浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

白い・・・・・

2024-11-13 10:48:59 | 

 「白い・・・」というとき、ぼくは何を思い起こすのだろうか。

 東京に出た最初の冬、浜松ではほとんどみたことのない雪が降り、そして積もった。夜のことだった。冬は、木々はみどりの葉を落とし、人びとは黒っぽい服を着て、寒さに耐えながら生きる。全体として、ダークなイメージである。しかし雪は、それを覆いつくしてしまう。白い世界が現れる。

 ぼくは、とっても美しいと思い、母に電話したことを覚えている。

 ハン・ガンも、「白い・・・」というとき、雪を思い起こすようだ。雪の記述が多い。また雪の記述が多いということは、冬の記述も多い、ということである。

 確かに、「白い・・・」は、冬に似つかわしい。夏は、カラフルだ。

 「白い・・・」というとき、ぼくが思い起こすのは、雲だ。幼い頃、ずっと雲を見続けたことがある。雲は形をいろいろにかえながら、西から東へと去っていく。

 ハン・ガンの『すべての、白いものたちの』を読んだ。ほとんど、詩だと思った。そしてその詩には、死がくっついている。生まれてまもなく亡くなった「姉」という存在。

 人間は生きていくなかで、まったく「白紙」である人生を、みずからの色や形で埋めていく、あるいは描いていく。だが、生まれて間もない「姉」のそれは「白い」ままだ。「白い」ままの「姉」の存在が、ハン・ガンにさまざまな想念を飛翔させる。「白い」ままの「姉」の生には、やはり「白い・・・」しかあり得ない。ひとりの生に、たとえ妹であろうとも、そこにほかの色や形を描くことはできないからだ。

 さらに、「姉」の死は、他者の死へと開いていく。死は、他者の死へと連なっていくのだ。

 確かに、「生は誰に対しても特段に好意的ではない」(P69)。でも、だからこそ、「しなないで、しなないでおねがい」(P169)とこころのなかで叫ぶのだ。

 この本の原題は、「白い・・・」という形容詞だとのこと。Koreaのことばの「白い」には、複数の語があるという。コリアンは、「白い」に大きな意味を持たせているのだろう。

 

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『ブラッドランド』を読む

2024-11-02 19:57:16 | 

 今日は雨。畑にも行けず、本を読んだり昼寝などをして過ごした。

 本は、図書館から借りてきた『ブラッドランド』上である。その第1章は、スターリン体制下のウクライナ農民の餓死事件である。スターリンの政治により、約330万人が亡くなった。

 1930年代前半の時期、ウクライナから種蒔き用のものまで、ほとんどの食糧を挑発して、その結果、330万人のウクライナ農民が餓死した。

 この事件について知ってはいたが、その詳細は知らなかった。スターリンとその取り巻き、そしてソ連共産党の組織がそれを行った。読んでいて、あまりのことにただ驚くばかりであった。

 ウクライナは、ソ連邦の傘下にあったが、のち、ソ連の崩壊後に独立した。こんなひどいことをされたウクライナの人びとが、ロシアの影響から離脱したいと考えるのは当然だと思った。現在のロシアのトップは、ソ連共産党のメンバーであったプーチンである。

 過ぎ去った歴史は、時に呼び戻される。ウクライナとロシアとの戦争は、ロシア帝国時代からの歴史を引きずっている。とりわけ、スターリン体制下に起きたこの事件は、ウクライナの人びとの心にかならずしまわれているはずである。

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「パレスチナのこと」

2024-10-29 19:42:45 | 

 ミシマ社の『中学生から知りたいパレスチナのこと』は、新たな歴史認識に誘う良書である。以前にも紹介したが、パレスチナ問題を考えるにあたって、この本はもっとも本質的なことを記していると思う。記されていることに、立ち止まって考えるという体験は、本を読んでいてあまりないが、本書は様々な気づきを与えてくれた。

 引用された埴谷雄高のことば。

「敵は制度、味方はすべての人間、そして認識力は味方の中の味方、これが絶えざる死の顔の蔭に隠れて私達ののあいだに、長く見つけられなかった今日の標語である。」(『幻視のなかの政治』未来社)

 敵は、すべての人間のなかに区別をつくりだし、差別して分断していく。その手段として、いろいろな制度を生みだす。国境もその一つだ。また言説も、「敵」がつくりだすものならば、それは制度に他ならない。つくられた制度は、さらに区別する力を強化し、それを差別化し、分断を強めていく。

 イスラエルに移民として入植してきたユダヤ人の多くは、中・東欧からが多いという。その地域は、「流血地帯」(blood land)といわれるそうだ。

 わたしは今、『ナチズム前夜 ワイマル共和国と政治的暴力』(原田昌博、集英社、2024年)を読んでいるが、ワイマル共和国時代、ドイツ国内では、同国民を殺傷する暴力事件が頻繁に起きていたことを知って驚いたが、そのドイツの東側の地域は「流血地帯」と呼ばれ、まさに多くの血が流されていた。他人の血を流すことに何の痛みも感じない、そうしたことに慣れたユダヤ人が、シオニストとなってイスラエルを建国し、担ってきたのである。

 イスラエルの果てしない暴力をみつめるということは、欧米の歴史をひもとくことにならざるを得ない、ということになる。

 ユダヤ教徒であるとしてのみあったユダヤ人、しかしそのユダヤ教徒を「中東に由来するセム人」だとして、ユダヤ教徒を単なる宗教的な存在としてではなく、「人種」として区別し差別するという動きが、近代になって生まれた。シオニストのユダヤ人は、それを利用し、みずからをセム人として措定し、だから私達はパレスチナに祖国を持つ権利があると主張し、イスラエルという国家をつくった。

 人種概念を創造したのは、欧米である。そしてイスラエルは、「入植者植民地主義」国家で、植民地主義も欧米原産であり、さらに「優生思想」もである。まさにナチズムの思想は、西欧由来のものであった。

 それらをイスラエルという国家がまとめ、パレスチナ人を攻撃し殺戮している。

 イスラエルの問題は、欧米近代史のなかから生まれてきた。パレスチナ問題を考えるということは、西欧近代史をさかのぼることになる。

 きわめて知的刺激にあふれた本である。この本は、図書館から借りてきたが、返却して購入するつもりである。

 

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【本】岡真理ほか『中学生から知りたいパレスチナのこと』(ミシマ社)

2024-10-17 10:12:23 | 

 とてもよい本である。図書館から借りたものであるが、これは手元に置いておかなければならない本であると思う。

 岡真理さんの「ヨーロッパ問題としてのパレスチナ問題」のなかの、「近代500年の歴史は、西洋の国々による非ヨーロッパ人に対する大量殺戮の歴史です。」ということばは、まさにその通りだというしかない。西洋の国々とは、キリスト教国に他ならない。つまり、キリスト教徒が「大量殺戮」を行ってきたのである。

 日本のキリスト者には良心的な人が多いが、パレスチナ問題では、イスラエルを批判する人は少ないような気がする。しかし現実にユダヤ人国家であるイスラエルが、パレスチナ人を虐殺しているのだから、キリスト教徒もきちんとパレスチナ問題を凝視すべきである。

 「ディアスポラ」ということばがある。パレスチナに住んでいたユダヤ教徒が世界各地に離散したという意味であるが、「十字軍に支配された一時期、エルサレムへの入城は禁じられましたが、パレスチナからユダヤ教徒の住民すべてが追放されて、世界に離散したなどという事実はない」(25頁)という。

 イスラエル国家は、「入植者による植民地主義の侵略によって、先住民を民族浄化して建国されたという歴史的事実が」(28頁)あり、それはアメリカ合州国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダと同様である。

 したがって2023年のハマス主導によるイスラエル攻撃は、「占領された祖国の脱植民地化を求める者たちの抵抗として歴史的に位置づけられ」、その攻撃は、ヴェトナム人民がアメリカ帝国主義勢力を追い出す武力闘争と変わらないものだという認識がなり立つのである。

 またそのハマス攻撃に関する報道は、ほとんどがイスラエル側から発したもので、世界の人びとに過った認識を与えるために、イスラエル側が仕組んだ内容が多い。

 だいたいにして、イスラエルは国際法に違反した行動を一貫して継続してきたし、それに対して国連が何らかの行動をイスラエルにしようとしたときには、必ずアメリカ帝国主義による「拒否権」の発動があり、したがってイスラエルの蛮行を抑止することができずに現在に至っている。

 そういう歴史をみつめる意味で、本書はきわめて有効である。

 さらに指摘しておくなら、アメリカ合州国という国家とイスラエル国家は、同類のジェノサイド国家なのである。アメリカ合州国が建国以降行ってきた蛮行は数限りない。わたしはそれに関する書籍などをあつめていて、いつかそれをまとめてみようと思っているが、そのアメリカ帝国主義に隷属して喜んでいる日本の支配層の奴隷根性にはあきれるしかない。

 パレスチナ問題は、近代世界に至る歴史、そして現代までの歴史をもう一度考える契機になり得る。世界がどうしようもない状況に陥っている元凶は、アメリカ帝国主義なのである。

 

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歴史認識を問われる本

2024-10-03 13:11:33 | 

 わたしがもつ歴史認識を鋭く問うような本や話を、わたしは求めている。日本近現代史というわたしが主に学んでいる(最近は研究をしていない、ただ学び続けているだけである)分野でも、そうした刺激あるものがなくなっていると思わざるを得ない。

 今私は、担当している歴史講座の準備をしているが、そこでは浜田知明という画家をとりあげる。彼には、「初年兵哀歌」というシリーズがあるが、画家として何を描こうとしていたのか、を考えている。浜田知明の展覧会は、今まで四回行き、その都度図録を購入している。そのため、材料にはことかかないのだが、彼の絵からも、日本の「戦争」に対する歴史認識が鍛えられる。

 従軍して何を見るのか、あるいは自分自身の脳裡に何が刻印されるのか。それは個人個人に任される事柄であるが、主体としての浜田が見たものを、あるいは刻印されたものを考えることによって、戦争の本質をうかがうことはできはしないか。

 そういうことを考えながらいたときに、岡真理、藤原辰史さんらによる『中学生から知りたいパレスチナのこと』(ミシマ社)を知った。さっそく図書館から借りてきて読んでいるのだが、これは購入して読むべきものだと思った。わたし自身の歴史認識をびしびしと問い詰めるのだ。知らなかった事実が次々と突きつけられる。それらの事実は、それぞれが重く、すぐには咀嚼できないのだが、少なくともわたし自身が持っていた歴史認識が激しく動揺していることを感じる。

 素晴らしい本である。多くの人に読んでもらいたいと思う。

 この本は『週刊金曜日』9月27日号で知った。その書評の最初、藤原さんの「そもそも、歴史学そのものが、人間の足跡と尊厳を簡単に消すことができる、人の生きてきた痕跡をなかったことにできる暴力装置である・・」が引用されていて、歴史学に多少とも関わってきたわたしとしては、この記述に驚かされたのである。早速読まなければならないと思った。

 こういう歴史認識を揺るがすような研究がおこなわれなければならないのだが、わたし自身は一線から身を引いているので、何とも言えない。せめてみずからの属する研究会こそ、そういう研究を、と思っているのだが、その動向を見ていると、あまりにも専門的な研究ばかりに偏っている。

 わたし自身は、問題意識が鋭角的であればあるほど良い研究ができると思いながら研究してきたが、そういう姿勢は、「時代遅れ」なのかも知れない。

 

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ユダヤ教

2024-10-02 20:08:41 | 

 『ユダヤ教の歴史』という本がある。ポール・ジョンソンという人が書いたものだ。

 イスラエルの蛮行を理解するためには、ユダヤ教を知らなければならないと思い、かつて読んで、しかし完全に忘れていた内容を、線を引いたりしたところを中心に読み直している。

 イスラエルが行っていること、それをアメリカ帝国がバックアップしている、その様相に、宗教的背景があると認識しているからだ。ユダヤ人の一部であるシオニストが、パレスチナ人を虐待しているとは、もはや思えない。イスラエルという国家、ユダヤ人によって構成されている国家が、今までアメリカ帝国が行ってきたことを真似して、いやさらに激しくして、他国民、他民族を虐げている。イスラエルとアメリカ帝国とは、共通している。

 独善、残酷、差別主義、暴力国家・・・・あらゆる否定的なことばがこの二つの国家を特徴づける。

 同書(上巻)に、こういう文があった。

 ユダヤ人が許されない行為には、「偶像崇拝、不義と近親相姦、そして殺人」があるという(261頁)。

 「罪のない者を、多数の命を救うために犠牲とすることは許されない。人は一人ひとりが全人類の象徴であり、誰か一人を殺す者は、ある意味で生命の根本的定めを破ることとなる。」

 これはユダヤ人の内部だけに適用されるものなのか。おそらくそうだろう。ユダヤ人以外、ユダヤ国家の国民以外の人間を殺すことは許されるのだろう。

 まさにユダヤ教は独善主義の宗教であるがゆえに、普遍的な宗教とはなり得ない。普遍性をもたない宗教を信仰している者たちが、世界を攪乱している。

 

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もと統一教会員の懺悔録について

2024-09-12 20:46:45 | 

 最近出版された『旧統一教会 大江益夫・元広報部長 懺悔録』について、以前書いたことがある

 今日、デモクラシータイムスで、樋田さんと鈴木エイトさんがこの本について語り合う番組を見た。とても参考になった。 

霊感商法、赤報隊、自民党…人生を賭けた告白 樋田毅さん+鈴木エイトさん

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【本】堀和恵『評伝 伊藤野枝』(郁朋社)

2024-09-03 09:00:33 | 

 『初期社会主義研究』第32号で、大岩川嫰氏が本書を絶賛していたので、図書館から借りて読みはじめた。

 伊藤野枝は、みずからを成長させたいという強い意志をもって生きた女性である。豊かなエネルギーを持ち、様々な軋轢を超えて自分自身を求めて生きてきた。そういう女性の「評伝」を書く場合は、書く側にも強靭なエネルギーが必要だ。

 しかし読みはじめて、この本にはそれがない(瀬戸内寂聴や村山由佳、井出文子の本にはある)。淡々と野枝の人生を書く(だから野枝の「評伝」なのに、全文224頁しかない)。文に熱を感じない。それでも我慢して読み続けたのだが、141頁に来て読むのを止めた。1919年10月の婦人労働者大会の記述があったからである。

 それが書かれている第四章の参考文献には、平塚らいてう自伝、山内みな自伝が掲げられているが、それを読んだ形跡はない。ここに記されている内容は、栗原康の『村に火をつけ 白痴になれー伊藤野枝伝』の記述をそのまま踏襲しているのである。

 わたしは栗原の記述が「捏造」であることを平塚、山内の自伝をもとに批判した。栗原も参考文献としてふたりの自伝をあげているのだが、勝手にその場の情景を捏造して、栗原が思いえがく野枝像をつくりあげようとしたのである。

 わたしの批判をここに掲げる。

第五章のはじめに、「野枝、大暴れ」という項目がある。一九一九年一〇月五日、友愛会婦人部主催による「婦人労働者大会」があった。 国際労働大会に派遣されるILO政府代表・田中孝子(渋沢栄一の姪)に「実際に労働に従事する婦人労働者の真の要求を告げる目的で」開かれたもので、「八人の女工が・・熱弁」(大原社研『日本労働年鑑』第一集)を振るった(これは当時友愛会にいた市川房枝が企画したものである)。大会が終わり、控室に戻った田中孝子に野枝が詰め寄ったときの顛末を栗原は書いている。その際に使用された資料は、山内みなの自
伝、平塚らいてうの自伝である。
(1)栗原本は、らいてうが「外まで聞こえるような怒号」を聞いて、らいてうが「駆けつける」となっているが、らいてう自伝では控室にいたときに野枝が入ってきたと記されている。「外まで聞こえるような怒号」は根拠があるのだろうか。
(2)栗原本では、らいてうが「田中が可哀想だと思いとめにはいった」と記されているが、らいてう自伝では、野枝をたしなめるつもりでひとことだけことばを挟んだとなっている。
(3)栗原本では「・・・、さらにまくしたてた。このブルジョア夫人め、ブルジョア夫人め」とあるが、これはまったくのフィクション。
(4)栗原本では、山内みなが「とめにはいった」となっているが、山内みな自伝では、とめたのは市川房枝と記され、野枝と田中との言い合いが終わってから、野枝はみなのところにくるのであって、栗原のいう、みなが「野枝の逆鱗にふれ」るという事実はない。
(5)栗原本では、野枝が山内みなに語ったことばのなかに「なんでわからないの」とあるが、山内みな自伝ではそれはなくて、ここの部分は「本を送ってあげます」となっている。ちなみに後で実際に本は送られてきた。
 みられるように、まず、彼は事実をあまり重視していない。明らかに創作がはいっている。彼が描こうとしている野枝像をより際立たせようと様々に修飾を加え、それを根拠にして断定していくという乱暴な手法を用いて野枝 像をつくりあげている。

 堀も、野枝が田中と「騒ぎ」を起こしていて、それを聞きつけた平塚が「駆けつけ」「止めにはいった」、山内みなも「止めにはいった」と書いている。まさに栗原の記述を踏襲しているのである。らいてう、山内みなの自伝を読めば、栗原が一定の状態を捏造したことがすぐわかるはずだ。堀は果たして自伝をきちんと読んだのかと疑わざるを得ない。

 評伝にしても、歴史書にしても、史資料や文献をもとにていねいに史実を発掘して、それをもとに叙述するということが求められる。栗原が書いたものを、きちんと史資料や文献で確かめることをしないで書くということは、読者に対して失礼である。

 ちなみに、堀はそれぞれの記述に関して典拠を示さずに、巻末に章ごとに参考文献を掲げているだけである。これでは歴史書としては失格である。

 わたしは学生時代から野枝が書いたもの、野枝について書かれたものをほとんど手に入れ読んできた。本書から、あらたな史実を発見することはなかった。とはいえ、視点を変えることによってあらたな野枝像を描くことは可能ではある。だが、本書には野枝をみつめる新たな視点というものを感じることはなかった。

 この本で新しいものといえば、甘粕正彦、辻まこと、伊藤ルイらのことが第五章で書かれていることであるが、わたしにとっての新しい事実は書かれていなかった。

 大岩川氏が、本書をなぜに「すぐれた評伝」とするのかまったく理解できない。「評伝」とするからには、史実をもとに野枝像を描くことでなければならない。

 

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【本】樋田毅『旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録』(光文社新書)その2

2024-08-24 12:04:16 | 

 この本を読んでいて、統一教会に入信した者は、特殊な人格へと変貌している、「洗脳」されているとしか思えない。

 この「懺悔録」に記されている内容には、まさに統一教会の信者としての人格しかなく、高校生まではふつうの生活や学びをしてきたのであろうが、しかし書かれている内容には、知の集積はまったくみられない。たとえ統一教会幹部として生きてきたとしても、統一教会信者としての活動や思考だけではなく、それに関わらない、あるいは関わる諸々の知とまったくつながっていない。完全に削ぎ落とされているのだ。

 たとえば彼は、自民党にはこれからは頼らずに「独自の政党」をつくるべきだとし、その「政党の政策は、愛国の義務、自衛隊を防衛軍に名称変更、国家機密保護などを盛り込んだ憲法改正と、家庭倫理の確立です」と書く。別に彼らの政策について詳細に知りたくもないが、本書は一般書籍であり新書である。なぜそのような政策が求められるのかという記述はなく、それらは所与の前提となっている。統一教会という宗教組織と、彼自身の思考とが完全に一致しているのであり、そこには彼自身の独自の考え、その政策に至るおのれの思考の連鎖などはまったく書かれていない。おそらく彼にとって、統一教会に入信することは、それまでの自分自身のなかにあった知とは無関係の「世界」(統一教会の精神世界)に飛び込む、ということなのだ。一般的に、キリスト教などの精神世界と日常の生活とは断絶があり、信仰を持つということはその断絶をのりこえ、一気に宗教世界に飛び込んでいく、その後はその宗教の精神世界を「丸呑み」するしかない。信仰の世界に入るということは、知の連鎖でつないでいく結果としてあるものではなく、飛びこんでその「教義」をある意味で「丸呑みする」のである。

 「丸呑み」した後は、その「教義」を疑問を持つことなく受容していくしかない。宗教的な精神世界にはいるとき、個人的な煩悶は、おそらく消えるのである。

 この本には、統一教会と、岸信介をはじめとした自由民主党政治家との深い関係、自衛隊との親密な関係、他の右翼勢力とのつながり、そしてクーデター計画など、統一教会が関わった諸々の動きが記されている。彼には、そうした諸々の活動について逡巡したり煩悶したりすることはない。正邪を考えることなく、統一教会の信者としてそうした活動の尖兵となって働く。疑問をもたない。

 今彼が「批判的」になっているのは、「霊感商法」であり、それが難しくなったあとに展開された信者を獲得してカネを巻き上げること、そしてそれらの活動の結果集められたカネが韓国の本部に送金されること、だけである。なぜそれに「批判的」になっているかといえば、そうした活動をやめることにより、彼があるべきだと考えている統一教会の教えに立ち戻ることができると思っているからだ。

 わたしは昨日も書いたが、おそらくそれは無理だろう。宗教の多くは、信徒からカネを集め、教祖はじめその周囲にいる者たちに豊かな生活を提供する組織だからだ。統一教会は、まさにその典型である。

 読んでいて、統一教会に入信するということは、身も心も教祖に提供する、それが正しいことと錯覚させる、まさに「洗脳」されるということだと思った。彼もまたそのひとりである。

 この「懺悔録」は、一般の庶民、統一教会の活動によって被害をこうむった人びと、そうした人びとに対する「懺悔」ではなく、いまだに文鮮明を信奉している自分自身への「懺悔録」でしかない。

 

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【本】樋田毅『旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録』(光文社新書)

2024-08-23 20:26:29 | 

 若い頃、同僚からキリスト教への入信を強く勧誘されたことがあった。勧誘した方は、一家揃って熱心な信者であった。一度だけ誘われて教会に行ったことがある。今調べてみたら、その教会は「日本同盟基督教団」に属している。

 何度も何度も勧誘されたが、わたしはキリスト教徒にはならなかった。わたしが今まで築いてきた認識の延長線上に神の存在はなく、もし神を信じるならば、延長線上ではなく、ある意味で深く穿たれた谷を大きく跳び越える必要があった。わたしは跳び越えることをしなかった。

 キリスト教にはいろいろな派があるが、その家族は、社会とはつながることなく、自分の家族を一番大切に考えていた(それはそれで否定することではないが)。

 その頃、わたしは職員住宅に住んでいた。同僚は車を持っていなかった。わたしは、こどもが病気になったからと、近くの医院ではなく、遠くの医院(同僚にとって評判がよいと思われていたところ)に連れていくことをかなり頻繁に頼まれるなど、「アシ」としてつかわれた。そのため、わたしはキリスト教徒は、「利己的」だと思った。

 その後、良心的なキリスト教徒にであった。その人は、無教会派のクリスチャンであったが、人格高潔で、わたしに信徒になることを一度もすすめなかった。無教会派のクリスチャンは尊敬すべき方が多いと今でも思っている。

 さて、本の内容にいこう。統一教会の幹部であった大江という人物が、みずからが属していた統一教会を「批判」するという内容だ。しかし、大江は団体から脱けたが、いまだに文鮮明を崇拝している。だから、その「批判」は、根底的な批判になってはおらず、したがって統一教会がおこなってきた犯罪的な行為に対しての反省は不十分と言わざるをえない。

 さて大江は、高校時代に日本共産党系の民主青年同盟に入り、積極的な活動を行っていた。しかしあるとき、駅頭で街宣活動を行っていた統一教会員に論争を挑み、そのなかで統一教会にはいり、活動的な信者になった。高校時代にふたつの真逆な組織に入り、それぞれで熱心な活動家になったわけだが、なにゆえにそう簡単に組織の一員になれるのか、わたしには理解できない。統一教会は「キリスト教」をうたっているから、神を信じなければならない、神を信じるということにあまりに安易であったように思うし、統一教会員になるということは、文鮮明を崇拝することになるわけだから、そこに至るまでがあまりに短く、煩悶もないのが不思議である。

 彼は高校卒業後、早稲田大学教育学部に入学するのだが、主体的に入学したのではない。組織の指示であった。そしていろいろな活動を行うのだが、わたしも同じ頃に早稲田のキャンパスにいて、早稲田学生新聞、早稲田大学サークル連合が統一教会系であることを知っていたし、正門前で彼らが宣伝活動を行っていたことを覚えている。 わたしは、そうした活動をしている彼らをみているが、かれらの目は、革マル派のそれとよく似ていると思った。他者を信用しない、猜疑心をもった目だと思った。革マル派は反スターリン主義を掲げてはいるが、もっともスターリン主義的な組織で、統一教会も革マル派も、己を虚しくして組織に追従する組織至上主義ではないかと思っていた。

 この頃、学外でも、たとえば駅頭で、彼ら統一教会は、ウソを言って募金活動を行っていた。バングラデシュ洪水支援とかなんとか理由をつけて、募金はみずからの組織に入れるのであるが、当時の学生は統一教会が行うニセ募金だということを知っていた。またわたしは『朝日ジャーナル』を購読し、彼らの活動が「親泣かせ」であるということも知っていた。

 その統一教会は「霊感商法」を行っていた。人をだまして高額な多宝塔などを売りつけていた。彼はその活動を「懺悔」するのだが、しかし明らかに詐欺的な商法であり、「霊感商法」がおこなわれていたその時に厳しく批判しているわけではない。広報部長として、それは統一教会がやっているのではないと、ウソをついていた。ここにも己を虚しくして組織を至上とする思考がみられる。

 「霊感商法」が厳しく批判される中で、統一教会は信者を獲得して信者からカネを巻き上げると言う方針に転換した。彼は、それには否定的であり、すべきことではないと訴えたが無視された。「もっと徹底的に闘うべき」だったとして今「懺悔」しているが、その「懺悔」は有効ではない。

 統一教会=勝共連合と自由民主党との関係が、岸信介の介在により親密であったと記している。そんなことは周知の事実である。統一教会が選挙時に自由民主党の応援を積極的に行っていたことも、である。しかし彼は今は、自由民主党に激しい批判をあびせる。近い関係にあった者が、何らかのきっかけで対立するようになると、激しい憎悪を持つようになるが、彼にとってその契機とは、安倍元首相の暗殺事件であり、その後、積極的に支援していた自由民主党とその議員が、「統一教会なんて関係ないよ」と態度を大きく変えたことに対する怒りである。自由民主党という政党に対する批判は、きわめて一面的である。

 彼はまた、「憲法改正と、家庭倫理の確立」という課題を熱心に追い求めてきた。おそらく憲法改正は、共産主義勢力と戦うために必要であると考えたのであろうが、家庭倫理の確立も含め、彼個人の考えとして、なぜそれらが求められなければならないのかが記されていない。要するに、組織の考え=彼の考えであり、ここにも己を虚しくしての組織至上主義がうかがえる。

 彼はいろいろ活動してきているが、統一教会という組織の歯車のその重要な部署にいたのであろうが、ふつうの庶民をどう考えているか、どう見ているかなど、ふつうの人びとを見つめる眼がない。

  統一教会員として、日韓トンネル建設の中心メンバーにもなっているが、将来的にトンネルが建設されるとき、「先駆者としての栄誉を多少なりとも受けることができればと思います」と言う。ここに「栄誉を受ける」彼が想定されている。

 読んでいて、まったくもって民衆(一般の人びと)が、彼の眼中にないことに驚く。彼の関心は、あまりに狭い。ロシア革命史、中国革命史、昭和軍閥の興亡などを研究したと言うが、それもすべて組織のためである。

 またもうひとつ彼が見つめるのは、組織の中にある自分自身だけである。

 その日本の統一教会が、韓国の統一教会本部に多額の送金をしていることも周知の事実である。彼は韓国の統一教会本部から独立すべきだという。多額の送金が、統一教会を歪めているからだと。しかしわたしからみれば、日本の統一教会は、韓国の教祖をはじめ教団の幹部たちに優雅な生活を送らせるために存在しているのだと思っている。彼がそう考えようと、独立はできないだろう。両者は一体だからだ。

 静岡県袋井市に、デンマーク牧場がある。ルーテル派のキリスト教会がそこで福祉事業を行っている。デンマーク牧場は、まさに「世のため、人のため」の事業を行っている。はたして統一教会は、ひとつでも「世のため、人のため」の事業をおこなったことがあるだろうか。

 統一教会のもと幹部である彼が「懺悔」をしたとしても、わたしとしては「それがいったい何?」と言うしかない。統一教会は、「霊感商法」、ニセの募金活動など無数の犯罪をおかしてきた。赤報隊事件もその一つかもしれない。彼も統一教会は、「目的のためには手段を選ばず」だったという。その目的とは、韓国に多額のカネを送金することであった。

 彼がほんとうに「懺悔」するのであったなら、このあとの人生でいかに「世のため、人のため」の行動を展開するか、である。

 本書が出版されると聞いて、すぐに購入した。早稲田大学時代、革マル派の暴力支配と闘った樋田さんの本ということからであるが、内容的には期待外れであった。大江という、もと統一教会幹部の真摯な批判と反省の書だと誤解したからだ。真摯さはなかった。彼には、民衆を温かくみつめる眼は微塵もなかった。

 

 【補記】彼の娘は、3人とも大学に行かせることができたという。安倍元首相を銃撃した山上被告の家庭では、被告自身は大学進学もできず、兄は十分な治療もできなかった。多額のカネを献金したからだ。そういう人びとへの「思い」は、彼にはない。統一教会によって家庭が壊され、「家庭倫理の確立」も考えられない家庭がつくられた。「霊感商法」で苦しめられた人びとへの眼差しもない。大江という人物の、それが本質である。「懺悔」も、「批判」も、すべて自分が統一教会の教義の「あの世」にいったときのためである。

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『地平』9月号

2024-08-03 21:28:46 | 

 今日、畑から帰ってきたら、ポストの中に『地平』9月号があった。夕食後に読みはじめた。ほかに早く読まなければならない本があったのに、読みはじめたら止まらない。何を読んだかといえば、大特集「ジャーナリズムをさがせ」。例の吉田調書報道に携わった朝日新聞記者ふたりが、記事取消にまつわる事実を記していたのである。

 わたしは、小泉の郵政選挙までは「朝日」を購読していたが、社説で小泉の演説を評価して書いているのを読んで、その日から「朝日」をやめた。したがって、吉田調書報道は読んではいない。

 しかし、その記事が朝日経営陣の圧力で消し去られたことは当然知っている。消された記事を書いた宮崎さんと木村さんが、『地平』9月号に原稿を寄せているのだ。

 二つの原稿、とりわけ木村さんの原稿は、ジャーナリズムに関する鋭い問題提起ともなっていて読み応えがあった。

 わたしは20代の頃から、いろいろなことをやっていて、そのため新聞記者から取材を受けることが何度かあり、いろいろな記者と交流するようになった。そのため、わたしも新聞について関心をもちはじめ、新聞批評をするようになった。ペンネームで、「静岡新聞」などについて、いくつかの媒体に書くようになったが、新聞代の値上がりなどもあり、複数の新聞を購読するのもたいへんで新聞批評から卒業した。

 そのなかで、わたしは新聞とはいかにあるべきかを学び、その視点から新聞を読むようになっていった。「朝日」を長い間購読していたのは、親がずっと「朝日」を購読していたからで、また「朝日」がもっともジャーナリズム精神があると誤解していたからだ。もっとも批判していたのは「静岡新聞」で、時に「中日」、「読売」を批判したことがある。

 「朝日」の購読を止めてから、やっぱり「朝日」はだめだと最終決断したのは、吉田調書記事の取り消し、慰安婦報道についての謝罪であり、また『週刊金曜日』発行人になっている植村隆さんが、慰安婦報道に対して不当な言いがかりをつけられたとき、「朝日」は植村さんを守らなかったことである。

 もう「朝日新聞」に対していっさいの幻想をもっていないから、どうでもいいのだが、しかし『地平』の二つの文を読み、朝日新聞社の社員には嫌悪すべき奴しかいない、ということがよくわかった。

 木村さんの文。木村さんは、こういう奴が嫌いだという。

不公正で理不尽で、強いものに媚びへつらい、弱い者の声を鼻で笑い、権威を振りかざし、外面だけはかっこよく、徒党を組み、思考を停止し、大きなな流れに身を委ね、嘘をつき、人を騙し、仲間を裏切り、自分だけは安全なところにいて、事実を捻じ曲げ、正義を振りかざしては別の正義を攻撃し、個人よりも組織に価値を置き、恩を仇で返す

 わたしも嫌いだ。でもこういう奴等はあちこちにたくさんいる。わたしはこういう奴とはつきあわない、短い一生であるから、無駄な時間をこんな奴等に費やしたくない、と思って生きてきたら、今ではつきあう人がどんどん減ってきた。

 しかし新聞社にこういう輩がいるということは、やはり新聞は購読しなくてもよいもの、という結論になる。

 『地平』は読ませる。まだまだ購読者が少ないだろう、応援して欲しいと思う。

 地平社

 

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【本】菱山南帆子『嵐を呼ぶ少女とよばれて』(はるか書房)

2024-08-01 10:39:24 | 

 Arc Times をみたときに、菱山南帆子という人間がどのような成長過程をへて現在のような運動家になったのかを興味を持って読んでみた。前半はおもしろかった。後半は、彼女が運動のなかでどのようなことを知り学んだのかが書かれているが、これも面白かったのだが、東京の運動のことをあまり知らないわたしにとってはさっと読み進むだけであった。

 彼女は小学生からなかなかの反骨精神をもって生きていたところ、中学校からは和光学園に行った。和光学園は自由な校風で知られていて、この本にもその一端が書かれている。

 菱山さんは運動で忙しく、学校は休みがちとなり、成績も芳しくなかった。成績表には「無評定」とあったり、提出したノートはたった二頁しか書かなかったので、そのノートの評価は、通常AからEまでだが、先生は「Z」の評価とした。先生が和光学園でいかに自由に振る舞っているかがわかる。そういう雰囲気の学園こそがユニークな人材を育てるのだ。

 大学に進学し、和光学園とは異なる校風の中で、政治や社会のことを話す友人がほとんどいなくなる。和光学園を振り返って、「友だちと政治や社会のことを話し合ったり、先生を交えて熱く議論した学園生活が、とても懐かしく思い出された。人と議論したりする時に感じる、頭のなかが言葉であふれてくるようなアカデミックハイな感覚が遠ざかり、忘れていきそうだった。」と書いている。

 たしかにいろいろな人と議論するのは、みずからの頭の活性化には不可欠である。わたしもよく「知的砂漠に身を置くな」と語っていたが、齢を重ねていまは知的砂漠にいる。それを救ってくれるのは、書物である。つねに様々な知をインプットしていないと、アウトプットはできない。

 菱山さんは、憲法9条は「「安心」そのもの」だと書いている。わたしもそう思う。日本は絶対に戦争をしないということほど、「安心」なことはない。しかしアベ、スガ、キシダと、戦争をしたい人が首相となっている。「安心」を堅持しなければならない。

 菱山さんは、「日本の政治風土における特徴の一つは、政治に対するタブー視。さらに個人としての主体的な意見を持とうとしないこと。そして怒り下手、表現下手。」だと指摘している。その通りである。政治的意見を話す人は、日常生活でほとんどいない。となりの畑でがんばっているHさんとは政治の話をよくするが、これのみである。

 菱山さんは、「弱い者の弱い者による弱い者のための運動こそが求められている」と記す。

 社会の底辺から社会全体を見ることを、わたしは語ってきたが、それは弱者の目からみたほうが社会の全体や本質がよくわかるからだ。菱山さんの主張と通底するところがある。

 本書は、昨日図書館から借りてきて一日で読み終えた。厚い本ではなく、すらすら読める。

 わたしは、彼女に敬意を表している。

 

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歴史を知るということ

2024-07-23 20:53:06 | 

 『丸山真男回顧談』(岩波書店)の下巻を、他の本を読む合間に、読むようにしている。

 そのなかに「思想史研究と講義」という項目がある。そのなかに、重要な指摘がある。

 明治維新の頃、西洋文明に当時のリーダーたちは、その「歴史的淵源」を知りたいと思い、様々な本を翻訳して、歴史書を読みふけったという。

 対談者の植手通明は、こう言っている。「歴史を知るということが、その文明を知ることだ。知るには歴史をやらなければだめだ」

 なるほどである。そのあとに丸山は、こう語る。

 ・・・歴史をつかむことが同時に現在をつかむことだというのが、どうしてなくなってしまったのか。ぼくだけにかぎって言えば、恩恵をこうむっているのはマルクス主義です。歴史と現代とは不可分というのは、マルクス主義をやっていると、どうしてもそうなるのです。歴史を離れて、社会科学というものがありえない。マルクス主義の影響なしには、そういう考え方が身に付いたかどうか。そこは福沢なんかと違うのです。自然には身につかない。

 今や高齢者となった人びとは、多かれ少なかれマルクス体験がある。あるいはマックス・ウェーバーなんかも読んでいる。

 しかし、若い研究者と話していると、おそらくマルクス体験がないのだろう、現代への問題関心がなく、ないままに歴史研究をすすめている。すべての若手がそうだというつもりはないが、現実認識の弱さ、もちろん批判的に現在をみつめるということなのだが、それが欠如している人がいる。

 過去のことを過去のこととして研究するという立場もあり得るが、わたしはそうした研究にいつも不満をいだいてしまう。何のために研究しているのだろうか、と。「歴史と現代とは不可分」という丸山の指摘は正しい。歴史を見つめ、研究しようとしているのは、現在生きている者である。当然、その視点や視線には、現在が入り込んでいる。その現在をきちんと見つめることは、研究にとっては必須なのである。

 丸山の発言には、なるほどと思うところが多い。

 

 

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【本】早瀬圭一『そして陰謀が教授を潰した』(小学館文庫)

2024-07-21 21:05:11 | 

 最近著者から送られてきた本である。

 この本は、「青山学院春木教授事件 45年目の真実」という副題を持つ。1973年、青山学院大学の春木教授が同大学生の女性と性的関係をもった、それがきっかけとなり強姦で訴えられ大学を辞め、刑務所に送られたという事件である。

 著者はその事件の報道に携わった。著者は当時毎日新聞記者。裁判では、春木教授の強制的な性的関係が認められ、春木は懲役3年の判決が下され、最高裁まで争われたが、結局刑は確定した。

 そういうような事件があったなあと、わたしもかすかに記憶している。しかしそれは、この本を読んだから記憶から取り出されたのであって、読まなかったら記憶の底にしまいこまれたままだったはずだ。

 著者は、その事件の一連の経過に納得しがたいものを感じていた。しかしその後大学の教員になったりしても、事件のことは忘れられなかった。そして著者は調べた。この事件を調べた者は、作家石川達三はじめ何人かいたが、最後まで調べたのは著者だけとなった。

 本書を読み終わっても、事件の真実は明確になっていない。春木教授はすでに鬼籍に入り、みずからを被害者だと主張した女性も著者に直接話すことなく生きているから、真実は見えてこない。何となく状況証拠から、事件は単なる春木教授による女子大生強姦事件ではなく、大学内の勢力争い、関わった人びとそれぞれの欲望が重なり合いながら起こったことで、表面的には、事件は強姦事件として断罪され、そのままになっている。おそらくそれがくつがえることはないだろう。

 著者は、この事件を執拗に調べる、そして事件を取り巻く時代状況を描く。読む者をして、そういう時代があったなあという感慨を持たせる。

 いろいろな人の名が出て来る。わたしが知っているのは法学者や弁護士である。憲法学者である小林孝輔、この人の論文を読んだことがある。井上正治という九州大学の刑法学者、大谷恭子という弁護士。小林孝輔は、この本では大学内の争いの当事者として描かれている。そういう人だったのか。これらの人びとは、いわゆる左派系の法律関係者である。

 この本では、事件の真実が明かされない、だからもやもやしたものが残る。しかし読みはじめると止まらない。それほど読む者を食いつかせる。その背後には、事件についての「どうにも割りきれない」感情が著者に纏わり付き、その纏わり付いてものを払いのけるために、執拗に調査をつづけたのだろう。

 いろいろな人が出てくると書いたが、青山大学の教授として、気賀重躬がでてきた。気賀という苗字は珍しい。調べたら、やはり静岡県引佐郡出身であった。今は「平成の大合併」で浜松市に併合されたが、引佐郡には気賀という地名があるほどだ。

 

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【本】姫岡とし子『ジェンダー史10講』(岩波新書)

2024-07-14 19:47:25 | 

 久しぶりに書店に行って買った本の一冊。ジェンダーに関する本はあまり読んでこなかった。フェミニズムについてはいくつか読んできたし、日本女性史についても読んでは来たが、ジェンダーという言葉はなかなか身につかない。そこで、みずからの弱点を補うべく買って読んでみたのだが、ひととおりの理解は可能な、あまり難解ではない本であった。

 ジェンダーについての理解がないと、もう歴史の本も読めなくなるほど、そのことばは一般に普及しているが、それを快く思わない人たちも相当いるようだ。

 本書は、「ジェンダー史」ということで、ジェンダーという視点がどのように生まれてきたかをまず記し、それが歴史研究をどう変えてきたのかが、次に展開される。

 様々な論点があり、それに関する膨大な研究が既になされていて、同時に著者はドイツ史ということから、海外の文献をも揃えて説明しているがゆえに、記述は概説的で(それを目的に書かれた本であるから当然だが)、わたしとしては緻密さに欠けるように思えた。それはもちろん無いものねだりである。

 ジェンダーは、市民の生活の中に定着すべき概念であり、その歴史、どういう研究がなされてきたのかを知る上でよいテキストだと思った。

 

 

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