前回からのつづきです。
参拝後すでに1週間過ぎたので、忘れへんうちに。
木の鳥居から急な階段始まります。
10:02 呼吸整えスタート
半分上がって休憩して振り返ると
この先 上は ⤵
やっと着いた❣️
予習では行くの不便で大変そう、おまけに説明読んでたら不気味だった。
天気と体調次第で当日朝に決行するかどうか決めようと思ってた。
さらに鳥居下まで行けたとして、違和感や気味悪く感じたら引き返そうと。
それぐらい覚悟もってのお出かけだった。
そうしたこともあり、かなり具体的にかかった時間も含めてレポートさせてもらってます。
いつか彼の地目指す方のためにも。
ご挨拶お参りすませ階段に腰下ろし息整える。
10:08
記念に自撮りしとこうとスマホのアングル調整してたら、
なんと人が上がってきて手水舎前に居られるのに気づく。
私同様若くはない女性で、マニアックな人に出くわしたことに驚いた。
軽い好奇心でミーちゃんハーちゃん自撮りしてたら笑われるやろ。
すぐに立ち上がり撮影タイム中断。
本殿右手に説明板あったので撮影。
さらに奥の院へと上がる階段あるのは予習して知ってた。
本殿にお参りされる女性が居ると思うと心丈夫な思い。
それまではひとりぼっちで、不安はつきなかったから。
200基もの古墳があるお山ですよ~
神隠しに遭ったり、変なのに取り憑かれ連れて帰ったり…
人の姿見ただけでやっと尋常に戻れた。
この階段上には卑弥呼の墓だというウワサもある。
途中通過した宮山古墳では、三角縁神獣鏡が完全な形で発見された。
京都府八幡市から出土したものと同じ鋳型から作られているそうだ。
また神社の南400mで突鈕六区画線袈裟襷文の矢野銅鐸出土。
こうしたことから「邪馬台国阿波説」 卑弥呼に繋がってるのかな。
分かれ道で見えた阿波史跡公園、古代の竪穴住居 や高床倉庫などが復元されているのが見晴るかせた。
もう怖くはないから、上に行けるよ。
20段ほど上がったら、
開けた場所に出て祭壇石組見えた。
10:12
阿波青石の木口積 だそうで五角形に築かれてた。
鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」って、
どう見ても陰陽石だよね。
卑弥呼の墓に男根石?
帰りに山麓にある神社宮司さんの社務所でお札賜るときに、
あれって卑弥呼の墓ではないように思えましたけど、と言うと
僕もそう思ってます、とのお返事だった。
火伏せとかかれてるという神札賜った。
紙袋に入ってたから確かめもせず家に持ち帰る。
開けてみたら
メルちゃん、踏んだらあかんよ。
思ってたのとちょっと違ってた。
予習では「火付せ八倉比賣神宮」と明記 と書かれてたのに。
火伏せ
でも縁あって我が家にたどり着いたお札なので台所に貼りました。
本殿前で出会った女性は、奥の院から降りてきたらお掃除されてた。
宮司さんの奥様でした。
この時期は枯れ葉を掃いても掃いてもと話されてた。
山上まで登ってきてのお掃除管理さぞかし大変だろうと思います。
とても気持ちのいいところで、来れてよかったですとご挨拶しました。
麓の登山口で10:31、結局9:52から40分の滞在だった。
鳥坂下バス停11:19目指して帰路スタートした。
前記事には4世紀初め に杉尾山に鎮座と書きました。
天石門別八倉比賣神社略記 によるものです。
ところが、
当社ははじめ気延山の山頂に祀られていたが、推古元年(593)に現在地に遷座し、江戸時代に奥の院を拝するための拝殿と本殿を造営して現在に至るとある。文化12年(1815)に完成した地誌『阿波志』にも同様の記載があり、当社ははじめ、気延山の山頂近くにあったが、江戸時代になって当地に遷されたと記されている。
これを記された、巨石巡礼のサイトには
ちなみに「邪馬台国阿波説」で比定されている卑弥呼の居城地は、徳島県神山町神領字高根。鮎喰川の上流、標高700mの山上にある悲願寺(ひがんじ)あたりとされている。
さらにこう記されています。
大同2年(807)の『古語拾遺』によれば、神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命(あめのとみのみこと)と阿波忌部(いんべ)氏一族が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、そこを開拓したとあることから、気延山麓一帯も阿波忌部氏の勢力下にあったとみられている。したがって、天石門別八倉比売の神名は、阿波忌部氏の祖霊にあたる天石門別神を奉斎し、気延山麓一帯の水田から収穫された収穫物を保管貯蔵する、多くの倉の守り神という意味であろうと推測される(『日本の神々 2』)。
神奈備サイトでは
天石門別神は天照大神が隠れた天岩戸の神格化した神とされているが、櫛石窓神の別称で、太玉命の子に当たる。当社の神社名は天石門別神と八倉比売神社を祀ると理解していいのだろう。『安房斎部系図』に、「天背男命の后神が八倉比売神で、その子が天日鷲翔矢命」とある。天日鷲翔矢命は天日鷲命のことで阿波忌部の祖とされる神である。
また、天石門別神は天岩戸を開けた手力雄神に比定されることが多いが、この神は銅鐸のパワーを秘めているように思われる。阿波では名東郡佐那河内村に天岩戸別神社が鎮座しており、この佐那はサナギであり、銅鐸であると思われる。現に銅鐸が埋納されており、それを祠で祀っていたようだ。
また、天石門別神は天岩戸を開けた手力雄神に比定されることが多いが、この神は銅鐸のパワーを秘めているように思われる。阿波では名東郡佐那河内村に天岩戸別神社が鎮座しており、この佐那はサナギであり、銅鐸であると思われる。現に銅鐸が埋納されており、それを祠で祀っていたようだ。
弥生時代から古墳時代にかけて阿波国の中心地となっていた土地柄のようだ。
吉田東悟『地名辞書』によれば、「阿波志云う、八倉比売神社は一宮であり、矢野村杉尾社は大御和神社とすべきである。杉は三輪神に因むとある」
復習でヒットしたサイトを読んで納得できた。
予習ではどのように行くかで頭いっぱいだったから。
これから行かれる方の参考になれば幸いです。
随身(神)門の左右に仁王像とか、弓矢もった近衛兵みたいな像とかあるでしょ。
あれが本来は日の櫛岩窓と月の豊岩窓なんです。
天石門別神とよばれるのでよくタヂカラヲと混同されます。
奥津彦と奥津姫は竈の神です。
真ん中がホムスビなので、竈の火伏せ。
「鬼滅の刃」フィーバーで(かってに)聖地めぐりが流行ってるみたいだけど、竈門炭治郎の守護神はこの奥津彦と奥津姫であるべきかと。
奥津彦はオオトシクラムスビの子で、スサノヲの孫にあたります。
ほんとは炊事の神ではなく、人々の邪心を祓い「清か(すずか)の道」を伝えた神。
炭治郎は「清かの道」の竈神そのものです。
あと、天富命は神武天皇の橿原宮を建てた神。神武天皇の命で阿波忌部を引き連れて上陸したのは阿波ではなく安房です。
「すべてはここから始まった~核兵器禁止条約発効へ(4)」でちこっとだけ触れました。
あわは天(あ)と地(わ)。
自(あ)と他(わ)。
いろいろと陰陽入り乱れる地。
八倉比売神社の鬼が出るか蛇が出るかの「鬼滅の刃」的体験が「清かの道」で、ホントよかったです。
自(あ)と他(わ)。
いろいろと陰陽入り乱れる土地柄。
なので、え~いもうみんな踊ってしまえ!
の、アワ(自他)踊り。
ッス。
やっと腑に落ちました(^^;)
わからないなりに漠然とした不安抱えて、それなら行かんといたらいいのにね。
コメ返しする時になってやっと気づいたことがあります。
火伏せが火付けとなってじゃぁあ〜りませんか!
八倉比売神社のサイト10個以上は読んで、どこかのサイトを読んでコピペ。
改めて確認したら、ウィキペディアに次いでヒットする玄松子さんのサイトが
当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。
これが拡散した可能性ありますね。
手書きの時代も転写ミスあったでしょうが、今や最初に入力ミスしてそれがコピペで拡散。
神社でもらった略記はちゃんと火伏せとなってました。
火伏せが火付けになったらアカンので、拙ブログはこれより本文訂正します。
え〜い みんな踊ってしまえ!
同じアホなら踊らにゃ損ソン♪
ulalaさんきっと根っこが探検隊なんですよね(笑)。
僕も本来はそうなんでわかります。
現地に行って確かめてみないと気が済まない。そこでヤな気があればさっと帰ればいい。
ただ僕の場合よっぽどでないと、自分の第六感より、ここまで来た元を取らねばって欲が先行して失敗する。
競馬もそうかな(笑)。
それはあきまへん。
少しでも「んむ?」って感じたら、やめる勇気を持たないとですよね。
ちなみに五角形のやつは、僕も卑弥呼の墓ではないと。
というか徳島=邪馬台国説は、やっぱムリがあると思います。
神様の説明は天下一級のとめさんの解説お願いします。
アワは、アルファとオメガと昔書いてらしたの思い出しました。
阿波踊りへの展開、素晴らしい発想でよそではお目にかかれませんね。
サイコー!
踊らなあかんと思えます。
明日はジャパンカップTV視聴したくて、お出かけ予定を今日にしてもらいました。
私的には、デアリングタクトが勝って欲しいな。
日本書紀に両方書いてあるので、当時からニ通りの呼び名があったんでしょう。思うに、カグツチは出産で母イザナミを死なせ、父イザナギに斬殺された反面、死体化生型神話的にいろいろな神が生まれてます。
荒神としての前者がカグツチ。
再生神としての後者から、のちの世に名づけられたのがホムスビ。
カグツチは火山噴火のメタファーでもあるので、火伏せをお願いするならやっぱ後者なんでしょうね。
カグツチだと逆に燃え上がっちゃいそうだし(笑)。
火伏せの愛宕信仰の総本社は、明智光秀で有名な京都の愛宕神社。
おもしろいことに、京都の愛宕神社はカグツチなのに、全国の愛宕神社は圧倒的にホムスビです。
この辺にも、カグツチからホムスビへの変遷がかいま見える気がします。
光秀はホムスビではなくカグツチとして信長という火を伏せたんです。
一般家庭でカグツチ型の本能寺やられた日にゃ、どげしょうもないですもん。
坐摩神社に関係する土公(オゴロ)も、カグツチとハニヤスメから生まれた神です。
だから混同しちゃったのかもね。
>当時からニ通りの呼び名があったんでしょう・・・
荒神としての前者がカグツチ。
再生神としての後者から、のちの世に名づけられたのがホムスビ。
これで納得できました。
ありがとうございます。
きっと昔から破壊よりは再生が心が寄せられるのでしょう。
でも壊さないことには次が始まりませんものね。
上書きリセット、その元をどこまで整地するか微妙ですけど。