではないかと考えられています。



イヤホンガイドの説明で、十一面観音像は白檀の木で造るということが書かれてあると聞きました。

で調べてみると、海住山寺のサイトで
「像高は45,6㎝。これに近い大きさの十一面観音像がいくつか見出せる。東京国立博物館像42,1㎝、山口・神福寺像44,7㎝(頂上仏面欠)、奈良国立博物館像42,8㎝、大阪・長円寺像45,0㎝、三重・白山町像47,6㎝、高知・竹林寺像48,8㎝などである。
このように近い像高の作例が多く見出せる理由としては、
十一面観音経典に、像は白檀で「一ケツ手半」の大きさに造れと説くことと関係するものであろう。これらは、小檀像と呼ばれている。」

ところが日本では白檀は生育しないので、他の木が用いられたのです。





円空さんの作品は二つ展示されてありました。

円空はその生涯に十万体以上もの仏像を彫ったとされる江戸時代前期の仏師。
円空仏は素朴で潔い刀法から生み出される独特の雰囲気が大きな特徴で、それまでの仏像の歴史とは隔絶した存在感を示します。
これは用材の特徴をしっかりと把握した職人芸のなせる業でもありました。


ほっこり穏やかなお顔の仏像が多い中、異質だったのが
円空作
木造 秋葉権現三尊像
江戸時代(17世紀)

秋葉権現三尊像もヒノキで、一材を縦に三分割してそれぞれの姿を彫りだしたもの。


埼玉県指定文化財 蓮田市個人蔵:矢島家所蔵



Wikiをみますと
秋葉権現(あきはごんげん)は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神である。火防の霊験で広く知られ、近世期に全国に分社が勧請され秋葉講と呼ばれる講社が結成された。また、明治2年12月に相次いだ東京の大火の後に政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、本来祀られていた神格を無視し民衆が秋葉権現を信仰した。その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる。


真言
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ

「ヒラ」とは愛宕山太郎坊の前身とされる日羅の名前を本来の「にちら」ではなく「ひら」と読み変えたものであるとされる


秋葉講
江戸時代の庶民にとって遠州秋葉参りの旅費は経済的負担が大きかったので、秋葉講という宗教的な互助組織(講)を結成して講金を積み立て、交代で選出された代参者が代表として遠州秋葉山に参詣し、火防せ・安全を祈願して帰郷した。
また、遠州秋葉参りできない人々を考慮して、地元に秋葉権現を勧請した。秋葉講の講社の数は、盛時には全国で3万余を数えるほどあった。




秋葉権現とは何かがとてもよくわかるブログ→こちら

龍蓋寺の龍と義淵僧正と

2017-03-22 | 古代史のミステリー


岡寺は龍蓋寺という名前でもあり、その由来となった伝承
「飛鳥を荒らす悪龍を其の法力により石の蓋をもって、池に閉じ込め改心させる 龍は善龍となり今もこの池に眠る この池を龍蓋池と名付け龍蓋寺(岡寺)の始まりとなる」




小さな池の真ん中の岩が蓋となり悪龍が封印されてるんだって。
のぞきこんでじっくり見たけど、何も見えず感じず、画像にも何も写りこんでなかった。



石版彫刻背後にラッパスイセンの黄色が眩かった。





背後の山に石塔があり赤い鳥居が見えたので行ってみる。






龍蓋池のほぼ後ろにある瑠璃井



門柱のまさに中央奥に不動明王の石碑があり、右奥に小さな滝。
瑠璃の井という命名にも、なんとなく瀬織津姫だとふと思いました。

赤い鳥居は稲荷社


右の階段あがると奥の院石窟、数メートル奥に弥勒菩薩が祀られてました。





義淵僧正は竜使いだと教えてくださったのは吉田さん。
ちょうど今吉田さんのブログでも取り上げられています。

少し前に、拙ブログで吉田さんがコメントで次のように書いてくださり、たいそう興味を持っていました。

「藤原不比等が祀った藤原家繁栄の天神八座は竜神結界祭祀で
かなりの犠牲の上に成り立っていると記載していますが
この術は強力で現代まで残っていました。
義淵の弟子の玄昉・行基・隆尊・良弁・道慈・道鏡などは
皆この竜に太刀打ちできなかったのです。
師匠の義淵は竜使いでした。
悪竜と変じた大津皇子を調伏したとかいう
妖しい話が伝わっています。
義淵は百済聖明王の末裔と云われていて
不比等は百済王子豊璋の血統です。
私見ですが藤原家繁栄の天神八座の竜神結界祭祀を
仕切ったのは義淵の可能性が高いと感じています。。
海女の血統の宮子姫も人身御供の中心のはずだったものが
誰かがちょっかいを出したせいで人身御供から外れて
幽閉されたものと思われます。
でもそのおかげで藤原家は盤石ではなく
栄光と苦難と争いの大一族となったのでしょうね。」

2015-08-16 道成寺縁起とかみながひめ

2016-04-06 春の女神 佐保姫と狭岡(さおか)神社




まず、義淵(ぎえん)について調べてみました。
奈良時代、法相(ほっそう)宗の僧。(?―728)
大和国(奈良県)高市(たかいち)郡の人。
俗姓は百済王の子孫市往(いちき)氏(または阿刀(あと)氏)。
両親が観音菩薩に子授けを祈ったところ、柴垣の上に置かれていたという。
出家して法相宗の第三伝智鳳に教えを受け、703年(大宝3)僧正に任ぜられ、仏教界の最高責任者となった。
とくに興福寺系法相宗の中心をなし、社会事業に活躍した行基、法相宗第四伝となった玄昉(げんぼう)、華厳宗を開いた良弁、このほか宣教、隆尊など多くの弟子をもち、日本法相宗の実質上の開祖とさえ評価する学者もいる。
竜蓋寺(りゅうがいじ)(岡寺)、竜聞(りゅうもん)寺、竜福寺、竜泉寺、竜象寺など五箇竜寺の開山で、元正・聖武天皇の代に宮中の内道場に仕え、その功により市往氏に岡連(おかのむらじ)の姓を賜った。
・・・以上 日本大百科全書(ニッポニカ)より


先の岡寺の記事で、「飛鳥時代の名僧、義淵(ぎえん)が、早世した天武天皇の皇子、草壁皇子の宮を賜って寺としたのが始まりという。義淵は子供のない夫婦が観音さまに願掛けに通っているときに垣根の上に置かれていた赤ん坊で、話を聞いた天智天皇が義淵を引き取り、幼かった草壁皇子と一緒に岡宮で育てたといわれている。」


ところが、岡の宮が義淵に下賜された663年が岡寺開創で
草壁皇子(くさかべのみこ)は662年生まれ。
なんか時期が微妙に合いませんね。


天武天皇の第2子である草壁皇子は、689年(持統天皇3年)皇位を約束されながら即位することなく28歳の若さで薨じました。

662年(天智天皇元年)天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の皇子として誕生
672年(天武天皇元年)壬申の乱が勃発
681年(天武天皇10年)に皇太子
689年(持統天皇3年)死去



少し視点を変えて、この岡寺の少し北に大原の里があります。
なんと藤原鎌足の生誕地といわれる大原がこんなとこにあったとは知らなかった。

天武天皇が鎌足の娘の五百重娘(いほえのいらつめ)=藤原夫人に送った歌

わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後(のち)
(万葉集巻2・103)
歌の意味:私の住んでいる里に大雪が降った。(あなたの住む)大原の古い里に降るのはもっと後だろう。

これに対して、藤原夫人は次の歌を返した。

わが丘の おかみに乞ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
(万葉集巻2・103)
歌の意味:私の所の神様が降らせた雪が、そこまで散っていったのでしょう。

詳しくは→大原の里 でご覧ください。

『わが丘の おかみ』というのが、岡寺の龍のようです。


鎌足の没年は669年で、五百重娘(いおえのいらつめ)は生没年不詳なれど
姉の氷上娘(ひかみのいらつめ)は682年に亡くなったときに藤原夫人歌一首が残っていて、少なくとも682年には生存してた。



奈良県の竜蛇(「怪異・妖怪伝承データベース」より)
話 名 大蛇
資 料 奈良県史13 民俗(下)
場 所 高市郡 明日香村
要 約 岡寺の境内の竜蓋池は、義淵僧正が大蛇を退治した池。旱魃の時には池の中央の石を動かせば雨が降ると言われている。


この龍と義淵僧正と、天智天皇と天武天皇の第二子が草壁皇子。
そして悲劇の大津皇子は、鵜野讃良皇后の姉大田皇女が母。
いろいろ繋がってます。
そのあたりがまた、藤原家の発祥の地でもありました!



大津皇子の辞世歌
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

磐余の池がどこにあったのか調べてみると岡寺のほぼ北にありました。
磐余池跡


大津皇子(おおつのみこ)663-686 享年24歳
母は天智天皇皇女の大田皇女-鵜野讃良皇后の姉
686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。

九度山見たまま、私見では水の女神様を祀られた地かと

2017-03-05 | 古代史のミステリー


九度山の観光地図です。
一般の地図には、旧萱野家のすぐ向かいに遍照寺が記載されてますが、観光地図にはほぼ見当たりません。
なんかワケありでしょ。



もう少し大きい範囲で見ても同じでした。
紀の川の支流が丹生川なんですね。
左上のブログ管理人が記した青い○の地域、これも気になりました。
慈尊院や丹生官省符神社の下の、黒い淡路島みたいな地形の部分。
何、これ?
地図で確認してみましょう。




なんと旧高野口町名倉の飛び地が九度山町にあり橋本市へ合併後も継承されたんだそうです。
これもきっとワケありなんでしょう。


九度山は、真田と空海の二つの時代が重層的に重なっている地でした。
それでいて、九度山の地名由来は一般的に、高野山の弘法大師が母に会いに九度通ったからと知られています。



しかしこれは明治以降のことで、その昔は遍照寺の門前看板のとおりなんだろうと思います。



「神代の昔から有為の峰といって、丹生・白髪大明神のあるところ、弘法大師が槙尾山で修行されておられた頃、かたわらの弁財天をご信仰なされて、日夜お参りされていた。高野山をお開きになってからも厚く信仰され、つきに九度ずつ槙尾山に参詣されていた・・・そこへ弁才天が現れて、この地にわれを移し祀れ、と告げられた」




おまけにこの寺の場所は、かつて真田幸村が暮らしたところで、真田庵は父親の居所。
この点をスルーするかのような観光地図でありました。
きっとなんかあったんでしょう。

真田庵の真田地主大権現で光の入った画像、これは鳥居右手にあったお不動さんを彫られたような石柱を写そうとしたのでした。




目神様も含めて、検索してもわかりませんでした。


当日のボランティアガイドさんは流暢にすらすらと淀みなく解説してくださいましたが、強弱なかったのでついうっかりいろいろ聞き漏らしたかもしれません。

しかし、どう考えてもこの地は弁財天、水の神様がもともと祀られたように思え、その女神さまが目神様として私の目に留まったように思えます。



まだ咲き初めし観梅@観心寺その4 じっと心を観る

2017-02-08 | 古代史のミステリー

山門入って左側の庭で見た白梅

蝋梅もまだまだ

観梅に行かれる方はもう少し暖かくなってからがおすすめです。


門前でおぜんざい食べてもまだ一時間以上あるので、もう一度境内に戻ってじっくり参拝。
境内から出るときに事情話して、もう一回戻ったら拝観無料にしてねと頼んでおいたのだった。



山門入って、階段上が金堂で、左側に霊宝館のたて看板ありますが、右手に手水舎。

先の星塚巡礼では、最後に訶梨帝母天(カリテイモテン)を参拝してして締めくくるとあったが、観心寺の鎮守社がどこにあるかわからなかった。
予習してない他のメンバーはみな金堂で最後の参拝したと言ってました。



おぜんざい食べながらゆっくり境内図を見て探したら、
訶梨帝母天堂は、手水舎の奥、拝殿のまっすぐ後ろにあった。
拝殿から池越しに後ろということは、拝殿で拝む対象がこの訶梨帝母天堂ということ?


観心寺の鎮守社訶梨帝母天堂

創建年代未詳で、興国5年(1344年)に焼失し、後村上天皇の命により楠木正行(くすのきまさつら)が再建した。

鎮守神、訶梨帝母天は鬼子母神。
ここではお姿を見ることはできませんが、
滋賀県大津の三井寺で訶梨帝母天像にお目にかかりました。

2014-11-25 三井寺のべんべんと 訶梨帝母倚像



それにしても、星塚の最後がなぜ、鎮守神の訶梨帝母天を参拝なんでしょうね。
鎮守社ということは、このお寺ができる前からこの地の地元神だったとか?

バス停では観心寺の次が「鳩の原」で、同行の友人は「鳩を献上してたりして」なんて言うてました。
Wikiで見たら、ほんまにそうでした。

このあたりは
旧石器・縄文・弥生時代から人が暮らした形跡が出土していて
3世紀頃 - 大師山遺跡では高地性集落が営まれていた
古墳時代とかも渡来人が多く暮らした地域だったようです。

699年(文武天皇3年) 錦部郡鳩原の犬養広麻呂、白鳩献上。鳩原村の名の由来となる
701年?704年(大宝年間)役小角により雲心寺(のちの観心寺)が創建したとされる。



金堂には今度は靴を脱いで上がらせてもらったので、心行くまでゆったり礼拝することができました。
如意輪観音像のお姿は4/17-18でないとお目にかかれませんので、ネットで画像もらってきました。




張り紙に、撮影は遠慮したので、うろ覚えで
『目先の結果にとらわれてはいけない。仏様は私たちよりも、遥かに遠い先を見通してらっしゃる。仏様を信じて、今をしっかり生きなさい』
みたいなこと書かれてまして、ほんまやなぁ~といったとたん、「コン」と音がした。
あれまぁ、そうやでとお返事しはったみたい。

何のことはない、座るときに背中のリュックを下ろして置いていたのが倒れて賽銭箱にあたった音でした^^


観心寺ですから 「心を観る」

みるという漢字はいっぱいあって、
   見る 診る 看る 視る 観る

金堂の内陣には、曼荼羅が描かれた大きな板が両側にあり、いろいろ哲学的思索にふけりながら拝見しました。

落とした切符を取り戻すのに、そのバスを待つために、たまたま振り降りた時間。
とても有意義な参拝となりました。




駆け足で参拝すると見落としてた建物の一つ一つにもいろいろな歴史が刻まれてました。

境内の右手に→楠木正成公首塚の案内あったので開山堂裏に回ってみると

楠木正成の軍旗「非利法権天」

1336年建武の新政から離反した足利尊氏方と戦った湊川で討死。
勝った足利尊氏は、楠木正成の首級を遺族へ届けたと伝えられており、観心寺に送られ首塚として祀られています。

新政後、三重塔建立を発願するも討死したため完成せず初層のまま、
後代に屋根の小屋組みと茅葺の屋根が架けられ現在に至る建掛塔





観心寺は楠木氏の菩提寺でもあり楠木正成公とゆかりが深いのでした。
8-15歳までこの寺の中院で勉学し、後に建武の新政のおりに後醍醐天皇の命で観心寺金堂の造営工事の監督。
その金堂は大阪府下最古の国宝建築物として残されています。

楠木正成は、空海の四恩の教えを身につけました。

父母の恩「天から降った命でもない、地から湧いた命でもない、親を縁として頂いている」
国王の恩-私たちがこの日本の国に住まわせていただいているのも、日本という国が平和なればこそ
衆生の恩-生きとし生けるものすべてを衆生、これによって自分が今ここに生かされている
三宝の恩-そういう教えを伝えてきた仏法僧に感謝


楠木正成の姉の子供が能の観阿弥だそうで、いろいろ日本の歴史も秘密も知ってたんでしょう。


詳しくは、管主さんのお話でご覧ください→こちら


南朝第二代の後村上天皇の行在所ともなっていて、後村上天皇陵も境内にありましたが、雨だったし薄暗くて不気味だったので行きませんでした。



最後に「北斗の塩」という観心寺の清めのお塩を賜る。

観心寺で一つずつ御祈祷したもので神仏用や盛り塩、清めのお塩だけでなく食用としてももちろん使え結構美味しいと書かれてます。


バス停で15:12に来るバスをかなり前から待ちました。


家に戻ってから、拝観のしおりを見て気になったことふたつ。



天邪鬼の土鈴
本物は、霊宝館でみられるようです。
無料の宝物館ですけど重文の仏像様がいっぱいあって見応えあるらしい。



しおりには、高野山真言宗 遺跡本山 観心寺と記されています。
遺跡本山は、ゆいせき本山と読むのですね。

何それ? だったので調べてみました。
お大師さまに特にご縁のあるお寺のことで、日本でわずか2ケ所
神護寺(京都市右京区)、観心寺(大阪府)

ちなみにランク的には
総本山-金剛峯寺(和歌山県高野町)
大本山-寳壽院(和歌山県高野町)
次に、遺跡本山、別格本山、準別格本山と続きます。

すごいお寺だったのでした。
まだまだ全部見切れてませんから、またチャンス作って拝観したいです。




最後に、五木寛之氏の百寺巡礼(第六巻 関西)によれば、

「正面に金堂。その手前には平らな石。これは「礼拝石」と呼ばれているものだ。
空海がこの石のあたりに座って空の北斗七星を礼拝した、と伝えられる聖なる場所である。
そのとき、空海の祈願によって天から七つの星が降ってきたので、空海は それを祀って、中心に本尊の如意輪観音座像を置いた。
これは、密教の図像にある「七星如意輪曼荼羅」を境内に構成したものだという。いわば「星の曼荼羅」である。
  
 この七つの星塚には、それぞれ舌をかみそうな名前がついていた。
貪狼星、巨門星、禄存星、文曲星、廉貞星、武曲星、破軍星。
観心寺にはむかしから、この七つを巡拝して無病息災や厄除けを願う、という風習があったらしい。
「星に願いを」というあたりは、なかなかロマンチックな信仰である。」 

因幡の白兎③ もうひとつの白兎伝説

2017-02-01 | 古代史のミステリー
因幡の山間、八上の八頭町には3つの白兎神社があります。



その地には道祖白兎大明神として祀る白兎伝説、それは天照大神降臨伝説でもありました。

八頭町のサイトには以下のように記されています。

“昔、天照大神が中山に降臨された際、仮の宮を作ってしばらく滞在しようとされたところ、1羽の白兎が現れ、大神の裾をくわえて道案内をしました。それに従われると、中山から尾根続きに2つの大石があり、そこへ案内したとのことです(伊勢ヶ平のこと)。
大神は、しばらくそこで仮住まいをした後、因幡と但馬の国境の山を超えて去って行きました。この時道案内をした白兎は、実は月読命の御神体だったので、「道祖白兎大明神」として、中山の尾根続きの4ヶ村の氏神として崇める事になりました”





大雪の鳥取に「兎」を追う (朝日新聞署名記事:松原雅己)でわかりやすい地図もらってきました。
前後編にわかれてます。
2011/02/18 2011/03/04

観字紀行という趣向で、漢字からうさぎを追いかけてます。




よくよく見たら、うさぎの漢字が異なってます。

左:白兎海岸の白兎神社一の鳥居右側の石柱
鳥居左右に石柱あり、建てられた年代が左は昭和38年、右は昭和6年で字も異なるということをこの記事で知りました。

自分が撮影した画像みたら、本殿の偏額にも同じ漢字でした。



説明文も引用させてもらいます。

上の部分が普通はカタカナの「イ」のように見えるのに対し、白兎神社の兎は「ノ」
白兎神社の河上博一宮司に尋ねると「私はノの兎を使っています。鳥居の額などはノを使っているが、案内板は兎だったりします。こだわりはありません」とのこと。
この神社にまつられる白兎神はただの動物ではないので、あえて変わった字体を使うよう代々受け継がれてきた……などというエピソードがあれば面白いのですが、ちょっと拍子抜けですね。
白兎神社で使われる「ノ」の兎は、神社の中だけの独特の字


右:福本の白兎神社鳥居
上の部分は「刀」「儿」の右に「ム」
白兎神話を研究している大江幸久さんは著書「八上 神秘の白兎と天照大神伝承」のなかで、「白兎は神の化身であり…普通の兎とは異なることを、文字で示さんがための意図的な文字の改造」ではないかとの説を唱えています。
たしかに「ム」にすることによって、「魂」「鬼」といった、単なる動物ではない、「この世のものとは違う」イメージを持たせたかったのかもしれませんね

引用ここまで






うさぎ [兎 兔 菟]

兎=新字体(常用漢字)で、兔=旧字体、 
兔の本字は 「ク」でなく「刀」だそうです。


因幡の白兎①で、たぬきさんがコメントしてくださいましたが、
『古事記』では「稻羽之素菟」(稲羽の素兎)と表記。

くさかんむりがついた『菟』もウサギを意味する漢字で、この字を使った例は
兵庫県香美町(旧香住町)の醸造元「香住鶴」が7年前に「稻羽之素菟」を2500本限定生産。
2010年秋に山陰海岸が世界ジオパークに認定されたことと、古事記編纂1300年をお祝いする記念として造られた。






奈良の大神神社はみ~さんの神様だというのに、なでうさぎがあって、こう説明されてます。

「神託に従って大田田根子に大物主神を祭らせたご神意の日が、卯の年、卯の日だったので、「卯」をご神縁の日としことのほか大事にされています。
なでうさぎは江戸時代中期から大神神社に伝わるもの」


2008-11-16 大神をおおみわと呼ぶ不思議 の記事の最後に、
次は「因幡の白兎」を調べてみます。

と記してから月日が流れ、2011/3/11 東日本大震災が発生。
その二日後、卯の年、卯の月、卯の日と、12年に一度3つ卯が重なった日に奈良の大神神社を参拝して、

2011-03-13 原発制御を祈りました
そのときに撮影した上の画像「なでうさぎ」です。



摂津の国一宮は住吉大社、ここにも、なでうさぎいます。


糸魚川産翡翠の玉兎は、奉納は平成二十三年卯歳元旦、2011年です。

手水舎も神兎でよそとは違うとこです。


2012-01-10 おもかる石

住吉大社と兎
兎(卯)は当社の御鎮座(創建)が神功皇后摂政十一年(211)辛卯年の卯月の卯日であるご縁により奉納されたものです と説明書きがあります。

境内北に「卯の花苑」もあり「卯の葉神事」も。



大神神社も住吉大社もなぜ「卯」を吉日とするのか?


さて、十二支の4番目は「卯」で示されます。
時刻では午前六時、方角は東。

インドのジャータカ物語ではうさぎは火を消す力があると考えられていたとか、
そして帝釈天に月に昇ることを許された動物であるとか、、
中国でうさぎは月でお餅ではなく不老長寿の薬を作っていると信じられているとか、…



ちょっと見方を変えて、

「う」とよむ漢字は
宇、羽、雨、卯、鵜、烏、迂、兎、有、右、芋、菟、胡、得、字、憂、種、生など…


漢字の読みからの妄想で

2011-03-14 卯から連想してたどりついた禹

崇神天皇の時代、疫病の蔓延によって人民の半数が死ぬという事態が起こり、これは宮中にアマテラスと大物主を祀ることによる祟りだと。
古代、祖先霊は直系の血の繋がった子孫に祀られないと恐ろしい祟りをもたらすと考えられていたからです。
そこでこの2神を宮中から出し、その子孫を捜し出し、祖先の祭りを行わせるようになりました。

・・・

なぜ、「卯」「兎 兔」なのか結局はよくわからなったのだった。


方角を十二支の動物で表していた時代、真北を子、東を卯、南を午、西を酉にあてはめて
地球上での南北線を子午線(しごせん)
東西線はある点Pを通る子午線に対し垂直で東西を示すのが卯酉線(ぼうゆうせん)

今年は酉年、あらためて東西に意識向けて再考したいと思います。


気比大神=応神天皇=垂仁天皇皇子ホムチワケ

2017-01-08 | 古代史のミステリー


元旦の初詣に福井県敦賀にある気比神宮へ参拝しました。
実は2013年1月にも地域の方々と若狭彦&若狭姫神社参拝し記事に残してます。
ところがその後続けて気比神宮行ったのに、記事にできなかった。
調べてるうちにワケワカランようになったのでした。
あれから4年過ぎて、またもお蔵入りにしないため記録残します。



琵琶湖の北、それほど距離なく大きな山を越えるでもなく敦賀です、
日本海の物資がここに集結したのが納得できます。


日本三大鳥居の一つをくぐり、左に猿田彦神社を過ぎて手水舎。
すぐ横に長命水、同じ水源らしいです。



本殿は国道8号線に面した西の鳥居から参道進み直角、北側に二の鳥居、南向いて本殿があります。



行儀よく二列にずら〜っと並んでました。
社務所やらの建物から左に出てさらに進むと3つ摂社のお社並び、一番立派なのが角鹿神社。
昔はこの近くに鳥居があり、境内の東側が入口だったようです。



前来た時もココがあやしいなと、プンプン匂いましたから。
帰ってから調べたら敦賀の地名はココが元らしいです。

ツヌガアラシトを祀ります。
垂仁天皇の時に朝鮮半島から渡来。
ところが応神天皇の時代に、アメノヒボコが渡来、兵庫県の出石神社で祀られます。

大阪は平野のあかるひめ神社のあかるひめを追いかけて来たんだって。

ツヌガアラシトとアメノヒボコ、名前も、時代も少し違う。


ところが、応神天皇はこの敦賀で、自分の名前イザサワケと、気比の神ホムタワケと名前を交換した。
だから気比の大神はイザサワケとなり、気比神宮で第1の神様として祀られる。


ホムタワケが応神天皇、
似た名前ホムツワケ、あるいはホムチワケは垂仁天皇の皇子の名前です。
后の佐保姫が兄の謀反に味方して兄の稲城で垂仁天皇の子供を出産します。
火をつけられ燃え盛る稲城での火中出産譚をもつホムチワケ。

とてもよく似ていて、どっちがどちらかわからんようになる。

去年11月に伊勢の瀧原宮を参拝した後に書いた記事
2016/11/18 大神の遥宮・瀧原宮と真奈胡神

そこのコメントで触れた時が契機となりました。
「垂仁天皇とサホヒメの間にホムチワケ。
垂仁天皇とヒバスヒメとの間にヤマトヒメでした。
次の景行天皇は、ヤマトヒメの同母兄妹で、景行天皇の子供である双子の皇子の片割れがヤマトタケル。
お詫びして訂正しときます。
本牟都和気命(ホムチワケ)、倭姫命(ヤマトヒメ)、倭建命(ヤマトタケル)みな鳥の伝承持ってて興味深いです。

そして15代応神天皇は、ホムタワケというのとよく似てますね。
チとタの違いだけ…」



ホは稲穂、瑞穂の国のミズホのホ。
一緒にという意味あるいは親しみを示す接尾語ムツ、ムチ、ムタがついたとすると同一だと考えられるという論文発見しました。
20年以上前に発表されてて、その後どう検証されてるかはわかりません。

「記紀の五世紀以前部分の資料的性格(2)」奥田尚 著
東洋文化学科年報第5号 1990年11月

気比大神のイザサワケ、履中天皇のイザホワケ、この微妙な違いサとホも同一だと説明されてます。
詳しくは→ こちら

ツヌガアラシトもアメノヒボコもほんとは同じ時代だとすると、 話がわかりやすくなる。
同じストーリーを名前変えて繰り返してる、

神武、崇神のハツクニシラススメラミコトが同じなのも、
神武、崇神、応神に神がつくのもヒントなんでしょうかね。

またまたこんがらがって来たので、ここで休止。



春日大社のご神宝「きんじらでんけぬきがたたち」

2016-12-27 | 古代史のミステリー






「春日大社 よみがえる黄金の太刀
    ~平安の名宝に秘められた技~」

昨晩7時のニュース見た後、そのままチャンネル変えずたまたま視聴。
ほんとは見ることはできないご神宝なれど、このたびの復元で2016年式年造替で奉納される前に記録残されてました。
その工程に息の詰まる思いで凝視してたので撮影忘れてて、やっと我に返りシャッター押したのが上3枚。


春日大社のご神宝 金地螺鈿毛抜形太刀



「金地螺鈿毛抜形太刀」とは、奈良の春日大社に平安時代末期に藤原頼長が奉納した太刀で、春日大社でも最高のご神宝。
800年もの経年劣化で錆びついて鞘から抜くこともできなくなっていた。
2016年「式年造替(しきねんぞうたい)」にむけて数年前から完全復元の作業が行われていたドキュメンタリーです。
こちら

この記事エントリーのカテゴリーを何にするか、
なぜか迷うことなく古代史のミステリーにしてしまった。
そのわけは、何でかな… 
直感です。

大神の遥宮・瀧原宮と真奈胡神

2016-11-18 | 古代史のミステリー


不思議なねじれ杉巨木@瀧原宮 の続きです。
川で禊して参拝するにも順番があります。



正式な参拝の順番
0:「御手洗場」か、瀧原宮の境内に流れる「頓戸(とんど)川」で手(口)を清めます。
1:瀧原宮
2:瀧原並宮
3:若宮神社
4:長由介神社(川島神社)



瀧原宮(たきはらのみや)
主祭神:天照大御神の御魂「和魂(にぎみたま)」


瀧原並宮(たきはらならびのみや)
主祭神:天照大御神の御魂「荒魂(あらみたま)」

「瀧原宮(和魂)」と「瀧原竝宮(荒魂)」2つの社で、「天照大御神の御魂」を祀られています。
内宮の雛形であったとも云われ「大神の遥宮(おおかみの とおのみや)」と呼ばれます。

神宮のサイトによれば


瀧原宮、瀧原並宮とも天照大御神の御魂をお祀りし、古くから「遙宮」として崇敬を集めています。
瀧原宮は二つの別宮が並立しており、また御船倉を有するなど他の別宮と異なる点が多々あります。
神域内の樹齢数百年を越える杉の木立に囲まれた参道と谷水の流れを利用した御手洗場は内宮を連想させ、神代の昔に誘います。
お参りは瀧原宮、瀧原並宮の順にされるのが一般的です。


御船代(みふなしろ)ってこんなんらしいです。



由緒と沿革
瀧原宮、瀧原並宮のご鎮座の由緒は大変古く、『倭姫命世記』によると約2000年前まで遡ります。第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が、御杖代として天照大御神を奉戴して、ご鎮座の地を求めて、宮川下流の磯宮をお発ちになり、上流の方にお進みになると、「大河の瀧原の国」という美しい土地があり、この地に二宇の宮殿を造立されたのが起源とされます。
このとき、宮川の急流に困られたご一行を真奈胡神がお出迎えをしてお渡ししたため、倭姫命はその場所に真奈胡神をまつる御瀬社をお定めになりました。これが今の皇大神宮摂社多岐原神社です。瀧原宮の下流約6km、大宮町三瀬川の宮川のほとりに鎮座されています。そこには近年まで熊野街道の「三瀬の渡し」がありました。


太字はこのブログ管理人が行いました。
宮川下流の磯宮って、宮川を下れば外宮。
磯宮に注目すれば伊雑宮のことなんでしょうか?


真奈胡神ってどなた?



若宮神社



若宮神社は、瀧原宮の東、石段を上がった場所に立つ所管社。
ご祭神は詳らかではなく、天水分神(あめのみくまりのかみ)との伝説が残ります。



南向きに鎮座し、社殿の左手に御船倉(みふなくら)が並ぶのに、画像に残ってませんでした。
なぜかあえてその建物を外して撮影してました。

御船倉は倭姫命が使用した御船が納められているとされます。


若宮神社へあがる階段右手に長由介神社(川島神社)
由緒は古いとされていますが、詳細は不明。



私たちは、階段上がった一番高いところにある若宮神社がとても気になりました。

若宮ってどなた?
天水分神との伝説も残されるそうですが、さらに別名があり、古来では「天若宮」とも呼ばれていたそうです。

長由介神社(川島神社)も含め、真奈胡神に関係あるのでしょうか?
真奈胡神を祀る御瀬社は、瀧原宮の下流約6kmに鎮座する多岐原神社と書いてありますが。


真奈胡神でググってみると、
真奈胡神とはいかなる存在か。
ここに興味深いことが書かれてありました。

>真奈胡神は海中に居て白色と関係あるとすれば、思い浮かぶのは神功皇后の三韓征伐の伝説に登場する「安曇の磯良」だ。…
真奈胡神の存在は、伊勢神宮の祭祀の成立を検証する手掛かりになる筈だ。


若宮(神社)わかみや とは
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説によれば、
「基本的には本宮の摂・末社として主祭神の御子(みこ)を神に祀る社をいうが、ときに本宮に対してその主神の分霊を勧請(かんじょう)した社を若宮といい、また非業の死を遂げた怨霊(おんりょう)を慰め鎮めるために祀った社を若宮と称する例も少なくない。」

瀧原宮
三重県度会郡大紀町872


海人族の聖地★いざわのみや

2016-11-14 | 古代史のミステリー


伊雑宮の御田植式が行われる磯部の御神田です。
デジカメで撮影しましたが、やっぱり午後3時半ごろの昼下がりの光が入って、左側に紫、右側にうっすら紅色が写りこんでいます。



紺色の六芒星で記したのが伊雑宮、その左茶色の記したのが御神田、少し離れた右手の赤印が倭姫命旧跡地です。




鳥居の目の前に神武剣道場があり、石塔には六芒星がみられます。







現在伊雑宮の遷宮が執り行われるのは内宮の約1年後。
今回は平成26年11月28日でした。

かつて伊雑宮の式年遷宮は、内宮の遷宮に先駆けて行われていたとか。
伊雑宮にまつわる諸々の史実に触れますと、
国家神である天照太御神がご鎮座する本宮を、どうしても内宮にしておかなければならない抜き差しならぬ理由があるよう。
そのためには、伊雑宮を内宮の別宮扱いにし、倭姫の史実を隠す必要があったのでしょう。
実際にごく最近まで、伊雑宮の近くに住む人々でさえ、倭姫や内宮に関する話を表立って話題にはできなかったそうです。


以上の文章は、たびたび神社 というブログから引用させてもらいました。
こちらの伊雑宮の一連のエントリー記事を読ませていただき、行ってみたいという思いに駆られました。

詳しくは→こちら

一部引用させてもらいながら、倭姫命の巡幸を説明しますと

大和の笠縫邑に安置されていた八咫の鏡を託された豊鍬入姫命が、まず最初に向かったのが丹後の国(真名井神社)。
大和の国に戻ってきたのち、紀伊の国、吉備の国、再び大和の国に入りその役目を倭姫命に引き継ぐ。
豊鍬入姫命が目指したのは、その昔、天孫族(イスラエルの民)が、日本に渡来した際に上陸したであろう地点と重なっている。

そしてそれらはすべて、海人族(先住民族)の拠点であり、倭姫命が最終地と定めたのも、伊勢(磯部)という海人族の聖地であった。

豊鍬入姫命・倭姫命の巡幸というのは、自らの祖先神を祀った土地を巡る慰霊の旅であった。

おやひこさまの不思議★弥彦神社

2016-11-05 | 古代史のミステリー


10/27初めて越後一ノ宮弥彦神社を参拝しました。
以前からいつか行きたいと願ってました。

なかなか大阪から新潟へ旅する機会はありません。
同業者の皆さんも行ったことないと言われてました。



地図見るまで、弥彦山がこんな海岸べりにあるとは思いもよりませんでした。



交通網ご覧いただくとわかるように、なんかまっすぐ海岸線に平行してないのです。
新潟の平野の先に弥彦山がありその先は日本海で、対岸に佐渡島。
きっとフォッサマグナの地溝の動きと関係あるのかもしれません。
それよりも長岡の田中角栄の政治力でしょうか。


とりあえず新潟まで航空機で入りましたが、縦に長い新潟県を移動するのが大変。
旅の二日目、村上市からジャンボタクシーで弥彦村へ。

弥彦神社境内にものすごく立派な菊が4本、青いネットで保護されてたのを隙間から撮影


11/1からの菊まつりに備えて、菊の開花を調節されてるそうです。
菊まつりのポスター



社務所で丁寧にご説明いただき、限りある時間皆を待たせてたので撮影する時間無くなってしまった。


参道中ほどの神橋「玉の橋」
明治45年の弥彦大火で、門前町を始め正面鳥居からご本殿まですべて炎上し境内建築物全部が失われました。
唯一、神橋「玉の橋」だけが炎上の難を免れた明治の遺構だそうです。

もともと本殿は現在の宝物殿あたりにあったそうで、昔は南向き、現在は弥彦山を背にしています。




彌彦神社の祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)。
天照大御神の曾孫です。
神武東征に功績をたて、越の国開拓の命をうけ、漁業・製塩・農耕・酒造等越後産業文化の礎を築いたという。

稲作りや、越後ならではの酒造り、塩の作り方、網を使って魚を取る方法を指導、はたまた蛮族を平定もした。
越後の人々を見守って、助け導いて、
伊夜比古神(弥彦神)はおやひこさまと呼ばれて崇敬を受けています。

「弥彦の神」が片目で「海を渡って野積の 海岸に上陸し、越後を開拓した」との伝承があるそうです。
製鉄と関連付けられる大江山の酒呑童子の生まれが弥彦山 というのも「鉄」と関係ありそう。

酒呑童子は、弥彦周辺の岩室町和納、国上寺周辺の分水に出生伝説が地元に伝わり、今でも童子屋敷・童子田など地名や、自分の姿を映したという「鏡井戸」の井戸名としてその事跡を残しているそうです。




この天香山命は、元の名を高倉下命(たかくらじのみこと)

天孫降臨のときに紀伊の国の熊野に降り、神倉神社に祀られてました。

2014-07-08 ゴトビキ岩で思いもよらぬことが

2014-07-09 神倉神社★熊野の根本聖地である神倉山

あのとき、石段で足を滑らせ、もうちょっとですってんころりんが鳥居で助けてもらいました。
とてもありがたいお気に入りの神様でした。





高倉下命は、神武東征のとき、熊野の荒々しい神様の毒気で意識を失った神武天皇一行を霊剣で助けました。
高倉下命の献上した霊剣「ふつのみたま」により神武軍は蘇ったのです。
そして大和に神武天皇を案内して大和朝廷が成立し、越後の開拓の命令をうけました。
で、弥彦山の頂上を「神剣峰(みつるぎのみね)」って呼ぶのですね。

霊剣「ふつのみたま」といえば、大和の石上神宮、ここも大好きなお宮さんです。
彌彦神社は、宮中祭祀と同様鎮魂祭を行うことで有名なんだそうです。
このほかに鎮魂祭を行う神社は、石上神宮・島根の物部神社ですって。

祭神である天香語山命がニギハヤヒの子であるからなんでしょうか。




あとその他に、弥彦神社がちょっと違ってることは、
二礼四拍手一礼

出雲や宇佐と一緒ですね。
私の大好きな、富田林の美具久留御魂神社もそうです。