秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

今宮神社の神馬となまずと三階松紋と

2016-09-15 | 古代史のミステリー




今宮神社(京都市北区紫野今宮町21)の東門入ってすぐに神馬舎
小さなお社ぎりぎりの白馬がカワイイ。


神橋左側 手水舎後ろに宗像社




台座になまずの彫り物






だからお守り授与所に 姫なまずのストラップあったのね。



あぶり餅やさんは東門前にあり、北大路通りの楼門から左側





青の星印のところに宗像社がありました。







三階松紋には、松ぼっくりが付いてるし、下に桜の花も描かれてるそうで珍しい。
謂れはまだ調査中。

本社前には円錐に積み上げた砂の山が二つ。
上賀茂神社と同じ、たしか神が降臨するところ、でしたっけ?

【本社】
中御座 大己貴命(おおなむちのみこと)
東御座 事代主命(ことしろぬしのみこと)
西御座 奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)

【摂社】
疫社  素盞鳴命(すさのをのみこと)


あぶり餅メインで初めての参拝、
境内社もいっぱいあってすべての神様にご挨拶できなかった。

神橋渡って、すぐ目の前に鳥居があり石段が上に続く一番高いところの神様にご挨拶行けなかったのが気になってます。
どなただろうと帰ってから境内図で、月読社と確認。

今から思えば、あの白馬は月読命の跨る神馬かも・・・



平安時代半ば、疫病が蔓延した。
994年、もともと今宮神社に鎮座した疫神を二基の神輿に齋いこめて船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈った。
これが紫野御霊会であり今宮祭の起源。

1001年、ご霊夢によって疫神は船岡山から再び現在の当社地に奉遷され、新たに設けられた神殿三宇ともども今宮社と名づけられた。これが今宮神社の起源。

古いお宮にたいして今宮ですが、もともと古宮には疫神のスサノオ命だけでなくツキヨミ命もおられて、疫神だけが行ったり戻ったりされたのではないでしょうか。
だって境内の一番高いところだもの。



船岡山、今宮神社の位置を地図で確認してみましょう。




参照
平安京の条坊図をGoogle Mapに重ねて遊んでみなはれ。 

平安京の大内裏の真北ですね。


東側の東山には八坂神社、もと祇園社があります。
西側は、地図でたどると、梅宮大社とか松尾大社とか?

10世紀に慶滋保胤の記した『池亭記』には、
「西京(右京)は人家いよいよまれにして ほとんど幽墟にちかし」と書かれているそうです。
大内裏の焼失に並行して右京も荒廃し、本来禁止されていた農地へと転用されることすらあったようです。


では南側はというと、朱雀大路の端に羅生門を挟んで東寺と西寺。
現代では東寺しかありません。

西寺は存在した! ~何故、東寺は栄え、西寺は衰退したのか

へぇ~ 知らなかった歴史、
さすが千年の都、京都ですね。


794年 鳴くよウグイス平安京
秦氏は、長岡京と平安京の造営にあたり、その一族の財力を上げて取り組んだ。
一族のシンボル的存在であった秦河勝の屋敷を大内裏として寄進した
村上天皇(946年~967年在位)の日記には、「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」とある。
大内裏にある右近の橘は、河勝の屋敷の庭にあったものであった。

詳しくは→平安京と秦氏
(高校生のためのおもしろ歴史教室)


今度はあぶり餅おまけで、参拝メイン、じっくりフィールド調査いこう。

不思議いっぱいの今宮神社でした。


ご参考までに
高野川、加茂川、桂川の流れをかえ整備して豊かな京都盆地を作り上げた秦氏。
603年 秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺が広隆寺
国宝指定第1号の弥勒菩薩像です。

京都市右京区太秦にあり、宗派は真言宗系単立。
山号を蜂岡山と称し、蜂岡寺・秦公寺(はたのきみでら)・太秦寺などの別称あり。


過去ログのご紹介、よかったら

2011-10-02 京都嵐山1dayチケットで損した話

2009-04-22 弥勒菩薩と如意輪観音


鳥海山の大物忌神

2016-07-15 | 古代史のミステリー


今回のツアーは仙台空港から宮城県の観光バスで
ナンバープレート223
そして鳥海山は標高2,236メートル。

鳥海山五合目鉾立展望台より頂上を望み記念撮影





鳥海山は姿が美しく出羽富士とも呼ばれ日本百名山のひとつです。
東北一の独立峰で、山形と秋田の県境にあるため
秋田県では秋田富士、山形県では庄内富士。
山麓周辺の人々の守り神として古くから崇められてきたのは、その雄姿と度重なる火山活動にあります。

直近では1974年 水蒸気爆発、小規模な泥流は少なくとも6回。
鳥海山史によれば578年から717年の約140年間ほど活動期だったようです。
810年から939年にかけての9世紀も数々の噴火の記録が残っています。
大和朝廷の蝦夷征服による不安定な治安と重なって、古代から神階奉授が繰り返されました。

元来、鳥海山は山名が無く山そのものが「大物忌神」と呼ばれていました。

鳥海山の噴火は大物忌神の怒りであると考えられ、噴火のたびにより高い神階が授けられたのでした。
大物忌神(おおものいみのかみ)として崇拝されたのは、蝦夷の怨霊を鎮める意味の神名だそうです。






鳥海山大物忌神社の社伝では神宮外宮の豊受大神と同神だと。

なんでかなぁと検索してみました。

・大物忌神を祭る神社は全国でも10社もない極めて珍しい神である
・鳥海山の大物忌神社では、大物忌神は豊受大神・広瀬神などと同神とする考えがあると記しているが、その根拠は示していない
・いずれにしても大物忌神とは、巫女のような役目の女神である
・大物忌命は大津皇子と大来皇女事件が契機となって誕生したと推定される
・伊勢神宮の外宮と内宮の斎宮としての位置関係 
・聖童女「大物忌」が御饌都神としての大物忌神の実体

詳しくは→女神・大物忌命でご覧ください。



海幸山幸神話と大海神社

2016-06-20 | 古代史のミステリー


大海、ダイカイと読みます。
神社覈録1870には「於保和多都美・オオワタツミと訓べし」とあるそうで、ネット検索ではオオワタツミ神社というのも見ました。

この正面の鳥居は帰るときにくぐり撮影したもので、左側から境内に入りました。



生根神社は少彦名神を祀られているので、ギズモの安寧を願って参拝しようと思いました。
そこからすぐ南に、大海神社は鎮座していました。

住吉大社境内の東北隅にあるも、つい最近まで全く知らなかった。



今まで何度も子供の頃から参拝しているにもかかわらず、です。
たいていの参拝者は、路面電車の住吉大社鳥居前駅で降りたら正面の西鳥居の目の前。
車なら駐車場が南側にあるので、どうしても青い線あたりを参拝されると思います。

大海神社は祈祷殿、神楽殿の裏側(境内北)にあるため意識しないとわかりません。
その存在が急に目に留まったことは、お呼びになられたということにしましょうか。

これもまた、ありてある、のかも。


生根神社より南に下り境内に入り


手水舎、雨降ってて撮影失念したので、住吉大社公式サイトより画像もらってきました。

「玉の井」という井戸の底には海幸山幸の物語で登場する「潮満珠」があるといわれています。



住吉大社摂社大海神社本殿
江戸中期宝永5年(1708)造営
正規の住吉造社殿としては、本社本殿(国宝)より古い。

社殿の西方前面は「玉出嶋」の旧蹟で最も神秘な庭とされている、
とこの記事投稿に当たり調べていてみました。
確かに静謐なりんとした空気が漂っていました。




きらびやかな内陣も立派で格が高そう。





大海(だいかい)神社
大阪市住吉区住吉 2-9-89
北緯34度36分49秒,東経135度29分37秒
鎮座地古来より不変
この地の西方は昔は崖をなしていて海であつたと考えられ、西方海を望む景勝の地であつて、現在も神門の前は坂をなして傾斜の石段がつけられている。



現代の祭神 豊玉彦命 豊玉姫命

神の変遷

古く、住吉の神は目に見える現人神(アラヒトガミ)として顕れることがあり・・・


同行の連れは、大阪に生まれ育ちすぐ近くの大学に通ってはいたけど、住吉大社初参拝とのこと。
太鼓橋から渡りましょうと正面から。






参拝終えて、西南角の時計台越しに住吉大社を見ても、大海神社はどこにあるかわかりませんね。
境内図でも意識に上らない表示だったと思います。
住吉大社鎮座以前からの、ということをあまり大きく打ち出したくないような。






参拝後の楽しみは、やろくの名物玉子コロッケ。
創業1935年(昭和10)ですって。
私たちは11時半に入店したのですぐ席につけましたが、次々と来店者が続きました。


関西アジサイ名所 三室戸寺と菟道稚郎子

2016-06-16 | 古代史のミステリー


約1200年前、光仁天皇の勅願により創建された三室戸寺は別名花の寺とも呼ばれます。
5月にはつつじ2万株、しゃくなげ2000本、6月のあじさい1万株、7月にはハス、そして秋には紅葉の名所でもあります。
ちょうど今は、関西圏のローカルニュースや、新聞でもあじさいのことがよく取り上げられています。




「日本一のあじさい名所はどこ」という2009年の朝日新聞の調査で全国3位だったそうです。
7030人が回答
1位 箱根登山鉄道   2945票
2位 鎌倉 明月院   2532 
3位 三室戸寺     2212
4位 大和郡山 矢田寺 1311

去年見た、矢田寺のほうが庭園作りで迫力ありました。
三室戸寺は観光しやすいように足場とか整備されすぎて、私的には面白みに欠けます。
 
2015-06-07 矢田寺の紫陽花
2015-06-09 矢田寺の地蔵信仰の発祥に小野篁が関わっていた件






本堂前の池ではハスの花が咲き始めています。
ちょうど今の時期なら、紫陽花と蓮が楽しめます。

花のほかにも、いろいろ面白いものが目に留まります。
本堂への階段上がってすぐのところで出迎えてくれるのは

宇賀神

耳を触れば福が来て、髭を撫でると健康長寿、しっぽをさすれば金運がつく


本堂右下に、宝勝牛


口の中の石の玉を撫でると勝運がつくと言われている、という立て札見てチャレンジ必死だったので撮影失念。
画像もらってきました。

牛のお腹に穴が開いてて中を覗くと牛の木像があるらしい。
知らんかった。


本堂の左下に、狛兎



ウサギ前の大きな球の中には卵型の石があって、その石を立てられれば昇運がつくらしい。
写真は撮ったけど、これも知らんかった。

他にも、なでるとお金(鐘)がかえると言われている龍頭
本堂や手水舎蟇股にある龍彫刻 三頭みつければ昇運がつく
など見落としました。

20年ほど前に参詣していて今回は2度目のお参りでした。
どちらも紫陽花だけ見に行ったではもったいないことしました。




今回は事前下調べしたときに、十八神社が気になりました。
本堂の裏左手にあり、本殿は室町時代に作られた重要文化財。





この場所に三室戸寺が建設される以前よりあった社で、大物主神、熊野樟日命、手力雄命の三柱を祀られていた。
三室戸寺が建設されるに当たって鎮護社となり、さらに十五柱の神を含祀、合計十八柱の神を合わせて『十八大明神』として祀ったので十八神社。





京阪宇治線三室戸駅は、みむろどえき と読みますが、
三室戸寺は、みむろとじ と濁りません。
宇治の中心部から北東方向にある明星山の麓にあります。

三室戸寺略誌によれば、奈良時代770年、光仁天皇が観音像を祀る御室(みむろ)離宮を建て、南都大安寺の行表が創建し御室戸寺と称するよう勅された。
その後、光仁、花山、白河三帝の離宮にもなったので、寺名の御の字を三に替え、「三室戸寺」に。



三室戸寺の山号となっている明星山は標高231m
参道は明星山の山裾にあるので樹木が繁る登り道です。

住所は、宇治市菟道逃谷

『山城国風土記』に
「宇治というは、軽島の豊明の宮に御宇(あめのしたしろ)しめし天皇(応神天皇)の御子 宇治若郎子(うじのわきいらつこ)、桐原の日桁(ひげた)の宮(菟道宮)を造りて、宮室(おおみや)と為したまひき。御名(みな)に因りて宇治と号(なず)く。」



本堂前の狛兎は、仁徳天皇と異母弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が宇治に来た際、兎が道案内したとの伝承に基づいていたのですね。

本堂裏山の観音山に 菟道稚郎子が葬られていると伝わります。


三井寺の新羅神社考より引用

新羅神社
宇治市菟道滋賀谷に鎮座する新羅神社の祭神は素盞鳴命と五十猛命
三室村の辺りは古来、神在ますところとして信仰されてきた。
御室の里と言われ、三室戸寺も御室、御室堂といわれた。
三室戸の戸の文字は堂の転化したものか、または場所・入り口を指し、神座を意味するといわれる。
その神座は「みむろ山」と呼ばれた明星山を指している

十八神社
当地方には宇治宿禰の一族が住んでいたといわれている。
宇治宿禰は饒速日命(にぎはやひのみこと)六世の孫とされており、出雲族との繋がりを示している。
更に三室戸寺の十八神社の由来に「初め三輪御諸山明神(大物主命)を祀った」とあることから、当地方には古く縄文時代から弥生時代にかけて渡来系の出雲族が進出していたようである。



あの滝畑ダムの天神社はもと大梵天王社で、岩湧山ってキトラ山とも呼ばれる

2016-05-30 | 古代史のミステリー


昨日午後、河内長野市の滝畑ダムに車転落の痛ましい事故ありました。
ちょうど1ヶ月前に槇尾山の施福寺へ西国33所の朱印賜りに参拝。
自分で運転して行ったのであの辺りの地図は何度も見ていて、槇尾山の東側にある滝畑ダムを覚えていました。



橋本市
 槇尾山・岩湧山・紀見峠コース(ダイヤモンドトレール)

いつかそのうち歩いてみたいと思って保存してました。

めねふねさんがコメントで、
「この辺の地理的、神社的なつながりなど、気がついたことあったら、なんでも教えて」
ということですので、知ってることにさらに調査加えてお知らせします。


滝畑ダムは心霊スポットというのが結構ヒットします。
ひょっとしたら霊に引き込まれたのか・・・なんて。

そういうスピ系はわからないので、歴史的背景を中心に今の時点で知りえたことを。


最初の画像をご覧いただくと、転落した橋の手前、ダムの左岸に天神社があります。

旧滝畑7ヶ村の氏神で旧名は大梵天王社であったそうです。

大阪府河内長野市滝畑731
北緯34度22分58.8秒 東経135度31分19.5秒

主祭神 天照皇大神、伊弉諾命、伊弉冉命
創建 不詳
本殿の様式  三間社流造
河内長野市指定文化財  鉄製湯釜 長禄4(1460年)製作


天神社で検索してると、あるブログ
「ここも河内長野(高向神社)と同じく富田林(美具久留御霊神社)の宮司さんが守っておられます
本殿後ろの森は神体山である
下を見下ろすと 滝畑ダムがはるか下に見えます
南東の方には 岩湧山茅場が頂上近くに白く帯を巻いたように見えます
滝畑地区では「キトラ山」と呼んで茅場を大事に守っておられます」


この文中のキトラ山に甚く反応しました。

キトラ山が岩湧山だって?
高校1年の春の遠足で行きましたが、当時キトラ山って知らんかった。

岩湧山は、地元では、キトラのカヤ山と呼んだ。
山麓一帯の岩盤が湧くように屹立する山容から岩湧山となった。






岩湧山頂一帯は別名『キトラ』と呼ばれる滝畑住民の区有地で、日本を代表するカヤ(茅、萱)の宝庫。
カヤは一般に屋根葺きや炭俵、スダレなどに使われるイネ科の多年草(ススキの一種)で、オンガヤとメンガヤに大別される。
オンガヤは平地に分布し太く固いが、メンガヤは主に山地に分布し細かく柔軟性に富んでいる。そのため、メンガヤは屋根葺きに適しているとされてきた。
キトラのカヤは、良質のメンガヤで、文化財建築物の屋根葺きに最適と認められている。
岩湧山茅山保全協議会では、このカヤを文化庁に提供すべくカヤ場の保全およびカヤの品質向上に努めている。


キトラって珍しい地名です。
飛鳥のキトラ古墳となんか関係あるのかな。
かつてのエントリー記事 → 2013-08-12 キトラ古墳




続いて気になったことは、大梵天王社の祭神
天照皇大神、伊弉諾命、伊弉冉命 

なんでかな。

大梵天王で調べてたら、み熊野ネットで
和歌山県田辺市神子浜 神楽神社(かぐらじんじゃ)

神子浜村の産土神で、もともとは大梵天王社(だいぼんてんのうやしろ)と呼ばれていました。
大梵天王とは梵天、古代インドの神ブラフマーを仏教が取り入れたもの。
明治4年に神仏分離して神楽神社と名前を改められました。

所在地 神子浜下浜田307番地
祭神 天太玉命 天宇受売命 毘沙門天 火産霊命 妙嚴宮

森の裾には「南方熊楠珍種の藻発見の池跡」の碑が



熊楠が度々訪れた神社であり、珍種の藻を発見した場所ですって。

和歌山県神社庁のサイトでは
「創祀は社伝に宝亀6(775)年9月勧請という。
例祭は11月23日・・・
巫女の里神楽奉納、湯立神事が行われる。」

湯立神事というのを発見し、湯立には釜が必要。
ということは、滝畑ダムの天神社の鉄製湯釜も同じような儀式が行なわれていたのかも知れません。

滝畑ダムの右岸には滝畑磨崖仏写真があるそうです。

画像いただいたサイトは→こちら


レイラインと中央構造線と地震

2016-04-19 | 古代史のミステリー


今年1月17日に淡路島のイザナギ神宮で見た石板です。
記事にしそこなって保存してた画像です。

昨日、TMさんのブログ訪問したら



>2013年1月の「新聞記事」に九州の地震予測が掲載されていた・・・中略・・・
シロウト目で見ると、震源地が「中央構造線」に沿ってどんどん東上しているような気がする。
新聞によると、四百年前に中央構造線断層帯で地震が起きたらしい。規模は今回と同じくらいで、京都でも地震が発生した


確かに、慶長地震だったか伏見地震だったか、痕跡残ってます。


そこでさらに思い出したのが、次の画像

花岡山と阿蘇国造神社と京都御所を結ぶ熊本レイライン
(阿蘇国造神社は阿蘇神社の北5km外輪山の麓に鎮座するため北宮と称される)

吉田一氣さんのブログより過去に保存させてもらってました。
どの記事であったか不明です。



二つの地図を合体させてみると


九州の二つの原発(玄海、川内)と四国の伊方原発を結んだ三角形の真ん中が阿蘇です。

まだまだ川内原発止めないって勇気ありますね。



古代から、夏至や冬至のレイラインやら中央構造線やら知ってたというのがスゴイ。
空を見ては天体観測、土地はフィールド調査、それら収集した情報を蓄積して、祭祀してたんですね。




熊本のシンボルである熊本城や阿蘇神社がたいそうな被害が出たことはショックでした。
ニュース映像で被害状況や、避難されてる方々の様子を見てると、今の危機、そしてこの先の不安に胸が詰まります。

そしてその線上に住まっているものは、今回の熊本は他人事ではありません。


今一度、気象庁の地震情報眺めてみると

平成28年04月17日12時16分 気象庁発表
17日12時09分頃地震がありました。
震源地は伊予灘(北緯33.6度、東経132.1度)で、
震源の深さは約70km、地震の規模(マグニチュード)は3.8




伊方原発のすぐそばですね。

平成28年04月18日18時18分 気象庁発表
18日18時14分頃地震がありました。
震源地は奈良県(北緯34.4度、東経135.9度)で、
震源の深さは約10km、地震の規模(マグニチュード)は3.1


この地震は18日18時18分という情報発表日時が目に留まりました。

北緯34.4度、東経135.9度 


吉野郡吉野町津風呂湖付近でした。
なんか不思議な形の湖です。


結構この地はよく揺れているようです。
「北緯34.4度、東経135.9度」で検索したら過去の地震記録がいっぱいヒットしました。

津風呂湖は津風呂川を堰きとめて1962年に出来た灌漑用人造ダム(重力式コンクリートダム)。
複雑な形で周囲32㎞、ボート遊びやヘラブナ・ブラックバスのフィッシングもできる。

津風呂川は、古代の津振川(つぶりがわ)
壬申の乱で挙兵した大海人皇子たちが通った道も湖底に沈んでいます。

吉野は信仰の山でもあり、2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界文化遺産に登録されました。


黒髪山のクロカミは黒神で、闇淤加美(クラオカミ)?

2016-04-11 | 古代史のミステリー


黒髪山稲荷神社です。
どこにあるかというと


グーグルマイマップで地図作成してみました→こちら

ちゃんとリンク開くかな・・・

ドリームランド跡地の東側塀に沿って上っていくと京都府に入るまで奈保山東陵があります。
元正天皇と元明天皇お2人の御陵です。
佐保ゴルフセンター手前で右に入る小道を進みますと、わりとすぐに石碑群が目に留まりました。






左側から、碑銘のない岩と小さな祠
「豊國大明神」と書かれた石碑
「石母」と書かれた石碑
「正一位黒住大明神」と書かれた石碑





位置関係がわかるよう画像もらってきました↓



右側に建物があり板塀前に「史跡大黒芝 佐保山西陵七ツ石」と書かれた案内板
左端には、聖武天皇生母藤原宮子后宮墓陵石とも書かれてあります。

とりあえず目に付くままに適当に撮影したけど、七つないやん。
ほかに「豊川大明神」と「玉井大明神」があるらしいけど記憶にない。
なんか長居したくない感じでそそくさと写真とった。




板塀に「史跡黒髪山」と、
和歌がひとつ 貼ってありました。

ぬば玉の 黒髪山の 山草に 小雨ふりしき しくしく 思ほゆ

柿本人麿呂の歌のようです。

先に進むと、その建物の先に赤い鳥居が見える。

ちょっと気持ち悪くて、鳥居の前でこんにちはだけ挨拶して撮影だけした。
画像チェックしたらきれいな光が入ってたので、念のためもう一枚。



やっぱり光が入ってるわと、前を歩く友人に追いついて、その画像を見せた。
ちゃんと挨拶せんと悪かったかなと気にしながらも先を急ぐ。




道路をまたぐ橋があって、黒髪橋。



僅か9年間の営業で1907年廃線になったかつての大仏鉄道の黒髪山トンネル跡は、昭和39年の道路拡張に伴い、山を切り開きトンネルは取り壊されたそうです。



さらに10分ほど歩いて、15:35 奈良豆比古神社到着。

今回、この記事を書くにあたり、調べていて、
黒髪山稲荷神社(奈良市奈良阪町2493)は、奈良豆比古神社の末社と知った。
20分ほど滞在して、奈良坂を下ろうとしたら、

正一位黒神大明神の道標見かけました。




黒髪山の名前の由来

開化天皇の孫に、狭穂彦と狭穂姫という兄妹がおられ、
妹の狭穂姫は、第十一代垂仁天皇の皇后になっておられた。
天皇位を狙っていた兄は妹に、謀判に荷担して天皇を殺すようそそのかすが、天皇を愛していた狭穂姫は天皇を殺すことが出来ず企てが露見する。
天皇は狭穂彦討伐の軍をおこし、狹穂姫は兄の軍に走る。
その時姫はみごもっていて、稲ゆぎ(稲を積んで造った応急の城)のなかで皇子を産まれた。
その皇子に誉津別命(ほむつわけのみこと)と命名して天皇方にお渡しし、
自らは追手から逃れるため、黒髪を切って山に埋め、古い衣をまとって逃去したという。
皇后が黒髪を埋めたところから、この山が黒髪山と呼ばれ、
稲城の古事から五穀の神「保食の神」を招請し、転じて稲荷になったと伝えられる。

悲劇の皇后も今は明るく五穀豊穰の神として、国や民衆を護ってくださっているのであろう。



佐賀県武雄市にも黒髪神社があって、

闇龗(おかみ)神(くらおかみのかみ)という雨をつかさどる神様を祀る由緒ある神社で、
「くろかみ」という名は「くらおかみ」に由来すると書かれてありました。

「クロカミの名前は岩上に鎮まる神の座、又、竜神であるクラオカミ神に由来する古語と考えられています」

黒髪山の大蛇退治の伝説も、水をつかさどる闇?(くらおかみ)という龍神信仰が変化したものと考えられます。


佐保山西陵はもともと黒髪山の西に。というブログには
「狭岡神社のさらに上の方に聖武天皇母藤原宮子佐保山西陵がある。・・・

聖武天皇生母藤原宮子后宮墓は、万葉集にも詠われた史跡「黒髪山」にある。
この辺一帯は佐保山地区古墳群と云われ、聖武天皇縁の御仁の陵が多く点在している。藤原宮子が眠る佐保山西陵はもともと黒髪山の西に位置していましたが奈良ドリームランドの開発により破壊されたようで、現在では「黒髪山」にその痕跡がある… 祠に納まったお地蔵さんの右隣が史跡「大黒芝」、佐保山西陵七ツ石、聖武天皇生母藤原宮子后宮墓稜石、中央に「石母」、右に「黒住大明神」、左に「豊國大明神」の大きな石碑が建っています。更にその右隣が、朱色の鳥居が12本建った「黒髪山稲荷神社」です。

黒髪山のクロカミは、「クラオカミ」の転じた言葉だとされます。「闇淤加美(くらおかみ)」とも書き、その別名を高龗神(たかおかみのかみ)と称します。龗(おかみ)とは龍神のことを意味し、「高」は山頂を、「闇(くら)」は谷をそれぞれ意味しています。
恵みの雨を降らし、長雨を止める神様として信仰されてきた龍神です。

シリウス神でもある…  」


大和眉間寺多宝塔というサイト
2007/01/04追加:吉田東伍「増補 大日本地名辞書」 より

佐保山西陵
文武皇后藤原宮子姫(不比等女)の御陵なり、延喜式に列す。聖武陵の西北|大黒芝と称する地蓋其火葬所にして又山陵ならん。〔陵墓一隅抄〕今稲荷山とも呼び、七疋狐又犬石と呼ぶ、隼人像石四個陵上に置かる、雍良峰陵の条を参考すべし。那富 (ナホ)山墓は聖武天皇の皇子基親王の葬所とす、近く南陵の西北に在り。(陵墓一隅抄)按に那富山は奈保山直山に同じ、即元明元正と其陵号を一にす、古へより佐保山奈保山又椎山は差別なかりしにや、不審。
椎岡(ナラヲカ)墓は藤原不比等の墓なり延喜式に見ゆ。眉間寺の西に在り佐保山西陵と相并ぶ、〔陵墓一隅抄京華要誌〕椎は楢と同訓なり。隅山(スミヤマ)墓は藤原房前の墓にて、今杉山と号し老松三株雑樹茂生す、椎岡同所なり、隅山墓類聚国史に見ゆ。〔県名勝志〕  




春の女神 佐保姫と狭岡(さおか)神社

2016-04-06 | 古代史のミステリー




「さおか」と入力しても狭岡は出てこない。
今年になって初めて知った神社です。

たぶん初詣にサムハラ神社参拝した日記
2016-01-03 不思議の4文字 サムハラ
ココでいただいた吉田さんからのコメントの流れの中で知ったような。
探しても見つからず、コメント内容を再確認できませんでした。
もしこの記事ご覧になられたら、コミットしていただくとうれしいです。


狭岡神社を知ったその時、たいそう興味持ち調べました。
必ず近いうち、できたら春に行こうと思ってました。
当時は、佐保姫が春の女神とは知らず、直感です。

そしたらグッドタイミングで、桜の季節にJR大和路線乗ると車窓からの景色最高やねんという人がいました。
佐保川あたりの桜見ウォークしようとすぐに話がまとまったのです。

私は、桜も見たかったけど、この狭岡神社に行きたかったので。



実際、鳥居前に立って、祭神々のお名前みても、しらんなぁ~です。

一人で来てたらちょっと参道進むのが怖い感じ。

石段上がりだしてすぐに左手に開けたところがありました。









狭穂姫伝承地として、鏡池や石碑がありました。

佐保、狭岡の地名のいわれ
万葉集に「佐保」「佐保山」「佐保川」「佐保の内」「佐保道」「佐保風」等の語が出ており、
「佐保」は法蓮から法華寺に至る一条通り一帯をさしている。
この地名の起因は「開化天皇の皇女、狭保比売(第11代垂仁天皇の皇后)のすんでいた土地なりとの伝説もある。
その狭穂比売は、古事記に佐波遅比売、沙本毘売 日本書紀では狭穂姫と表されている。
これが万葉仮名になおされた時は狭穂姫となし、現在の「佐保」の地名になったと言われている。
また一説では「狭岡」とは「佐保の丘」という語から「ホ」が欠落し「サオカ」となったとも云われている。




法蓮佐保山の山腹ですが、かなり標高出てくるので見晴らしがいいです。


また続きの石段参道を上がると拝殿と本殿がありました。






この系図を見て思い出したことは、
吉田さんのコメントにあった
『大年神と天知迦流美豆比売の間の子』




狭岡由緒記によれば
霊亀2年(715)藤原不比等(淡海公)が国家鎮護・藤原氏繁栄のため、勅許により己のが邸宅佐保殿の丘上に天神八座を奉祀して崇拝しました
のちに佐保丘天神、狭穂岡天神、狭加岡天神、狭岡神社と改称されました。
次いで藤原淡海公は天平神護景雲年間に、河内の国枚岡より藤原氏の祖神である、春日大明神を大和の国奈良の御蓋山へ移され、斉祀せられました。これが今の春日神社であります。
それ以来、国政の大事や、氏神春日詣りには藤原氏一門が(公家・女官たち)この佐保殿に集まり必ず狭岡天神に参籠して「日待ちの神事」奉行精進潔斎して、日の出を待って国政に掌り、春日社詣をした。」と古事に出ています。




ほかに目に留まったものは







平城京の一条南大路が現在の一条通ですが、東の突き当りが東大寺の転害門で、ここから佐保路が始まるようです。

ここを起点として西に行けば、聖武天皇陵、興福院、狭岡神社、不退寺へと続きます。

標高100mほどの佐保山はなだらかな丘陵で、裾野の南側をながれるのが佐保川。
このあたりは今でも風光明媚でいいとこですが、奈良時代は貴族の邸宅地となる高級住宅街だったようです。

大伴氏邸宅、長屋王の別宅「作宝楼」、石上氏邸宅「芸亭」とか。
そして藤原氏邸宅がこのあたりにあったのですね。


「国政の大事や氏神春日詣りには、藤原一門がこの佐保殿に集まり、必ず狭岡天神に参籠して『日待ちの神事』奉行精進潔斎して、日の出を待って国政に掌り、春日社詣をした」

何かスゴイとこみたいです。



不退寺へ向けて歩き出した途中で撮影。
奈良の町がよく見える見晴らしのいいとこでした。
深~い闇か封印とかがあるのかもしれないけど、よくわからなかった。

四国86番志度寺 海女の墓★身を捨てて浮かぶ瀬もあり志度の浦

2016-01-09 | 古代史のミステリー


四国遍路の逆打ちは88箇所の最後から巡礼します。
なぜ行こうと思ったかというと、志度寺に行きたかったから。

12年前2004年7月に巡った時は寺の名前すら??
ところが2013年春、伊勢神宮まで歩くというウォーキングで
奈良市の興福寺南側にある猿沢の池を通りました。

そのときの記録は↓

猿沢池の不思議伝説
三条通りの東詰、猿沢池の西北角に采女神社があります。西向きの社殿で有名で、鳥居から社殿後がみえます。。...


流失する川、流入する川もないのに常に一定の水量を保っていて、不思議な池には、不思議伝説が残されています。

むかしむかし、猿沢池には、善達竜王という王様のような竜がすんでいました。
自分が住処にしているこの池にある女が身を投げました。
・・・中略・・・最後に“室生の龍穴”まで移って行った
という話です。


この「善達竜王」はいつからこの池にすんでたのかを調べると
謡曲「海人」「海士」がヒットし、西国88箇所の志度寺に行き当たりました。
こちら

内容は、藤原北家の祖・房前が、亡き母の追善のために讃州志度の浦にやってきたところ、母の亡霊が海人となって現れ、子と対面し自らが死んだ事情について語るというもの。

それを知ってから、いつか志度寺へ行こうと。
四国お遍路でかつて廻ったことあったのにね。
全く覚えてなかったから、今度こそちゃんと見てこようとチャンスを待ってたのでした。








梁塵秘抄によれば
四方の霊験所は、「伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士の川、伯耆の大山、丹後の成相」とか、
土佐の室生と讃岐の志度の道場とこそ聞け。

ここに讃岐の志度の道場が出てきます。
志度の海は古くから異界へ通じる霊場とされていたそうです。


志度寺には、讃岐の守護細川家が造営し寄進した日本に三つしかないという曲水式庭園があります。
池中の島は、志度寺縁起にちなんで竜蛇の形と真珠島とを模したものらしい。

でもちゃんとした説明書はみなかったし、手入れ行き届いてなかったのは残念でした。




志度の地図見てると、神社仏閣があちこちに。
この地はかつて意味深い場所だったのがわかりました。




神代に速秋津比賣命が多和郷の渚にやってきて、
「此水門は、はなはだ深くて、よき須美戸なり」
と宣して鎮座した多和神社。
当初、志度寺の傍らに鎮座していたが、
1479年焼失し、その後現在地(さぬき市志度126)に遷座。
ここも気になるね。
自分でいつか車で廻るときがあれば参拝したいところ。





竹取物語の「竹取の翁」の名は「讃岐造」だったし。
「口頭伝承のかぐや姫」と「竹取物語のかぐや姫」

讃岐はもう少し詳しく調べてみよう~♪



産土神(うぶすながみ)と氏神さん

2015-10-03 | 古代史のミステリー


先の日曜日、母を見舞う前に墓参りしてから産土神さんにお参り行きました。

母の産土神は、堺市戎之町にある菅原神社。
菅原道真を祀っているからか天神さんとよばれてます。
車を路駐しての参拝だったので、境内全部まわりきれない。
それでたぶんココだと思われた少彦名神を祀る薬祖神社にご挨拶してきました。
私的には、天神さんは少彦名神だと思います。
2014-01-09 天神さん、天の神様、お天道様★8/28追記



もう一箇所の産土神は私の生まれ育った神様です。
狭山池から大和川へ流れる支流、西除川の川べりに余部神社がありました。

子供のころよくそこの境内で遊びました。
鳥居前がバス停だったこともあり、気軽に挨拶できる鎮守でした。

年を重ねて知ったことには、本社ではなくて遥拝所だったのでした。
元々はこの地に祀られてたのが、明治40年に菅生神社へ遷られ、大正6年に遥拝所が創出という看板画像を見つけました。



菅生神社を菅原と間違えて書かれてありますね。
しかし、何のご縁か母の産土神は菅原神社ですから、不思議です。

氏神、産土神、どう違うのか正確には知りませんでしたので、この機会にはっきりさせときましょう。

氏神とは、祖先神あるいは守護神
もともと古代社会において血縁的な関係にあった一族がお祀りした神さま(一族の祖先神あるいは守護神)

産土神、産土とは読んで字のごとく、生まれた土地という意味で、その土地を守護してくれる神さま

その土地をお守りくださる産土神が、その土地に生育する作物、植物、河川、その他の自然物をはじめ、その土地に住む人間の生活全般に密接に関わる働きをしておられます。

詳しくは→産土神と氏神は異なる神




菅生神社は堺市美原区菅生にあります。
2008-10-08 それぞれの歴史

そのエントリー記事の最後に書きました。
「そこの由緒をみて驚きました。
それから毎晩ずっと調べてました。
やっとわかったこと、すっきりしたこと、また今度書きます。」

でも結局、今に至るまでまだ書いてないのです。
調べても調べてもよくわからなくて常に宿題、迷宮入り。




菅生神社本殿左側に余部(あまべ)神社があります。










去年2014年11月22日、神城断層が動きました。
白馬では大きな被害が出た地震でした。

今度、その神城の姫川源流へ行きます。

神城って、学生時代に夏合宿で長逗留してる地でした。
1年と4年のとき、2回も訪れてるのに、当時無知だったから。
冬には白馬栂池あたりスキーで何度も行ってますが、このときもアウトドア楽しんだだけ。


それにして、八岐大蛇伝説って、島根県の揖斐川じゃないの?
なんでひめ川なんでしょう??


それで、 姫川 スサノオ 等ワードを変えて検索してました。
そしたら、いつも拝見してる「神々が動いている」がヒット。

2009.02/03 [Tue] 黒姫大蛇伝説より
一部引用させてもらいます。

「立山連峰はまさに富む山。日本文化の「根っこ」の国。
そうした根の国の底なる地震が、大蛇(龍)をとおして長野の黒姫山、および戸隠に共振をもたらしたことをぜひ憶えておいてほしい。ぜったいあとでまた出てくるから。学校の先生じゃないけど、ここはポイントです。
あと、ヒスイといえば勾玉。勾玉といえば御統(みすまる)。
まがたま大神の麻賀多神社。日本武尊が埋めた七つの玉・・・。

そして黒姫山のさらなるポイント・・・。
柏崎や糸魚川の地名がでたんで、もうカンづいてる方もいらしゃると思う。
そう、フォッサマグナの両構造線、糸魚川~静岡、柏崎~千葉を、黒姫山がおさえてるカタチなのだ。
そしてそのふたつの黒姫山の要といえるのが、長野の黒姫山であり、戸隠の神。
いわば戸隠の神は、フォッサマグナ(大地溝帯)の神なのである。
吉備武彦の行軍路は、まるでそれを知りつくしていたかのようだ。
フォッサマグナは、日本列島の地下を横切る巨大な溝。大地創成の太古に、どデカい龍体エネルギーがけずったか、横たわった痕にも見える(笑)。
ヒスイは、蛇紋岩の中に存在する。姫川のヒスイは、立山連峰の気が遠くなるほど巨大な造山運動でうまれた。何千年にもわたってヒスイを愛しつづけた祖先たち、大自然の活動に蛇や龍を感じた彼らが、彼らの感性で大地の構造と特性を理解していたとしても、僕にはぜんぜん不思議じゃない。」


今回のウォーキングツアーの2日目は戸隠社参拝ウォーク。
フィールド調査で空気と風を感じてきます。


清荒神@米谷清シ

2015-09-25 | 古代史のミステリー



米谷清シ=まいたにきよし
人名みたいですけど地名です。

宝塚市米谷清シ1番地に清荒神・清澄寺があります。

清澄寺は、平安時代初期に宇多天皇が万民農楽の世界を開く勅願寺として創建。
本尊は室町時代の大日如来坐像で国指定重要文化財。
今回の参拝でちゃんとお参りしましたが画像ありません。

寺地はここより東のきよしガ丘中央公園(売布きよしガ丘10番地)にあり、江戸時代に現在地に移っています。




聖徳太子が開いたと伝えられる日本初の中山観音・中山寺が東にあります。
元は現在の奥の院の位置で祀られました。




地図で売布きよしガ丘10番地を探してみました。
印は売布神社です。

まぁ~なんということでしょう!
中山寺奥の院-清荒神清澄寺-売布神社
一直線上にのるのを発見しました。

現在の清荒神と中山寺と売布神社は直角三角形の位置にある
ということはネットで散見します。

でも、古代の創建時にどうであったかが大事だと思います。



古くより米谷荘、米谷郷、米谷村として開けた米どころ。
売布神社のめふは、米谷が訛ったものだとか。

もともとこの地に祀れた神はどなただったのでしょう。





火の神、かまどの神、水商売の神としても信仰を集めている清荒神。
うちの台所で祀る荒神さんのお札は毎年こちらで賜りますが
いつもどなたかが代理参拝してくださり、早35年。

私自身は、1980年新居に荒神さんを祀るにあたり参拝して以来です。

かつての記録は
2011/6/1 荒神さんと三宝さん
なぜかこのブログの人気記事でたいてい10位以内に入ってます。


今回、突然の思いつきで中山寺から奥之院経由して清荒神へ下ってきました。

35年も過ぎて、やっと神々に関心もって参拝した清荒神で、眼神祠がとても気になりました。
 2015-09-21 清荒神がほかの神社仏閣と違ってたところ


家に帰り、「清荒神 めがみ」で検索しました。

そしてヒットしたのが→宝塚巡礼3

そこには以下のように書かれてありました。

眼神祠は、「ガンジンシ」と読むのですが、
もとは護法堂のちょうど裏にあり、当時は清水が湧き出していて、参詣の方々が柄杓でその水を汲み、眼を洗ったりしたそうです。
でも、僕は眼神をメガミ(女神)だと読みました。
本殿に奥にあり、聖水が湧いていたのですから・・・
そして、眼神祠の横には、龍王堂に善女龍王という全ての生命を守る水神様が祀られているのですから。
僕は、この眼神様が、ここの最大の聖地だと思います。


清荒神は、清の字が強調されるように水との関わりが強いです。
なので、水神、女神の信仰を感じます。




三宝荒神は火の神であり、…

なんでこうなったのでしょうね。

またまた引用させてもらいます。

天女の姿をした荒ぶる水神様は、
その清浄な神質から不浄や災難を除去する火の作用へと変換され、
水神から火神へと変容されたのだと思います。
三宝荒神様は、インド由来の護法神ではなく、日本独自の護法神です。

そこには、古い自然神への信仰から護国仏教への変遷の時期に埋没された女神の姿が浮かんできます。

常々僕は、役小角や空海は、この女神を封印し聖地を開山した目的は、神殺しではなく、女神の保護にあったと思っています。

女神の名は変わろうとも、その信仰は残っています。
その聖地は残っています。


彼らが、封印した信仰が、今、解かれてきています。

眼神が女神に戻る時、その封印は解かれ、気付いた人には、そこに女神への信仰が戻ってきます。
火の神の封印を解き、水の神が戻る場合もあります。



売布(めふ)社 って水神さん?

2015-09-24 | 古代史のミステリー



売布 を めふ と読むのも難しいけど
めふ と入力して 売布 とはまず出ません。


中国道をまたぐ橋を渡り住宅街を少し歩くとこんもりした森が見えたので、神社だとすぐわかります。
正面参道からではなく横から入って本殿まえへ。

売布神社社号標石は、1736年建立で宝塚市文化財だそうです。



江戸中期吉宗の時代に、寺社奉行大岡越前守より畿内の地誌編集を命ぜられた地誌学者の並河誠所。
調査した結果、中世以来、地元では貴船神社(貴布祢大明神)と称していたが、延喜式の神名帳に載せられた式内社の売布社であることが分かり、以後売布社と称するようになった。




正式には旧字体を用い「賣布神社」と記す。

推古天皇18年(605年)の創建と伝える。
下照姫神は当地の里人が飢えと寒さで困窮しているのを愁い、稲を植え麻を紡ぎ布を織ることを教え、その後豊かになった里人が下照姫神を祀ったという伝承が残る。
米谷村の由来もこの伝承にちなみ、米種(まいたね)か売布谷(めふたに)が転訛したといわれている。



本殿右手に、瓦葺のお社があります。
豊玉神社です。









パワースポットナビというサイトで、この龍がド~ンと載ってました。
どこにあるんだろうと探してやっと見つけました。





最後に階段参道下りて、鳥居注連縄をくぐりました。

一帯は物部氏一族の若湯坐連(わかゆえのむらじ)が拠点としていた地であり、
本来の祭神は若湯坐連の祖である意富売布連(おおめふのむらじ)=大布命(おおめふのみこと)と見られるそうです。


「めふ」を社号に含む式内社は全国に七社あります。
藤原茂樹氏は、「賣布神考」のなかで
これらの神社の立地に注目し、「めふ」を水辺の土地を指す語と推測しています。
水辺に鎮まる女神が本来の祭神であり、大布命はその奉斎者と見る説に納得できた参拝でした。


道成寺縁起とかみながひめ

2015-08-16 | 古代史のミステリー


和歌山県日高にある道成寺は、安珍清姫伝説で有名です。
絵とき説法の予約入れてあったので、縁起堂でまずお話聞いて続いて宝物殿を拝観しました。

一番気になったのが宮子姫像でした。






道成寺は、大宝元年701年創建の和歌山県最古のお寺で、
本堂のご本尊は、日本で二番目に古い千手観音像です。

928年、福島県白河から来た修行僧の安珍が、熊野詣の往路に和歌山県田辺の清姫に惚れられます。
帰路必ず寄ると言ったのに約束をたがえ逃げます。
60km以上追いかけられ、道成寺の釣鐘に隠れるも、大蛇に化した清姫に焼き殺されるというお話。

この安珍清姫伝説に基づく古典芸能が道成寺物。
謡曲や日本舞踊で有名です。
記録に残っている道成寺物の作品数は200以上、
今も上演される演目は約30、日本中で年間100公演以上が演じられてるそうです。









先に書いたように、私には宮子姫が一番気になりましたので調べてみました。

道成寺は文武天皇の勅願寺で、その縁起は宮子姫=髪長姫の物語がもとにありました。

有吉佐和子さんが文を書かれ、秋野不矩さんが絵を書かれた絵本
「かみながひめ」



まず、あとがきより
道成寺は、文武天皇の勅願寺です。
資料によれば、日高の村長(むらおさ)に生まれた女が
母親の犠牲によって、丈なす黒髪に恵まれ
やがて、藤原不比等の養女となって入内し
文武天皇の妃となり、聖武天皇を出産したことになっています。
そのために道成寺は、女人開運を祈願するお寺として有名でした。
 



なんで、延長6年(928年)に安珍清姫の伝説に上書きされて、
この髪長姫縁起が隠されてしまったのでしょう。

清姫のおどろおどろしい恋よりも髪長姫のほうがずっと美しくて素敵です。




絵本の文そのまま写させてもらいます。

むかし、きのくにのひだかのさとに
うつくしい女の子が生まれました。
子どもはすくすくと育ちましたが
どういうわけか、かみのけがはえません。

そのころ海は荒れて、
いくにちもさかなのとれない日が続きました。
海の中にあるひかりもののせいで
海が荒れるのではないか。
その噂をきいた女の子の母親は
自分がそのひかりものをとりにいく決心をします。

「子どもの髪がはえないのは
わたしがこれまで、わがままをしてきた報い。
わたしが海に入ってあのひかりものを
取ってくれば、神様が許してくださるかもしれない」
そう思った母親は、ある夜、海にとびこみました。
自分の命を犠牲にしてまで
海の底から持ち帰ったひかりものは一体の観音様でした。

母親が葬られた場所に観音様をお祀りすると
その日から、女の子の頭に髪がはえはじめました。
やがて人々は、この女の子をかみながひめとよぶようになりました。

お母さんが命とひきかえて、観音様からいただいた髪だというので、
女の子は、髪が抜けても捨てるようなことはせず
桜の枝にかけておきました。

ある日、1羽のつばめが 枝にかかった髪の毛をくわえて
みやこの方へ飛んでいきました。

ある朝、ふじわらのふひとは、屋敷にあるツバメの巣から
ながいながい髪の毛をみつけました。
この髪の持ち主ならきっと美しい姫に違いないと思った
藤原氏は、姫をさがしあて、養女にしました。

やがて、姫は、天子さまのもとへ嫁ぎます。
妃になったかみながひめは、生まれ故郷のひだかの
さとに、お母さんと、観音様をお祀りするお寺の建立を
お願いしました。

そのお寺の名前は、道成寺といって
今でも和歌山県日高郡というところにあります。



あかるひめ神社の桔梗の造花★7/28追記

2015-07-26 | 古代史のミステリー

午前中に堺の病院にいる母を見舞ってまだ昼までに間があった。
以前からずっと気になっている、赤留比売(あかるひめ)神社へ行くことにした。
ナビではなぜか地名入力しようとしてもできなかった。
多分平野公園の西側だったと、平野公園で設定して向かう。
公園近くで年配女性2人に尋ねるも知らないという。
一方通行とかで近づきにくいし、あまり知られていないことにビックリ。


これは昔の地図ですが、赤留比売神社が平野郷の東外にあるのがわかるでしょうか。
神社近辺は昔ながらの村の旧道で細く車通行に適していない。
公園の西側に行きたくとも行けない。
公園ぐるりを南→東→北と周り公園北側に駐車して探索開始。



石橋があった。
帰ってから調べてみると、かつて松山池だった。



レンガで囲った花壇は草ボウボウ、さらに進むと小高い丘。
これが平野郷の環濠跡だった。

★この地図は上下逆です

杭全神社は行ったけど、あかるひめ神社は行かなかった。



上に登ってみると


やっとお社が目に入り、西側から入ることが分かったので廻ってみる。


工事の軽トラが数台止まってて大勢の男性たちがお昼休憩に入るとこだった。
提灯もいっぱい飾られてるし、テントも設営されてるし、
祭が終わったのか始まるのか?

今日は撮影しそびれたので画像拾ってきました。




西にある鳥居から入り、赤留比売神にあいさつした。
社殿扉は固く閉ざされ、お賽銭箱もなかった。
あんなに工事人夫さんいるのに、地域の人あまり知らない?
神社を知らない人たちは平野環濠外側の住民だったのかもしれない。

しかし、社殿横や背後から撮影した画像はどれも清々しく、別に見捨てられた神様でないこともよくわかった。

でもなんか不思議な感じがして、帰ってからずっと調べてました。



赤留比売神社、現在は杭全(くまた)神社の境外社ですが、
これは大正3年からのことで、かつては住吉大社の境外末社だった。
8/1の住吉祭に、いまでも桔梗の造花をこの神社から捧げられるらしい。


住吉大社の夏祭りは、731年から記録が残っていて、
戦国時代には宣教師ルイス フロイスも壮麗な祭を見学し本国に報告しています。

神輿が堺の宿院頓宮まで渡御され、宿院の飯匙堀で荒和大祓が執り行われます。
そこでこの桔梗造花が供えられるのですね。


享保 8年(1723)平野七名家の桔梗造花献上が再興
荒和祓桔梗献花口上覚 という記載がありました。


★この地図の阪和線は間違いで、路面電車の阪堺線です



住吉大社の南、和泉の国との境界の宿院頓宮近くに開口神社。
すみよっさん東側、河内の国との境界近くにアカルヒメ神社。
境内というよりは神域の端を護るってかんじでしょうか。


もう一度地図見てもらいましょう。

喜連村には楯原神社とありますが、
かつて十種神宝で記事にしたことありますよ~ 2009-02-15



それにしても、なんで桔梗なんやろう。
ちなみに、住吉大社の社紋は四菱で、神戸の住吉神社が桔梗紋のようです。




なんか深~い闇か歴史ありそうですね。

三井寺の新羅神社考より引用させてもらいます。
太字は当ブログ管理者

平野本郷の南東の角、百済橋の南に平野公園があり、神社は公園の中にある。公園の西半分は旧環濠跡である。神社の前に「杭全神社飛地境内・式内赤留比売(あかるひめ)命神社」と刻まれた大きな石柱が立っている。拝殿は入母屋造、本殿は流造で朱色である。祭神は赤留比売命。
 神社の説明書と『杭全神社』によれば、赤留比売命神社─平野環濠都市遺蹟─当社の祭神、赤留比売命は新羅から来た女神で天之日矛の妻と伝える。当地を開発した渡来氏族の氏神として祀るが、創建は詳らかでない。平安時代につくられた延喜式神名帳には、当社が記載されている。かつては住吉大社の末社であったために七月三十一日の住吉の例大祭「荒和大祓(あらにごのおはらえ)」には当地の七名家より桔梗の造花を捧げるのが慣例であった。大正三年、他の神社と共に杭全神社境外末社となり今日に至っている。
当社は、昔は平野流町の門外字中山にあったがその後平野郷町三十歩に移座した。俗に三十部神社と呼ばれているが、これは応永の頃、僧覚証が旱魃に際し祈雨の為法華経三十部を奉読し霊験があったのでこの名称が起きたといわれている。その為に古来雨を祈る神といわれている。

 平野区が百済人の住んだ町であることは、百済に係わる名称が残っていることからも推測できる。すると百済の人々が新羅系の神を祀ったのか、あるいは、新羅系の人々の居住が先にあり、その後、百済系の人々の入植があったのかのどちらかであるが、赤留比売命は天之日矛の妃で、日光感情伝説をもつ「日妻(ひるめ)」とみれば、日神を祀る巫女であり、古代に祀られた土着の神であると思われる。新羅系の人々の居住地に比較的後の時代(七世紀か)に百済系の人々の居住があったのではないかと考えられる。

 『住吉大社神大記』によれば、赤留比売も下照比売も住吉大神の御子神となっている。比売許曽神社の祭神が阿加流比売(赤留比売)から下照比売神に変わったのに当社の神は赤留比売神で変わらなかったのは新羅寺を神宮寺とする住吉大社との関係からであろうか。この新羅の女神が住吉神社とも杭全神社とも繋がりがあることをみると、この両社とも新羅系の神社であろう。それにしても何故女神のみを祀ったのであろうか。天日槍と赤留比売が共に祀られなかったことは何を意味しているのであろうか


★追記
「北祭・南祭」という祭儀では、
北は上町台地北側の田蓑嶋姫神社 (たみのしまひめじんじゃ:現在の田蓑神社大阪市西淀川区佃一丁目18-14)、
南は上町台地南端の開口水門姫神社(現在の開口神社:堺市堺区甲斐町東2丁1-29)で行われ、
それは当時、西国への出入り口であった上町台地の全体を支配しており、それだけの権威をもっていた。


古民家などを再生した寿司和食のチェイン店がんこ「平野郷屋敷」
平野の歴史がとてもよくわかります
※2024-9-20追記


なぜに桔梗なのかは次の記事→桔梗★吉凶を占う神聖な花



五色塚古墳が対峙するのは くにうみの島、沼島?★6/18追記「宇宙と繋がる場所」

2015-06-17 | 古代史のミステリー


宇宙からのパワーが降りてくるスポットだと、かつてどこかで見ました。
播磨地方へ行くことがあれば是非その古墳に上がり感じてみたいものだと思っていました。


山陽電鉄の垂水と霞ケ丘駅の間で車窓から撮影 ↓



高砂の伊保駅からおうしこ神社まで往復歩き、再び電車乗って舞子公園駅で下車。
海岸沿いを歩いて、五色塚古墳行く予定でした。
ところが線路海側から山側への踏切や高架下道路がない。
しかたないので垂水駅まで行き過ぎてまた戻ることにしました。

住宅街の中を歩いてて、突然開けた感じでたどり着きます。






入場無料はやっぱりうれしいね。
階段を上ると、前方後円墳の前の長方形部分の上に出ます。
端まで行くと、右手に明石大橋。


4世紀終わり頃、この明石海峡あたりを支配してた海の大王の墓かもと書かれてあります。





また階段を50段ほど上らないと後円墳部分へ行けません。
やっぱりこっちがパワースポットやろうと上ることにしました。

ぐるり周回し中央で空を見上げてみたけれど (;^_^A




親子の左側、ずっと先の建物の最上階で光がだんだん大きくなり、
一度消えて、またついて大きくなる。
太陽が反射してるのかとおもったけれど、
ちょうどこの時太陽は雲に隠れてました。

鏡を使った光通信みたい?

他に不思議は何も感じれず、パワーが注入されたのもわからず、階段降りる。



ひとつ不思議に思えたのは、
前方後円墳の向かう先が淡路島の中心ではなかったことです。
どうみても淡路島の片端のどこかを目指してます。

地図で確かめてみましょう。
この先に何があるのか



くにうみの島
沼島にちがいないと思えました。


沼島の「上立神岩」
イザナ・イザナミ二神が国生みの際に建てたおのころ島のシンボルです。


沼島に面した淡路島がわの対岸は油谷という地名だった (O_O)
山口県のむかつく半島を思い出してしまいました。


★追記
めねふねさんがコメントでゆづるは神社について書かれました。
それで、たまたま諭鶴羽神社で検索していて見つけました!
かつて五色塚古墳が宇宙とつながるという話、どこで読んだかを。
ブログタイトルは、真理探究と歴史探訪 でした。

一部引用させてもらいます

その前方後円墳の「後円部の中央」の位置に立つと、宇宙と正式に繋がることができる言われるのである。それも太陽系レベルを越えて、「銀河の神々」と繋がることができるとのことだ。(その際に、靴や靴下を脱いで裸足になると、より繋がりやすいそうである。)
プチ講話では、感性がさほど鋭敏でない私でも話がリアルに聴こえたこともあって、その御方が席を立たれた後に、旅路を共にした人達と共にその古墳を訪れることになった。
不思議なことに同行した人のなかには、その御方が話している最中に、その古墳の後円部の中心に、宇宙と繋がる「光の柱」が垂直に立っているのが観えたそうだ。


詳しくは 以下ページで
2011年09月21日 宇宙と繋がる場所


★2018/2/16 12:45 追記
平昌五輪で 今日の午後13:48 羽生結弦選手
今回でSEIMEIは三度目のとなるそうですが、以前から気になって保存してた画像アップしておきます。



諭鶴羽山は、古くから山岳信仰の対象として崇拝され、中世には熊野三山と並んで修験道の一大道場として栄えました。諭鶴羽という名前は、神様をのせた鶴が熊野へ赴く途中にこの地に降り立ったという神話から名づけられたとか。
その場所は『神倉(かんのくら)神社』登山口から林の中の急登15分、尾根筋に出た場所にあります。


諭鶴羽神社
およそ二千年の昔、第九代開化天皇の時代に「イザナギ・イザナミ」二柱の神さまが鶴の羽に乗って高天原で遊んでいた時、狩人が矢を放った。羽をやられた鶴は、そのまま東の方の峰に飛んでいき隠れた。その跡を追った狩人は頂上近くで「イザナギ・イザナミ」と遭遇。
「われはいざなぎ、いざなみである。国家安全、五穀成就を守るため、この山に留るなり、これよりは諭鶴羽権現と号す」 狩人はその罪を悔いて、矢を棄てこの地を清めて社を建て、神体を勧請し奉った。