浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

Wrecking Ball

2013-01-16 23:14:04 | 日記
今日、ブルース・スプリングスティーンの Wrecking Ball が届いた。アマゾンで、1000円もしなかった。日本語版ではないので、聴きながら歌詞を確かめていった。もちろん知らない単語もあったから、全部はとても理解できない。でも、彼は精一杯訴えていることがわかった。

 追々、このWrecking Ballに収録されている曲を訳していきたいと思う。

 日本のミュージシャンで、粘り強くこういう「うた」を歌い続けている者はほとんどいない。アメリカには、そういう伝統があるようだ。

 日本もそういう「うた」が、かつてあったし、またそういう「うた」を歌う機会もかつてあった。だが今は、どこかに消えてしまっている。どこからか、そういう「うた」が聞こえてくることはあるだろうか。

 明日には、The Risingが届くだろう。

 一つの入口から、複数の入口が開かれ、それらがボクを誘う。その誘いに、ボクはついていこうと思う。総選挙後の今の時期は、静かにエネルギーを蓄えるのだ。
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【本】村上春樹『意味がなければスイングはない』(文藝春秋)

2013-01-16 10:39:23 | 日記
 この本はまだ読み終えていない。おそらく全部は読まない。だからここでは備忘録として書いていきたい。
 
 ボクはクラシック音楽が好きだ。こうしてブログを書く時にも、音楽を聴きながら書いている。今はショパンのピアノ協奏曲第二番だ。何かを書く時、音楽を聴きながら、音楽の力を借りる。哀しいことを書きたい時には、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番第二楽章を聴く。文は、その音楽に影響されていく。だからボクの歴史は、少し情緒的だ。だって、涙を流しながら書く時だってあるのだから。例えば、無意味な死を強制された戦争について書いたところ、亡くなったその人びとの悔しさを文にこめなければならなかったのだ。その時、音楽はボクの意思をさらに高めてくれるはずだ。

 この本に書かれている作曲家や演奏者の音楽をすべて聴こうとは思わない。ボクはジャズはほとんど聴かない。読んでいても、あまり関心を抱かない。

 ただ、ブルース・スプリングスティーンには関心を持った。何年も前に、ボクはひそかにスプリングスティーンの曲を聴いていたことがある。そのスプリングスティーンについて、村上が書いている。村上がスプリングスティーンに関心を持っていることが嬉しい。

 スプリングスティーンは、現実に疑いや怒りを持ち、それをうたにしている。かつてその姿に心を動かされ、ボクはCDを購入し聴いていた。でも、いつのまにかボクはスプリングスティーンを忘れていた。ボクの子どもは、ボクがスプリングスティーンを聴いていたとき、興味をもったらしく、今も聴いているようだ。スプリングスティーンのCDはないかと尋ねられることもある。

 そして今、村上に、もう一度聴いてみなさいと言われている気がする。

 村上は、アメリカの作家、レイモンド・カーヴァーについても書いている。ボクはその作家を知らなかった。そのスタンスは、スプリングスティーンと同じのようだ。彼はアメリカの民衆の姿(村上は「ワーキング・クラス」と表現しているが)を書いているという。ボクは、「民衆」ということばが好きなのだ。もちろんそれが「ワーキング・クラス」であってもだ。レイモンド・カーヴァーは、徹底したリアリティで表現しているという。

 この二人の共通性にも言及している。二人は、「物語の開放性」を意識的に採用しているという。「彼らは物語の展開を具象的にありありと提示はするけれど、お仕着せの結論や解決を押しつけることはない。そこにあるリアルな感触と、生々しい光景と、激しい息づかいを読者=聴衆に与えはするが、物語そのものはある程度開いたままの状態で終えてしまう」(125頁)。そして「読者=聴衆はその切り取られた物語とともにあとに残され、その意味について考え込むことになる」(126頁)。村上の作品と通じる指摘でもある。

 ここに記されていることは、村上作品を理解する参考にもなる指摘である。「閉じることのない物語というシステムを通して、率直に謙虚に、我々の内なるbreaknessを暴くこと。」(126頁)

 ボクは、レイモンド・カーヴァーの作品を読む必然性をもった。

 この本に記されている他の音楽で関心を抱いたのは、シューベルトのピアノソナタ17番について。確かに聴いたことはない。そして「スガシカオ」。これも全く知らなかった。

 知らない世界を知ることは、素晴らしいことだ。知らない世界を教えてくれるその入口は、ほんとうにたくさんある。ボクたちは、狭い世界に生きているのだ。

【追記】今読み終えた。おもしろい本だった。ウディー・ガスリーの記述もよかった。またスプリングスティーンやウディー・ガスリーなどの記述の中に、村上の志めいたものもあって、参考になった。

 「コミュニズムの歴史からの退場によって、左翼という概念は我々の社会から事実上消滅してしまったし、社会の急速な複雑化・重層化に従って、抑圧とは何か、懐旧とはなにかというような基本的な定義さえかなり曖昧模糊としたものになってしまっている。しかしガスリーが一貫して持ち続けた、虐げられた人びとのための社会的公正を獲得しようとする意志は、そしてそれを支えたナイーブなまでの理想主義は、多くの志あるミュージシャンによって継承され、今日でもまだ頑固に(中略)その力を維持し続けている。」(271頁)

 このような志を正当に評価する村上を、ボクも評価する。しかし日本のミュージシャンで、そういう人は何人いるのか。沢田研二くらいか・・?

 ブライアン・ウィルソン、ゼルキン・ルービンシュタインの比較も面白かった。村上が腰を据えていろいろ調べて書いたことがよくわかる。村上は、もちろん文才は当然として、努力の人でもあることがわかる。





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小沢一郎は終わった

2013-01-16 08:33:09 | 日記
 自民党の中で豪腕をふるい、またいくつかの政党を創設しては壊し、小選挙区制という最悪の選挙制度を先頭になって導入した小沢一郎。民主党政権誕生に大きな力を発揮し、民主党の自公政権との一体化のなか、その方針に対抗し「国民の生活が第一」などと主張し、国民の支持を一定集めた小沢。

 滋賀県知事と共に「日本未来の党」をつくり、昨年末の総選挙に臨み、敗退。みずからが導入した選挙制度に打ち負かされたかたちだ。そして選挙後、「日本未来の党」からどこかへ去っていった。

 もう小沢の出番はないだろう。今度の総選挙とそのあとの「日本未来の党」破壊により、彼は自らも葬った。誰も、小沢についていかないだろう。国民も信用しない。

 以下は、『中日新聞』朝刊のコラム。今日の「中日春秋」から。

未来を予測することはまったくもって、難しい。知りようのない明日への不安にかられ、すがりたくなるのが占いだ

▼占い師をめぐる、こんな小話がある。街角で商う占い師二人が雨宿りしつつ嘆き合う。「運の悪さはどうにもならぬ。こんなに雨にたたられようとは」。もう一人も深く頷(うなず)き、「明日の天気もわが身の行方も測りかねる我々が他人の未来なぞ分かるものか」

▼そういう予測できない未来の不安を少しでも取り除くのが政治、「政治は未来をつくるもの」と訴えたのが、滋賀県知事の嘉田由紀子さん率いる「日本未来の党」だった。総選挙前に衆院議員六十二人を擁していたが、当選は九人。惨敗を受け小沢一郎氏の一派が抜け、国政政党の資格も失った-というのは、つい先月のことだ

▼その嘉田さんが一連の動きを振り返って言うには、「今思えば信じるべきではなかった」。信じてしまったのは、代表就任を求めた小沢氏の「あなたが出てくれたら百人通る」という口説き文句だという

▼候補者名簿を公示日に初めて見た時、こう思ったとも話した。「これはだめだな」。嘉田さんは「小沢氏のご託宣にだまされた」とでも言いたいのだろうか

▼代表が公示日に「だめだ」とその未来を占っていた党に、小選挙区と比例区で計六百万人以上が票を投じた。「だまされた」と言いたいのは有権者の方だろう。
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確かに「未来」はない。

2013-01-16 08:27:07 | 日記
 下記は、昨日の『中日新聞』の社説である。現在の経済的不況は、中間層の大規模な下層への剥落による国内需要の低落も大きな原因である。同時に、ずっとまえから「少子化」(確かに、日本人は、このままでは消えなくなる。いやその前に、生産人口の激減により、日本そのものが超停滞国家に陥る)対策が叫ばれていたが、いっこうに改善される見込みはない。

 だから、古市がいうように、未来の不安に目を閉ざし、ひたすら「今」を生きていればそこそこ幸せを感じながら生きていける。だがいずれにしても、「未来」はない。

日本再生 中間層復活と向き合え
2013年1月15日

 安倍政権が成長重視でデフレ脱却を目指す政策を打ち出した。企業を元気づけて利益を国民に還流させるシナリオだが、企業が富を抱え込んでは消費の主役を担う中間層の復活が遠くなる。

 「一九九三~二〇一一年を通じ一般労働者、パートとも給与が伸びない中、パートの比率上昇が給与総額減少の最大要因となっている」。昨年、厚生労働省がまとめた「分厚い中間層の復活に向けた課題」を副題とする労働経済分析の内容だ。

 分析は「消費性向の高い中所得者層を増加させ、潜在需要の顕在化を進めることが重要だ」とも指摘している。

 九四年、日本の大企業・製造業の一人当たりの賃金は中小企業・非製造業の一・六倍だったが、〇八年になると二・二倍に広がった。大企業は台頭する新興国市場を開拓しつつ成長してきたが、国内が主力の中小企業は海外の成長を取り込むことが難しい。

 さらに企業の多くは九九年の労働者派遣法改正により、専門職に限られてきた派遣が製造業にも拡大されたことで、人件費を抑え込む糸口を手元に引き寄せた。

 資本と労働が分け合うべき利益を資本側にばかりに偏在させる構造には、「企業の暴走」と指弾する声が少なくない。米国のライシュ元労働長官もその一人だ。

 その結果、余暇を楽しみ、購買力もある年収五百万~一千万円以下の中間層は、バブル崩壊後の28%から20%近くに縮小した。

 今や所得が不安定なパートや派遣・契約社員などの非正規労働者は全体の四割近い。中間層の崩壊を放置するようでは、日本経済を元気づける道が著しく狭まる。

 安倍晋三首相は、大胆な金融緩和、公共事業、成長戦略の「三本の矢」で経済成長を促すと表明した。企業の国際競争力を向上させ、稼いだ富を国民に還流させる好循環を期待しているようだ。

 しかし、企業の足元には既に二百兆円もの資金が積み上がっている。人口減少による国内投資先の縮小などが背景だが、若い人材への投資まで削っては技術継承が停滞し、将来の経営をも危うくすることを知るべきだ。

 かつて、潤沢な手元資金に着目した同じ自民党の福田康夫元首相は経団連に賃上げを求めている。

 安倍首相も腰を据え経済界に協力を要請すべきだろう。厚労省の分析は野田政権時代のものだが、政権が代わろうとも中間層復活は日本再生に避けて通れぬ課題だ。
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