2月に入ってジオパーク関連の講習が目白押しで、報告がどんどん溜まっていますが…
今日は17日に行われた表題の講演の中から、私が印象に残ったことを中心に報告します。
(お話しの全てはとても書ききれないので…)
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講演には30名以上の人が参加しました。(またまた正確な人数聞き忘れました)
最初の講演は、磐梯山ジオパークの伊藤さん。磐梯山が好きで脱サラして移住、以後山のガイドをしながらエコツアーのガイド養成などを続けられてきた方で、磐梯山エコツーリズム協会の会長でもあります。
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「磐梯山は、明治時代に山体崩壊で477人の犠牲があった火山。山体崩壊は大きなエネルギーで800°の熱が時速60~80kmの速度で流れ下った。」(講演より)
以下、伊藤さんの話から…。
「ツアーでは防災を取り入れている。地震計を見てもらい地震と火山噴火の話をしたり、ハザードマップや地質図を使って噴火の対応の話しをする。小中学校には出前講座。観光の人に危険ばかり話すと楽しくないので流れ山、五色沼などの恩恵について話しをする。
どう変わったかを調べるために多い時は月1回、モニタリング。ひとつのテーマについて何項目かを定期的に見ていく。(外来生物、貴書植物、地形変化、資源変化、植物変化、沼の見え方、水質など)住民参加でモニタリングすることで地元の人の意識が変わる。関わることで皆の気持ちの中に湧いてくるものがある。また、自然の変化を定期的に見ることでわかるものもある。住んでいる人間が、まずきちんと知ることだと思う。
125年しか立たない自然はどんどん移り変わる、湿地が乾燥し、ヨシがススキに、柳がハンノキに、ミズナラに変わっていく。そういう変化をきちんと捕らえていくことで、自然を通して自分たちが成長する。
ジオ、大地は災いも起こす。大地が無ければなにも作れない、生態系のベースになるものがジオ、こういう大地なら米がいい、麦がいいなど、生活につながっている。
参加者からの質問
磐梯山を訪ねて、エコツーリズムがすごくまとまっていると感じた。。エコに対する地域の意欲はどこから?
磐梯山のエコツアーは、始まってから15年ぐらいになる。コンビニ(セブンイレブン)などの色は、えび茶と緑だったりしている。自分たちの宝がなんなのか、宝に気づいて共有して誇りに思う。住民総ガイド。大島でも、そういう気持ちは芽生えていると思う。これだけの人が集まってくるのだから。
裏磐梯がやっている核になる組織はなにか?
環境省のエコツーリズム推進地区のモデル地区として3年間活動、行政も意識高い人が増えている。今までコツコツやって来たことが実を結んでいるのかも。
ジオパークガイドとしてやるときはガイディングテクニックを身につけていくことが大事。ガイド料の一部をストックし、道路補修その他に使っている。ガイド活動を本格化するなら「有料ガイド。優良ガイド。」がキーワードになると思う。
防災意識を高めることは、ジオの人たちがやっているのか?行政がやっているのか?
ジオパーク協議会の中心になっている人間が、小中学校に出前講座をしている。公民館活動の中の成人セミナーで防災テーマの学習会。防災は、行政だけでも民間だけでもダメだと思う。」
続いての講演は、洞爺湖有珠山ジオパークの小川さん。
小川さんは、アメリカの大学で生態学を学び、イエローストーン他国立公園などでガイドの手伝いなどの経験を持つ方で、11年前から洞爺湖ガイドセンターを運営しています。
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「カルデラ湖である洞爺湖は今から約11万年前、巨大噴火で誕生。そして2万年くらい前から洞爺湖の南岸で噴火が繰り返され有珠山が誕生。有珠山は7~8千年前の山体崩壊のあと、江戸時代まで噴火を休んでいたが、1663年に噴火を再開し、その後2000年までに9回の噴火を繰り返してきた。」(洞爺湖有珠山ジオパークHPよりの要約)
以下、小川さんの話しから…。
「紹介したツアーに関して、特に防災をアピールはしていない。暮らしをアピールすることで防災が出てくると思っている。リスクマネージメントの話しはする。装備が無いと、せっかくお金払って北海道まで来ても楽しめない、冬の北海道にスニーカーで来る人多いが、不安、寒いぬれた、注意が集中できない。だから長靴などをレンタルしている。
『ジオツアーをやっている者として防災をどう表現するか?』というのは“生活”だと思う。
例えばビジターセンターに火山科学館があり、そこに避難所がある。「避難所って案外大変なんだよな」という話しをする。
最初にこういう聞き方をすることも。
「有珠山2000年に噴火1977年に噴火した。2回も噴火した。そんなとこある?雨降りますよね,雪降りますよね?避難するような災害は、日本中どこでもおこる可能性ある。『みんなにも洪水は起こるかもよ』『この町の人たちはどう生活していると思う?ここの高校生はどう生活していると思う?』など、防災という伝え方ではなく、生活という伝え方をしている。
洞爺湖温泉は開湯してから100年、1917年以降お湯がわいた。1910年、当時の警察局長が住民を1日で避難させた。1940年、警察署長と大学先生が避難、77年は1番・観光客、2番・地元の人、3に観光従事者。4番目に町役場。各ホテルが毎年個別に避難訓練実施。観光客をバスで外に出す。各ホテルの1階にはロビーしか無い。湖畔にはホテルしか無い、住民の住まいは山の中腹にしかないのは、火災流対策という話しもある。
2000年泥流が起き、40°以上の熱泥流で流れた。流路工、砂防ダムもいっぱい作ってあるが、あふれて民家被害もけっこうでた。防火としての避難訓練、年2回義務づけられている。
洞爺湖のホテルは200~300室あるところも。2000年噴火までは、団体旅行が中心。最近は団体バスツアーではなく、個人客をターゲットにしたホテルも出て来ている。
環境保存しようという動きも出て来た。中島に観光の人が持ち込んだエゾシカ5頭が逃げたのは1960年頃のこと。2002年の鹿の頭数は440頭。一周10kmの島に、それだけの鹿がいる。木も死に、棘のある植物が残るという状態に。「鹿がかわいそう」「森がかわいそう」「鹿がいなくなったら観光客来なくなる」など、見る方向により意見は様々。一昨年200頭を50頭までへらす計画を研究機関と一緒になって発表した。
会場からの質問
質問洞爺湖では災害遺構、どのように決められて残されたのか?
金比羅火山の遺構散策路は、砂防ダム内。ここは、ダムの容量が少なくなるから絶対ダメということで半年ぐらい押し問答。公営住宅一棟、学校?などの公共施設。かならず人を置いて人数管理。リースとしてかしている。
子ども達のために、最終決断は当時の町長。
西山華山の遺構散策路
100人中100人がてっぺんから噴火すると思っていた。ところが2000年の噴火は山の中腹から噴火した『うちは遠いから避難遅くていい』と逃げなかった人たちが沢山いた。自分たちの子どもや孫に伝えたい、という思いがある。語り部、悲惨さを語り継ぐためのガイド養成をしている。
遺構を残すには、その地域住民の合意が必要だと思う。また有珠山洞爺湖は、首都からの修学旅行多い。事実を伝えるだけでなく、命の大切さを伝えるのが大切だと思う。
報告は以上です。
時間ギリギリまで様々な質問が出ていました。
場所によって様々な問題を抱えながら、共通のものもたくさん感じて、とても充実した時間でした。
(カナ)
今日は17日に行われた表題の講演の中から、私が印象に残ったことを中心に報告します。
(お話しの全てはとても書ききれないので…)
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講演には30名以上の人が参加しました。(またまた正確な人数聞き忘れました)
最初の講演は、磐梯山ジオパークの伊藤さん。磐梯山が好きで脱サラして移住、以後山のガイドをしながらエコツアーのガイド養成などを続けられてきた方で、磐梯山エコツーリズム協会の会長でもあります。
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「磐梯山は、明治時代に山体崩壊で477人の犠牲があった火山。山体崩壊は大きなエネルギーで800°の熱が時速60~80kmの速度で流れ下った。」(講演より)
以下、伊藤さんの話から…。
「ツアーでは防災を取り入れている。地震計を見てもらい地震と火山噴火の話をしたり、ハザードマップや地質図を使って噴火の対応の話しをする。小中学校には出前講座。観光の人に危険ばかり話すと楽しくないので流れ山、五色沼などの恩恵について話しをする。
どう変わったかを調べるために多い時は月1回、モニタリング。ひとつのテーマについて何項目かを定期的に見ていく。(外来生物、貴書植物、地形変化、資源変化、植物変化、沼の見え方、水質など)住民参加でモニタリングすることで地元の人の意識が変わる。関わることで皆の気持ちの中に湧いてくるものがある。また、自然の変化を定期的に見ることでわかるものもある。住んでいる人間が、まずきちんと知ることだと思う。
125年しか立たない自然はどんどん移り変わる、湿地が乾燥し、ヨシがススキに、柳がハンノキに、ミズナラに変わっていく。そういう変化をきちんと捕らえていくことで、自然を通して自分たちが成長する。
ジオ、大地は災いも起こす。大地が無ければなにも作れない、生態系のベースになるものがジオ、こういう大地なら米がいい、麦がいいなど、生活につながっている。
参加者からの質問
磐梯山を訪ねて、エコツーリズムがすごくまとまっていると感じた。。エコに対する地域の意欲はどこから?
磐梯山のエコツアーは、始まってから15年ぐらいになる。コンビニ(セブンイレブン)などの色は、えび茶と緑だったりしている。自分たちの宝がなんなのか、宝に気づいて共有して誇りに思う。住民総ガイド。大島でも、そういう気持ちは芽生えていると思う。これだけの人が集まってくるのだから。
裏磐梯がやっている核になる組織はなにか?
環境省のエコツーリズム推進地区のモデル地区として3年間活動、行政も意識高い人が増えている。今までコツコツやって来たことが実を結んでいるのかも。
ジオパークガイドとしてやるときはガイディングテクニックを身につけていくことが大事。ガイド料の一部をストックし、道路補修その他に使っている。ガイド活動を本格化するなら「有料ガイド。優良ガイド。」がキーワードになると思う。
防災意識を高めることは、ジオの人たちがやっているのか?行政がやっているのか?
ジオパーク協議会の中心になっている人間が、小中学校に出前講座をしている。公民館活動の中の成人セミナーで防災テーマの学習会。防災は、行政だけでも民間だけでもダメだと思う。」
続いての講演は、洞爺湖有珠山ジオパークの小川さん。
小川さんは、アメリカの大学で生態学を学び、イエローストーン他国立公園などでガイドの手伝いなどの経験を持つ方で、11年前から洞爺湖ガイドセンターを運営しています。
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「カルデラ湖である洞爺湖は今から約11万年前、巨大噴火で誕生。そして2万年くらい前から洞爺湖の南岸で噴火が繰り返され有珠山が誕生。有珠山は7~8千年前の山体崩壊のあと、江戸時代まで噴火を休んでいたが、1663年に噴火を再開し、その後2000年までに9回の噴火を繰り返してきた。」(洞爺湖有珠山ジオパークHPよりの要約)
以下、小川さんの話しから…。
「紹介したツアーに関して、特に防災をアピールはしていない。暮らしをアピールすることで防災が出てくると思っている。リスクマネージメントの話しはする。装備が無いと、せっかくお金払って北海道まで来ても楽しめない、冬の北海道にスニーカーで来る人多いが、不安、寒いぬれた、注意が集中できない。だから長靴などをレンタルしている。
『ジオツアーをやっている者として防災をどう表現するか?』というのは“生活”だと思う。
例えばビジターセンターに火山科学館があり、そこに避難所がある。「避難所って案外大変なんだよな」という話しをする。
最初にこういう聞き方をすることも。
「有珠山2000年に噴火1977年に噴火した。2回も噴火した。そんなとこある?雨降りますよね,雪降りますよね?避難するような災害は、日本中どこでもおこる可能性ある。『みんなにも洪水は起こるかもよ』『この町の人たちはどう生活していると思う?ここの高校生はどう生活していると思う?』など、防災という伝え方ではなく、生活という伝え方をしている。
洞爺湖温泉は開湯してから100年、1917年以降お湯がわいた。1910年、当時の警察局長が住民を1日で避難させた。1940年、警察署長と大学先生が避難、77年は1番・観光客、2番・地元の人、3に観光従事者。4番目に町役場。各ホテルが毎年個別に避難訓練実施。観光客をバスで外に出す。各ホテルの1階にはロビーしか無い。湖畔にはホテルしか無い、住民の住まいは山の中腹にしかないのは、火災流対策という話しもある。
2000年泥流が起き、40°以上の熱泥流で流れた。流路工、砂防ダムもいっぱい作ってあるが、あふれて民家被害もけっこうでた。防火としての避難訓練、年2回義務づけられている。
洞爺湖のホテルは200~300室あるところも。2000年噴火までは、団体旅行が中心。最近は団体バスツアーではなく、個人客をターゲットにしたホテルも出て来ている。
環境保存しようという動きも出て来た。中島に観光の人が持ち込んだエゾシカ5頭が逃げたのは1960年頃のこと。2002年の鹿の頭数は440頭。一周10kmの島に、それだけの鹿がいる。木も死に、棘のある植物が残るという状態に。「鹿がかわいそう」「森がかわいそう」「鹿がいなくなったら観光客来なくなる」など、見る方向により意見は様々。一昨年200頭を50頭までへらす計画を研究機関と一緒になって発表した。
会場からの質問
質問洞爺湖では災害遺構、どのように決められて残されたのか?
金比羅火山の遺構散策路は、砂防ダム内。ここは、ダムの容量が少なくなるから絶対ダメということで半年ぐらい押し問答。公営住宅一棟、学校?などの公共施設。かならず人を置いて人数管理。リースとしてかしている。
子ども達のために、最終決断は当時の町長。
西山華山の遺構散策路
100人中100人がてっぺんから噴火すると思っていた。ところが2000年の噴火は山の中腹から噴火した『うちは遠いから避難遅くていい』と逃げなかった人たちが沢山いた。自分たちの子どもや孫に伝えたい、という思いがある。語り部、悲惨さを語り継ぐためのガイド養成をしている。
遺構を残すには、その地域住民の合意が必要だと思う。また有珠山洞爺湖は、首都からの修学旅行多い。事実を伝えるだけでなく、命の大切さを伝えるのが大切だと思う。
報告は以上です。
時間ギリギリまで様々な質問が出ていました。
場所によって様々な問題を抱えながら、共通のものもたくさん感じて、とても充実した時間でした。
(カナ)