浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

聴力障害をもった子どもたちの戦争

2024-12-10 15:14:07 | 近現代史

 以下の文は、2009年に書いたものである。
                      

 1945年4月16日付『静岡新聞』に、「天晴れ聾唖生徒」という見出しの記事がある。浜松聾唖学校の生徒が1944年9月から「職場に進軍」し、増産に励んでいる、というものである。この記事については既に『静岡県史』(通史編6 近現代二)で、「戦時下の障害児」(足立会員執筆)という項に「学徒動員」の一つとして紹介されている。


 だが驚くことに、動員されたのは、初等部の子どもたちであった。『静岡新聞』1945年4月15日付の記事には、「聾唖学徒が「翼」生産」という見出しで、静岡聾唖学校中等部の生徒9名が静岡飛行機工場で働いているという記事がある。このように、軍需工場に動員されたのは、中等部以上というのが一般的な理解である。

 浜松聾唖学校は、1923年4月、私立浜松盲学校内に併設(浜松市鴨江町在)され、1945年7月財団法人浜松聾唖学校となり、1948年県に移管され静岡県立浜松聾学校となった。戦時下、同校には初等部(1~6年)、中等部(1~5年)があり、校長は湯浅輝夫であった。

 子どもたちが動員されたのは、名古屋造兵廠関係の工場で、浜松市野口町にあった三協機械製作所(『浜松市戦災史』資料四)と馬込町にあった大日本機械製作所(聞き取りによる)である。三協機械は『浜松市戦災史』によると工作機械をつくる従業員230人の工場であるが、大日本については詳しいことはわからない。

 三協機械に動員されたのは、10歳(初等部5年から18歳(中等部5年)までの31名、1944年9月1日から。大日本機械には、10歳から14歳までの15名で、同年11月1日からであった。

 その証言をまず記しておこう。

 太田二郎さん(1934年1月生、5年)は三協機械に動員された。1944年9月1日に登校すると、今日から工場に働きに行くと言われ、その日から働き始めた。労働時間は8時30分から16時30分、初等部の子どもはヤスリがけ、中等部は部品づくりであった。月給は5円であった。

 花村光雄さん(1934年9月生、4年※聾唖学校は、入学時の年齢が一定していない)は、大日本機械に行った。1944年11月1日からで、当初午後だけであったが、途中から一日中働くこととなった。男子は弾丸のヤスリがけ、女子は50ずつ算えて箱に入れるという作業であった。
  1945年5月19日の空襲では二人の子ども(女)が亡くなった。三協機械構内にあった防空壕への直撃であった。

 ところでなぜ小学生が軍需工場に動員されたのか。推測ではあるが、まず湯浅校長の功名心である。4月16日付の記事中、湯浅校長談話に「私は彼等を全国に率先職場入りをさせた」とあり、また聞き取りからそのような傾向をもった人物であったようだ。そしてもう一つ。1941年8月から翌年8月にかけて旧浜北市を中心に15人が殺傷されるという強盗殺人事件(通称「浜松事件」)が起きている。その犯人は、同校生徒(検挙時は中等部1年。但し年齢は20歳か)であった。1942年10月浜松聾唖学校内で逮捕され、1944年2月静岡地裁浜松支部で死刑が言い渡され、同年6月大審院で死刑が確定、7月には刑が執行された(『静岡県警察史』下巻)。この事件の後から、工場への動員が始まる。事件の「汚名挽回」という面があったのかもしれない。

※柴田敬子『聴力障害者たちの戦中戦後』を参考にした。

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「平成」を振り返る(5)

2024-12-10 08:25:53 | 近現代史

 「知性が衰退する時代」として「平成」を捉えたが、それは「令和」になってさらに加速している。

 G・オーウェルは、「全体主義の真の恐怖は、「残虐行為」をおこなうからではなく、客観的真実という概念を攻撃することにある。それは未来ばかりか過去までも平然と意のままに動かすのだ。」(「思いつくままに」、『オーウェル評論集』岩波文庫、所収)と書いているが、その通りの時代の中にわたしたちは入っている。

まず「百田尚樹現象(『ニューズウィーク日本版』2019年6月4日号)」を紹介する。


①百田尚樹=1956年、大阪市生れ。同志社大学中退。放送作家として「探偵!ナイトスクープ」等の番組構成を手掛ける。2006年『永遠の0』で作家デビュー。他の著書に『海賊とよばれた男』(第10回本屋大賞受賞)『モンスター』『影法師』『大放言』『フォルトゥナの瞳』『鋼のメンタル』『幻庵』『戦争と平和』『日本国紀』などがある。彼は、右派思想の持ち主・改憲論者である。


②百田尚樹はなぜ読まれるか?
ⅰ)読みやすさ ⅱ)山場をいくつもつくるストーリー展開と構成力 ⅲ)おもしろさ ⅳ)反権威主義 ⅴ)アマチュア ⅵ)「感動」を重視 ⅶ)「普通の人々」に

 したがって、そこでは、事実や学問研究の成果を重視しない。近年の動向として、事実や学問研究(知的営みによる成果)を無視ないし軽視する文化がはびこっているように思える。

 
③加藤典洋の指摘
 加藤は、島尾敏雄・吉田満『新編 特攻体験と戦後』(中公文庫、2014年)の「解説」で、両者の対談と『永遠の0』とを比較する。そしてこう記す。
※島尾は奄美・加計呂麻島で特攻用の「震洋」隊の隊長、吉田は戦艦大和の生き残り。戦後は日本銀行勤務。
「いまは、誰しも、特攻に関連し、また戦争の意味に関連し、賛否いずれのイデオロギーなりともたやすくある意味ではショッピングするように自在に手にすることができる。それだけではない。着脱可能と言おうか、小説を書くに際し、その感動が汎用的な広がりを持つよう、そのイデオロギーをそこに「入れる」こともできれば、「入れない」でおくことすらできる。イデオロギー、思想が、いよいよそのようなものなってきたというだけでなく、私たちがある小説に感動するとして、その「感動」もまたそのような意味で操作可能なものとなっているのである。」「私は『永遠の0』を読んだ。そしてそれが、百田の言うとおり、どちらかといえば反戦的な、感動的な物語であると思った。しかしそのことは、百田が愚劣ともいえる右翼思想の持ち主であることと両立する。何の不思議もない。今ではイデオロギーというものがそういうものであるように、感動もまた、操作可能である。感動しながら、同時に自分の「感動」をそのように、操作されうるものと受け止める審美的なリテラシーが新しい思想の流儀として求められているのである。」
 島尾、吉田、ふたりの対談を読み、加藤はこのように思う。
「言葉を変えれば、特攻体験をそのまま受けとめる限り、そこから「感動」に結びつく物語は生まれてこない、ということになる。」


 現在は、思想や、イデオロギー、感動が、ショッピング可能な、操作できるものとして登場する時代なのである。
 「アイデンティティ」ということばがある。「自己同一性などと訳される。自分は何者であるか,私がほかならぬこの私であるその核心とは何か,という自己定義がアイデンティティである。何かが変わるとき,変わらないものとして常に前提にされるもの (斉一性,連続性) がその機軸となる。」(『ブリタニカ国際大百科事典』)と説明されるが、石戸諭による百田尚樹の人物像から考えると、「私がほかならぬこの私であるその核心」がない、その時代時代の時流に沿って変化していく、それはカネ儲けのためでもあるし、権力とつながるためでもあるし、名誉を得るためでもある。いわば「アイデンティティ」の流動化ともいうべき様相を見せているのである。それが「平成」という時代の特徴かも知れない。

 学問的知が無視ないし軽視される時代のなか、権威というものも崩壊への道をたどった。それは学問の分野でも起きたことである。「ポストモダン」というある種の「流行」があった。 

(1)「ポストモダン」という考え方
● “現代は「大きな物語」が消え、歴史の終焉に入ったと考える。普遍性が破壊されたこの状況下では、「小さな無数のイストワール(物語=歴史)が、日常生活の織物を織り上げ」(『ポスト・モダン通信』)、言説は多様化する。”(リオタール)

●近代哲学の問題の構図は「主観」と「客観」との一致→言語論的転回=主観ー言語ー客観。「世界の正しい認識は可能か」=「言語はその認識を正しく表現できるか」。

●相対主義(「唯一絶対の視点や価値観から何ごとかを主張するのではなく,もろもろの視点や価値観の併立・共存を認め,それぞれの視点,価値観に立って複数の主張ができることを容認する立場」『世界大百科事典』第2版)→何が正しくて何が間違っているかという基準がない。価値論や倫理の問題が脱落。

●ポストモダンとは、「近代」を相対化した。そのなかで、近代が獲得してきた個人主義原理、人権、民主主義などのポジティヴな価値の相対化。※「個人主義原理」=個人の尊厳(権利の主体)と自己決定(自立と自律)

 今まで、共通だと思われていた価値に疑いがもたれるなか、倫理的なことさえも疑われるようになり、普遍的な価値観や倫理観が、個々バラバラに解体されていき、「何でもあり」という時代に突入した。

 

 

 

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