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高槻の今城塚古代歴史館は昨夏訪れた時に記事にしました。
2013-08-19 いましろ大王の杜
2013-08-22 日本の兵馬俑は、ちょっと言いすぎや、けど
2013-08-27 三島と藤原氏、そして百済
当時は継体天皇と藤原鎌足が気になってました。
ところが10月に兵庫県の石生にある分水界水分れを見学したところ、
ちょうど其処にはいそ辺神社があり参拝して、急転直下私の脳裏に天日方奇日方命が突き刺さりました^^
それまで全く存じ上げない神様のお名前だったのです。
なんとも不思議なお名前ではないですか。
たまたま今週1週間、gooブログではアクセス状況を詳しく見ることができました。
2月26日 ブログの開設から3231日 記事数全2449件
ページごとの閲覧数
1 トップページ 67 PV
2 石生の水分かれにある いそべ神社 28 PV
3 プラダ・ナイロンバッグを見比べてみると・・・ 26 PV
お正月前後から何度かふれているように、
「石生の水分かれにある いそべ神社」は2月26日もたくさんアクセスいただきました。
そのいそ辺神社に初めて参拝して、社殿前に拝司が掲げてあるのをみました。
人生で初めてその拝司を声を出して唱えてお参りしました。
掛けまくも、畏き 、
○○神社の大前(おおまえ)を、拝(おろが)み奉りて、
恐(かしこ)み恐みも白(もう)さく。
大神達の、
広き厚き、御恵(みめぐ)みを辱(かたじけな)み奉り、
高き尊き、神教(みおし)えの随(まにま)に、
天皇(すめらみこと)を仰ぎ奉り、
直き正しき真心もちて、
誠の道に、違(たが)うことなく、
負い持つ業(わざ)に、励ましめ給い、
家門高く、身健(みすこやか)に、
世の為人の為に、盡(つく)さしめ給えと、
恐み恐みも白す。
こうして天日方奇日方命とご縁が繋がったのかもしれません。
以前より、事代主命が三島神社で祀られてるので、そのうちお参りしようとは思ってました。
その三島鴨神社に程近い茨木市の溝咋神社の祭神に天日方奇日方命を知り、
1月13日の成人の日に参拝したのでした。
なぜ記事が書けないかというと、調べれば調べるほどワケわからんようになるのです。
その一つが最初の地図です。
今城塚古代歴史館で撮影したものです。
天日方奇日方命は事代主神(ことしろぬしのかみ)の子。
母は溝咋耳命の娘、玉櫛媛命(たまくしひめのみこと)
活玉依媛(いくたまよりひめ)ともよばれます。
妹が、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で神武天皇の皇后になりました。
大和のコトシロヌシが熊鰐に姿を変えて、淀川を下り、三島のタマクシ姫のもとへ通ったのだと。
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当時の淀川はこういった流れだったとすると、どのようにして川をくだったのでしょう?
川は何度も氾濫したりして多少は流れを変えていることでしょう。
この再現図に近いとすれば、玉川を遡り、西河原あたりで安威川と合流しているので、
そこで安威川に入り下るのかしら?
溝咋神社のある安威川を調べてみると
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2014-01-25 三島鴨神社と三島暦
総持寺の近くには疣水イソラ神社があります。
うちの孫達が宮参りでお世話になった彼らの氏神様。
2009-08-09 エソラとイソラへ
この磯良神社は神功皇后ゆかりの神社で、かつては新屋坐天照御魂神社(西河原)の境内社だった。
新屋坐天照御魂神社は3つのお社がありまして
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なんか不思議でしょう~
まだまだ続きます。とりあえず今朝はここまで。
2013-08-19 いましろ大王の杜
2013-08-22 日本の兵馬俑は、ちょっと言いすぎや、けど
2013-08-27 三島と藤原氏、そして百済
当時は継体天皇と藤原鎌足が気になってました。
ところが10月に兵庫県の石生にある分水界水分れを見学したところ、
ちょうど其処にはいそ辺神社があり参拝して、急転直下私の脳裏に天日方奇日方命が突き刺さりました^^
それまで全く存じ上げない神様のお名前だったのです。
なんとも不思議なお名前ではないですか。
たまたま今週1週間、gooブログではアクセス状況を詳しく見ることができました。
2月26日 ブログの開設から3231日 記事数全2449件
ページごとの閲覧数
1 トップページ 67 PV
2 石生の水分かれにある いそべ神社 28 PV
3 プラダ・ナイロンバッグを見比べてみると・・・ 26 PV
お正月前後から何度かふれているように、
「石生の水分かれにある いそべ神社」は2月26日もたくさんアクセスいただきました。
そのいそ辺神社に初めて参拝して、社殿前に拝司が掲げてあるのをみました。
人生で初めてその拝司を声を出して唱えてお参りしました。
掛けまくも、畏き 、
○○神社の大前(おおまえ)を、拝(おろが)み奉りて、
恐(かしこ)み恐みも白(もう)さく。
大神達の、
広き厚き、御恵(みめぐ)みを辱(かたじけな)み奉り、
高き尊き、神教(みおし)えの随(まにま)に、
天皇(すめらみこと)を仰ぎ奉り、
直き正しき真心もちて、
誠の道に、違(たが)うことなく、
負い持つ業(わざ)に、励ましめ給い、
家門高く、身健(みすこやか)に、
世の為人の為に、盡(つく)さしめ給えと、
恐み恐みも白す。
こうして天日方奇日方命とご縁が繋がったのかもしれません。
以前より、事代主命が三島神社で祀られてるので、そのうちお参りしようとは思ってました。
その三島鴨神社に程近い茨木市の溝咋神社の祭神に天日方奇日方命を知り、
1月13日の成人の日に参拝したのでした。
なぜ記事が書けないかというと、調べれば調べるほどワケわからんようになるのです。
その一つが最初の地図です。
今城塚古代歴史館で撮影したものです。
天日方奇日方命は事代主神(ことしろぬしのかみ)の子。
母は溝咋耳命の娘、玉櫛媛命(たまくしひめのみこと)
活玉依媛(いくたまよりひめ)ともよばれます。
妹が、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で神武天皇の皇后になりました。
大和のコトシロヌシが熊鰐に姿を変えて、淀川を下り、三島のタマクシ姫のもとへ通ったのだと。
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当時の淀川はこういった流れだったとすると、どのようにして川をくだったのでしょう?
川は何度も氾濫したりして多少は流れを変えていることでしょう。
この再現図に近いとすれば、玉川を遡り、西河原あたりで安威川と合流しているので、
そこで安威川に入り下るのかしら?
溝咋神社のある安威川を調べてみると

2014-01-25 三島鴨神社と三島暦
総持寺の近くには疣水イソラ神社があります。
うちの孫達が宮参りでお世話になった彼らの氏神様。
2009-08-09 エソラとイソラへ
この磯良神社は神功皇后ゆかりの神社で、かつては新屋坐天照御魂神社(西河原)の境内社だった。
新屋坐天照御魂神社は3つのお社がありまして
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なんか不思議でしょう~
まだまだ続きます。とりあえず今朝はここまで。
私も行かないとと。
そしてその当時鎌足と継体気になっていたとは。
そしてその後天日方奇日方命とは。
私も同じ流れですね。私は天日方奇日方命でその後鎌足でその後継体さんです。
今思う答えは同一人物かも〜?(鴨じゃないのがキーワードかも。)
みんな情報操作されていそうな人物ですね。ある意味の拠り所という看板名目として使われた方です。同じ流れの方なのは確かでしょう
そう調べるとわけわからないですし、だれも真実言及していないんではないかと。常識定説に目を奪われていたら無理ですから。
天日方奇日方命は事代主(ミゾクイ)の婿だから二代目事代主と思ったら多分本人はけされてカモさん達の路線に入ってしまった?事代主は一言主神なので一言で判断出来るミゾクイさんだったりして?
鎌足は、天智のアシストだったのに表舞台へ。本人はそのつもりなかったけどアンチ天智の方々のいい旗じるし的な役割。そもそも藤原は亡くなってから貰った名だし。
継体さんは地方の五穀豊穣の要の方で武烈や飯や青の付く方々を上手く避ける為に呼ばれて結局安閑封じてその後継体さんの活躍はあったのか?
相当怨霊ありそうです。
皆自分の立場を利用されてすぐ消されて、何かある時は権威付けで利用されています。
時代は違うのかもしれませんが同じイメージです。昨日継体さんが百済の王で日本出身の方だという説もあるとか?武寧王だったかな?彼と鎌足は似ていると思っていたのでさらに繋がってきました。関東は倭王武が仕切っていたとしたら東北関東北陸辺りは?護という刀、武王。
獲加多支鹵?
歴史は時代とかを生命とは違って長生きにしたり短命にも出来るし、エピソードも分けたりも手法できそうだといわれていますから。
うららさまの記事、なんか共感してしまいました、調べれば調べるほど分からなくなります。調べないで流れにしたがっていきます。2226