旅立つ前の予習で、ブラショフ市の紋章は木の株が王冠をかぶっているのが印象的でした。
先住のルーマニア人を締め出した境界に建つ「エカテリーナ門」
アーチの上には「ブラショフの紋章」がありました。
とある木の株から王冠が掘り出されたという伝説からきているそうです。
ブラショフは太古からこの場所に街が存在していたらしい。
ラテン語で王冠を意味するコロナ(Corona)と言う名前で記録に残った最初は1234年。
後に、ドイツ語でクロンシュタット(Kronstadt)と呼ばれました。
第二次世界大戦後ソ連の占領期には、一時期レーニンという名前になったこともあったそうだ。
ブラショフの街の中心部にあるスファルトゥルイ広場の
画像では左角に黒の教会が堂々とそびえています。
黒の教会 (Biserica Neagra/ビセリカ・ニャグラ)
1385年ごろに破壊された以前の教会に代わり1477年に作られたこの地方最大の後期ゴシック教会。
この教会はカソリック世界が、東方のオーソドックス世界に対して
その威容を誇るために建設されたもので、宗教·政治的なショウ·ウィンドウだったとのこと。
1689年オスマン帝国との戦いで、ハプスブルク帝国軍が侵入してきた際の大火の煙で黒くなったことにより、その名がつけられた。
教会内119枚のオリエントカーペットのコレクションがみごとで
南東ヨーロッパ最大の機械式オルガン(1839年製、73ストップ、4000本のパイプ)が有名らしい。
城壁で囲まれた旧市街にドイツ人やハンガリー人、
先住のルーマニア人は城壁の外スケイ地区に追いやられました。
境界に立つ現存のスケイ門は1828年改築。
カソリック教徒とルーマニア人の正教徒を隔てる門です。
ブラショフの町は、1211年ハンガリー王の命令で、
ドイツ騎士団がハンガリー国境を守るための要塞を築いたことから始まりました。
ドイツ語名「クローンシュタット」、英語では Crown City を意味し、
中世ラテン語名の Corona/コロナ と同じであり、市の紋章に反映されています。
1666年の本の挿絵にあるクローンシュタット(ブラショフ)の町
スケイ門の左側にエカテリーナ門があります。
スケイ門より先にエカテリーナ門が1559年に建設され城内への南の入り口となっていました。
ドイツの植民地なので、ルーマニア人は市民とみなされていなかった。
彼らは市内で商いをすることすら許されていなかったので、羊飼いか密輸で生計をたてるようになった。
また、ルーマニア人の信仰する正教会はトランシルヴァニア中で公式に認められていなかった。
スケイ地区に建つルーマニア正教の聖ニコラエ教会
この場所には14世紀からの木造の教会があった。
教会には18世紀のフレスコ画が描かれ、数多くのルーマニアの古美術品が保存されています。
この教会に隣接して16世紀には初のルーマニア語による学校があり、現在で博物館になっています。
教会内は撮影禁止だったので、ルーマニア正教については
次のシナイア僧院でレポートします。