ヨーロッパが「欠乏」の下、豊かな物産に恵まれたアジアへ進出し、さらに新大陸へ侵出し、先住民を虐殺し、略奪を繰り返すなか、ヨーロッパの学問は大きく進歩した。
ヨーロッパにおける学問の進歩(16世紀文化革命)
○人文主義←ルネサンス(14~16世紀)=エリート知識人の運動(ラテン語教育、ギリシャローマの普遍的教養)
○商人・職人の動き13世紀「商業革命」(「遍歴商業」から「定住商業」へ)→為替手形と書簡による商業→“読み書きそろばん”の必要性→「算数教室」、「俗語(地域の口語)学校」→文字文化の浸透→16世紀数学革命(複式簿記、代数)
○俗語の発達(ラテン語はキリスト教と結合した統治のための言語。庶民は知らない)=「国語」の形成→宗教改革(聖書の各国語への翻訳+15世紀半の活版印刷)
※16世紀は、「宗教改革」の時代。
俗語=無知な大衆の話し言葉(英語、仏語、独語、伊語)の普及←職人・芸術家・技術者が俗語で学問的な書物を発刊
※俗語(国語)の成立と活版印刷が、16世紀ヨーロッパを変えた。
○透視図法、分解組立図法、断面図法などの発明(三次元物体の二次元平面への投影法)
○美術の宗教への従属からの解放
○戦争(火薬の使用)→学問・技術の発展
※百年戦争(1337年~1453年、イギリスとフランスとの間で断続的に行われた戦争)
火薬使用→火砲(大砲)→小火器(マスケット銃)
鉱山業の発展(機械化)、機械学、力学、数学などの発展
大砲を船に積載(ポルトガル、スペイン)
※16世紀には、陸上でも海上でも火力が使用されるようになり、17世紀には火力が支配的となる。熱心に戦争していたヨーロッパでは、武器が発達していた。その武器を持って、非ヨーロッパ世界に侵攻していく。
大航海時代と日本 16世紀のヨーロッパの変化をうけて、ヨーロッパ諸国はアジアの交易のネットワークに入り込む。
(1)環シナ海交易圏
○冊封体制と勘合貿易システム
明(1368~1644)海禁政策(民間の海外貿易を禁止)=冊封体制(朝貢貿易)・・「人臣ニ外交ナシ」
冊封・勘合貿易・海禁政策はセット
○後期倭寇の時代(16世紀)←明の海禁政策
王直(密貿易商人の首魁五島列島から平戸へ)
中国人を中心とした密貿易集団(海賊)
(2)ヨーロッパ人の参加
○ポルトガル
1511年マラッカ(インド洋と南シナ海を結ぶ海の道の要衝)占領
※西方インドからは、綿織物・アヘンが、東方中国からは陶磁器・絹織物・武器などがもたらされ、現地東南アジアからは香料・象牙・白檀・獣皮・樹脂・金・スズ・銅・硫黄・真珠母・貝・鼈甲・さんごなどの特産品がインドと中国に輸出された。
1517年 明との国交を求める、皇帝拒否ポルトガル人=仏郎機(フランキ)
1519年 ポ船、広州湾の船舶を襲撃・略奪
以後、密貿易に従事。
1552年 王室艦隊司令官リオネル・デ・ソーサポ海賊や密貿易商人を服従させる
1553年 マカオ上陸
1557年 明、暫定的にマカオ居住を認めるマカオ←→長崎
1573年 明、正式にポ人のマカオ居留を認める
(マカオのポルトガル植民地化は、1887年)
ポルトガル人の貿易(日中貿易の運送業)
明から日本へ 生糸・陶磁器 日本から明へ 銀
※ヨーロッパ人、輸出用の物品なし(毛織物、各種金属、珊瑚、象牙、宝飾品、時計、美術工芸品など)→運送業をやるしかなかった。
○スペイン人の参加
1571年 マニラに拠点を置く。
マニラ-アカプルコ間の定期航路・ポトシ銀山の銀、アジア(中国)へ
(3)ヨーロッパ文化の日本浸透
○鉄砲の伝来(木綿の使用=16世紀に栽培が始まる)
1543(1542カ?)年 中国のジャンク船(王直)、種子島に漂着←倭寇のネットワーク
種子島→根来寺(僧兵という軍事集団)
堺(橘屋又三郎)→国友
1575年 長篠の戦い
○キリスト教、日本上陸
1549年ザビエル、アンジローと鹿児島へ(アンジローは鹿児島でポ船に乗り込みマラッカへ)。
もちろん密貿易商のジャンク船。
鹿児島→平戸→山口(大内氏)→京都→山口→豊後(大友氏)→インドへ
○キリシタン大名=大友義鎮(ポルトガルと積極的に貿易)、大村純忠(肥前・最初のキリシタン大名、長崎を教会領として寄進)、有馬晴信(肥前)、高山右近(摂津)、小西行長(肥後)
※ポルトガル・スペインの貿易活動とキリスト教布教は一体。植民帝国建設の先兵としての宣教師の活動
※イエズス会の日本報告書(松田毅一『南蛮史料の発見』中公文庫、1964年)
○南蛮文化・・金平糖(confeito)、合羽(capa)、castella、『日葡辞書』
※「南蛮」は差別語。