秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

ティムールの呪い

2009-04-05 | 旅・ウズベキスタン
サマルカンドのティムール坐像、バスの中から撮影しました。

ウズベキスタンでティムールは英雄で、日本で誰に相当するか考えると数人ぐらい合体しても足りないかも。
ソ連より独立してから、レーニン像などに変わりティムール像が設置されたらしい。

ティムール生誕地シャフリサーブスでは立像
 
 

タシケントでは宿泊したウズベキスタンホテルの前が公園で、そこにティムール騎馬像がありました。
 

ティムールの遠征図
 

インド遠征から戻ったティムールが壮大なモスクを建設することを決意し、約5年で完成させたビビハニム・モスク
 
一度に13000人が礼拝することが出来た中央アジア最大のモスク、ビビハニムはティムールの愛妻名です。
中庭にある大理石のコーラン置き台は15世紀にウルグベクによって造られました。

急がせた工事中、毎日毎晩工事現場で見張っていたティムールはそのため風邪を引き、1402年中国への遠征に旅立つとまもなく亡くなったと言われています。
完成したのはティムールの死後3年目、ティムール本人は完成を見ることが出来ませんでした。

 
突貫工事のせいか、それとも当時の技術としては大きすぎたのか、落成直後から崩壊が続き、その後地震によってほとんどが崩れてしまいました。
北西側ミナレットの土台部分のみが残っています。


ティムールは死後シャフルサーブスにすでに用意した霊廟で眠る予定でしたが、実際はサマルカンドで眠っています。
 
グリ・アミール廟、タジク語で「支配者の墓」
ティムール本人と家族、教師、聖人が眠っている霊廟です。

 
ティムール朝は内紛の末に滅亡。
ブハラ・ハーン国が支配するも内紛の末にロシアの干渉を受け、1868年にロシア領トルキスタンに編入されました。

第二次世界大戦が始まった頃、ソ連政府は調査名目でグリ・アミール廟にあるティムールの石棺をあけました。

石棺には「墓を暴けば、私より恐ろしい敵がやってくる」と書かれていた。
その言葉通り、調査直後にソ連はナチス・ドイツ軍による奇襲攻撃を受けて(バルバロサ作戦)、長い独ソ戦争が始まったため「ティムールの呪い」と言われたそうです。


ウズベキスタンがソ連より独立後1990年代に建造されたアル・ブハリ建築群、サマルカンド市街から約25km郊外にある新名所です。
 
6歳でコーランの7万のハディス(逸話)を覚えたアル・ブハリ(810-860)、イスラムの偉大な神学者がこの場所に葬られています。

もともと16世紀に小さな廟とモスクが建てられた場所で、1998年にウズベク政府が新しい廟とモスク、展示室を作ったそうです。
ウズベク中から優秀な職人が集められたそうで、現在のイスラム建築の粋を究めたものです。

観光地と言うよりイスラムの巡礼地で信者が世界中から礼拝に訪れるそうです。

4 コメント

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完結? (めねふね)
2009-04-05 20:43:42
おもしろいなぁ。
日本史と規模がちがうので、
逸話の迫力もちがいますね(笑)。

レーニン像がティムール像に変えられて、
ついに呪いが完結・・・?


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めねふねさんへ (おざさ)
2009-04-06 09:53:23
ティムールの墓があるグリ・アミール廟から、生誕地のシャフリサーブスまで地下道が残っています。
その地下道の入り口は写真におさめてきました。
その距離がすごいんだけれど数字忘れてしまった。
バスで数時間かかった距離です。

モンゴル軍によって徹底的に破壊された以前のサマルカンド、
ここはソグド人によって作られた都市がありました。
そのソグド人が結構日本に来てます。
そのうちソグド人で記事エントリーしますのでまた見てください。
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Unknown (TM)
2009-04-06 21:32:14
レーニン像が倒され、モンゴルではチンギス・ハーン、ウズベクではティムールの銅像が建てられたんですね。何となく二人ともモンゴル人と思っていたんですが、ティムールは中央アジア系の人だったのかしら。

ふたりとも勇猛果敢は英雄という言葉がピッタリですね。
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TMさんへ (おざさ)
2009-04-07 09:06:01
ティムールはテュルク系でモンゴル系の一派です。
系譜によれば、5代前の先祖カラチャル・ノヤンはチンギス・ハーンの次男チャガタイに仕えた有力な将軍。
ティムールがシャフリサブズの近郊で生まれたころには零落し、わずか数人の従者を持つに過ぎない小貴族であったそうです。
やがてチンギス・ハーンの子孫にあたる王女を妃に娶って、「チンギス家の娘婿(キュレゲン)」を称しました。

若い頃は家畜の略奪を行う盗賊からスタートし、徐々に優れた軍事指揮者としての才能をあらわしていった。
戦場で片足をけがしびっこになったが、ソ連が墓を検分したとき、たしかに足の負傷が認められ本人の遺体と確認出来たようです。
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