一昨日の夜、表題のシンポジウムが開催され、参加しました。
内容は以下の通り。
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とてもとても中身の濃い2時間でした。
講義の内容の一部を紹介します。
陸前高田市の実吉氏。
ご自身も「会議があと30分延びていたら被害にあっていた」という状況の中で、妹さんを含め多くの友人知人を亡くされた実吉さんは、現在「語り部」として活動されています。
情景が目に浮かぶような語りからは、壮絶な被害の数々と、被災した方々の胸の痛みが感じられて茫然となりました。きっと会場にいたほとんどの人が、同じだったのではないかと思います。
以下、実吉さんの話しから…。
「複合的損失という言葉がある。家族や友人を失う、心身の健康を失う、財産や仕事を失う、住み慣れた環境を失う。時間薬は決して忘れさせてはくれない。」
「遺訓が残っている。『津波の2度逃げ』先人の遺訓は認識すべき。便利な社会にいると、どうしてもそれを忘れがちになる。『津波てんでんこ』の本当の意味は、自分の命は自分で守る、ということ」
「今、いちばん大きな問題は、自殺する人が増えていること。一歩も踏み出せないがまんの限界が3年目。前へ進める人、後ろにしか進めない人もいる。」
「全国から、世界から,暖かい励ましが届いている。辛いけれど前に向かって歩こう。それがご恩返し。」
「災害遺構について少し時がたってから『母が犠牲になった建物を残してほしい。建物が無くなったら,母があそこにいたことがわからない。辛いけれど、残して後世に伝えてほしい』という声があがった。災害遺構を残すかどうかは、あまり拙速に結論を出さない方が良い。」
大船渡博物館館長の佐藤氏。
被災当時は市の職員。今は博物館を通して災害を伝えようとされています。
「津波被害は壮絶。でも私は、明るい話しをします。」という言葉で始まったお話の中からは、私たちは『良かったこと」からも、たくさん学ぶことができるのだと感じました。
以下、佐藤さんの話しから…。
「大船渡では17回目の椿祭り開催中。ヤブツバキは北限。宮沢賢治でも大島とつながりあり。」
「明治以来ここに津波が来ることはわかっているので、動かなかった地域がある。『吉浜』と呼ばれる地域で、海側には畑のみ作り集落は下に下りなかった。」
「さかり、という町はキレイに避難した。避難先の市役所やリアスホール、天神山など全て高台。どこに逃げるかは想定していたのだろう。」
「災害に対してどうしたらいいのか、見極めはすごく難しい。一瞬で助かりもするし,犠牲にもなる。大船渡の400人の犠牲者は、ものすごい大きな数だがよそから比べると少ない。少ない理由は訓練したからだと思っている。」
三宅島観光協会の穴原氏
2000年噴火当時は中学生。島に帰ってからは、火山を生かした観光や地域づくりに取り組まれています。穴原さんの「伝えたいこと」を聞いて、とても頼もしく感じました。
「三宅も噴火、避難など、たくさんの苦労があった中で、ようやくここまでたどり着けた。ジオ、火山も島の恵みだと感じている。」
「20年に一度も噴火するような場所になぜ、戻ってきたのかと良く言われる。当初は旨く答えられなかった。東北でも津波の被害は過去にもあるのに、どうして戻ってくるのか。答えはそれぞれ違うだろうが、私は、自分らしくいられるからかなと、最近思うようになってきた。」
「三宅の噴火災害、大島の土砂災害、東北の津波や原発の災害。経験した人がどう伝えていくか、誰がどこに対して伝えていくかが重要。三宅では噴火で直接亡くなった人はいなかっが避難中になくなった人はいた。自ら命を絶った人もいた。悲しいこともあった。それを乗り越えて、自分たちが出来ることを進めていくことが大事だと思う。」
後半のパネルディスカッションでも、様々な話しが出ました。
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佐藤さんからは…
「財産や家族のために避難先から戻ったり、逃げない人がいる。それをどうしたらいいか考えないと被害が出てしまう。」
実吉さんからは…
「体が不自由な人、耳が不自由な人を誰がどうしていくかを決めないと急にはできない」
三宅島の役場の方からは、災害遺構について。
「災害にあった場所は基本的に残している。崩しもしないし新しくもしない。手をつけるとお金がかかるので、やらないというのが常識。ありのままを見せる」
三宅島の浅沼観光協会長から最後の挨拶の中で…
「大災害は地球が生きている証、私たち人間の多少の被害は致し方ない。大事なのは起こった後、どういう風に対処していくか。(制度面で)前例があるわけがないことを、前例として作っていくことが、災害を起こした私たちが壁をぶち破っていくことが大事。次の人たちにバトンタッチしていけるように、粘り強く、交渉していくのが、自分たちだけでなく災害に強い国になっていくことだと思う。経験したから言えること、それを生かしていくこと、両島間だけでなく、三陸、その他の方とも、協力して、安心して住める社会にしていくことが大事。」
シンポジウムに参加して、私の知らないところに、前を向いて生きている沢山の人の存在があることを、あらためて感じました。
(カナ)
(記事は例によって,中川氏のメモを参照させていただきました)
内容は以下の通り。
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とてもとても中身の濃い2時間でした。
講義の内容の一部を紹介します。
陸前高田市の実吉氏。
ご自身も「会議があと30分延びていたら被害にあっていた」という状況の中で、妹さんを含め多くの友人知人を亡くされた実吉さんは、現在「語り部」として活動されています。
情景が目に浮かぶような語りからは、壮絶な被害の数々と、被災した方々の胸の痛みが感じられて茫然となりました。きっと会場にいたほとんどの人が、同じだったのではないかと思います。
以下、実吉さんの話しから…。
「複合的損失という言葉がある。家族や友人を失う、心身の健康を失う、財産や仕事を失う、住み慣れた環境を失う。時間薬は決して忘れさせてはくれない。」
「遺訓が残っている。『津波の2度逃げ』先人の遺訓は認識すべき。便利な社会にいると、どうしてもそれを忘れがちになる。『津波てんでんこ』の本当の意味は、自分の命は自分で守る、ということ」
「今、いちばん大きな問題は、自殺する人が増えていること。一歩も踏み出せないがまんの限界が3年目。前へ進める人、後ろにしか進めない人もいる。」
「全国から、世界から,暖かい励ましが届いている。辛いけれど前に向かって歩こう。それがご恩返し。」
「災害遺構について少し時がたってから『母が犠牲になった建物を残してほしい。建物が無くなったら,母があそこにいたことがわからない。辛いけれど、残して後世に伝えてほしい』という声があがった。災害遺構を残すかどうかは、あまり拙速に結論を出さない方が良い。」
大船渡博物館館長の佐藤氏。
被災当時は市の職員。今は博物館を通して災害を伝えようとされています。
「津波被害は壮絶。でも私は、明るい話しをします。」という言葉で始まったお話の中からは、私たちは『良かったこと」からも、たくさん学ぶことができるのだと感じました。
以下、佐藤さんの話しから…。
「大船渡では17回目の椿祭り開催中。ヤブツバキは北限。宮沢賢治でも大島とつながりあり。」
「明治以来ここに津波が来ることはわかっているので、動かなかった地域がある。『吉浜』と呼ばれる地域で、海側には畑のみ作り集落は下に下りなかった。」
「さかり、という町はキレイに避難した。避難先の市役所やリアスホール、天神山など全て高台。どこに逃げるかは想定していたのだろう。」
「災害に対してどうしたらいいのか、見極めはすごく難しい。一瞬で助かりもするし,犠牲にもなる。大船渡の400人の犠牲者は、ものすごい大きな数だがよそから比べると少ない。少ない理由は訓練したからだと思っている。」
三宅島観光協会の穴原氏
2000年噴火当時は中学生。島に帰ってからは、火山を生かした観光や地域づくりに取り組まれています。穴原さんの「伝えたいこと」を聞いて、とても頼もしく感じました。
「三宅も噴火、避難など、たくさんの苦労があった中で、ようやくここまでたどり着けた。ジオ、火山も島の恵みだと感じている。」
「20年に一度も噴火するような場所になぜ、戻ってきたのかと良く言われる。当初は旨く答えられなかった。東北でも津波の被害は過去にもあるのに、どうして戻ってくるのか。答えはそれぞれ違うだろうが、私は、自分らしくいられるからかなと、最近思うようになってきた。」
「三宅の噴火災害、大島の土砂災害、東北の津波や原発の災害。経験した人がどう伝えていくか、誰がどこに対して伝えていくかが重要。三宅では噴火で直接亡くなった人はいなかっが避難中になくなった人はいた。自ら命を絶った人もいた。悲しいこともあった。それを乗り越えて、自分たちが出来ることを進めていくことが大事だと思う。」
後半のパネルディスカッションでも、様々な話しが出ました。
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佐藤さんからは…
「財産や家族のために避難先から戻ったり、逃げない人がいる。それをどうしたらいいか考えないと被害が出てしまう。」
実吉さんからは…
「体が不自由な人、耳が不自由な人を誰がどうしていくかを決めないと急にはできない」
三宅島の役場の方からは、災害遺構について。
「災害にあった場所は基本的に残している。崩しもしないし新しくもしない。手をつけるとお金がかかるので、やらないというのが常識。ありのままを見せる」
三宅島の浅沼観光協会長から最後の挨拶の中で…
「大災害は地球が生きている証、私たち人間の多少の被害は致し方ない。大事なのは起こった後、どういう風に対処していくか。(制度面で)前例があるわけがないことを、前例として作っていくことが、災害を起こした私たちが壁をぶち破っていくことが大事。次の人たちにバトンタッチしていけるように、粘り強く、交渉していくのが、自分たちだけでなく災害に強い国になっていくことだと思う。経験したから言えること、それを生かしていくこと、両島間だけでなく、三陸、その他の方とも、協力して、安心して住める社会にしていくことが大事。」
シンポジウムに参加して、私の知らないところに、前を向いて生きている沢山の人の存在があることを、あらためて感じました。
(カナ)
(記事は例によって,中川氏のメモを参照させていただきました)